告白
~特異鬼制教導機関~
事がなければ、二人で帰っていた通学路を、一人自転車に乗る裏人の姿が見えた。
その顔には明らかな恐怖と混乱の渦巻く表情が浮かべられている。
当たり前と言えば、仕方ないと割り切れるのだろうか。
こんなに幸せな時間は人生においてはそうそうないことだっただろう。
だからこそ、せめて身に余る幸福を願ったことへの天罰だと思った方が、全て都合がいいと思ってしまっていた。
それほどまでに彼女と、百咲 愛悠と過ごした時間は何物にも代え難いものであった
ほんの数日...いや―――――
「たった一日...だったのか」
改めてそう思い返し、あまりにも短すぎる期間での出来事であったことに驚きを隠せない様子の裏人はその言葉を漏らした。
そのどうしようもなく悔しくも、悲しくも、やるせなさも感じてしまう思い出に、思考を巡らす。
そして下を向き、誰もいなくなった通学路ゆえに前方を気にすることなく、そっと涙を流した。
ついさっき起こった、自分のことをこれ以上なく情けないと思ってしまう記憶に、別れを告げるため―――――
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「鈴鹿君。」
「百咲さん、やっぱり、待っててくれたんだ。」
「ば、バレてたの!?」
待っていてくれた、とそう言ったのは裏人の過剰な自意識による無意識なものだった。
しかし、事実裏人を待っていた百咲は図星を指されたのだと勘違いし、またもや思ってもないところで真意を吐露してしまった。
ただ、いつもであればこの状況で微笑みを浮かべてくれるはずの青年は、今は肩で息をしたまま下を向いて押し黙っている。
その様子に、少し違和感を感じた百咲はすぐ裏人の元により、顔を覗き込んで言葉を放った。
「鈴鹿君?
大丈夫?」
「あぁ、えっと...」
その何か言いたげでも言えなさそうな反応を示す、裏人の様子に百咲も少しだけ緊張感を持った。
彼の表情には焦りや戸惑い、恐怖に混乱と悪感情のみが渦巻いており、自身を見つめてくれるあの優し気な眼差しはもうここにはない様子である。
それでも何とか落ち着かせようと、今だ浅く激しい呼吸で意識を乱す、彼の背中にそっと手を置いてゆっくり優しく撫でてやる。
汗ばんだ背中はカッターシャツが張り付いて、そこから伝わる緊張感も、さらに百咲へと伝染していく。
普通であれば、すぐに手を放したくなるような、そんな構図ではあるのだが、それでも百咲は手を放さず、ともすれば頬を赤らめながら彼が落ち着きを取り戻す時を待っていった。
「はぁ、はぁッ―――――
行こう、百咲さん。」
「えッ、鈴鹿君?
ちょっと待って。」
仲良く二人で帰路に就く。
そんな妄想を期待していた百咲故の接し方だったのだが、その気を知らない...というよりもそんな気分になれない裏人は彼女の手を握ると突如走り始めてしまった。
その様子に、驚いた百咲は、焦った声を放ちながら、胸元のポケットから自転車のカギを取り出して、裏人の後を追っていく。
とてつもない様子、とはまさにこのことを言うのだろうな、と後ろからそれを見ていた彼女は変わらず驚いたの表情のままゴクリと固唾を飲んだ。
顔色を悪くして、必死に何かを我慢しているような、そんな裏人の表情を。
「どうしたの、鈴鹿君。」
「いいから、早く。」
とこれまた聞き返す彼からの言葉は、詳しい内容を孕んでいない上辺だけのものであった。
流石に事情説明してほしい、百咲は少しだけ足を緩めると、裏人が握っていた手をフッと振り解く。
そしてその様子に少しだけ後ろを気にし始めた裏人のペースに合わせ、隣同士のまま駐輪場の自転車を目掛け足を進めていった。
当然事情説明を求めることを忘れずに。
「何かあったの?
話せる?」
「いや、そうじゃなくて―――――」
「ちょっと、痛ッ...まって。
話して!
