この場への緊張
~特異鬼制教導機関~
「よし、じゃあこんなものか。
...うん、おっけ。
それじゃ、今から教室まで案内するからな、ついてこいよ。」
「...はい―――――」
「...どうした、ぼーっとして。
やっぱり、どっか悪いところあるんじゃないのか?」
「あぁいえ、それは...大丈夫です。」
「そ、そうか...。」
朝の雰囲気が、太陽の光や清々しい空気から存分に伝わってくる。
眠気眼を擦る仕草も、大きくあくびをする光景も、遠くから聞こえる生徒たちの柔らかで楽し気な喋り声も心地いい。
と、そうやって煌びやかな景色を見せる室内に、教員たちの気を利かせた内容の声が響いては溶けていき、次第に二人を取り巻く空気感の『気まずさ』だけを強調していくのが感じられるようになっていった。
そんなこの場所は銀葉歓教導機関の屋舎の中、一階中央辺りにでかでかと構える職員専用の校務室である。
誰もが朝の準備に忙しさを見せ、ともすれば学生たちの勉強姿勢を整えるために試行錯誤を繰り返している最中のこと。
その一郭に存在する、来賓や生徒たちの相談場所として設置された簡易的な会議場のような空間で二人、頭を抱える玄藤重教員と彼がそこに至るまでの原因となった学生、鈴鹿 裏人の面談が行われていた。
二人を取り巻く無数の教員たちは、これから始まる一時限目に向けてそれぞれの学習科目の支度をすると同時に、それ以上に重要となるホームルームでの雑談を仕込むよう世間話を行っている。
生徒たちに学習前の、授業を受ける姿勢について考えさせ、整えさせるために必要となる小話を、だ。
これがあるかないかによって、彼らが一日にできる勉強の効率性や質はかなり向上する。
だからこそ一切の手抜きが出来ないと、躍起になっている教員たちが騒がしさを見せている中、その渦中にいるはずの二人はなぜかバツの悪さを孕ませた空気感を展開し、静かな様子で動かないままの姿勢を貫いていた。
いや、二人はというよりかは玄藤重 執朗先生が、といった方が正しいだろう。
その理由は単純に、裏人の今の態度が原因となっているのだが...。
「―――――...。」
窓の外を眺める様子は、完全に上の空。
そうやって一切危機感のないぼーっとした様子を展開している様が、玄藤重の中で二三思い当たる節に引っ掛かっているのだった。
一つ目は良い意味で彼の内面を察してあげてのモノ。
自分も教職員である立場上、他の教導機関に勤めていた時期もあるし、教導機関外の普通の学校にも勤務していた過去がある。
だがやはり、そのどこと比べてみてもこの銀葉歓という場所は、土地や規模感に設備などありとあらゆる場面が段違いに秀でており、初めは皆と同じく驚きもすれば狼狽したりもしていた。
だからこそ、そんな経験とともに優や姫奈が編入してきた時のことも加味して、裏人もまた同様に銀葉歓の迫力に圧倒されては、緊張したり困惑したりしているのであろうと考えているのだ。
物語に出来るくらいの田舎の出である彼が、都会を知っている者であっても「すごいな。」との感想が漏れるこの場へ来て、何も思わないはずがないと。
そうやって裏人の内心をなんとなく察してやれているからこそ、今の呆けている姿に対しては「順応してもらうのが一番手っ取り早い」と、何もしないことを念頭に置いての沈黙を浮かべるのであった。
だがもちろん、先に言った通りそんなただのだんまりが『気まずさ』を感じてしまう要素になっているということはなく、今この場では他の...良い意味とは真逆になる『彼の過去を思いやっての気遣い』というものも含まれているようだった。
当然それとは、裏人のこれまでの人生から昨日まで続いていた、とてつもない期間の『痛ましい事件』についてのことである。
例の件に絡めて今の裏人の様子を見れば、恐らくまだ心の整理がついていないのだろうと、緊張とはまた違った沈黙の正体が顔を覗かせて始めてくるのだ。
そして、察してやりたくないそれら事実に玄藤重は、なぜか真意を勘ぐってしまう自身の内心に気が付き下手に喋ることが出来ないと、彼を気遣っての想いのまま言葉を噤まなければならない状況に陥ってしまっている。
