翌日の朝
~特異鬼制教導機関~
「ただいま、ばあちゃん。」
「裏人、おかえり。
手、洗っといで。」
室内で放たれたしゃがれた声と元気な声は、互いに両者の元まで反響し、聞き合った二人は笑顔を浮かべる。
今ここは坂を上り終え、少し行ったところにある神社の裏手、裏人が祖母と二人で住む少し古びた平屋の家だ。
神社の裏手にお洒落な家がある?
大理石が用いられ、夜でも明るく周囲一帯を照らし、安心安全が約束されたセキュリティー満載の豪邸がある?
否、もちろんそんな訳はない。
事実は丸々逆の、恐らく誰もが神社の裏手にある実家と言えばこんな感じかと、思い描く通りの家がそこには存在していた。
佇まい叱り、建材の質の古さ叱り、漂ってくる『和風』の香り叱り。
そんなありきたりな古民家の入り口のそばに自転車を止め、ガラガラと大きな音を立てる引き戸を開けて靴を脱ぐと、揚々と聳える上がり框を軽々飛び越えてやる。
祖母が家を出る時は、大きな声で「よいしょ」と一声あげる、この床ももう少し住みやすくすればいいのに、といつも通りの思考を浮かべ、裏人はリビングを目指した。
そして入り口の障子を開け、中にいるはずの祖母に一声かけてから、これまたいつも通りに返ってきた言葉の通り荷物を置いて洗面台へと向かうのだった。
「今日の晩御飯は?」
「なんだい、気分がよさそうだね。」
「ちょっとね。」
「そうかいそうかい。
それじゃ、良かったね。
晩御飯はあんたの好きな鰯の煮物だよ。」
「ほんと?
やった。」
そう言って笑う、裏人の明るめの声音に、祖母も嬉しそうな笑みを浮かべる。
そして手を洗っている彼のそばに歩いて寄り、台所にてご飯の準備を始めていった。
肉でも野菜でもなく、無類の魚好きである裏人。
そんな彼のためこの鈴鹿家では、よく魚料理がご飯時に登場しているのはよくある光景だった。
健康にいいと言われているおかげか、シャキシャキと動く祖母はその齢を九十半ばにして、歳を感じさせないほど元気な生活を送っている。
また孫の明るいテンションも彼女の大好物ゆえ、ここで行われた会話の延長線上、裏人が喜ぶことが彼女の長生きにも繋がっているのだった。
それを知っている裏人は特に意識はしていないのだが、普段から気持ち多めに笑みを浮かべ、テンションを高めている。
これは親代わりだと思っている、祖母に対しての数少ない親孝行であるのだ。
そして今も居間で流れ続けている、先程まで祖母が見ていたテレビの続きにかじりつき、学校で出た宿題そっちのけで大好物がテーブルに並ぶのを待っていった。
その間も、祖母との会話を怠ることなく。
「―――――机の上を片付けとくれ。」
聞こえてきた祖母の声は、またいつも通りで料理が運ばれてくる時の合図。
そこに込められた思いに沿い、祖母の物であろう広告紙や新聞を別に配置された部屋の隅の机へと持っていく裏人。
先程からそれほど時間も経っておらず、ともすれば一瞬とも思える時の流れは、空腹に待ち焦がれた者へ対する渇望の念がそうさせているのだろう。
鳴りやまない腹の虫を落ち着かせるため、片付けだけではなく祖母の行動に倣って手伝いを行いながら、二人で料理を居間へと運んでいく。
そして間もなく準備が整った。
2人で座布団に座り、座卓テーブルに並べられた料理を前に手を合わせる。
「それじゃ、食べようか。」
「うん、いただきます。」
挨拶の後、丁寧に握った箸を器用に使って早速、大好物の魚へと手を伸ばす裏人。
そして口に含んで幸せそうな顔をした彼の様子に、祖母もフッと微笑みを漏らした。
「おいしいかい?」
「相変わらず。」
それだけで感想が伝わるのは、いつもいつも裏人がその一言しか知らないかのように「美味しい」と口にしている賜物だろう。
祖母の料理が不味かった試しはない。
ゆえに彼女を喜ばせようとしている偽善でもない、純粋な心の底から来る微笑みとおいしいとの一言なのだ。
そしてまたその言葉だけでまた長生きできると、続く祖母もゆっくりと丁寧な所作で箸を進め、二人は会話をしつつそのお腹を満たしていった。
「それで、今日は何で機嫌がいいんだい?」
「んー、ちょっとね。」
「なにさね、歯切れの悪い。」
「色々あったんだよ。」
「...女かね。」
「ちょ、ばあちゃん。」
歯抜けた様子で笑う祖母の前で、少し顔を赤らめる裏人。
その心情は図星を指され恥ずかしがっているのだ。
今までの人生、友達の話はそれなりに挙がっているのだが、色気づいた事の一つも持ってこない孫のことを年寄りなりに心配していた彼女は、やはりというべきか話を掘り下げ、聞きたいところまで言及していく。
「ふぉっほっほ。
年寄りを舐めるでないわい。
図星じゃろうて。」
「余計なお世話だって。」
「何、悪い事じゃあらせんよ。
人生で一度っきりじゃ、青春は。
どれ、今年の祭りはお前抜きでもええぞ?