一人で抱え込まずに―――――」
「だからッ、そういうのじゃないんだって。
お願いだから何も聞かないでついてき―――――」
「気になるよッ!!!」
いつまで経っても出てこない。
彼が現状抱いている問題について、どうしても共有してくれない様子を見せられた百咲は声を上げた。
その選択は、優しさからくる気遣いであるのだが、今の裏人には正常な判断ができないことを彼女は知らない。
ゆえに立ち止まった二人を、しばらく沈黙が覆っていった。
この学校にはこじんまりとした駐輪場が二つある。
一つ目は部活動を行うものが利用する学校の敷地内にある近い方で、もう一つはそうでない者達や部活が休みの者たちが利用する遠い方である。
その後者側に至っては幾分か距離が離れていて、舗装された一般道路を横切ってもう少し行った場所に位置していた。
今日は百咲と一緒に登校し、いつも通り部活をしていない身として遠い側を利用していたため、2人して走っているというわけだ。
そんな遠い駐輪場へ向かう中、遠くで聞こえる部活後の生徒たちから放たれる喧騒を前に、一般道に沿った歩道でこの光景が繰り広げられていた。
後片付けや着替えのため生徒はおらず、そもそもこんな時間だから迎えに車を出す親たちがいないこともあり、その場には二人の姿しか見受けられないのが不幸中の幸いか。
流石に少し時間が経過し、気恥しさを感じ始めた百咲はそんなことを想って裏人の言葉を待った。
なんせ傍から見れば、夕焼けをバックに公衆の面前となるような場所にて告白を受けているような、そんな場面に見えるからである。
そんな状況だからこそ、先程自身が取った行動のすべてを鮮明に思い出してしまう。
彼を目前に大声を放った事に対して、重ねて申し訳ない気持ちが徐々に湧き始め、少しオドオドしながら自分から声を掛けようかと頭を悩ませた百咲。
だが、すぐに彼の表情を覗き込むことで、ここで取るべき行動が自身の中で決まったように表情を固め、一歩身を引いた。
裏人が、焦りと混乱を浮かべながらも何かに頭を悩まし、自身に掛けるべき言葉を探しているような顔をしていたからだ。
そのため自分から声を発することなく、現状訳も分からず走らされていることについて言及せずに、落ち着きを取り戻す方向に気持ちを入れ替え、再度裏人からの言葉を待った。
そして間もなく振り返った彼から、決意と同時に待ち望んだ声が放たれる。
まずは沈黙が裂かれたことに対して、少しの安堵感。
だが、次にすぐその内容が百咲の望んでいないものであることに気付き、目を見開いた。
それは間違いなく驚愕の心情。
自分から声を掛ければよかった、と後から死ぬほど後悔してしまうような返答を聞いて浮かべたものだった。
「百咲さん。
もうお互い、関わるのはやめよう。」
最初、その言葉の意味が分からなかった。
どんな漢字を用いて、どんな想いを孕んで、どんな真意を隠しながら伝えてくれたのか。
その端々まで把握しようにも、驚きで乱された心ではうまく思考が回ってくれない。
いや...溢れてくる涙を見るに、通常通り働いている思考で、すべてを理解してしまっているのだろうか。
頭の中で何度も、彼の声がリピートされる。
ただ、自分の脳はどうしてもそれを理解できないものとして認識しようとしてしまっていた。
また周囲を沈黙が覆っていく。
だが、時の流れが停止してしまったというわけではない。
流れてくる涙は、止まることを知らないかのように溢れ、そのまま地面に落ちていった。
それでも自身の顔を見ている彼は、手を差し伸べてくれやしない。
覚悟の表れなのか、それとも涙を見せてまた彼を困らせてしまったのだろうか。
と次の瞬間、彼女は聞きたくもないはずの真意を聞くために、無意識のまま口を動かしてしまっていた。
知りたくないはずの事実という棘の道に、自ら足を踏み入れるかのように。
「ど、どういう意味?」
「そのままの意味だよ。
こういうこと、ちょっと僕には...。」
「わからない、よ。
誰かに何か言われたの?」
「違う、そうじゃ―――――」
「じゃあどうして、こういうことって何?
私何かしたかな?
