裏人の過去
~特異鬼制教導機関~
「身体は、大丈夫そうかい?」
「んあ、...はい、えーッと...はい。」
「うん、いい感じに効いてきてるね。
堪えず、眠っていいよ。」
「...―――――」
最後の言葉に返答を返した、自身の「分かりました。」との声はちゃんと発声できたのだろうか。
なんて、あやふやな思考に至りながらも冷静な内情を浮かべた裏人は、次いで無意識のままゆっくりと瞼を下ろし、夢の世界へと自身を投影していく様子を見せていった。
ブラックアウトしていく景色、その時の気分は何というか、思ったよりも気持ちのいいものである。
とそう、呑気な心情と共に分かりやすく首をガクッと落とす様子をあらわにして―――――
そして後の部屋に静寂と、寂しくこじんまりとして見える彼自身の身体を置いてきぼりにするのだった。
遠くに聞こえる、『蝶契の糸』の店内の、その活気が少なくなっていくのを良い雰囲気だと無意識の五感全てで感知しながら。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「しまいか?」
「うん、終わったよ。
助かった。」
「ほな...。
―――――」
「...ふッ、少しだけな。」
人も活気も随分と減り、ウェイトレスの子たちも客席については、仲良く食事をつつく姿を見せている店内。
その雰囲気の中、こちらに向け酒の注いだグラスをゆすって見せるヲ解は、それだけで天道を飲みに付き合わせるような心意気を見せていった。
全ての後片付けを迅速に済ませ、従業員の子たちにまかないを作り、残りの客の対応全てを一人で請け負うなんてそんな余裕すら見せる―――――
彼の少しばかりの休息といったものか。
だからこそ、「まぁ、仕方ない。」と飲む気のなかった天道も数少ない友人の頼みを受け入れ、同じカウンターの席へ腰掛けるとグラスを受け取って見せた。
そして向かい合う二人で乾杯を交わすとクイッと酒を呷り、次いで当事者同士の秘密の会話を展開していく様子を繰り広げていくのであった。
周囲の座席にはもう誰もいないと、そのことだけを二人でチラッと確認してから。
「んで、どないやった。
裏人君の住んどった集落は。」
「まるでひどかったよ。
本当に...よく生きていたって、感心できるほど。」
「なんや、大自然やから羽伸ばせる言うて、案外楽しみにしとったやないか。」
「あれを見るまでわ、ね。」
「何があったんや。」
「んー...どうやって説明しよう...。
まぁ要約すると、集落そのものが『追儺』によって創られた幻だったんだ。」
「―――――え?」
「森に川、田んぼや舗道、学校、住宅地、裏人の実家。
あと、そこに住んでた人たちも含めた何もかも。」
「へぇ。」
「全てが存在するかのように見せて、集落自体を裏人にとっての都合のいい鳥かごみたいにしていた。」
「えらい、おっかないもんやね。
まぁ聞いとるだけじゃ、なんも想像できひんけど。」
「そうだね。
あれは実際に目にしないと、分かってやれないだろうね。」
酒のなくなったグラスに、何を言わずしても再度酒が注がれる。
なんて景色をただぼーっと眺めていた天道は、次にヲ解から問われた質問へと怪訝そうな顔を浮かべていった。
当然、飲酒を強要されているから、なんて訳ではない。
それに対する答えを、まだ自身の中にも持ち合わせていなかったからだ。
ゆえに先ほどの、裏人のことを思いやって浮かべていた優し気な表情を崩し、珍しくも自身の中で解決しない問題を協力してもらおうだなんて、そんな雰囲気をも見せていくのだった。
「んで、そん中で裏人君生きとったって、なんで?」
「...はぁ―――――さぁね、摩訶不思議だよ。
彼のたった一人の親族で、一緒に暮らしていた祖母がいたらしくてね。
彼女が裏人に手料理を作り、心身ともに支えてあげていたそうなんだけど、残念ながら何も見えなくて。
それに...裏人が口にした料理に含まれる食材も、調理をするための家電やガスも...電気さえあの場には存在するはずがなかった。」
「...なんやそれ。」