その娘と回るがいい。」
「だから、そういうんじゃないって...。
でも、もしそうだったら、今年の祭りは出れないかも―――――」
「なんじゃやっぱり図星かえ。
おうおう、好きなようにせぇ。
裏人がおらんくても代わりの荷物運びはよぅけおるけんのぅ。」
老い先長くない、からこそ彼に色っぽい話が降りかかれば、当然嬉しくもなる祖母は既に笑顔から顔が戻っていない。
その様子に、ばつが悪そうにも見える顔で唇を尖らせているのは裏人だ。
だが、その理由をしっかりとは言わずとも、もしかしたらと仮定した上で一つの約束事を取り付けることができたのは成果なのかもしれない。
嬉しくも恥ずかしくも悔しくもほっといてくれとも思える、ぐちゃぐちゃになった感情の中でも、少し喜びが抜きんでているのは気のせいだと思いたい。
なんせ祖母には変な誤解や、図星を図星だと断定されたくはないので濁しておきたいのだ。
とは言っても、その成果が実るには彼女からのお誘いがなければなんら意味をなさないのは事実。
当然裏人の方からマドンナを誘うなんてこと、できるわけもないのだから。
そんなむしゃくしゃした気持ちが常在する今の状態は、人生においてはじめてのものゆえ、どうしていいのかわからない裏人は頭がいっぱいいっぱいになっていた。
その日の食事は、かなり味が薄かったようにも思えてしまった。
テレビの中では祭りの様子が映し出されている。
それはこの山に囲まれた場所で行われるものではなく、隣町で行われるらしきもの。
ただ、その光景を見ていると、祭りに関しての話をしていた彼女の顔が再度頭に浮かんでしまった。
それを振り払うため、急いで箸を進めていき、いつも以上のペースで食事を終えると、片づけをすぐに済ませ、宿題へと移っていく様子を見せる。
せわしなく動く彼の様子を、一番身近で見ていた祖母は、またもや嬉しそうな顔をしていた。
その後何を話していたのかは覚えていない。
ただ、あまり量が出ていなかったはずの宿題の、提出期限を逃してしまったのは自分のせいではないはずだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「おはよう、鈴鹿君。」
「お、おはよう...百咲さん。」
翌日の早朝。
山の中腹にある家を出て、今度は坂道となった通学路を自転車に乗って駆け下りる裏人。
もちろん地盤は獣道ゆえにがたがた。
細心の注意を払うことを忘れず、ともすれば握るハンドルに力を込め、手汗を掻きながら今日も晴天の暑さの中をかけていく。
そうして相も変わらず学校へ向かっている彼の前に、突如現れ声を掛けてきたのは学校のマドンナ、百咲 愛悠だった。
場所はあの池の近く。
自身の自転車を傍らに停め、相変わらずの笑みを見せてくれる彼女は、まるで自分を待っていてくれたかのように裏人の姿を見ると、停車用のスタンドを上げた。
可憐に響く彼女の声音や立ち姿は、まるで大和撫子。
朝からそんな光景をお目にかかれるとは、世界中の者が羨むのではないかと心躍る一方で、周りの視線が気になる裏人は辺りを見渡した。
その様子に、少し気まずそうな顔をするのは百咲の方。
しかしそれに気が付かない様子の裏人に、意を決したかのように覚悟を決め、真意を聞きだす彼女は声を放った。
「もしかして、迷惑だったかな?」
「え、いや...そんなことはないよ。
驚いただけ、急に仲良くなれたのが嘘みたいで―――――」
距離感がわからなくて、とそう口にせずとも受け取った百咲は、何かを察したように楽し気な雰囲気を見せた。
その証拠に、無意識に「恥ずかしくて」とのニュアンスを含んだ失言をした裏人の言葉に、またもや同じような笑みを見せている。
自信を取り戻したかのような、邪念のない無垢な笑み。
