お猫様、異空間にて爪を研ぐ
「現在、時間管理システムのエラーは解消され、当社のサービスも通常運用に戻っております。」
床の囲みの音声が説明を続ける。
「じゃあ、お猫様はどうなるの?」
床の囲みからは、暫しの沈黙が流れた。
「誠に申し訳ないのですが、返却をお受けすることはできないのです。しかし、こちらといたしましても、イレギュラーなケースとして、お客様にのみ、ご負担をおかけするわけには参りません。」
そう言い切ってから、提案をしてきたのだった。
「お客様のお部屋に、“異空間作成システム”を作動させます。そこは、“異空間”となりますので、ペット禁止の条項から逃れることが可能となります。」
霧子には、まったく理屈が分からなかった。
結局のところ、『宅配ネコサービス』は、霧子の借りている部屋の中に、お猫様専用の“異空間”を作り、そこで、お猫様に生活してもらえばよい、と言ってきたのだ。
「今なら、特別サービスとして送料無料・商品無料で、全ネコ垂涎の的、ネコの友、ネコ一直線のおやつ『ハローちゅ〇ちゅる』をお付けします。ネコ用トイレ、ネコ用ベッド、ネコ用給水器、ネコ用キャリーバッグ、キャットタワーに、ネコ草栽培セット、そのほか、ネコとの豊かな暮らしを応援するありとあらゆるグッズ、もちろんキャットフード関係もカリカリ・ネコ缶各種をすべて無料で提供させていただきます。」
こころなしか、床の囲みの音声の、息が上がっているように聞こえた気がした。
「どうか、お客様におかれましては、縁有ってのハプニングとご理解いただき、お届けしたネコとこれからも末永くお付き合いしていただけないでしょうか?」
どうやら、床の囲みからの音声は、最後に、泣き落としに出たようである。
その時、霧子は後ろの方から、不穏な音がしてくるのに気が付いた。
ガリッ、ガリガリッ。
「う、ちょっ、ちょっとぉ~。あぁ、その机は、私が小学生だったころから大事に使ってきた机なのよ! ひっ、酷い! いくらなんでも、酷すぎる!」
霧子は涙目になった。
「お、お客様? 早速ですが、“異空間作成システム”を作動させましょう。ネコのための“異空間”を設置しなければ、さらなる被害が生じる恐れがございます!」
床の囲みからの音声が、霧子の目前で繰り広げられている惨劇を察知して、提案してきた。
「は、早く、なんとかしてぇ~!」
霧子の声は、もはや悲鳴になっていた。
「それでは、簡易ネコ用異空間作成システム『ネコの国は近づいた』を作動させます。お客様は、お部屋の隅の方へ移動していただき、システムが停止するまで、じっとしていてくださいませ。あぁ、一時的にネコを収納する鍋を先に転送いたします。」
鍋? 霧子は、聞き間違いかと思ったが、床の囲みが光を発し、その光が消えると中央に、蓋のない土鍋が1つ現れた。
お猫様は、土鍋に飛び込み、そして丸くなったのだった。
そして、再び、床の囲みが光を発し、今度は部屋全体に光が広がっていった。やがて、光は静かに薄れていった。
「お客様。システムが停止いたしました。ネコ用異空間の作成成功です。」
しかし、霧子の目には、部屋の様子に変わったところなど、どこもないように見えた。
「お客様。まずは、お部屋の収納スペースの扉を『にゃんにゃんにゃん』と3回唱えてノックしてください。そして収納スペースの扉を開けますれば、ネコ用異空間に繋がります。」
霧子の部屋には、観音扉の付いた収納スペースと、押し入れがあった。
霧子は、ばかばかしいと思いつつも、観音扉の方を指示通りにノックをした。
「にゃんにゃんにゃん」
すると、観音扉の隙間から光が漏れてきた。
驚いて、扉を開けると、その中には10畳ほどの空間が広がっていた。
「中に入っていたものは、どこにいったの?」
床の囲みに向かって訊ねると、音声は、
「扉を閉めて、再び『にゃんにゃんにゃん』と3回唱えてノックしていただければ、もとの収納スペースに戻ります。」
と答えた。
試しに、ノックしてみると、収納スペースはもとに戻り、中には見知ったタオルやシーツなどが入っていたのだった。
霧子は、もう一度、ノックをする。
やはり、扉の隙間から光が漏れてきて、扉の向こうに異空間が戻ってきた。
「それでは、異空間の方に、ネコ用トイレ、ネコ用ベッド、爪研ぎ、給水器、キャットタワーをセットいたしましょう。」
音声がそう言ったと同時に、異空間に光が溢れた。
眩しさに、霧子は思わず手で顔を覆った。しかし、次第に光が弱まり、普通に目を開けることができるようになった。
異空間には、ネコの生活用品が並んでいたのだった。
呆気に取られた霧子をよそに、お猫様は、異空間へと侵入した。
ふんふんと、そこらじゅうを嗅ぎながら一周し、そして、爪研ぎを見つけると、嬉しそうにバリバリと音を立て始めたのだった。