新任教師
~特異鬼制教導機関~
「あれ、鈴鹿くん。
手が止まっているけど、分からない問題でも?」
今は自習の時間。
シンッと静まり返った教室内に、男性教員の声が鳴り響く。
今日付けでこのクラスの副担任となった、伝槙 柏伯その人だ。
にこやかそうにした笑顔を崩さないまま、優しい雰囲気とストレスを感じさせない人物像、そして都会の風を感じる風格から、瞬く間にクラスの人気を我が物にしていった彼。
すでに六時限となり、学校はこの授業を以て終了とする頃合いなのだが、伝槙先生に至っては今日という日は長く続きそうであった。
なんせ女子たちはこぞって放課後の時間を彼のためにと空けているらしき話し合いが、授業中である今もこの場にて続いているからである。
新任の教師や転校生などが来た場合に起こる質問ラッシュ。
それが副担任と担当クラスの生徒という、より諸々を尋ねやすい関係ともなれば、当然手加減されるはずもないだろう。
加えてこの伝槙という男の浮かべる朗らかな雰囲気では、他の教員にはない同年代らしき親しみ深さを感じることができ、話しかけやすさを相乗させている要因にもなっているのだった。
そのおかげで、この約8時間といった短期間にて、生徒たちの心を掴むことに成功したのだった。
...ほんの一部を除いては。
良い先生なんだろうなということは同感できる。
だが、どうしても常時彼が浮かべている笑顔に裏がありそうな気がしていて、他の生徒たちに比べこの状況を呑み込めていない者が2人がいた。
その人物とは裏人と百咲だ。
裏人の方はただ何となく興味がないという気持ちが強いだけで、百咲ほど彼のことを警戒視しているという雰囲気はない。
でも、周りの生徒たちに比べては、やはり彼を信頼し、親しみを感じようとする気持ちが薄いようで、今でも窓外の景色に目をやり気だるそうに欠伸を繰り返していた。
そして百咲の方はというと、その理由まではわからないが、裏人よりもかなり酷そうな雰囲気を浮かべている様子であった。
今日という学校での生活風景は、普段のものより活気が感じられず、ともすれば物理的な視線を下に落とし、彼とは目を合わせないような仕草を繰り返している。
触らぬ神に祟りなしとでもいうのか、本当にそれらしい雰囲気で、伝槙教諭をいない者として扱っているような節すら見て取れるほど。
その真意は彼女にしかわからない。
それでもいつも通り友人たちとの会話は卒なくこなし、授業とのメリハリは愚かクラス内の雰囲気作りに至るまで手を抜かない、そんなところはさすがの一言だといえよう。
これまでの彼女が積み上げてきた、自身の人物像を壊すことなく、それでも降りかかるストレスの視線からは掻い潜ろうと行動する。
誰も気が付かない、いや誰も気が付けないところで、自分を極めるために努力を重ねていた、百咲は現状でも折れることなく、我慢を貫き通すことで乗り切るための工夫をこなしているのだった。
ただ、このことに気が付いていない裏人の存在が、今唯一の逃げ道であったのに、ついには最悪手が当の本人に降りかかってしまう事へとなった。
彼、伝槙 柏伯がそれに気が付いての事なのか、裏人にターゲットを絞り、行動を始めたのだ。
それもまた、自分の思い過ごしなのかもしれない、と百咲も自制することを試みたのだが、どうやらそうでもない様子。
彼は今日で何度目か、裏人を目の敵にしたように、悪い意味での声掛けを繰り返し、百咲にしかわからない下卑た笑みを優しげな微笑みの裏で強めたのだ。
それも、あからさまに裏人を陥れ、その様子を自分へと見せつけてくるかのような視線を織り交ぜながら。
その会話の声が、また教室内に響き渡る。
百咲は既に我慢の限界に達しているのだが、それが自身の気のせいなのかどうかまでは確信を得ることができていないため、下手に動くことすらできないでいた。
彼を連れ出して、学校のもっと偉い教員に告げ口をしたところで、裏人の評判まで下げかねないのは言わずもがな。
ゆえに仕方なく、その会話がすぐに途切れることを、今日何度目かまた祈り続けるしかなかったのだった。
「いえ、大丈夫です。」