自身が関与することなど到底不可能だと思えるような重々しい感情とともに、下手な声掛けは出来ないぞとの覚悟を感じさせられる、言いようもない恐ろしさを以て。
当然、あんな経験は自立した一人前の大人であっても、理解することも受け入れることも出来るはずがないことであった。
実際に自分が同様の立場に立ってみたらと仮定しても、その殆どが現状の彼と同じ思考に至るどころか、それらの情景を想像することすら出来ず、永遠の虚しさに苛まれるであろうところ。
だがそんな事件の被害者であるはずの本人はというと、翌日にはすっかりと目を覚まし、尚且つ自分の意思で知らない土地を歩み続け、今この銀葉歓に姿を現しているときた。
さすれば、この人間離れしたような心の強さがどうにも信用に足らず、心配になっているというのが現状の玄藤重の懸念点なのであった。
ここでいう信用に足らないとの言葉の真意は、彼自身に対してのことではなく彼の思考についてのこと。
つまりは今の裏人の様子が、ただのやせ我慢なのだとしたらと、そう仮定しての話だ。
あれだけのことを経験しておきながら、それでも真面な外面を保ち続けていられるのは、もしかしたら感情の起伏が振り切ってしまい、制御できない精神状態にあるのではないかとも考えられてしまう。
そうなれば事実、現況での呆けてしまっている彼の表情にも納得ができるし、その人間離れした異常な心理状況にも逆の意味で合点がいく。
そんな風に様々な邪推が出来てしまう現状の裏人へ向けて玄藤重は、どんな顔で、どういう接し方で、どう言葉をかけてやればいいのか、その答えが思い浮かばずにいた。
これが、真の意味で裏人との空間にて気まずさを感じてしまっている、その原因であるのだった。
軽い言葉は当たり前のこと、真剣過ぎる話しも逆効果になりかねない。
だが、サラッとしすぎるのもおかしな話ではあるし、共に重荷を背負うような心意気を見せても『理解できない自分』と『全てを知った彼』では当然温度差が生まれてしまうだろう。
そうやってあれこれ考える思考時間が次第にバツの悪さへと変わっていき、この場に展開されている沈黙の正体として体感以上の時間経過を感じさせられる要因に直結しているのだった。
人一人が感受でき、その先の自身を制御してやれるだけの事象と、人間本来の意志の強さ。
そんな全てにおいて、遥かに限度を超えてしまっている過去を持つ彼を思いやると、身勝手ではあるが同情や心配すら失礼になるのではとの思いまで先行してしまう。
ならばいっそ、と玄藤重は言葉をのみ、固唾をのみ、呆けている彼に慰めの言葉も掛けられず、ただ見守ることしかできないとそんな内心に陥っているのであった。
緊張だけならまだしも、後者の想いの方を強く抱いているのなら、自分には気遣ってやるのが正しいのか、気づかないふりをするのが正しいのか適切な判断などできないであろう、といった思考のまま。
そして、そんなほぼ初対面な彼本来の対人関係の好みを知らないことも含め、来るはずのない彼からの声掛けを期待している自身へ、教育者という立場である事実を振り返り情けない劣等感を感じるまでに至ってしまうのであった。
何か一つでも、学を教える立場として...彼らを引っ張っていく先人として、気の利いたことでも言えないものかと、必死に働かせている頭も虚しく―――――
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「(これは...マジで。
すごいな...)」
話に聞いていた銀葉歓教導機関という名の学び舎。
その屋舎の様子を一目見た瞬間から、驚きに塗れていたはずの内心がさらに強い感情によって塗りつぶされていく心地を体感した裏人。
それは当然、思った以上の規模感や迫力を誇る外観によって魅せられた、良い意味での感動によって。