またもやその笑顔に気恥しさを感じた裏人は笑みを以て返答とし、早速自転車を漕ぎ始めた。
当然並走してくる百咲は、速度を一定に保ちながら今の言葉に返事を返し、先程まで汗を拭っていたタオルを片手でかごのリュックサックへと詰め込んでいる。
そして丁寧に一つの動作が終わったら、また一つの動作に移り、裏人との会話に花を咲かせるために言葉を投げかけてきた。
「昨日の話、覚えてる?」
「お祭りがってやつ?」
「そうそう。
来週、隣町でお祭りがあるってテレビでしててね。」
そう彼女が口にした内容は、昨日の夕食時に自身も見ていたものと同じものだろう、と裏人。
テンションが高いのだろうがそれは決して表に出さず、本人も意図することなく声音が上がっているところを省いては『完璧な女の子』の様子。
ここで言う完璧とは人間味のないという意味で、逆に今のどこか抜けている彼女の様子は人間味があり、そのギャップがまた可愛らしく思えてしまう。
心なしか浮ついた裏人のテンションも上がり、かといって表に出すわけもなく、返す言葉のチョイスもいつもの彼らしいものへと制限し返事をした。
だが、それは悪い印象ではなさそう。
その証拠に、また彼女はにこやかな笑みを浮かべ、いつまでも裏人の顔を見て朗らかな印象を漂わせてくれていた。
「一緒に行こ?」
「...僕は全然いいけど、大丈夫なの?」
「私、体力には自信あるって言ったでしょ?
任せてよ。」
そのことではない、という言葉はかけるだけ無意味なのだろうか。
むしろそう言ってしまう方が相手を意識しているのでは、と思われてしまうと裏人は口を噤むことを決意。
何のことかと言えば山登りの話ではなく、一緒に行くこと自体がどうなのかという話だ。
「興味があるから行ってみたい」、と言われた相手に対し、「周りから変な誤解を受けるかもよ」と言えば、「全くそんなつもりないよ?」との幻滅の念が送られることだろう。
せっかく仲良くなれたのに、この関係がそこを境に終わってしまう。
するとどこか手放したくない寂しさを覚えた裏人は、今の通り余計なことは考えず、ただ彼女に向き合っただけの返答をするのだった。
誘われた以上特に理由がないのであれば行ってあげた方がお互いに、変な意識をすることなく穏便に済むだろうなといった丁度いい感じの返答を。
「わかった。
来週のいつ?」
「その、金曜日の夜なんだけど。」
「あれ、それって...」
「そう、ここの神社と同じ日取りなの...大丈夫かな?」
昨日のことはよく覚えていない。
ゆえにテレビの表示も見逃していたのか、彼女の提案の日時に少しためらった様子を見せてしまう。
同じとは、もちろん祭りの日時が被っているという事である。
それを知ったうえで誘ったことに対し、彼女は心配と謝意の想いからか申し訳なさそうな表情を浮かべ、裏人のことを見つめてきていた。
当然祭りともなれば自分が屋台でも、神社の手伝いでも駆り出されることは彼女も承知の上。
ゆえに、裏人のことを心配してくれての想いだったのだろうか、今の自分にとってはそんな気遣い無用であった。
なぜなら祖母から直々にお許しを得ているのだから。
強がってでも、あの時しっかりと許可を得ておいてよかったなと、心の中で昨夜の自分を褒める。
と同時にそのことを思い返して、祖母の言葉に引っかかりを覚えた裏人。
確かに一緒にテレビを見ていたので、もしかしたらあったかもしれない祭りの日時表示も確認していたはず。
にしてもこの好都合な歯車の妙な噛み合わせが、全て祖母の思惑なのだとしたら、と。
言いようもない恐ろしさすら感じる裏人は、特に二人に接点がないだろうことを再考しながら、笑顔を以て彼女に返答するのだった。
「大丈夫だよ、ばあちゃんから許可はもらってるから。」
「本当に?
