97.セイラ・ノルディー(3)
人生の転機とは唐突に訪れるものだ。
エリアスの婚約者となってから早いことでもう3年もの月日が経とうとしていた。
10歳になった私は王妃教育に本腰を入れる羽目になり、エリアスの婚約者となったことを後悔する日々を送っていた。
「お前のせいで毎日嫌なことばかり!大好きな本も読めない!どう責任を取るつもり!?」
「結婚して責任を取る」
「ふ・ざ・け・な・い・で!」
「そんなことよりも、ここを教えろ。5000年前、なぜ破滅の一途を辿っていた春の国は持ち直した?どれだけ文献をあさっても決定的な理由が見つからない」
「あぁ、それね。実は私にもわからなくて、奇跡としか言いようがないというか…」
そう。たしかに後悔はしていたけれど、同じくらいに充実した日々は送っていたと思う。
きっと私たちはこんな関係のまま大人になって、お互い別に好きでもないのに結婚して、子を生して、国政の傍ら本を読んで議論をして、天寿を全うして死ぬ。
そうなると思っていたし、そんな人生に不満はなかった。
だから、
「セ、セイラ様!お気を確かに、聞いてください…」
青ざめた顔でメイドが図書館に駆け込んだ時は、まさか
「テロです。セイラ様が朝おっしゃっていた知の一族全員が集まる会合。その会場で爆発が起き、生存者は今のところ…1人もいません」
一族のみんなが死んだなんて、信じられなかった。
たぶんエリアスが震える私の手を握り締めてくれていた。でもあったかいとも、冷たいとも思わず、私の頭はただただ真っ白だった。
ただ一つわかったことは、胸元にある守り石が光ったことだけ。
淡い紫色の光が、チカ、チカ、チカと3回点滅する。
これは知の一族が治める図書館の鍵が――当主の証が、私に継承されたことを意味していた。私は王家へ嫁ぐ身だ。だから遠い親戚も含めた当主の継承順位は最下位だった。
その私が当主の証を得た。
「…そう。もうほんとに、私以外に知の一族はいないのね」
崩れ落ちる体を支えたのは、エリアスだったか、それともメイドだったか。
家族が死んでも涙は出なかった。
薄情な娘だと自嘲し、葬式が終わったその日から私は図書館に籠った。朝から晩まで睡眠も食事も一切取らず、貪るように書物を読む。
知の一族が長きに渡り守ってきた膨大な知識。
それを守る者が10歳の少女のみとなった途端、やつらは手のひらを返した。
貴重な書物を、鍵を、権力を渡せと脅してくる大人の悪意。知の一族の唯一の生き残りである私を王子の婚約者のまま据え置くのはどうかと、自分の娘を婚約者にするべきだと訴える権力に目がくらんだ醜い化け物ども。これを好機と捉えて嫌がらせを激化させてきたガキ。
目を閉じ、耳を塞ぎ、叫びたくなった。
今はなにも考えずに、本だけを読みたかった。
図書館に籠ってから、いったい何日が過ぎただろうか。
ようやく私は図書館にねむっていたすべての本を読破した。図書館の知識はすべて、私の脳内にある。
だから、
「今までありがとう。そしてさようなら。みんな大好きよ」
この図書館は、知識を歴史を過ちを記したこの書物たちは、もう必要ない。
悪人の手に渡るくらいなら今ここで、すべて灰にしてしまおう。
私は図書館に火を放った。
壁が床が燃える。2階へと続く階段が、地下へと続く扉が、本棚が、本が燃える。私は一人、燃える図書館の中に佇んでいた。
「外が騒がしいわね…」
開くことのない図書館の扉の向こうから聞こえる、大人たちの慌てふためく声。
歴史ある、価値ある図書館が燃えているのだ。馬鹿どもが騒ぐのは当たり前か。
なんだか哀れで私は笑ってしまう。
だってあいつらはただ騒ぐことしかできない。誰もこの書物たちを救い出すことはできないんですもの。
図書館の扉の鍵を持っているのは知の一族の当主となった私だけ。私が許した者でなければこの図書館に足を踏み入れることはできない。
火を水で消そうとしても無駄。これは簡単には消せない古の炎。この炎は私の魔力が尽きるまで燃え続ける。
「ゲホッ…ふふ、もうすぐ私も死ぬ、わね」
術者である私に炎は効かないけれど、辺りに充満した黒い煙は容赦なく私を殺しに来る。
笑ったせいでかなり煙を吸い込んでしまったようだ。目の前が霞んできて、私の体はその場に崩れ落ちた。
ガシャンッ
「っぁ、な、なに!?」
意識を失ってからどれだけ時間が経過したのだろうか。無理やり扉を開けたような音に、意識が浮上する。誰か…入ってきた?