と、この上ない驚きや高揚感などの心地を受け取った彼は、自身の思考から心情に至るまでの全てをどこかしらに置き忘れてしまったかのように、次いで今の小さく落ち着いた様子を体現する運びとなったのであった。
そんな光景はまず、正門から続く道路の末に構えていた、大きな水しぶきから始まる。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
校門を抜けて緑の道を超えた先、そこには『世界の観光名所』と銘打った図鑑にでも載っていそうなほど、強烈な印象を与えてくれる噴水が待ち構えていた。
高さは自分たちの背丈を優に超えており、頭上から振り注ぐ水は水蒸気のような細かいものとなって、全てを見下ろすように上から木々や生徒たちに新鮮で爽やかな心地良さを運んできてくれている。
それがこの蒸し暑いはずの夏季でも過ごしやすいと思える空気感へ繋がっていて、皆が少しでも近づいた位置を取り合うように歩いている景色は、何ともわかりやすく夏の楽し気な雰囲気をも見せていた。
学生らしく、くだらないことでも楽しもうとする心意気、何ともわざとらしい青春の香りというものである。
また噴水の周りをグルッと一周、膝上辺りまでの石造で区切られた水場は人が平気で40人ほど入れる広さが用意されており、尚且つ水周り特有の汚れなどは一切存在しない純粋な美しさを誇っていた。
そのため水面で反射する太陽光は、気持ちが良いくらい素直に視界へと飛び込んできて、ライトアップされているかのような輝かしさを含め、生き生きとした生命力までも感じさせてくれている。
とその場に居合わせた生徒たちは、周囲へ響く激しくも流麗で趣深い水の音を耳にしつつ、同時にさざ波模様の風情ある光に照らされながら楽し気で活力に満ちた微笑みを浮かべるのだった。
つい少し前に抱いた、ここへ通う学生たちにストレスフリーな環境を提供しているとの、教職員一丸となった政策の成果が間近に感じられる気がする、そんな事実に則って。
そしてそれら愉快で高揚感を感じられる空気感のまま、過ごしやすさから夏場を乗り切る生気までを受け取った皆は、誰もが乱れることなく噴水を超えたそのさらに向こうの景色へと赴くよう、足を動かす光景を展開していった。
一切の比喩表現なしで、言葉をなくした裏人の前にこちらを見下ろすかのような形で聳え立っている、お城のような屋舎に向かって、と。
「どうした、止まらずついて来いよ。
広いから、迷子になるぞ。」
振り返ってそう声を掛けて来た玄藤重教員の立ち姿越しに、到底現実のモノとは思えないような光景を目にする。
するとその迫力が無意識に体の自由を奪い、即時言うことを聞かないまま佇んでしまうまでに至る運びとなっていった。
ビシビシと体に伝わってくる、今までの興奮の想いをさらに超えた過度な印象。
そんな威圧感を感じさせてくる銀葉歓教導機関という施設の真の姿に、驚愕の念を浮かべた裏人は唖然ののち鳥肌を立てて、歓喜する様に体を震わせるのだった。
想像以上に屋舎の存在感が華々しかったからというよりかは、これからの人生がこんなに豪華絢爛な場所で謳歌できるのかと、好き放題に生きれる心地良さとこの先の境遇を嬉む感情によって。
そして少しずつ遠ざかっていくその背中に合わせ、ハッとして体の自由を取り戻しては遅れないように足取りを進めていくのであった。
「は、はい。」
何とか振り絞ったように返す返事は、少しだけ上擦っているようにも聞こえた。
また、取り繕うように笑ったはずの表情は、かなり引き攣っているようにも思える。
と、そんな風に掠れた声や情けない面持ちが溶けていく目前の様子とはまず、屋舎に入る前の空間から紡がれていくのだった。
もちろん、説明をしてくれている玄藤重教員の言葉と、目視で確認できる多少現実味を取り戻したかのような光景の双方を通して。
「とりあえず手短に屋舎の説明からな。
まず、真正面にあるのが初等部、中等部の生徒たちの普通教室や特別教室が置かれてる、銀葉歓の『本屋舎』に当たる場所だ。
その他の用途的には全職員共通の職員室と、初等部までのクラブ活動を行う多目的教室に、『食堂』なんかも用意されてる。