今年はこっちのお祭りでなくていいの?」
「そうらしい...。
うん、そうらしい。」
「ふふッ、良かった。
じゃあ来週の金曜日の...放課後。
あの池の前で待ってるから。」
心底機嫌がよさそうな彼女の微笑みに見惚れ、その後は何を話していたのかよく覚えていない。
その理由は一体、彼女とのお祭りが楽しみで仕方がないからなのか、それとも二人っきりという状況に緊張してしまっているからなのだろうか。
もしくはある意味この状況を作ってくれた祖母に、変な誤解をされただけでなく良いように気を遣われたのだということに、見透かされた気恥しさを感じてしまったからなのだろうか。
こういった約束事は何だか変に意識してしまうものだなと、思っているのは自分だけでないはず。
そう思った裏人は、同時にこの上なく嬉しくも思っているこの感情を、彼女も同調してくれていたらいいなと心の中で一つ。
そしてその後のことは時間が流れるままに身を任せ、自転車を漕ぐ足に力を入れた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
結局教室についた段階で、それなりに仲のいい友人達に囲まれてしまったことは言うまでもない。
数々の質問が飛び、羨ましがるような視線も同時に受け取ったのだが、生憎その疑問へ返答は出来そうもなかった。
先程も言った通り、結局何を話していたのか思い出すことができなかったからだ。
楽しい時間はあっという間、と言ったのは誰だったか。
全くその通りだと、裏人は未だフワフワと浮ついた気持ちのまま、周囲の友人たちとの会話を軽く受け流している。
いつも通りの関係、なのにいつもとはどこか違う雰囲気。
いい意味でも悪い意味でも、彼女と知り合ってすべてが一変した。
自分はあまり変化を望むタイプではなかったはずだったのだが、まぁ悪い気持ちはしていない。
それもこれも、昨日今日で変化した彼女とのほんの少しの時間がそうしてくれたのだろう。
あくまで変な意味ではなく、今までの何の変哲もない日常にちょっとした刺激が加えられた、というだけの話。
だからこそ、やましい気持ち一つないまま、向けられたたくさんの負の感情をこもらせた視線に気が付かないふりをして、始業の合図を待った。
裏人が座っているのは教室の一番後ろの窓側の席。
その当たり席から眺める、窓外の様子は相も変わらず雲一つない快晴だ。
何かいいことが起こるような、そんな予感を抱いたまま、間もなく入室してくる担任の教諭を待っていった。
「はいじゃあ席について。
出席の前に、今日は皆さんにお知らせがあります。
では入って来てください。」
チャイムが鳴り、静まり返った室内の後ろまでよく通る声音でそう言ったのはこのクラスの担任。
眼鏡をかけ、前髪をピシッと分けた、ザ・教員と言った感じの作巻という名前の女教師だ。
人当たりがよく、生徒からの人気も厚い、教師の鑑のような人物。
そんな彼女は普段からにこやかな様子を浮かべていたが、今日のそれはいつもとは一味も二味も違っていることに、クラスの全員が気が付いた。
そしてそれゆえ、ザワザワとし始める教室内の騒めきを瞬時に立ち切ったのは、彼女の言葉にて指示されていた内容通り、教室に入ってきた一人の男性教員だった。
「初めまして。
今日からこのクラスの副担任を受け持たせていただきます伝槙 柏伯です。
よろしくお願いします。」
伝槙と名乗ったその教員に対し、女子サイドからはかなり黄色い声が飛んでいた。
にっこりと人のよさそうな笑顔を浮かべ、スラッとした体躯から、スーツを着込むその姿は清潔感以外の何物でもなく、完璧な優男といった印象。
歳はかなり若そうで、一見した感じ少し上くらいだろうか。
そして何より女子を惹きつけている魅力とは、かなりの都会香漂う佇まいだろう。
髪の毛はがっちりとセットされていて、それでも今どきの若い人という印象ではなくしっかりとした仕事人という感じ。
それこそ教員の鑑のような雰囲気を感じられ、怒る様子など到底想像できないくらい、浮かべた笑顔に優しさが灯る。
年上で、公務員、イケメンに、雰囲気から体型、声音と教員になるくらいの頭脳と来たら、年頃の女の子からすれば好物件といった感じなのだろう。
もしかすると、作巻先生の笑顔の理由もそういう事か?
