1.プロローグ(1)
???視点です。
夜の帳が下りる。
星も月もない、空一面が悲しい闇に塗りつぶされるそんな日は、いつもは平気なのに心にぽっかり穴が開いたような気持ちになる。
そんなとき、おれはあえて空を見上げる。その空にあたたかい金色の光が昇るまで見続けるのだ。
誰もいない広すぎる部屋を出て、バルコニーから闇色の空を見る。
いつもとなにひとつ変わらない。
しかし、その日はいつもとは…いや、この日を境におれの日常は変貌した。
「やっと…会えた」
「え?」
おれ一人しかいないはずの部屋。それだというのに背後から女性の声がした。
驚き振り返れば、そこには銀色の長い髪に淡い紫色の瞳の女性がいた。
息を呑むほど美しいその人は悲痛そうに顔をゆがめる。が、それは一瞬のこと。
女性はなにかを決心したようにうなずくやいなや、おれの手をとり、バルコニーから飛び降りたのだ。
「はっ!?ちょ…」
「黙って」
「はあ!?」
黙れだなんて無茶を言うな。
城の最上階におれの部屋はある。
測ったことはないが、おそらく地上から300mはある。落ちたら絶対に死ぬという高さから飛び降りている現在、叫ばないでいられる方がおかしい。
みるみると近づく地面に恐怖を抱く一方で、女性は怯むことなく落下するおれを抱きかかえ、そして地面に着地した。
……い、生きてた。
しかし死ななかったことに安堵する間もなく、彼女はおれを地に降ろすと走り出した。…おれの手をつかんで。
「ま、待て!あんたは誰だ?なんでおれの手をひっぱって走って…」
「あとで説明する」
豪華絢爛の装飾に縁どられた城内も闇夜の中ではその輝きをひそめる。
走って、走って、走って。
父のいいつけを破り部屋から出てしまったことに怯える一方で、いつもは自由に歩き回ることが叶わない城の中にいるということに、内心おれは高揚していた。
だがその高揚も次の瞬間には動揺へと姿を変える。
ようやく女性が歩みを止めたのは地面にぽっかりと開いた穴の前。
この穴をおれは知っていた。
「な、なんでここに?」
「……。」
精霊界から人間界へ通じる道は限られている。
それは門のような形をしているものもあれば、扉の形のものもある、そしてなんのへんてつもない穴であることもある。
目の前にあるこの穴は、精霊界から人間界へと通じる道の一つであった。
思わず後ずさる。
そこで女性はようやくおれと向き合った。
彼女の淡い紫色の瞳がまっすぐおれに向けられる。女性は言い聞かせるようにおれの肩に手を置いた。
「時間がないから口頭で説明する。あなたはこれからこの穴を通って精霊界を出るの。そして人間界で暮らすのよ。いい?」
「は……?」
唐突すぎて理解ができなかった。
この人はなにを言っている?
人間界に知り合いなんて一人もいない。そんなおれにここを出て、一人で生きろと?
