霧子、猫派を探る
午前の長い就業時間が終わると昼休みであった。心の底から待ち遠しかった。霧子のパソコンのキーを叩く手が止まった。
そうはいっても、まずは、食べなければならぬ。
午後にも仕事は残っているのだ。空腹を抱えたままでは、やはり、仕事に支障をきたす。
霧子は、社食へ向かった。
今日は、何があるだろうか?
霧子の会社の社食、社員食堂の略であるが、なかなかどうして、充実していると、もっぱらの評判だった。
先輩によると、社長の食い道楽の影響だという話だった。
日替わりメニューは、メインが肉料理のAランチとメインが魚料理のBランチ。それ以外に麺類や丼物、オムライスやパスタが選べ、野菜不足を補うサラダメニューや、どうしても甘いものが食べたい時のためのデザートまであるのだ。
霧子はBランチを選択した。
昔から、肉か魚か、といわれると、魚派なのであった。
独り暮らしの今は、朝食はもっぱらトーストであるが、実家にいた頃は、母が和食党であったため、焼き鮭や目刺し、しらす干しと大根おろし、といったおかずの朝食を食べていた。
今日は、アジの塩焼きがメインであった。
具となる野菜多めの味噌汁に、ほうれん草のお浸し、里芋と人参とこんにゃくの煮物とご飯が付いていた。
オプションとして生卵や納豆の小鉢も取れるのだが、この後、猫派の集会に忍び寄る予定なので、臭いが気になるものは避けておきたい。
霧子は、窓際の席に座り、独り黙々と、Bランチを食した。
霧子は、Bランチを片付けると、さっさと席を立ち、トレーを所定の場所に返却して、社食を出た。
そして、一旦、自席に戻ると、引き出しからポーチを取り出し、トイレへと向かった。
歯を磨き、化粧を直す。
霧子は、それほど念入りに化粧を施す習慣はなかったので、短時間で終了となった。
さぁ、後は、時間が許す限り、といっても昼休み終了までであるが、猫派の集会の後ろを陣取って、情報収集を行うのだ。
霧子のミッションは開始されたのである。
霧子が所属する部署の入る部屋には、それぞれの席が並んでいるが、一角に、共用のソファーとテーブルが置かれたスペースがあり、そこで、新聞を読んだり、休憩中に雑談をしたりすることができるようになっている。
猫派の集会も、よくそこで行われているのだ。
スペースが既に占領されている場合は、立ったまま、集会が開かれるが、今日は、ソファーに座り込んだ猫派たちが、お互いのスマホを取り出して、感想を述べ合っていたのだった。
霧子は、新聞を読むふりをして、ソファーの隅っこの方に座る。
社会面を広げてはいるものの、字はまったくスルーの状態で、猫派の会話に聞き耳を立てる。
「あぁ、やっぱり、肉球は正義よね。」
「あのぷにぷには、神の最高傑作! うちの子の肉球のピンク色のきれいなことといったら……。」
「いやぁ、しかし耳も捨てがたい。あの耳の形状といい、動きといい、正に奇跡! 猫耳こそ神の造形美! うちのカニタマのイカ耳! 最高にイカしてると思わないかい?」
霧子は、猫派の発する言葉、一語一句を逃さぬように集中していたのだが、入ってくる言葉は、意味不明。
「日本語だよね? 単語は、日本語に聞こえるんだけど、内容がさっぱりだわ。」
霧子は、そのうち、新聞紙面の方から視線をちらちらと猫派に向けるようになっていた。
「何か、面白い記事でもあった?」
不意に声をかけられた霧子は、慌てる。
「え、あ、あの……。」
瞬間、社会面の下の方にあった『マタタビは猫の蚊よけに役立つ 有名科学雑誌に論文掲載』という題が目に入った。
「マタタビが、蚊を防ぐっていう研究をやってるところがあるみたいです。日本の……、えっと、岩手大と名古屋大が研究してて、サイエンス何とかっていう雑誌に論文が載ったそうです。」
霧子は、何とか読み取れた部分を口にする。
「あ、それ、ニュースで見たぞ。マタタビの成分、ネペタラクトールに防虫効果があるらしくって、蚊に刺されにくくなるらしい。」
「寝ぺタラ?」
「ネペタラクトール! そんでもって、猫がマタタビの葉に顔や頭をこすり付け、ネペタラクトールがくっつくと、幸福感や鎮痛効果をもたらす神経伝達物質のベータ・エンドルフィンの血中濃度が上昇するんだ。」
「うちの子、マタタビ酒豪なのよね。あんまり反応しないの。蚊に刺されやすいってことかしら?」
「うちのはぐでんぐでんになるよ。あ、動画があったはず。ちょっと待って。」
霧子は、呆気に取られ、情報収集どころではなくなった。
「蚊の予防にマタタビ……。」
猫の情報には違いないかもしれないが、そこじゃない、な感じだった。