と考えるのは当然、裏人以外の男子生徒諸君。
彼女の人気の厚さは、男子からの声がより多く、大人の女性らしい魅力と余裕を持った王道女性教員にして独身とくれば、思春期の男子には刺激もあり、憧れや想いなどを寄せる者が多くいるのだった。
だが、今やそのファン一同は、血の涙を流しながら目前で起こっている光景の真意から目を背けようとしている。
単なる勘違いであってくれ。
ついにはそんな声すら聞こえてくるのでは無いか、と握った拳に力を込める熱烈な信者を横目に、裏人は一人ため息をつくのであった。
そして特に興味も湧かない、彼はまた窓外の景色へと視線を移し、後の時間をゆったりと自分の世界にこもって過ごすのだった。
いい意味でざわめきを見せる教室内は今日も賑やか。
それは新しい教員が来たことによる浮かれ具合だけでなく、今日が金曜日ということも関係しているのだろう。
学校が終われば二日間休みになる。
その事実に、皆は現曜日以外の日とはまるで別物であるテンションで、副担任との交流を行い、今日を乗り切っていくのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
裏人が外の景色に視線を移す様子が視界に映った。
こういうところは、本当に普段の彼らしい、と一人微笑みを浮かべるのは学園のマドンナ、百咲 愛悠。
裏人の席から逆に位置する廊下側の列の、後ろから二番目が彼女の特等席。
それは自身の座席というだけでなく、裏人の横顔を彼に気付かれずに、よく見ることができるという点でも、彼女の中だけに留めている、特等席という定位置なのだった。
このお気に入りの場所から眺める、向こうの景色にポツンと浮かぶ裏人の横顔。
それが普段の疲れを癒してくれる、唯一の光景なのだと、今日もその整った表情を誰にも気づかれないように崩した百咲。
だが、あまり直視しすぎるのも却ってよくない。
この行為がバレてしまえば、そのたった一瞬にて楽しみが終わってしまうのだと思うと、いくらでも見たくなるその横顔を今日も我慢することで自身の気持ちに一区切りをつけた。
そして意識を室内へと移す。
クラス内が、いい意味でざわついている。
女子は喜び、男子は落ち込み、一喜一憂を全力で行うこのクラスの雰囲気は、百咲にとっても素晴らしいと思えるものだった。
だが、裏人から一度視線を外した、今の自分にはクラスの女の子たちとは違う、たちまち自身の中に悪い意味でのざわめきが展開されてしまっていた。
目の前の、壇上にてクラス内を見渡している伝槙 柏伯という男。
彼の一見純粋に見える視線には、マドンナとして数々の視線を受けてきた彼女だからこそわかる、違和感が紛れていたのだ。
気持ちの悪い、ただその一言に尽きる、含みのこもった下卑た微笑み。
それゆえ彼の副担任就任を、他の女生徒と一緒になって喜ぶ気が湧かない百咲は、裏人同様、いやそれ以上にこの展開に正の感情を浮かばせられずに、廊下の向こうの景色を眺めた。
視界の外、今でもあの教師が自身のことを、不快な視線で見つめているのがわかった。
それが単なる気のせいであってほしいと願うばかりだ。
気付かないようにするために、机の下で手遊びをすることで気を紛らわせ、後の時間を過ごすことを決意した。