「でも手が止まっているようだけど?」
「全て終わったので...この自習の範囲は。」
「おや、君は非常に賢いんだね。
それじゃあ先生が特別に問題を用意しましょう。
少し待ってて。」
そう言って教壇に向かう彼。
その背中は、他の者からすれば生徒想いの良い教師として映っているのだろうか。
だが、ここまでくれば裏人も思うところがある様子。
あからさまに話しかけられている回数が他の生徒たちとは一閃を駕し、さらには内容やタイミングまでもが悪い意味で完璧。
その様子に周囲の少なき友人たちからも不可思議な視線を飛ばされ始め、ついには気遣った声まで掛けてくれるようになった。
まずは最も窓側の席ゆえ唯一の隣席者、作間という苗字の男。
運動部の副キャプテンらしい身体つきと性格で、裏人以外にも友達の多い彼は、このクラスになるまでも小中を通して何かと縁が多く、席替えの度に隣の席になるから自然と仲良くなったのだ。
気遣いができる男、ゆえに今もこうやって話を掛けてくれて、続く裏人の不機嫌めな声にも、いやな顔一つせず同調してくれるように頷いてくれるのだった。
「お前、早速目を付けられてんな。」
「やっぱりそう見える?」
「なんかしたのか?」
「まさか。」
「頭がいい事、評価されてんじゃねーの?」
とそこに割り込んできたのは、これまた少ない友人の一人。
前の席に位置し、少し悪そうな雰囲気を醸し出している、内心情に厚い男、作武。
ここでいう悪そうな雰囲気とは、そのままグレているということを意味しており、そうともなれば情に厚いのは田舎町ヤンキー特有のあれなのか。
仲良くなった経緯はよく覚えていない。
確か作間経由で何度が接点が増えていくうちに、二人そろって下の名前で呼んでくれるほどの関係が築けた、ような気がする。
そしてその親しみのまま、いつも通りの砕けた口調で、それなりな気遣いをして会話に参加してきたらしい。
流石情に厚い男。
もちろん小声での会話なのだが、こういったところがまた内緒話をするくらいの関係だということで、裏人にとっても喜ばしい展開である。
自分の周りの者たちは、いい人ばかりだな、と。
そんな彼から言われた頭がいいというのは、裏人一番の長所であった。
テストに関しての点数の張り出しなどはないが故、その真実は本人しか知らず、雰囲気的にしか把握されていないところではあるのだが、その実満点ばかり。
現状勉強している範囲ではわからないところを探す方が難しく、そうともなればある意味神童ともいえるのかもしれないほど。
彼ら数少ない友達たちも、雰囲気的に把握している者達の内に数えられ、教える側に回っても優秀である彼のことを信頼して、教えを乞うことも度々あるのだった。
そんな天才肌の彼を、教師と生徒という枠組みでとらえれば、成長させるための愛のムチなのでは、と言っているのが作武の意見らしい。
そこでまた、伝槙先生に気付かれないようひそひそ話を繰り返すのだった。
「やっぱり教師だから?」
「そうだろ。
お前、志望どうなの?」
「実家を継ぐ。」
「ほれみろ。
まぁそれが悪いなんて言うつもりは更々ねーけど、進学も視野にってことだろ。」
「よく言われております。」
「でも、伝槙先生のあれ、そんな感じか?」
「いやまぁ俺もおかしいとは思ってるけどな。」
「作武の場合しょっちゅうあれだろ?」
「おう、喧嘩か?」
「まぁ、どっちの意味でも注目されてるってことだろ。
よかったな裏人。」
「...嬉しくないんだけど。」
小競り合いするのは作武と作間のいつものおふざけ。
それをカラッとした気分のまま受け流す裏人は、最後の返答と共にため息をついた。
そして教壇に戻った伝槙先生がまたこちらに振り返り、その足を進めたことでこの内緒話に終止符が打たれる。
後は隣の作間が「がんばれ」との想いなのか、親指を立てこちらにエールを送ってきてくれた。
とりあえずそれを受け取って、戻ってきた伝槙先生からプリントも受け取り、今度もまた室内に響き渡るほどの声音で話をされるのであった。
「じゃあこれ。
結構難しく作ったから、頭のいい鈴鹿君だといい勉強になると思うよ。」