...ねぇ、鈴鹿くん。」
「...ごめん、百咲さん。」
その言葉を残して、裏人は後ろを振り返った。
自身が伸ばす腕も、どうやら彼には届きそうもない様子である。
今朝、登校時に二人の姿は多くの生徒に見届けられていた。
百咲は少し焦りすぎた、とは思ったものの、裏人と過ごす時間はとても楽しいもので、そうともなれば周囲の目なんて気にすることを忘れてしまっていたのだった。
自分にも非がある、だからこそそのことで他人に何か言われたのであれば、当然納得できるはずもない。
長年かかってようやく手にすることができそうだった自分の居場所。
それが他人の一声なんかで簡単に奪い取られていいものかと。
裏人との関係が拗れる原因となった事実を知らない百咲は、それでも勘違いから第三者の介入を見抜き、現状において適切な怒りを自身の中で沸き立たせた。
彼との学園生活を望む、自身の行動すべてを否定した顔も知らない同級生へ向けて。
だが、明確な返答を出してくれず、曖昧に別れを告げた裏人は、もうすでにこちらを振り返る様子すらないまま自身の前をどんどんと歩いて行ってしまう。
その行動の速さと覚悟に、百咲は自分のペースを乱され、すぐさま混乱が心に渦巻き始めた。
そのせいで怒りが変な方向にねじれ、涙で訳も分からなくなった感情のまま、とりあえず行動を起こすために走り裏人の後を追った。
次に自身の腕は、先程とは違い今度は明確な意思を以て彼の背中に伸ばされ、間もなくその背にそっと触れる。
そしてかける言葉も見つからず、ただ彼をこの場から移動させないようにするため後身頃の一部を掴むと、立ち止まってくれた彼に甘え両腕をお腹側へとそっと回した。
身体をビクつかせ硬直する、裏人の心音と体温を肌に感じ、徐々に熱の増す顔を見せないよう彼の背中に押し当て回避する百咲。
その間で増す汗は、すでにどちらのものかも分からず、互いが相乗させて発熱していくのを感じる。
「百咲、さん?」
そう尋ねる裏人の少し困ったような声が、また頭の中で響き渡った。
返答はどうしよう、この行動は流石にまずかったか、裏人はどう思っているのだろう、嬉しい、また困らせてしまった、もうなんか...よくわかんなくなってきた。
これは百咲の心情である。
目を回す、互いの熱と感情に周囲の状況で、思考がドンドンと鈍化する彼女は、少しずつ腰の力が抜け裏人に寄りかかるような姿勢になってしまっていく。
そしてついには完全に抱きついた体勢のまま、ある意味最悪な状態で沈黙が訪れることとなった。
返事をしなければ、何か言わなければ、でも何を言えばいいのか...。
これまで幾度となく『自分』を作り上げてきた百咲でも、この状況下においては感情が制御しきれなくなって、掛ける言葉が見つからない。
ただ刻一刻と過ぎる時間の中で、周囲の喧騒が徐々に鮮明化していくのが耳に届いてしまう。
生徒たちが着替えや片付けを終え、帰宅しようと部室を後にし始めたのである。
その事実に、(どうしよう...。)とさらに焦りと混乱の念を強めた百咲は、ついによくわからない感情のまま、とんでもないことを口走ってしまう事になった。
それは自分の中に渦巻く、混乱や怒りなんかに左右されることのない、芯に灯った明確な想い...。
「好き、裏人くん。」
言って5秒の静寂。
お互いを取り巻く世界が、二人だけを残して消失してしまったかのように、静まり返った。
聞こえるはずのない呼吸が、心音が、息詰まりがなぜか周囲に響き渡るかのごとく耳の中にこだまする。
その事実に、百咲はもう顔から火が出そうなほど真っ赤になって、それでも何とか顔をあげ、力を緩めた腕の中でこちらを振り返った裏人の顔を見つめた。
ただ、不思議と心持は軽やかで、先程まで浮かべていたはずの混乱や焦りは疾うになくなってしまっている。
それは本音を吐露してしまったからなのか、もしくはもう後に引けなくなったからなのか、それとも同じ位に真っ赤になった裏人の顔を見て、心の底から安心したからなのだろうか。