だから、鈴鹿にとってもまぁまぁ利用することがある場所になるかな。
家から弁当を持参しなければ、って話だけど。
で次に、お前ら高等部の生徒たちが毎日必ず通う『第二屋舎』の場所が、ここから向かって左手の...あれだ。
奥に見えるやつ。」
「...手前のではなく、奥ですか?」
「そう、手前のは全学年共通の『第一体育館』だ。
...あー、どうしよう...面倒だから先に説明しておくか。
いいか、この『本屋舎』を正面から見て、一つ裏手には『第二体育館』が位置している。
上から銀葉歓を見下ろしたら、ちょうど中央に当たる場所にな。
で、右側には手前から...あれが『屋内スクールプール』で、奥に行くにつれて剣道や柔道を行う『道場』、そして一番新しく建てられた『新装講堂』って順番で建物が併設されている。
まぁここからだと『道場』すら見えないんだけど、これが主に体育の教科で使用する各施設の場所になるから、覚えておけよー。
...って、一度に言い過ぎたか?」
「いえ...だ、大丈夫です。」
「そうか。
じゃあ、高等部の屋舎の説明に戻るけど...わからんことがあったらその都度聞いてくれよ。
...気を取り直して―――――
『第二屋舎』には、同じように普通教室と教科別の特別教室、後は教導機関に必要なあれこれを置いてる用具室が用意されてる。
前者二つは一先ず置いといて、先に用具室の説明をすると体育祭、文化祭、野外活動とかの学校行事で利用するモノが保管されてる、通常時は立ち入り制限のかかった場所だ。
まぁ、例えそんな規則がなくても入る必要がないところだから大丈夫だとは思うけど、鈴鹿も容易に近づいたりはしないように。
怒られるってよりかは、危ないからな。
で、それ以外の場所は、特段説明することもないんだけど、一つだけ―――――
例年、初等部や中等部に比べたら、高等部の生徒数だけ段違いに多くなっててな。
アルバイトが出来るようになるし、保護者同伴じゃなくても一人暮らしの許可が下りるから、自分の意志で受験する人が増えるってのは当然なんだけど...それがある種問題で―――――
見ての通り、銀葉歓はそもそもの人気や倍率が高くて、毎年かなりの受験生が来る。
で、それを含めて学校...じゃなくて教導機関的には、合格者の人数も多ければ多いだけありがたいってもんなんだ。
ただもちろん誰でもいいってわけじゃなくて、学力も高水準を要するし、それ以上に面接に力を入れてるから、危な気のある学生たちは軒並み不合格になってるんだけど、にしても元の受験生の量があれでな。
結果、高等部と大学院にはそれぞれの定員を設けているはずが、毎年合格者の方が多い始末になってる。
で、これまた当たり前のように、合格者の数だけ教室が必要になるわけだ。
つまり何が言いたいのかっていうと、多分...てかほぼ100%の確立で、鈴鹿は屋舎内で迷子になると思う。
あそこだけでも、普通の学校と遜色ない規模感だから、仕方ないっちゃ仕方ないけど。
嫌でろ、入学して早々、迷子と遅刻の連続なんて。」
「は...はい。」
「だから、恐らく今日一日はほとんど自由時間になると思うけど、その貴重な時間を無駄にすることがないよう、きちんと地図を頭に入れるように、な。
念を押しとくぞ、一度しかないから。
まぁ、その時も多分案内するのは俺だと思うから根詰めなくてもいいけど、分からんことがあったらしっかり聞いてくれることだけ肝に銘じておいてくれ。
明日からは普通の日常生活が始まるからな。
それじゃ、最後に。
銀葉歓の屋舎の中で最も後方にある建物が...ここからは当然見えないけど、大学院の屋舎になってる。
察しの通り、正式名称は『第三屋舎』な。
基本的には高等部である鈴鹿は入る必要のない場所だ、学院生の研究室とかばかりだから。
あとはまぁ、鈴鹿がこのまま銀葉歓教導機関の大学院に行くかどうかで、変わってくるってとこかな。」
「大学院の人たちは、多くないんですか?」
「数か?