「どうも、ありがとうございます。」
「それじゃあ、頑張ってみて。」
そういった彼はまた、今まで通り浮足立ったような雰囲気を孕んだ足取りで室内を巡回し始めた。
余計なお世話だ、とその個人的なプリント配布に関しては裏人も内心納得はしていない様子。
だが、すぐに受け取った内容に目を通し、それが案外難しそうな問題で構成されたものだと気が付くと、ちょっとだけ意識を変えた。
それは信頼とまでは行かずとも、案外悪い人ではないのかも、と作武が言っていた進学を視野にという愛のムチだった側に、信憑性が湧き始め、それなりにいい先生なのかな、といった疑問へと。
ただ、結局どうでもいいな、と思い直した裏人は、とにかくやることもなかったので仕方なしでそのプリントに手をつけていった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
チャイムの音が鳴り響く。
結局問題は解き終えることができず、残り数問のところで、手を止めた。
あれだけ乗り気ではなかったものの、解き始めると集中力は上がり、気が付けばのめり込んで設問を解いていた裏人。
そして耳に残る甲高い音に意識を戻し、自習の空気から解き放たれた教室内の喧騒に舞い戻ってきた。
すると前と横の友人が、裏人のプリントを眺めながら神妙そうな顔つきでこちらを見ている様子が視界に入った。
「ん、どうしたの?」
「お前、それ真面目に解いてたのか?」
「え、そうだけど...なに?」
「いや、改めてお前頭いいんだな、引くわ。」
「同感だ。」
そう言われ、指をさされたプリントに視線を落とすと、すぐに彼らの言っていた驚きの正体に気が付いた。
自分でも意識しないうちに滅茶苦茶な下書きを施しており、すでに紙上は黒鉛で真っ黒になっていたのだ。
伝槙教員から渡されたプリントは、謎に国語、数学、日本史、と分かれた教科が一纏まりになっていた。
それも設問を追うごとに教科が変わるのではなく、一問一問で国、数、社とランダムに並べられていたのだ。
ゆえに様々な場所に漢字、数字、平仮名がびっしりと混在している。
それも裏人本人にしかわからない字の汚さで。
他の者から見れば悪魔の書物かのように見えることだろう。
それほど綺麗な問題集は、奇妙な紙へと変貌を遂げていたのだった。
あるいは天才の足跡か。
だが、まぁどちらにせよ引かれることには変わらず、そうともなれば裏人本人も「気持ち悪」とぼんやりとした目つきで、本音を漏らしている始末。
そんな仲睦まじく話し合っているだろう三人の元に、またもやあの声が鳴り響いた。
「鈴鹿君、プリントはできたかい?」
そう伝槙 柏伯教員だ。
授業も終わり、終業の会が始まろうかとしている最中、またあの笑顔のまま裏人の元までやって来たのだった。
もちろん注目の的となることは言わずもがな。
だが、やはりこういった状況は苦手な裏人も、そろそろこの声掛けがウザったくなってきた頃合いで、正直やめてほしいと思ってしまう。
でも笑顔を崩さない、この教員の考えていることがわからない裏人は、そこにようやく奇妙さを感じ始め、続く言葉を慎重に返した。
「いえ、まだです...けど。」
「やっぱり時間足りなかったか。
まだ、興味はあるかな?」
「えっと、それは?」
「最後までやる気があるかなってこと。」
「あーはい。
とりあえず最後までやってみようかな、と思ってます。」
「そっかそっか、良かったよ。
それじゃ、放課後、特に予定無いなら図書館の横の部屋開けてるから。
そこで勉強していってもいいからね、もちろん、帰りたいなら家でやってくれて構わない。」
「はぁ、ありがとうございます?」
「うん、それじゃ。」
とこんな感じで、思った以上に滞りのない会話を済ませ、伝槙先生はその場を後にしていった。
周りから寄せられる視線は、女子からは羨ましそうで、男子からは不思議そうなものが多いだろう。
ただ、そんな視線をもらっても心底うれしくない裏人は、頭を抱えた。
「お前、本当に目を付けられてんな。」
「言わないでくれ...。
なんかしたかな。」
