14.アルト・ヴェルトレイア(アルト視点)(1)
そこは、真っ暗な、胸の奥がざわざわとする場所だった。
「使えない!使えない!使えない!」
ギンギンとうるさい音と、腹を蹴られている感覚で僕は気づく。
ああ。これは夢だ、と。
目をこらせば、僕の目の前には濃い化粧が似合う、世間一般には美女と言われる女性が立っていた。
僕を見る女性の瞳は、冷たい。
「なによ、その目」
「……ごめ、んなさい」
夢の中だからか。
僕の口は勝手に動き、言葉を発する。
「ほんと使えない子。こんなんだったら産まなきゃよかった。まあ城の隅に追いやられているとはいえ、私に贅沢な暮らしをさせてるってところは褒めてやってもいいけど」
女性がほほえんでくれると、僕はとてもうれしかった。
その理由がいつも怒った顔しか見たことがないから笑ってくれると嬉しいのか、はたまた、生みの親の笑みだったからうれしかったのか、今でもわからない。
だけど僕はうれしかった。
僕はうれしくて、蹴られた腹の痛さも忘れて女性の元へかけよる。
が、つきとばされる。
「なに喜んでるの?まだよ。もっとよ。これじゃあ足りないっ。こんな待遇じゃまだまだ満足できないっ」
女性の言っている言葉の意味は、そのときの僕にはわからなかった。
だけど僕は険しい表情で喚き散らす女性を見ると、きまって心がざわざわとゆれた。
「あんたはね、完璧でなけりゃ意味がないのよ!なんてったって愛人の子だからね。完璧じゃなければ、存在できないの。存在する意味もないわけ。完璧じゃないから、あんたは誰からも愛されないの!」
わからないけど、僕はうなずく。
「わかったなら、さっさと動け!あの女の息子とは、格が違うって見せなさい!」
慌てて僕が帝王学の本を開いたのを確認したところで、女性は舌打ちをした。
「いいこと?私だって、怒鳴りたくないの。喉が痛くなるし、侍女からは嫌な目で見られるし。全部、あんたが悪いのよ。あんたが完璧じゃないから、私はあんたのために叱ってあげるんだからねっ!」
そうだ。僕が完璧でないから、悪い子だから女性は怒るのだ。
僕は本を読みながらうなずいた。
「私に愛してほしいなら完璧になりなさい!完璧になれば、愛してあげるわ!いいこと?完璧でない限り、あんたは誰からも愛されないっ!」
そう叫ぶと、女性は部屋から出て行った。
バタンッ。大きな音が静かな室内に響き渡る。
真っ暗な部屋の中に、僕は一人。
僕は静かに目を閉じた。
次に目を開けると部屋の中は明るかった。
「アルト。今日から私があなたの母ということになりました。ここはあなたの部屋。好きに使いなさい」
灰色の髪の女性は冷たく言い放つと、めんどうな役目は終わったとでもいうように、侍女を連れて僕の部屋から出て行った。
思い出す。そう、ちょうどこのとき、僕が3歳のときだった。
あの女性が死んだのだ。
転落死だった。
不運な事故だったそうだ。
それは果たしてほんとうに不運な事故だったのだろうか。
なにかの陰謀のようなものを感じた。けれど、深く考えるなと、王が言った。
真実のほとんどは闇の中だ、と。
そう言いながらクツクツと笑う王の顔は今でもよく覚えている。
女性が死んで正妃が形式上で僕の母となった日から少し経ったときだ。
僕は自分が王位継承権2位であることを知った。
侍女が笑いながら話していたのだ。
「長男なのにかわいそ~。まあでも素性も知れない女の腹から生まれた子なんだから当然よね」
「でも世間には正妃の息子として公表されているから、表向きは継承権1位。哀れな王子様ぁ」
このときはこれが何を意味していて、何を言われているのか、よくわからなかった。
だけどキャンキャンと煩い甲高い声が僕の心を害そうとしていることはわかった。
成長すれば世の中というものが少しだけ見えてくる。
自分が妾の子であること。王にはなれないこと。誰からも、愛されていないこと。
だから、自分がするべきことがわかった。
僕がするべきこと。
それは、完璧であること。
幼いころあの女性が言った「完璧でなければ存在できない」という言葉の意味がようやく理解できた。
僕を助けてくれる人は誰もいない。
一人で生きていくしかない。
でもこんな狂った世界、なんの力もなしに生きることはできない。
力がなければ、害される。身体を、心を。含んだ笑みを浮かべるあの侍女たちのように、僕を痛めつける召使のように、僕を駒としか思っていない王のように。
こんなやつらに苦しめられて、利用されて、生きていくなんて、絶対に嫌だ。
僕のすることに、誰にも文句は言わせない。召使たちにも、王妃にも、王にも、誰にもっ。
だから僕は完璧でなければならない。
自分のために。生きるために。
そして、愛されるために。
完璧であれば、誰かが自分を愛してくれるかもしれない。
脳裏には死んだあの女性の顔が浮かび上がる。
もう顔も思い出せない、あの女性。
じりじりと胸の奥が痛んだ。
そう。だから僕は、完璧を目指すのだ。
4歳のときだ。
僕はここではじめて、自分の腹違いの王位継承権1位の弟と出会う。
