お猫様、霧子にアイコンタクトを試みる
お猫様と霧子を乗せたタクシーは、A動物病院の駐車場で停まった。
「お忘れ物、ありませんように。お猫様ちゃん、定期健診で問題ありませんように。頑張ってね。お猫様ちゃん。」
タクシー運転手は、霧子よりも、お猫様に対して気遣いを見せた。猫タクシーだったのかもしれぬ。
霧子は、生まれて初めての動物病院訪問に、少しばかり、心構えが必要だった。深呼吸をした。
そして、お猫様の入ったキャリーバッグを持つ手に力をこめ、正面のドアから中に入ったのだった。
待合室には、既に、キャリーバッグを持ち込んだ何人かが長椅子に座っており、リードに繋がれた犬もいた。
緩やかなBGMが流れる待合室。
しかし、微妙な緊張感がその場を支配していたのだった。
「初めての受診なのですが。」
霧子は受付に声をかける。
「猫ちゃんですか?」
受付の若いスタッフは、霧子の持つキャリーバッグを見て訊ねた。
「はい。推定1歳で、ワクチンと避妊手術は済んでいるようです。前の飼い主がその、ちょっと……。私が引き受けることになったのです。」
まさか、130年後の未来から転送されてきた、とは言えない。
「では、こちらの用紙に記入をお願いします。」
霧子は、用紙を受け取って、待合室の隅の机のところに移動して記入をする。机の近くには、薄い冊子状のパンフレットが何種類か並べられた棚があり、「ご自由にお持ちください」と表示されていた。
霧子は1冊手に取ってみた。それは、所謂、ノラ猫の保護活動についてのパンフレットだった。
霧子は、手にしたパンフレットを鞄に入れ、記入が終わった用紙を受付に持っていった。
「では、順番が来ましたらお呼びします。え~と、お、お猫様ちゃん、でよろしいのですか?」
受付のスタッフは、ちょっとだけ、動揺を見せた。が、プロである。すぐに態勢を戻して、霧子に注意事項を告げた。
「病院が初めてということで、分からないこともあるかと存じます。何かあったら、遠慮なく声をかけてください。あと、感染症が疑われる、例えば、熱があるとか、目やにが増えたとか、そういった症状は出ていませんか? もし、そういう症状があるようでしたら、お申し出ください。」
霧子は、スタッフに、お猫様を引き受けることになって、定期健診的な受診が必要だと知人から聞いたので来院したのだと、説明した。
「なるほど分かりました。猫ちゃんに詳しいお知り合いがいるのですね。」
スタッフは、にっこりと笑顔で、霧子に長椅子の方を勧めた。
「ワンちゃんの近くは避けた方が良いかもしれません。猫ちゃんは緊張するみたいなので。あまり落ち着かない様子でしたら、優しく声をかけてあげてくださいね。」
霧子は頷いて、お猫様と一緒に移動した。
長椅子に腰かけ、膝の上にキャリーバッグを乗せ、両手で抱えた。
キャリーバッグは、上の方が外れるタイプだ。隙間からお猫様の様子が見える。お猫様と目が合った。
「な、にゃう。」
お猫様は洗濯ネット越しに、霧子の顔を確認した。
普段の環境と違う、ということは、お猫様の野生の部分が鋭く感知していたが、見知った顔がそこにあったことで、落ち着きを取り戻した。
お猫様は、霧子に、早く帰りたい、という意思を目でもって伝えようとした。
お猫様のまん丸の緑の目は、霧子をまっすぐに見る。伝われ! という意思を持って。
しかし、残念なことに、霧子は、その真意を理解することができなかった。
「お猫様、おとなしくしててね。」
霧子は、甚だ残念な対応をしてみせたのだった。