「したんじゃねーの、気付かんうちに。」
「お前じゃあるまいし、裏人は真面目なんだから。」
「お、なんだ喧嘩か?」
「で、どうすんだ裏人。」
「...とりあえず行ってみるしかないんじゃない。
なんか、申し訳ないし。」
正直乗り気ではない、というのは流石にこの展開を見ているだけあってすでに2人も共感してくれている様子。
だからこそのエールなのか、それしか知らないかのように「がんばれ」というと親指を立ててこちらに向けてくる作間。
そして相変わらずの喧嘩腰だったが、すぐに裏人を励ます側に回った作武も同様にグッドマークをこちらに送ってくる。
その様子に「人事な...」とつぶやいた裏人の声は彼らに届いたのか、間もなく教室に担任の作巻先生が入ってきたことに気が付いた二人は席に着いた。
「では、終業の会を行います。」
すぐに静まり返った室内を確認し、いつも通りにこやかな様子を浮かべる作巻先生の笑顔を見つめる。
やはりその純真無垢な微笑みといったら、人気のある教師たる所以であるな、と裏人も改めて痛感。
(ホント、誰かさんのおかげで。)と内心愚痴ったのは、自分の心の中だけに留めておく事にして。
そしてそれとは逆に、より一層伝槙先生の笑顔に含みを感じてしまった彼は、後のことを憂鬱に思いつつ、またそっと窓外の景色を見つめ欠伸をするのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「じゃあ鈴鹿君、分からないことがあればすぐに聞いてくれ。」
「はい、分かりました。」
これまた静まり返った部屋で、聞きなれた組み合わせの声音が交差した。
こんなことがなければ、百咲さんと一緒に帰ることができたのにと、当然その場にいる裏人は目の前の新任教師を睨んでやった。
残念そうな顔で「一緒に帰るのは無理そうかな?」と聞いてきた、彼女の顔をこの男にも見せてやりたいと、ただその想い一心で。
だが、それを受け取った伝槙教員の反応と言えば、未だ依然あの笑顔。
一見すれば優しさ以外の何物でもないそれも、百咲でなくともここまでくれば裏人も何かを感じ取っていた。
奇妙で、恐ろしくて、不気味な何かを。
でもそんなこと、普段慎ましやかに生きている自分が、勝手に印象付けていい事ではなく、ともすれば直接本人に尋ねることなどできるものか。
気のせいであろうと思う気持ちの方を無理矢理にでも強めてやる事で何とか自制が効いている現状であった。
「あの、一つ聞いてもいいですか?」
「ん、どうしました?」
「どうしてこの問題、全教科バラバラで作られているんですか?」
「まぁ、それは後でのお楽しみってことで、まずは解いてみて。」
またもや送る言葉に跳ね返り、帰ってくるものにはあの笑顔が同封されている。
いつまでも眺めていると、逆に不信感しか感じることができなくなってしまいそうになるのは、自分の失礼な部分が出ているのか。
冷静な判断ができないのは、目の前にいる男の正体が気味が悪いというよりも、一教師であるからだと信じたい。
そう思い口を噤んだ裏人の、ペンを走らせる音だけが教室内に響き渡った。
時刻は17時を過ぎようとしている頃。
この学校は16時に終わる故、なんだかんだで一時間ほど経ってしまっていた。
部活動で残るもの達は19時を目安に区切りをつけ、それと同時に学校内で居残り勉強をしている者達も終了しなければならないのが、この学校の決まり事である。
このプリントは、かなり難しい問題で構成されているがゆえに、その時間に間に合うかどうか、今の裏人でもわからないのが、さらに焦りをかけてくる。
まぁ正直に言えばこの教師と2人っきりで長時間一緒の部屋にいる空気に耐えられないというのが本音なのだが。
そんなこんなで余計なことを考えすぎて、手が止まる裏人の様子を読書をしながら横目で確認していた伝槙先生。
集中力が切れかけていると、周りから見ても察せられるほどに心の乱れた裏人に、これは教師の救いなのか、声を掛けてきた彼はそのまま裏人の隣に椅子を運び座りこんで声を放った。
「どこかわからないところがあるのかい?