さらに一歩。自分でも気づかぬうちに、後ずさっていた。
いままでずっと一人で生きてきた。ここでも人間界でも、きっと一人で生きることには変わらない。
だけれどもここでは身分がおれを守ってくれた。…しかし、人間界にはそんなもの一つもないのだ。
無理だ。
おれは首をふる。
が、女性はそれを許さない。
「だめ。あんたはここを出て行くのっ!そうではないと…あなたは……っ」
女性は言いかけたところで何かに気づいたらしい。
険しい表情で後ろを振りむいた。
「……セイラ。お前はどこまで私を困らせる。約束も破って…」
「…っ。ほんとうにどこまでも私を追いかけて…忌々しい。だいいち、さきに約束を破ったのはお前の方だろ!」
女性の視線の先にいたのは、白い軍服を身にまとった端正な顔立ちの男性。
特徴的な涙ぼくろに夕日色の長髪、感情の読めない灰色の瞳のその人は、我らが精霊界の王であった。
おれであっても月に数回会えるかどうかの人物が、護衛もつけずに目の前にいることに驚きが隠せない。
どうしてこの人がこんなところに。
「今もどってくるならこのことは不問にする。さあ、こちらへ来い」
そんなおれには見向きもせず、王は女性に向かって手を伸ばす。
が、女性は彼を一瞥するとおれに向かってやさしく微笑んだ。
「大丈夫。私があんたを守るから」
「え…?」
あたたかい笑顔に胸が苦しくなった直後、チッと舌打ちの音が聞こえる。
それは精霊王の方から聞こえた。
「……それがお前の答えか。はぁ」
王がため息交じりにそう呟いたところで、おれはとうとう堪えられなくなった。
「ち、父上。これはどういうことですかっ!?」
たまらず王に向けて言葉を発する。
しかしその人はなにも答えず、代わりに絡み取るような魔力をおれと女性に向けた。
息がつまる。その場にひれ伏しそうになる。
そのときだ。
『時の精霊、セイラの名のもとに。古の禁忌の名を持つ魔法よ、我が願いを聞き入れたまえ』
女性の全身が一瞬、淡い紫色に光った。
今のは魔法?だけれども…禁忌の名を持つ魔法とは!?
だがそのことに驚くひまはなかった。
突如おれの体が濃い紫色の光につつまれたのだ。
なんだこれは!?
恐怖と不安の中、光に包まれる体がミシミシと音を立てて変形していく。だけどおれにはどうすることもできない。
気が付けばおれは黒い鳥の姿になっていた。
「元気でね。あなたを愛しているわ。……っ生きて!」
『ル…!?』
女性は鳥の姿になってしまったおれをやさしく抱きしめた後、一切の躊躇もなく穴へと落とした。
重力に逆らえずおれの体は下降していく。
鳥だから飛べるはずなのに、飛び方がわからない。
どんどん小さくなっていく女性と王の姿。
女性が王に腕を捕まれながら叫んでいた。
「私はあんな未来認めないっ。どんなことをしてでも、あの子たちを救う。私が運命を変えてやるっ」
遠のいていく声を聞きながらおれは思い出していた。
あの女性がおれを抱きしめたとき。
手を引いて走ったとき。
おれに触れたあの人の手は……やさしく、あたたかった。
会ったことはきっと一度もなかった。
でもすぐにわかった。
あの銀色の髪の女性がおれの母親だ。
どうして今まで会えなかったのか。会ってくれなかったのか。会いたかったとか。言いたいことはいっぱいある。
でも、いい。
あの人がおれのことを愛しているのは、大切に思ってくれているのは、おれに触れたやさしくあたたかい手からものすごく伝わったから。
だけど欲を言うなら。
もっと母さんといっしょにいたかった。
人間界に一人おれをおとさないで、一緒に暮らしたかった。母さんが一緒ならどこであろうと、幸せだったのに。どうしておれ一人を精霊界から追放し人間界におろしたのか教えて欲しかった。
目の前が揺らいではじめてこぼれた透明な水滴は、おれをあざ笑うかのように上へと上がる。天空のその先にある、この先一生戻ることができないであろう精霊界の方へと上昇していった。
それが2年半前の日の出来事だった。
////////★