確認するべく起き上がろうとして、手に力を入れた。けれど…
「ふ、ふふ…」
笑ってしまった。
だって自分には体を起こす力以前に、手を動かす力すらなくなっていて。このまま私は死ぬのだとわかったから。
よかった。あと少しで大嫌いな世界とお別れできる。
私は安堵の息を吐いた。私はこの図書館で大好きな書物と一緒に死ぬつもりだった。
知の一族が治めてきた図書館を守る。それは知の一族、最後の一人である私の責務だ。
だから私は書物を燃やし、この図書館の知識すべてを得た自分も殺す。すべては悪人からこの神聖なる図書館を守るために。
それが知の一族の長たる者の義務であり、使命であり。そしてなにより、セイラ・ノルディーの本望だからだ。
この世に未練はない。あるわけがない。
生きる意味とも言えた大好きな書物はすべて読み終えてしまったし、このまま私と一緒に燃えてなくなる。このまま生き続けることのほうが苦痛だった。
ただ一つ。心残りがあるとすれば、
「お前を一人にしてしまうわね…」
脳裏に浮かんだのはエリアスの顔だった。
エリアスは私と同じだ。
私もエリアスもこの世界が嫌い。精霊が嫌い。人間が嫌い。動物が、植物が、生きとし生けるものすべて、空も、海も、なにもかもが嫌い。
エリアスはうまく取り繕っているつもりなのだろうし、現に周囲の者達は彼に騙されている。だけどこの3年間、エリアスの隣にいた私は知っている。
お前の瞳にはなにも映っていない。
感情の見えない、虚ろな瞳。笑っていても、にらんでも、怒っても。お前の瞳はいつも雄弁に語っているわ、ああ退屈だ、どうでもいい、とね。私も一緒よ。
私たちは似た者同士。エリアスも私も血に縛られて、どんなにあがいても自由は手に入らない。それを理解しているから、物心ついたときにはもうこの世界が大嫌いだった。
ねぇエリアス、お前もそう思っているんでしょう?
だからお前は私を婚約者に選んだし、私もそれを受け入れた。
だから…だから、お前を一人、この生きる意味を見出せない世界に置いていってしまうことを申し訳なく思う。
ただ、申し訳なく思うだけよ。
私はこの世界が嫌い。なにもかもが嫌い。もちろんエリアス、お前のことも嫌い。そして今、大嫌いなもので溢れるこの世界とお別れできる正当な理由が見つかった。知の一族の義務としてこの図書館と共に死ぬという理由がね。ここまでお膳立てしてもらって、死を選ばないわけにはいかないでしょ?
だから私はエリアスを置いて一人で逝く。
「エリアス、許してよ…ね」
形だけ謝って、私は目を閉じた。
「許さない」
その声は私の頭上から聞こえた。
この3年間何度も聞いたその声に私は舌打ちをする。
「エリアス……」
目を開ければ、そこには私を見下ろすエリアスの姿があった。
私以外は誰も入ることができない図書館。だけど、ただ一人。ええそうね、エリアス、お前なら入ることができたわ。
不覚だ。図書館に籠らせてくれとエリアスに頼んだ時、「おれも自由に図書館に出入りできるようにしろ。それなら許す」と彼は言った。馬鹿な私は、何も考えずにお前に当主の許しを与えてしまった。
さっき図書館に入って来たのは、お前だったのか。
だとしても。なぜお前はここにきた?まさか私を助けに来たの?
問いただしたいのに、肺がやられてうまく声が出ない。
エリアスは苛立っているのか、乱暴に私を横抱きにした。
「…っ離、せ。このまま死なせろ」
「……。」
黙ったまま出口に歩き始めるエリアスの胸を、ドンドンと叩く。
「私は、この世界が嫌い。愛せない。本も燃やして、しまったわ。もう生きたくないのっ」
「……。」
エリアスはなにも答えない。ただ出口に向かって歩くだけ。
クソッ。クソッ。クソッ。
「お前なら、わかるでしょ!?」
悔しくて涙が出た。
「私は、自由になりたいのっ」
一族の血は私を縛る。
もう限界なの。この世は美しくない。醜いもので溢れかえっている。
妬み、恨み、憎しみ。悪意が、黒い感情が形を持った凶器となり、生きる者たちを傷つける。そんな世界を、どうやったら好きになれる?どうして私はこんな世界で生きていかなければならないの?
こんなところ大嫌い。逃げ出したい。だけどできない。血が私を縛り付けるから。義務、責任、運命。そんなの知らない。聞きたくない。
私は望んで、精霊として、知の一族として生まれたわけじゃない!
父様も母様も、兄様も。おじい様も、叔母様も、みんなみんなずるい!私だってこんな血から解放されたいのに。自由になりたいのにっ。
どうして私だけを置いて逝ってしまったの!?
「だから、お願い。死なせ……」
「お前だけ逃げるなんて、許さないっ」
「……ぇ?」
私の言葉を遮ったエリアスの声は、今までに聞いたことがないくらいに荒立たしくて。
その真実に血の気が引いた。嫌な、予感がした。エリアスの顔が見れない。見たくない。
それは私が望まないこと。一番、望んでいないことだから。
いやだ。これ以上、私に絶望を与えないでっ。
だが現実は無情だ。
燃えさかる図書館を出たエリアスは草原に私を降ろすと、私の顎を掴み無理やり自分の顔を見させる。
涙が頬を伝って零れ落ちた。
「…っ!ぅうう。エリアス、嫌だ。どうして…」
私ね、お前のことが嫌いよ。偉そうだし、私を勝手に婚約者にするし。
でも友達だと思っていた。
私もお前もこの世界が大嫌いで、つまらなくて、どこかへ逃げ出したいって思っている。でも立場や責任からは逃れられない。私たちは仲間だと思っていた。
だからお前が私に無理やり自分の顔を見せたとき、お前のその瞳を見たとき、裏切られたと思った。
「お前は俺の婚約者だ。俺のものだ」
虚ろだったはずの、生気を全く感じなかったはずのお前の瞳には、私が映っていた。
じりじりと身を焦がすような熱を持った瞳で私を見るお前は、もう私の知っているエリアスではなくて。悲しくなった。気持ち悪くなった。そして憎んだ。
自由を求めていた私を知っているお前が、私と同じだったお前が、今度は私を縛る鎖となるのか、って。
「お前なんか、大嫌いだ」
「構わない。おれはお前が好きだ」
次はリディア視点です。