まぁ、自分のやりたいことがあるなら手に職をつけるって意味でも、他の教育機関の学部に行った方が有意義だからな。
ちなみにここの大学院は教育学部限定。
他の学部は銀葉歓教導機関の敷地内に点々と離れてる。」
「はぁ...。」
「あ、そうだ。
忘れてたけど、『屋内プール』と『道場』の間の道を進んでいって、一段土地を下ったところに、『屋外競技場』がある。
初等部の子たちの運動会とか、それ以外の学生たちの体育祭とかをやる場所だな。
で、その隣に一般解放してる『屋外プール』に、生徒や保護者たちが使う駐輪場、駐車場が設けられてる。
『屋内プール』と『道場』ってどこにあるか覚えてるか?」
「ここから右手の...向こうの方ですよね。」
「正解。
じゃあ...これで多分、全部の説明が終わったと...思うから手短に場所の復習を―――――」
こんな長話をしたところで、未だ噴水から『本屋舎』までの道のりを歩き切れていないとくれば、どれほどこの場所の広さがおかしいのかわかりやすいだろう。
と、周囲にたくさんの生徒たちが姿を見せる中、最後の会話に右手前の方を指差した裏人は玄藤重教員の説明に、何とかついていけているとの焦る内心を取り繕って見せた。
もちろん実際は『取り繕う』との言葉通り、覚えていないどころか、初見の衝撃から立ち直ることすらままならず、正常な判断も出来ない状況に陥ってしまっている。
だが、これ以上迷惑を掛けたくないと思っている相手にそんな事実は口が裂けても言えるはずなく、次第に強がる内心が無理強いをし始めては気持ちのいい空間に、逆の想いを孕んだ冷や汗をかかせる運びとなっていくのだった。
謎に感じる緊張感、それが何よりこの人たちを失望させたくないとの思いを掻き立たせてくる。
と、そんな風に良し悪し様々な感情が垣間見える心境は、どうやら先の会話の続きであるこの場所の暗記とやらを早々にやり遂げたいらしく、より忙しそうに内側へと悪しき心緒を沸かせ始めている。
そのため、何も覚えていない自身の内情が露呈してしまわないよう、これからの会話に『滞りなく』との思いを重要視した裏人は、気持ちの入れ替えにその場でより一層深い深呼吸をついて見せた。
頭を働かせるためと、先に聞いたはずの説明が抜けてしまっている自身に喝を入れ、彼の言葉を思い出せるよう浮ついた意識を取り戻すべく、一切の手抜きをしないままで。
そして、身振り手振りで教えてくれていた玄藤重教員の優しさを無下にしないよう何とかそれらの文言を思い返すと、引き攣っている表情など気にも留めず、取り繕う気満々の面持ちで受け答えをしていくのであった。
そんな二人の間で展開される、この銀葉歓の正しい構図とは分かりやすくこんなものであった。
噴水の位置から銀葉歓教導機関を見下ろすと、縦に3列の建物の集まりが見られるような設計が為されている。
左側には手前から『第一体育館』、奥には裏人たち高等部の生徒が通う『第二屋舎』が。
一つずれ、中央の列には一際存在感を誇る『本屋舎』が聳え立ち、奥へ奥へと『第二体育館』、『第三屋舎』が続いている。
そして最後に右の列には、同様の順で『屋内プール』、『道場』、『新装講堂』がそれぞれ建てられていた。
そんな一つ一つの建物の集まりは先に3列と述べた通り、二対の自然公園のような中庭によって縦に区切りがつけられている。
緑溢れ溜め池もあり、実際に音を放ちながら流れている小川らしきものまで見受けられるといった、とてつもない広さを誇る庭園で。
また、京都の街並みを模したがごとく賽の目状になっている敷地内では横へ連絡通路が走っており、先に自分たちを迎えてくれたあの噴水からは用水路を通して水流が繋がっていた。
するとそれが結果的に各建物への道しるべとなり、さらに勉強のストレスを軽減させる爽やかな心地が『新緑』と『流水』の双方から運ばれ、相乗効果で全生徒や職員たちに気遣いの行き届いた学び舎とやらを作り上げている。