人間界に落とされてからはひどい目にあってきた。
人にだまされ、痛めつけられ、逃げる日々。
食料を買うための金を探せば奪われ、盗もうとすれば殴られ、しかたなくゴミ箱をあさっていれば石を投げられた。
戦での不安や不満、鬱憤を晴らすためだけに殴り蹴られるのは常であった。
自身の不安を弱者を痛めつけることで解消する人間のなんと愚かなことか。
精霊もクソだが人間も最悪だ。
そんな生活を続け1年が経過した辺りか、猫の仮面をつけたガキがおれの前に現れた。
今までのごろつきどもとは比にならないくらいの殺気を含んだそのガキの目的はすぐにわかった。
そいつは精霊だった。つまりその猫の仮面のガキはおれを殺しに…もしくは連れ戻しに来た。おそらく、王の命令で。
いいことなんて一つもない。
そこからおれの逃亡の日々がはじまる。
猫から逃げて、逃げて、逃げて。
どうしておれがこんな目に遭うのかと何度も思った。そのうち、もうどうなったっていいとさえ思うようになる。
猫に捕まり、殺されるなり精霊界に連れ戻されるなりしてもいいじゃないか、と。
だけれどもそんなことを思うたびに母の言葉が頭の中で反芻されるのだ。
『元気でね。あなたを愛しているわ。……っ生きて!』
苦しそうな母の声。
全然元気なんかじゃないし、生きたいなんて思っていない。生きる意味を見出せない。
しかしおれのことを愛していると言った母の、おれに生きてほしいという願いを諦めたくないと思った。
だからおれは逃げた。
自分のためではなく、母の願いに応えるために。
だがいつまでも逃げ続けることはできなかった。
逃げて1年ほどたったあたりか、とうとうおれは猫の放った魔法に当たり翼に傷を負ってしまった。鋭い針の形状をした魔法。翼に刺さったこの針は、おれの手…翼では抜くことがかなわない。
ちょうど猫を撒いたと同時に傷を負ったから捕まることはなかったが、このまま逃走をし続けることは難しかった。翼に怪我を負っては空を飛び逃げることができない。
どうしたものかと考えているなかで、おれは光に包まれた森を見つけた。
聖なる光を感じる膜に覆われた森。
おれはそこで体を休めることにした。
光の膜が身を隠す手伝いをしてくれるのか、それとも別の理由からなのか、猫は追ってこなかった。そのことに安堵する。が、あくまで追手が来ないということに安心するだけ。
加護のある森でも安心して身を休めることはできなかった。
ここは安全な場所という訳ではない。
森に住む動物にはそれぞれ縄張りがあり、相手の縄張りに入れば問答無用で威嚇もしくは制裁を加えられる。
なにより森の中心近くにはおれの天敵である人間…しかもガキがたくさんいた。
ガキは嫌いだ。大嫌いだ。無邪気な顔でおれの羽をむしろうとする。翼を折ろうとする。足を引き抜こうとする。何を考えているか理解できない。大っ嫌いだ。
絶対にここには近づかないようにしよう。
孤児院でいい布団になりそうな教科書だけ盗み、おれはようやく見つけた誰の縄張りでもない場所で休息した。
しかしおれの安息もすぐに終わる。
腹を空かせた様子の熊が目の前に現われたのだ。
翼の傷はまだ治らない。治らない理由は、まあ単純に猫の魔法が刺さったままだからなのだが。
とにかくおれはその場から逃げることができなかった。逃げるすべがなかった。
おれの人生もこれまでか。
脳裏に母の姿が浮かび、罪悪感を抱く。
しかし心のどこかでおれはほっとしていた。ようやくこの苦しいだけの人生を終えることができる。よかった、と。
が、おれの人生はまだ終わらなかった。終えさせてはもらえなかった。
一人の少女が空から降ってきたのだ。
「今、助けてあげるからね」
鈴がなるような声だった。
だがいくら心地の良い声だろうが関係ない。
おれはおれの求めていた、やっと手に入りそうだった安息を奪ったそのガキを憎んだ。
善意を押し付けてくる人間は嫌いだ。理不尽におれを痛めつける大人よりも、考えの読めないガキよりも、なによりも嫌いだ!