教えてあげよう。」
「あぁ、じゃあここを。」
改めて気持ちを入れ直し、自力で解こうと思えば解けるような問題なのだが、自身でもわかっている注意の散漫さに今一度喝を入れるため、助力を希望する裏人。
そんな彼の様子に、相変わらず微笑みを浮かべている伝槙先生だが、今度は心なしか柔らかな雰囲気も感じれたような気がした。
それがまた気のせいなのか、それとも今までの自分が悪い方向に考えすぎていたのか、とにかく今のこの人なら何となく信頼してもいいかな、という心境の変化が裏人に現れた。
他人に認められた時、こんな気持ちになったような、と思い返すのは少なき友人の内二人の顔。
もちろん作間と作武の事だ。
その感情に似た喜びのようなものを感じた裏人は、自分でも驚くほど気持ちの持ち直しをすることができ、もう一度プリントに集中していった。
確かに伝槙先生の教え方は完璧の一言。
すごく丁寧かつ分かりやすく、公式から応用に至るまでのすべてに際し語呂や関連付けがされていて覚えやすい。
自分で勉強しているだけでは到底実現不可能な効率性を誇り、進む個人授業はある意味では独り占めしたいとも思えるほどのものであった。
だからこそなのか集中力も完全に復活して、時間を忘れ彼の教授にのめり込んでいく。
そして気が付くと18時を過ぎたあたりのチャイムが学校内に響き渡った。
「おっと、もうこんな時間か。」
またその音に、意識を取り戻した裏人は、タイミングよく解き終えたプリントを目の前に、「ふぅ」と一息ついた。
その様子に、またもやあの微笑みを浮かべ話しかけてきた伝槙先生に対し、お礼を返す裏人は座席から立ち上がり言葉をつづけた。
「ありがとうございました。
とても分かりやすかったです。」
「そっかそっか、それはよかった。
じゃあ、私はこれで。
鈴鹿君も気を付けて帰るんだよ。」
最後の最後まで、教師の鑑のような人物。
ここまで来た裏人は、最初彼に対して浮かべていた負の感情を、心のなかだけで申し訳ないと謝罪し、その真摯に向き合ってくれた姿勢から完全に彼のことを信頼するようになっていた。
作武の言っていた通り、恐らく進学を視野に、と言った意見からの愛のムチだったのだろうと心の中でこれまでの行動の結論を付けた。
いい先生だ、という感情はもうすでに裏人の心底のものへと好転する。
そして過ぎ去っていく先生の背中を見て、この時初めてとなる親しみのこもった視線を送った裏人に、扉が閉められる間際振り返った伝槙教諭から最後の一声がかかった。
「あ、それと、問題の答え。
全部繋げてみて、君への私からの気持ちを込めさせてもらった。」
「え、あ、はい。
わかりました、ありがとうございます。」
「うん、それじゃ、気を付けて。」
扉が閉まり、教室内に静寂が訪れたことで、裏人も一安心ともう一度深い呼吸をついた。
これは先生の呪縛から解放された一生徒的ポジションの安心感である。
決してもう感じることのなくなった、彼に対する疑心感によるものでないことを、改めて自身の中でも感じ取ると、最後彼が口にしていた文言に対する答えを導くため、もう一度プリントに視線を落とした。
「問題の答えを、すべて繋げて見て―――――」
こういったお洒落な設問作りは、過去に話に聞いたことがあった。
設問全ての答えを最後繋げると、文章になるといった感じのもの。
それを知っていた裏人は、ある意味浮かれた気分のままもう一度座席に座り直し、またもや一人でペンを走らせ始めた。
そして一番最後の空白に、これまでの答えを並べ、書き記していった。
「1.今
2.直
3.100
4.左記
5.ア
6.有
7.加羅
8.87
9.0
10.6?」
順番が違うのか、改めて確認し直しても、結局意味が分からない文字列なだけ。
その様子に、裏人も解答ミスを疑ったのだが、さらッと見返した結果そんなこともなさそうな感じだった。
じゃあここから何かを導くのか?
そう思った裏人は試行錯誤を繰り返し、プリントとのにらめっこに時間を費やしていく。
だが、刻一刻と過ぎていく時間に反比例し、こんがらがっていく思考はどんどんと諦めムードへと変わり、ついには他力本願と教室内をぐるりと見渡して、何か引っかかるものがないかどうかを探し始めて行くことになった。
ゆっくりと立ち上がるとその場で二周ほど歩き、何もないことを確認するや否や窓辺へと寄り、外の光景からも刺激を受け取るために窓外の景色を眺めていった。
グラウンドでは陸上部とサッカー部、少し離れたグラウンドではテニス部がそれぞれ部活動をし、最後の力を振り絞った迫力のある練習を繰り広げている。
するとそんな中で、思いもよらぬ光景を目の当たりにすることとなってしまった。
静かに流れる時間の中で、視界の端にとある人物を発見したのだ。
それは駐輪場でぽつりと佇む、我らが学園のマドンナにして、ある意味で今一番会いたいと思っていた百咲 愛悠当人であった。
なぜその場にいるのか、その真意はわからない。
だが、自意識過剰なのかもしれないが、裏人は自分を待っているのでは、という衝動に駆られ、そこから申し訳なさが生じ、急ぎ準備を始めると、プリントを握りしめたまま走って部屋を後にした。
とその瞬間―――――
「あれ。」
と自分でもなぜその声を漏らしたのかわからない、そんなテンションで立ち止まった裏人は、改めて握っていたプリントに視線を落とし、最後の問題に目を付けた。
そしてその場で目を見開くと、彼女が待つ正門に向け、血の気の引いた表情で、急ぎ足を進め行くのだった。
「今 直 百 左記 ア 有 加羅 87 0 6―――――」