ゆえに、銀葉歓教導機関という場所はその規模感の広大さに圧倒されつつも変に入り組んだりすることなく、分かりやすい機関内の様子を設計しているのであった。
そして最後に、そんな気配りと同じくして右側の『屋内プール』と『道場』の間を進み、階段を下った先に構える『屋外競技場』にも、もう一歩奥に踏み込んだ生徒想いな空間が用意されていた。
広大な土地だからこそできる、遊び心を取り入れた贅沢というものだろう。
その場には、運動会や全生徒が体育で用いる全面土の場所と、体育祭や陸上部が用いる競技用の芝生とタータンで作られた場所、さらには一般開放までしている『屋外プール』なども設置されていた。
また階段側から見て左の方には大きな駐車場や駐輪場、奥には恐らく部員たちに用意されたであろう立派な部室らしき建物。
そして極めつけにはこれら野外競技場までを一括りにした銀葉歓の敷地をぐるっと囲むような形で、テニスコート、サッカーコート、野球場など、特定の部活専用の競技スペースまで用意されているのであった。
ならばこそ、これから青春を謳歌する学生たちにとっては、文武両道に優れた設備が用意されているということになる。
巡り巡った気遣いとは、いったいどれほどの価値観を有するものなのかは知れないが、だがこれだけの場所を作り上げるとなれば当然苦痛に思う者はいないであろうし、教導機関が...ではなく銀葉歓が人気になる理由にも頷ける。
と、これが真に生徒のことを思う心にして、この学び舎を作るに際して込められた教育者の信念を体現した場所の概要、というものであった。
そして話は、裏人の内情へと続いていく。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
これまでの長い人生から見れば、直前まで続いていたといえよう、百咲 愛悠が絡んだあの『強烈な事件』すら、簡単に塗り替えてしまうほどの愉楽を孕む内心。
この場の景色から建物の清潔感に立派な見た目、内装、施設、おいしい空気と、まるで学校とは思えない雰囲気が、そのすべてを後押ししてくれるかのように様々な思いを抱かせてくれる。
そんな喜ばしさに包まれた裏人の面構えを目前で捉えている玄藤重は、何との損な役回りか。
心配や危惧の想いを浮かべたとて、彼が寂しさや遣る瀬無さで打ちひしがれているなんて事実は、全くもって皆無なのだから。
それどころかこれからの行く末を謳歌せざるを得ない光景を見せられたことにより、限界集落に暮らしていた反動で嬉しさが爆発してしまっている。
すると途端に、内情は過去の記憶を引きずるどころか忘却してしまったかのように軽々しいものへと変わっていった。
そしてそういった事実から裏人は、瞬時に顔を覗かせた「思考を放棄したい」と思わせてくる欲求に身を委ねることで心地よさに浸り、呆気にとられたような表情を浮かべるまでに至ったのであった。
これが玄藤重教員が心配の念を抱き続け、尚且つ損をしてしまっている、嘘偽りない裏人の現状での本心、というものである。
心の整理がついていない状態で新天地での緊張感を味わい、想像以上のストレスを感じてしまっているのではと、よく言えば優しさにも思えるこの過剰な思考が、足蹴にされるほど無意味な気遣いであることにも気付けずに―――――
「―――――それじゃ、今から教室まで案内するからな、ついてこいよ。」
「...はい―――――」
「...どうした、ぼーっとして。
やっぱり、どっか悪いところあるんじゃないのか?」
「あぁいえ、それは...大丈夫です。」
「そ、そうか...。」―――――
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「―――――なぁ、鈴鹿。
怒りはしないからきちんと答えてほしいんだが...どこまで聞いていた、俺の説明。」
「えッ...あの、ちゃんと聞いてましたよ。」
「そ、そうか...。
なんか...あー、やっぱあれだよな!