互いを見つめる時間は、そのままお互いの感情を昂らせるためには十分すぎる要素になっていた。
今も抱きしめた状態で対面する裏人。
戸惑ったような顔をして、だがいつも浮かべているあの優し気な面持ちは浮かべつつ、しっかりと目を見てくれる。
いつも教室の隅と隅で、一方的に見つめていたあの時から比べれば、大きな変化であると百咲は一度視線を外し下を向いた。
当然気恥ずかしさを感じないわけはなく、ともすればモジモジしたがる足を必死にこらえながら、背中に回す手に力を込める。
そしてすぐにこの静寂を切り裂くため、それとある程度早く区切りをつけて人目につかないようにするために、再度裏人を見上げると、今までの気持ちをすべて彼にぶつけていった。
いつの間にか親し気に、下の名前で呼んでしまっていることにも気が付かずに。
「ずっと、裏人くんのことを見つめてた。
私、こんなんだから頑張りすぎて、それでも裏人くんを見ると元気になって。
ずっと...ずっと励ましてもらっていた。
好き...ずっと好き、なの。」
最後の方は涙が混じり、自分でも驚くほどに嘔吐いてしまっていた。
謎に冷静だった先程までの自分は何処へ。
すでに情緒不安定なのかと、疑ってしまうほどに感情が交差し、弱いところを想い人に見せてしまったことに嫌悪感を感じ始める。
彼の腹部を視界に捉え、抱きついた体勢を少し崩し制服の腹側部を掴む。
そんな自分の両腕が震えるのを俯瞰しているかのように鮮明に感じながら、零れる涙を拭うことなく地面に落としていく。
それを眺めるように下を向いた自分に、もう裏人の顔を見返すほどの度胸は存在していない。
だから、今彼がどんな顔で、どんな思いで、どんな仕草を見せて、自分の気持ちを受け止めてくれているのかがわからなかった。
でもなんとなく、この状況で返ってくる返事を想像することができていた百咲は、顔をあげることはないまま、身体の力を少しずつ抜いていく。
それは完全に彼に寄り添うような形で、再度抱きしめるような雰囲気を醸し出して近づいていくために。
返事をしない裏人
そんな優しい彼の想いを逆手に取るのは申し訳ないが、そうでもしないと今の自分が緊張と羞恥に後悔や期待で押しつぶされ、壊れてしまいそうになっていた。
だからこそ、その単なる予想でしかない返答を見越し、目を閉じた体勢のまま裏人の唇に目掛け、そっと身体を動かしていく。
片手で彼の頬に触れ、骨格からおおよその位置を判断し、自分のものと重ねるために背伸びをして大切な人を傷つけないようゆっくりと...。
お互いの息が触れ合う。
緊張が、彼に接した手のひらから、ビクつきと体温によって伝わって、とてつもなく長く感じるその時間の中で、改めて百咲も自身の緊張感を高めていった。
そしてついに上唇の先が触れ合い、もう少しで互いの間隙が無くなると、その瞬間に―――――
「ごめん、百咲さん―――――」
「ッ―――――!?」
百咲の身体がグッと押され、確かに数ミリほど触れ合っていた唇が、熱すらも残さないまま遠くの方に消えていった。
もちろん自身を押し返したのは裏人本人。
そしてこの離れた間隔が二人の身体的距離感を表し、同時に甲高い音を響かせ割れた百咲の精神的なものまで表してくれていた。
想像していた返事は、間違いなくお互い幸せになれるような結末だったはず。
だが、どういうわけか裏人は、悲しそうにも残念そうにも、申し訳なさそうにも悔しそうにも見えるそんな表情で、自身のことを突き放した。
血がにじむほどに握りこぶしに力を込め、目を合わせないよう下を向いたまま、フルフルと震わせている。
結果二人にとって都合のいいはず未来は、二人にとって不都合な結末へと進んでしまったのだった。
そしてすぐに自身の返答を待たずして、後ろを振り返った彼は走りだしこの場を立ち去ってしまった。
その背中に、慟哭となった百咲の声が放たれた。
「裏人くん!!