「おまけに家の方は、玄関から居間や、二階にある裏人の部屋へ続くルートを残して、床も壁も全壊。
そこに辿り着くまでの山道も、裏人の実家で営んでいたらしいお寺さんも、散々な有り様。
にも関わらず、裏人はそんな道を淡々と...毎日、錆びついて壊れかけた自転車を押して歩いてた...。
だから、遠くからでも裏人の様子を難なく観察できていたよ、まるで気味が悪かったけど。」
「せやけどそないな状況、ほんまに現実なんやったら、すぐ露呈したやろ。
家電も電気も食料もって...気温や空腹に、そのおばあさんの感触すら偽物やったら...。
一度もなかったんか―――――」
「一度もなかった。
だから、心底異様に思った。
裏人の方が、気が狂っているんじゃないかって...心配したくらい。」
あったことをそのまま話しているだけなのだが、恐らくその一端もヲ解には掴めていないのだろう。
と天道は自分の人生を通してみても、恐らく過去一番といっていいほど気味悪く思えたあの光景を、再度思い返しては珍しく崩れたような笑顔を浮かべた。
ただし、そんな顔をする彼のことを、長年隣で見ていたからこそ珍しいものだと気付いたヲ解は、何も言わずただクッと酒を呷り、全てを理解し切って見せるのだった。
もちろんその光景を実際に目にしたわけではないため、天道の感じた狂気染みて気持ちの悪い感情に苛まれることはなかったが―――――
それでも十分すぎるほどに裏人の身を案じてやる優しさと厚意は、彼のものと同じくらいに手厚いものへと昇華するのであった。
鈴鹿 裏人は生きていたと、天道の口から放たれたその事実に年長者としての思いやりと、恐らく相当な苦労をしていたのであろう若者への敬意の念を示して。
そしてその溢れんばかりの気遣いで、被害者の内情を幾分か整理してやれないかと最良とも思える問題解決への糸口を話し合うべく、次いで天道に提案を持ちかけてみるのだったが―――――
「...それ、あんたの力で覗いてやったらええのに。」
「ッはは、無理だね―――――
私の方がおかしくなる。
あんな景色を、まやかしが解けた状態でなんか...それに十数年だよ?
腐った空気を吸って、何も食べず、誰もいない教室で何を学んで、汚い池で水遊びをして。
挙句の果て半壊した無人の家に帰り、その晩はほぼ野ざらしのような場所で眠りにつく、って君なら同じ境遇でも精神を保てるかい?」
「それ聞くと益々信じられへんな。
おとぎ話やん。」
「ね、本当に。」
信頼しきっていた旧友の、そんな弱気な言葉を受け取ったことによりヲ解も、今回の件が予想以上に過酷なものであることを察し、同じく弱気な内情を浮かべるまでに至るのだった。
それに恐らく彼も分かっていることだろう。
今回の件で自分にしてやれることなんてもうほとんどないのかもしれないと、そんな事実を。
食物、人間、建物や景観など、自身を作り支え続けてくれていた物全てが『追儺』によって生み出された幻だったと知って、結果裏人が見せた反応はあっけらかんとしたものであったらしい。
それに今しがた自身も見ていた彼の姿は、一般人と遜色ない喜怒哀楽を示し、楽しそうに今この瞬間を生きているといった様子でもあった。
ならばこのことが、目を覚ました直後のぼやけた思考で理解不要な現実をなあなあに受け入れているのではなく、解決しつつある事象のひとつとして認識し始めているということでもあるのだった。
だからこそきっと今は、暖かく見守ってやるくらいが丁度いい距離感の保ち方なのかもしれない―――――
いや、もしくは過去を思い出させないよう今を精一杯楽しませてやるのが、最善の選択肢といえるのかもしれない、なんて。
明確な言葉もないまま、この話と結論との双方で落としどころを見つけた二人は次いで口にしようとしていた余計な小言を酒と共に腹の底へ飲み込んでは、この件に関しての話し合いを終えていく意向を見せ始めていくのだった。
唯一にして最大限の当事者である彼が気にしていないのだ―――――
ならばこちらがとやかく言うことなどないのだろうと、これまた年長者しての落ち着きと精一杯の思いやりを浮かべてやりながら。