その喉笛をくちばしで突き刺してやる。
そう思った。そう、決めたのに。そのガキを見た瞬間、おれは言葉も思考も失っていた。
太陽に照らされ輝く金色の髪に、宝石のように煌めく翡翠色の瞳。そして力強い意思を感じられる、思わず見惚れしてしまう美しいその顔。
自分とたいして年も変わらない…おそらく同い年なのに、そのガキを見て、おれは女神が舞い降りたのかと思ってしまった。
少女はおれの座っていた本ごとおれを抱え、その場を去る。
揺れる振動でおれの意識はすぐに現実に引き戻された。
女神など、おれはなにをバカなことを。
こいつは忌々しい人間のガキだ。そんな人間に助けられるなんて屈辱でしかない。それにやっとこの苦しみから解放されると思ったのに。余計なことをしやがって。
それにガキは油断ならない。
熊のいなくなった先で豹変し、おれの羽をむしるかもしれない。ガキはなにを考えているのかわからないからなっ。
しかし悪態をつくものの不思議とおれは少女に抱えられ逃げるこの状況が嫌だとは思わなかった。
なぜだろう。その女の胸元から、うっすらと母の匂いがした気がしたからか。
まあ気にくわないことには変わりないので、熊からだいぶ離れたところでそのガキの腕は思い切り突いてやったが。
さて、ふつうのガキであれば、ここでおれに恐れをなし逃げるところだ。
だが女は頭が残念なのかおれに名前を付けると言い始めた。ガキの考えることはほんとうにわからない。いや、ちがうな。そもそもの話、この女の考えていることはふつうのガキとは違う気がするぞ?
さらなる不安を感じたときだ。
「あ!そうだ!ルーって名前にしよう!」
『ル、ルー!?(ル、ルーだと!?)』
ガキがおれに名を付けた。
なんだその安直でひねりのない名前は。センスなさすぎるだろ。
おれは恐怖に震える。
この女はやばい。今まであった誰よりも危険なにおいがする。
「よろしくね~、ルー」
『ルーっ!(誰が仲良くするか!)』
おれは渾身の力でガキの手を突く。
なのに、女は突かれて痛いはずなのに、不気味に笑い始めたのだ。
「ふふ…ハハハ!アオ兄ちゃん、ジーク、エミリア!私は見つけたわよ!私を好いてくれるであろう、かわいい動物を!」
『ル、ルー!?(おい、こいつ頭沸いてんのか!?)』
やばい。こいつはガチでやばい。
そのあとも私の教科書盗んだの?だとか(お前のだったのかよ)言われたのでとりあえず腕を突いたが、結局そいつはおれが天邪鬼だと決めつけ(どうしてそうなった。俺が天邪鬼なわけないだろ)さびついた笑みを浮かべる。
ああ、こいつはガチでやばいやつだな。
恐れをなしたおれは逃げようと羽をはばたかせた。そうしたら左の翼に鋭い痛みが走った。
そうだ。あの猫のせいで翼を痛めていたことを忘れていた。
これでは逃げられないじゃないか。
舌打ちをしかけたときだ。
「左側の翼の動きが…鈍い?」
ガキに気づかれた。
女はそのままおれのケガをしている側の羽に向かって手を伸ばしてくる。
正直に言おう。
おれはこのとき、人生で一番の恐怖を感じた。
いままでさんざんな目に会ってきたが、このときほど恐怖したことはないだろう。
こいつはやばいやつだ。なにをされる?羽をむしられる?傷口をえぐられる?食われる?
女の手を突き必死の抵抗をするが、ついに女の手はおれの翼に触れた。
おれもこれまでか。熊に食われそうになったときはそうでもなかったのに。おれは絶望と恐怖の中、自分の死を覚悟した。
しかし、おれは死ななかった。
その女はあたたかい手で、おれの翼にやさしく触れるだけだったのだ。
は?
戸惑った。困惑した。
「大丈夫だよ。今助けてあげるから」
『ルー(なにを言って……)』
女はそれからおれに傷に効く薬草を教え、傷の手当てをした。
そうしておれが回復するまで面倒を見てやると言ったのだ。自分のために私から知識を奪え、と太陽のように笑った。
こんなのはじめてだった。
意味が分からない。理解できない。
得体のしれない不気味なガキ。
それがおれとリディアの不思議な関係のはじまりだった。