緊張するよな、転入って。」
「はい。」
「まぁ、担任は俺だからな、分からんことは何でも聞けよ?」
「ありがとうございます。」
「おうッ!
......―――――。」
移動を始めて十数分後。
今は裏人を連れて、『第二屋舎』の中へと移っている。
先の地図を使って説明するなら、『本屋舎』の職員室で話をした後、裏側から出て『食堂』の隣を通り過ぎ、『第二体育館』まで辿り着くと左折して突き当りに見える建物まで進んできていた。
その最中では、もちろんのこと移り行く周囲の風景などを目にするのだが、そこへ姿を見せる当事者としての裏人の様子は反比例して変化しないどころか、逆の意味で深くなっているような雰囲気を漂わせている。
玄藤重的に言うと、これまでにも増して緊張感に圧し潰されそうになっている、というものだ。
何かを発することもなく、ただひたすらに呆けている様子を展開しては、窓の外へと視線を移したままため息を繰り返す。
そんな面持ちへと気遣いを浮かべるよう、玄藤重は教員人生の中で最もやり辛そうに裏人へと言葉をかけ、我に返ったかのような返答を彼から受け取る、といったむず痒い時間をその場で過ごすまでに陥っていた。
ワイワイと騒がしくしている休み時間の生徒たちが姿を見せていれば話は別だっただろうが、学生一人としていないこの場ではさらにその感情が息苦しさをも漂わせている。
面白い事や気の利いたことを言えればいいのだが、それでも言葉をミスれば今以上に死した空気が流れてしまうだろうと、どんどん追い込まれているかのようなそんな雰囲気の中で。
しかしこれらはもちろんのこと、玄藤重 執朗の杞憂であり、実際のところは喜びや高揚感に心打たれている、というのが裏人正しい心情であるところだった。
初めてこの街を訪れて、『本屋舎』の様子を目にしてからこの瞬間、三度目へと繋がる興奮を塗り替えるように湧き出た興奮で染められた感情。
そんなもう何度目ともなり、これ以上はないだろうと自分でも決めつけていた驚きの一つ上を行く衝撃を、今回もまた同様に受け取った裏人は、同じように言葉をなくして楽しんでいたのである。
それは、銀葉歓の内面を目にしたことにより、改めて実感したこの場所の凄さを感情の起伏として押し付けられたような、そんな印象から。
外観や玄藤重教員の説明だけでは到底知りえることのなかった、実際に目にして分かるような事実の数々。
その中でも一先ず、今回目にしたものとは通り過ぎて来た中庭の様子、であった。
大きく立地を用意された中庭は自然公園の様な面持ちを見せ、100人近くの子供が集まっても丸一日遊べるのではないかと思えるほどの景観を誇っていた。
芝生の瑞々しい鮮緑に続いて、簡易的な森や頭上を覆い隠す若々しい葉の天井が姿を現し、熱さに身を投じているこちらのことを手招きしているかのような雰囲気を漂わせている。
加えて景観を損ねることなく設置された梼や、湾曲して伸びる木の幹に見立てたベンチなどを拵え、休憩がてらに読書や睡眠を嗜むことも可能。
さらに、なぜか設けられている透き通った池の上には、人二人がギリギリすれ違える幅の入り組んで簡素な橋が架かっており、その無骨さたるや田舎ではよく見かけ、都会では物珍しい、自然をより身近に感じられるアスレチックらしき設備まで備えられていた。
高いと思えば足は竦み、それでも寝そべって手を伸ばせばギリギリ水に触れられるかどうかといったちょうどいい高低さを見せる、子供染みて楽し気な...何とも冒険心に塗れた遊具が。
そんな景色があるからこそその場は、燥ぎ回る初等部の子から、穏やかな場所を求める大学院の生徒までが一切の柵無い面持ちで、利用することのできる空間となっているのだった。