どうして...どうしてそんな、顔するの...」
その声が彼に届いたのかどうかはわからない。
なんせ放った張本人すら聞き取れないほど、泣きじゃくりやえずきを孕んだ響かない声であったから。
断られた理由があるのならきっぱりと割り切ることができたのだろうか...いやそんなはずはない。
だが特に理由もないまま、断った裏人自身がその場で後悔している様子となれば、どうしようもない遣る瀬無さに襲われるのは言わずもがなであった。
受け入れ態勢の整った状態で、本人すら迎えてほしそうにしながらも、なぜかその結果が拒絶となっている現状。
それは自分から行動を起こしたとしても報われない、文字通り『遣る瀬』の『無い』状態に直結していた。
引き留めたい、がもうすでに立てなくなってしまった身体は、地面に固定されてしまっているかのように動かすことができない。
またそれが、この暗い感情を相乗してしまっている。
考えれば考えるだけドンドンと悪い方向に進む思考は、身体へと連結され、消えてしまいたいとすら思う感情に合わせ身体が重くだるくなっていく。
ゆえに地べたに座りこんだ体勢のまま、周囲を見る事すら疎かにして、しばらく彼女の泣く声が周りにだけ反響していった。
幸いにも、部活終わりの生徒は校舎に近い側の駐輪場を利用しているため、周りを通る人影はない。
でも、だからこそ百咲は声を我慢することなく、崩れた自分の恋心を正直に受け止め涙を流すのだった。
ただ、自分を切り捨てた裏人の、その覚悟を知れないものとして―――――。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ガラガラガラ―――――
いつも通りの聞きなれた引き戸の音を耳にした。
この後は決まって祖母から「おかえり」との挨拶が飛んでくる。
そして靴を脱いだ自分はその声に返事をしながら手洗い場に向って手を洗い、祖母との会話に花を咲かせる...そんないつも通りの習慣。
だが、今日ばかりはどうも声をだせそうになかった。
自分でもおかしな程感情が揺れ動いてしまう現状は、恐らく百咲さんとの間にあったいざこざから来ているのだろう。
だから普段は流すことのないこの涙も、変に情緒不安定になった今だからこそのものなのだろう、と。
そう思った裏人は鼻をすすったあと、いつも通りの光景を飛び越して、手も洗わずに自室へと直行するのだった。
そして部屋をキッチリ閉め切ると、死んだようにベッドに倒れ込み、心を乱した彼女のことを脳裏に思い浮かべた。
本当に申し訳ないことをしてしまった。
だが、それでも彼女を守るためだと、自分にとって都合のいい解釈を心に浮かべ、先程までの帰宅路を思い返す。
そのまま徐々に時間を遡り、確かに彼女のものと触れ合ったはずの唇に触れ、またもや沸き上がる悔しさを歯を食いしばって抑え込むことを繰り返した。
そして、間もなくそれはこの状況を作り出した犯人の元へと遡及していった。
伝槙 柏伯教員。
彼に対する恐怖の念が、なぜか今は鮮明に感じられてしまっていた。
それはまるで不思議と感情の起伏が激しくなっている現状に合致していて、それゆえ恐怖がより深く感じられるようになってしまっているような感覚である。
こんなことを気軽にいうのはどうかと思うが、それこそ命の危機を感じてしまうほどに。
ゆえに彼女を守ることを先決したのだが、本当にそれが正しい行動だったのかすらわからない。
なんせすべて勘違いであれば、単なる杞憂で済む問題ばかりであるからだ。
目の敵にされていそうな伝槙教員の行動も、命の危険すら感じてしまっている恐怖も、そしてあのプリントの答案も。
偶然だ、そして気のせいだと言われれば、もうそれまでにしか飲み込むことのできないこの件は、最悪の場合過剰すぎる被害妄想なだけであるのは必然。
そんなくだらないもので、結局は百咲さんの心を切り捨ててしまったのだ。
それだけは、この問題全てが思い込みであったとしても、紛れもない事実として残る。
そして部屋で一人、落ち着きを取り戻しつつある現状では、これらすべてが到底バカげたことであると何となく察しがつき始めてきて、彼女に対する申し訳なさがさらに自責の念として重く圧し掛かってきていた。
あまりにも現実離れした思考や、あまりにも現実離れした被害妄想を俯瞰して見つめ直し、気恥しさすら感じながら何度も届かない謝罪を繰り返す。
そうして裏人は、静かに顔をタオルケットに埋めると、そのまま眠ってしまおうかとそっと目を閉じ黙り込んだ。
すると、それほど時間をかけることなく閉じ切った部屋の扉がノックされたのに気が付いた。
「裏人、どうかしたのかい?」
聞こえてくるのは当然祖母の声。
だが、例え落ち着きを取り戻したとはいえ、未だ声をだそうとは思えないほど憔悴しきった裏人は、返事をすることなくそのまま眠りについた。
祖母にまで申し訳ないとは思いながら、それでも必死に涙をこらえようとしてタオルケットに抱きつく。
どうせ察しのいい祖母の事、夕飯時にはきちんと起こしてくれるはずだと、それまでに気持ちを入れ替えるため。
そうして眠りについた裏人は、また今まで通りの日常を送れるようにとの願いを込めて、深い眠りについていった。
だが結局、祭り当日となる来週の金曜日まで、一度たりとも部屋の外に出ることは出来なかったのだった。