霧子、メールを受け取る
霧子はいつもの時間に会社に到着した。
そして、ロッカールームで着替える。
霧子の職場は、指定の制服は無いものの、通勤の服装から動きやすい服装に着替えるのは、普通のことだった。
霧子は部署内の自分の席に着くと、パソコンを立ち上げてメール確認をした。
平日の朝のルーチンである。
メールの多くは、社内の業務連絡であるが、中に時々、個人的な連絡メールが紛れていることがある。
友人関係が希薄な霧子の場合、滅多にないのであるが、それでも女子の数には入れられているのか、合コンの誘いが来ることさえある。
しかし、今日、紛れていた個人的な連絡メールは違っていた。
それは、水際女史からのメールだったのだ。
霧子は、差出人の名を見て、一瞬、声を上げそうになった。が、寸でのところで、堪えることができた。
件名は、『先日の問い合わせの件に関して』であった。
霧子は思わず深呼吸をした。
そして、メールをクリックした。
霧子は、その内容を見て仰天した。とんでもないことが書かれてあったのだ。
まだ、始業時刻まで、時間はある。
霧子は、慌てて部署を飛び出し、経理部の部屋へと半分走って向かったのだった。
経理部の部屋の前に辿り着いた霧子は、扉をノックし、中に飛び込んだ。
奥の方へと向かうと、自席で優雅にミルクティーを飲みながらメール確認をしていた水際女史と目が合った。
浅めのウェリントン眼鏡にひっつめ髪、隙の欠片も無いタイトスカート&スーツ。高すぎず低すぎないヒールのパンプス。
いつもながら、完璧である。
「お、おはようございます。」
霧子は、呼吸を整えつつ、挨拶を絞り出す。
「おはようございます。廊下は走ってはいけませんよ。よろしくて?」
水際女史は、ゆったりと答えた。眼鏡がキラんと光った。
「え、と、すみません。で、いただいたメールの件なのですが……。」
霧子は、どう切り出したらよいものか、考えが纏まっていなかった。が、水際女史には、“メール”の単語のみで、十分に通じたようだった。
「ごめんなさいね。あなたの借りている部屋、わたくしの叔母の所有する物件だと気付いてしまったの。叔母はアレルギー持ちでね。たぶん、物件も、ペット禁止になっているんじゃないかと思うの。」
どうして借りている部屋の情報が水際女史のもとに届いたのかは分からないが、これはピンチである。大ピンチだ。
「あ、あの……。やはり、ペット禁止の部屋で……。」
霧子は言葉が続けられない。脚が、かたかた震え出したのが分かる。
「心配しなくていいわ。実はね、叔母から私へ、生前相続の話が持ち上がっているの。と言うか、もう、ほとんど手続きは進んでいるのよね。だから、そのままで構わないわ。」
“そのままで構わない”という部分だけが、やけにはっきりと聞こえた。
「その代わり、あなたの預かった猫ちゃん。黒猫ちゃんだって言っていたわよね。逢わせてもらえるかしら?」
水際女史の言葉は、疑問形であったが、命令に等しかった。眼鏡がキラんと光った。
霧子はこくこくと、壊れたおもちゃのように頷いた。
とりあえず、ピンチは去ったようだ。
いや、今度は、別のピンチではないか?
水際女史に、お猫様の異空間を知られてしまったら、どうなるのか?
霧子は、始業前から、頭が痛くなってきた。
水際女史は、そんな霧子をよそに、「相続後は、猫共生住宅に改造しようと思うの。素敵でしょ? あなたも、そう思わなくって?」などと宣った。
霧子は、またしても、面倒ごとに巻き込まれたようなのだった。