それは僕よりも小さくて、ふわふわとして、今にも泣きそうな、そんな生き物だった。
太陽に透かせばキラキラと輝く王家の証の金の髪の上には、平民の靴を履いた足がのせられており。小さくて折れてしまいそうな白い腕は日に焼けた太い手にひねりあげられている。
弟は城で働く親を待つ子供にいじめられていた。
「か、かえしてぇ」
「やーだよっ。ばーか」
「ほらほら、とれるもんならとってみろよぉ」
「かえしてぇぇぇぇ!」
弟から奪ったであろうクマのぬいぐるみを、やつらはふりまわしていた。
弟は泣いている。
まわりで控えているはずの弟仕えの騎士や侍女たちは、なぜかいない。
ここは、そういうところだ。
僕の体は不思議と勝手に動いていた。
気が付けば、自分よりも頭一つ分小さい子供2人を見下ろしている。
子供2人はまさか僕がここにいるとは思っても見なかったのだろう。ギョッとした顔で固まった。
滑稽だ。
「その人形は弟のものだ。返してもらおう」
「なっ……」
「処罰されたくなければ、速やかに去れ。そして弟の前に二度と現れるな」
子供たちはひぃっと息をのむと、僕に人形を押し付け走り去っていった。
「に、兄様…だ…です、よね?」
足元から聞こえる声。
目線を下げれば、弟が涙で目をうるませながら僕を見ていた。
「たすけてくれて…ひぐっ……ありが、とう…ございます」
こらえきれなくなったのか結局弟は泣いた。
キラキラと揺らめく瞳から、水の粒がぽろぽろとこぼれていく。
こんなときどのような行動をとるべきなのか、僕にはわからない。
胸の奥がざわついた。
「…礼には、及ばないよ。ほら人形…あ」
とりあえず人形を返そうとしたところで、僕はクマの両腕がほつれていることに気が付いた。
さきほどの子供たちのせいだろうか。
だがしかしこのほつれ具合は、今日だけが原因ではないような気がした。
弱弱しく泣く、誰も助けてもらえない、そんな弟に、なぜだろうか。
僕は自分を重ねていた。
「おいで。クマをなおしてあげる」
「兄様っ。ほんとう!…ですか?」
「ほんとうだよ」
「う、うれしい……です!」
「敬語じゃなくていいよ」
「うん!」
弟の手を引いて僕は自分の部屋へと向かう。
ソラという名の自身の持ち場を離れたバカどもは、持ち場が姿を消したことに気づき今頃慌てふためているはずだろう。とても愉快だ。
堪えきれず笑ってしまった僕につられてか、ソラも笑みを浮かべる。
右手に感じる小さな温かさが。僕の胸の奥に、溶けていく。朝食に食べた、パンにバターを塗ったあのときと同じだ。心地が良かった。
「ほら、できたよ」
「わぁぁ!」
我ながらいい出来だと思う。
クマの両腕はほつれていた影もなく、完璧に修復された。
弟は嬉しそうにクマを抱きしめて、くるくるとその場で回っている。
僕の顔は自然とほころんでいた。
「ありがとう!兄様!」
「どういたしまして」
さて、用事は済んだ。
第二王子と第一王子が一緒にいることはあまり好ましいことではない。
弟は幼いが優秀だ。きちんとそのことを理解している。彼はすぐにでも僕の部屋を出て行くだろう。
僕はそう思っていた。
のだが、
彼はいつまでたっても部屋から出て行かなかった。
怪訝な顔で見ていたのかもしれない。
弟は申し訳なさそうな、でもすがるような目で僕を見てきた。
「お願いが、あります」
「なに?」
「おれが、明日もここに…遊びに来ることを、許してくださいっ」
「……え?」
ぺこっと、弟は首を垂れた。
その体は小さく震えているように見える。
「兄様は…お兄様だけは、透明でキレイなのっ。他の人たちは、汚れてて、どよどよしてて、怖い。気持ち悪い。おれ、ずっと兄様の部屋にいたいっ。ここが一番安心できるからっ。だからっだから、許してくださいっ!」
驚きすぎて、言葉が出てこなかった。
思考が停止した。
弟の言っている言葉は、わからないものがあった。
だけれども、彼の想いは、たしかに伝わる。
「お願いします」と、弟は尚も僕に懇願する。
はっきりいって、それまでの僕は、弟を幸せ者だと思っていた。
僕がどんなに頑張っても愛されないのは、妾の子で、出来が悪いからで、金色の髪ではないから。ずっとそう思っていた。
だが、もし、この金髪で、優秀だと聞く、正妃の子である弟も、どんなに頑張っても愛されていないのだとしたら?
この世界は、僕らに対して理不尽すぎやしないだろうか。
じりじりと焦がすように、胸が熱く痛くなっていた。
目の前がまるでゆがんだ鏡のように、ゆらいでみえる。
鼻の奥が水を吸い込んでしまったときのように、痛い。
気が付けば、僕はソラを抱きしめていた。
「いいよ。明日も、明後日も、ずっとおれのところにいるといい。ここがお前の居場所だ」
「…兄様っ。ひっうぅぅぅっ」
切実に、守りたいと思った。
世界にたった一人だけ。僕をすがる、笑いかけてくれる、僕と同じように悲しんで苦しんでいるこの子を、守りたい。
僕しか頼れる人間がいないこの子だけには、嫌われたくない。
そう思った。
独りぼっちだった世界は、二人ぼっちの世界に変わった。