「無理しとるような素振りは、なかったんやろ?」
「それはどっちだい。
夢の中の彼か?それとも現実の彼か?」
「後者。」
「それなら、無かったね。
けど、底まで落ちた人は想像想以上に現実を楽観視する傾向があるから、正直『完全に』とは言い切れない。
ゆっくり時間をかけて、何もかも理解してしまったらもしかすると...なんてことにはなるかもね。」
「そんときは...まぁしゃないな。
後は裏人君が真に強い子やったって、願うしかなさそうやね。」
「そうだね。」
カラン―――――
天道の前に位置するグラス。
その中に入った氷が突如として小気味良い音を放つと、次第にそれが店内の静けさを強調させるかのように広がっていった。
話が一段落した頃合いでの出来事。
外の呑兵衛たちの賑やかしく騒ぎ立てる様子が感じよく店内へと運ばれては聴覚をくすぐり、そんな心地に酔いしれると心身ともに酩酊させるのが気分もいいだろう、と。
次いで手元の酒をクイッと呷いだ天道は漏れ出るため息を止めることなく吐き切っては、店の天井を見上げる素振りを見せた。
その先にいるであろうこの話の当事者である裏人の姿を思い出しながら―――――
...こんな呑気に酒を飲むことも、しばらくできなくなるだろうなんて最悪の事態も考慮しての未来を見据え、束の間の休息を楽しむような雰囲気をも浮かべて。
そしてゆっくりと、今し方レジの方へと足を運んだ最後のお客さんの応対へと向かうヲ解の背中に視線を流し、次いで店の外の様子へと意識を移し、静かに口元をニヤッと歪めて見せるのだった。
「...ふッ―――――。」
丁度いいタイミングだなんて、この店に迫る一人の気配をなんとなくで感じ取っては、とある計画を企むように楽し気な印象を露わにしつつ、ヲ解の接客を一人黙って見つめてやって―――――
「...何や、その顔。」
「いや、なに。
このお店に来る女性のお客さんは、綺麗な人が多いなって思ってね。
「...で?」
「さっきの人も常連さんかい?」
「せやけど。」
「まぁ、キミにそんな気はないだろうけど。
あまり目を肥やしすぎてはいけないよ?」
「...はぁ?」
「甘楽に、怒られちゃうよって。」
「...はぁ、ほんま。
減らず口が、下らんことばっかいいよってからに―――――」
「―――――あっはっはッ、相変わらず仲いいなぁ、うらやましい。」
二人の会話に割り込んで響いた声音へと、わかりやすく驚いたヲ解は手元を乱されたかのように小銭を床に落とすと、錆びたロボットと同じ動きで俯いていた視線を上げ、目前にいるであろう来訪者の姿を視界にとらえた。
そして特に悪いこともしていないのに気まずそうな雰囲気を醸し出すと、また美形な顔を崩すように苦笑いを浮かべるのであった。
「か、甘ちゃん、いらっしゃい。
いつからー、そこに?」
「何よ、別に驚くようなことないでしょ。
快く迎えてよ。」
「ほんとほんと、何かやましいことでもあるのかい?」
「いや別に...てか店の方はどないしたんや。」
「修二が帰ってくるのがわかったから。
先に色々聞いておこうと思って。
ここ居ちゃ、悪い?」
「...お酒は?」
「呑まなーい。」
「ご飯も?」
「いらなーい。
んしょ。」
「また今日もすごい格好してるね。」
元より仲睦まじかった二人の仲を、さらに際立てるよう集まったもう一人の旧友は、そんなかわいらしい掛け声と共に天道の横へと腰かけると、ヲ解が出した水の入ったグラスに口をつけ、改めて二人に笑顔を振りまいて見せた。
そして続く会話は、先に「色々聞いておこうと思って。」と言ったその件についての問いかけから始まり、もう一度途切れたはずの話合いを別の切り口から続けるような、そんな雰囲気を見せていくのであった。
彼女が姿を現したことによって一段階も二段階も明るい印象に変わっていく、なんて空気感を実際に肌や目視で確認しながら、それでもまじめな雰囲気だけは崩さないよう互いが意識を浮かべ直して―――――
なんとなく外の喧騒も遠くなっていくような、そんな感覚が辺りを包んでいった。