そしてそういった場面写に裏人は実際のところを知らずとも、いつかの笑い声が残っているかのようにキラキラ輝いて見える印象へそのような想像を重ね、先の衝撃に塗れた内情を浮かべるまでに至ったのであった。
周囲の巨大建造物から受ける圧迫感や窮屈さを感じさせない開放的な環境と、ストレスフリーな気遣いが何とも心地いい。
さらに、高等部以上の生徒が失った『童心』を、各個人が容易に取り戻すことまで出来る、美観との両立が図られた遊具の数々も素晴らしい。
そんな郷愁的で逸楽な心情を取り戻せるのも、設計者のやり様というものなのだろう。
そう、すでにやりすぎで「下品だ。」とも思える風景を目に、それでも裏人は本心から「後で遊びに行きたいな。」との素直な内情を露わにしてみせた。
そして、事実田舎を思い出しては冒険心を忘れていない自身の心を震わせる景観へと、更なる学生生活への期待を高めては「ふぅ。」と、幸福に満ちた空気を吐き切るのだった。
隣で「俺、緊張とは無縁の人生を歩んだからなぁ。」と今を大雑把に後悔し、自身のことを心配してくれている玄藤重教員の思いやりには、一切気が付ける様子なく。
「それじゃあ、まぁなんだ。
しっかりやれよ。」
「えッ、あ。
はい。」
「まずは挨拶な。
(パァンッッ)―――――。
大丈夫!」
いつの間にか着いていた、これからの学生生活を謳歌する教室の前。
窓の外に意識を取られていた裏人は、突如として玄藤重から掛けられた声に驚きを見せたが、すぐにその状況に気が付くと深呼吸を一つついた。
そしてまた、その様子を隣で覗いていた玄藤重から、一喝―――――
背中に気持ちのいい衝撃を受け取ると、スッとした胸をなでおろして教室の扉に手を伸ばす彼の指先までを視線で追っていった。
次に扉が開いたときは、もう後戻りすることは出来ない。
そんな現状に周囲を包んでいる静けさが、教室内で少しだけ漏れているクラスメイトの談笑とのコントラストで、より一層重々しく体に圧し掛かってくる心地を味わう。
とその瞬間、自分でも銀葉歓という場所の凄さに唖然とし、緊張などする暇がなかったと思っていた内情が、一瞬で強張っていくような視界の暗転を受け取る羽目になった。
(緊張、していたのか。)
どうやら気付かないうちにも気が張っていたのだと、改めてそう体感した裏人は、先に気が晴れた玄藤重教員からの一喝に増して、再度深呼吸を行った。
そうしてそのまま、扉が開かれていく音を耳にした。
静まり返る前の教室内に響く声が、空気感と共に廊下にいる二人の元へ運ばれてくる。
それがなぜか周囲の香りまでを変化させてしまったかのように、これからの学園生活への清々しさと、緊張感を模した重々しさを孕んだ風が全身を貫いていく気持ちに染められていく。
だがなんとなく、この緊張が心地いいと思えてしまうのは、いったいどの自分の心情なのだろうか。
今後を思う楽し気な自身と、緊張に追い詰められた苦しそうな自身と、しっかりしなければと思う格好つけたがりの自身と。
そんな、どれをとっても自分であることに変わりない内情と人格の中で、「ふぅ。」と未だ廊下で佇んだままクラスメイトに顔を見せず最後の深呼吸を行った裏人は、額に現れた嫌な汗をそっと拭った。
そしてすぐに覚悟を決めた表情を取り繕うと顔を上げ、すでに教壇で挨拶をしている玄藤重教員と目配せを行うと、そっと頷いて教室内へと足を踏み込んでいった。
余裕のある人物像は描けそうにない、そう田舎から出てきた身として都会人に見せかけようとしていた直前までの自分をぶっ飛ばしてやりたくも思う、と、羞恥の想いに染められながら―――――