(7)閉じ込められた牢で
華やかな王宮の地下に、こんな薄暗い地下牢があるなんて知らなかった。
「いたた……」
ディーナの体は、手を縛ったまま強引に放りこまれたので、牢に押し込まれる時に転んでしまった。
「大丈夫ですか? ディーナ」
それなのに、石の床に打ち付ける筈だった体は、手のひら以外不思議なほど痛くない。ふと顔をあげると、下にある見覚えのある布地に、自分の体を受け止めて下敷きになってくれている存在に気がついて、大慌てでイルディの上から飛びのいた。
「ご、ごめんなさい!」
(まさか放り込まれた瞬間、庇ってくれているとは思わなかった)
今まで触れたことのなかったイルディの胸に受け止められていたことに気がついて、思わず顔が赤くなってしまう。
「かまいません。受け止めきれたらよかったのですが……。普段の運動不足が、もろに筋肉に出ていますね」
打った首を軽く動かしながら上半身を持ち上げる姿に、自分の動揺を気づかれてなくて、ほっとしてしまう。
「それにしても――」
だから顔を逸らそうとして見回した牢の様子に、思わずディーナは言葉をとぎれさせた。
牢の中は、ほとんどが薄闇だった。外への明かりは天井近くに開けられた細い窓が一つだけ。それも横長で、顔を星明りの外に出す大きさもないだろう。
灰色の石を組み合わせて造られた牢は、きっとこの王宮の歴史と一緒にあったのに違いない。廊下に掲げられた一本の蝋燭の明かりを頼りに、自分の触れた壁の先を見つめると、石を引っかくようにしていくつもの遺言めいた文字が彫られているのに気づいて、ディーナは伸ばしていた指を慌てて抱きこんだ。
牢内の空気はひどく湿って暗いが、それでも今壁の傷の側についていた黒い線が血液なことぐらいはわかる。きっと、ここで秘密裏に命を断たれる前に、家族への最後の一言を必死に彫っている間についたのだろう。
それが、これからの自分の末路を示しているようで、腕を抱え込んだディーナの胸の奥で心臓が早鐘を打ち出す。
「ここは――」
「ああ。王宮の北端ですね」
けれど、イルディはよく知っているようだ。
ゆっくりと見回すと、ひどく落ち着いた顔で牢の様子を確認している。
「昔から公にできない政治犯が入れられたところです。まあ、大抵長くは入れられませんから、少し居心地が悪い設備だとは思いますが、我慢してください」
「長くは入れられないって――。その後は、どうなったの?」
「それはあまり知らないほうが、精神衛生上よろしいかと」
その言葉が意味する予感に、息を飲んだ。
「ああ、ご心配なさらず。長期収容の場合は、より堅牢な牢に移されるという意味なだけですから」
「秘密理に!?」
「ええ。戸籍上は失踪という扱いになりますが」
(冗談じゃないわ!)
こんなところで無実の罪で殺されてやるつもりはない。それどころか、死ぬまで一生牢に閉じ込められるかもしれないなんて――。どんなことがあっても、御免だ。
だから、ディーナは牢の片側につけられた鉄格子に駆け寄ると、冷たい棒を必死に握った。
「誰か! 誰か、いないの!?」
(ここが牢なら、看守か誰かがいるはず!)
毒を盛ったのが自分ではないこと。そして淹れたお茶に毒が入っていたのを知らずに王に出してしまったことを、何としても陛下に伝えてもらわなくてはならない。
(そうでないと、私もイルディもここで殺される!)
「誰か!」
(アグリッナ様もいない今、外からの助けは誰も期待できない!)
たがら、蝋燭の明かりがゆらめく暗い石造りの廊下に向かって必死に叫び続けた。
それなのに、返って来るのはディーナの叫んだ声の微かな反響だけだ。
幾つか牢はあるのに、ほかに人が入っている様子もない。
あまりに静かな様子に、ディーナの声が更に大きくなった。
(まるでここが死の国みたい)
まさか、ここにこのまま放置されて死んでいくのだろうか。
食べる物を与えず、ただ喉の飢えとがりがりに体が痩せ細っていくのを待たれて――。
人けのない廊下に揺れる蝋燭の揺らめきに、俯いて唾を飲み込んだ。
喉が、なぜかひどく渇いているような気がした。ごくりと飲み込む音が、体の奥でひどく大きく響く。
「いいざまだな」
けれど、突然通路の奥から聞こえてきた声に、急いでディーナは顔を上げた。
「ルディオス!?」
奥に立つまさかここで見るとは思わなかった顔に、鉄格子を掴んだまま大きく叫んでしまう。
しかしルディオスは、驚いているディーナの様子にふんと鼻を鳴らすと、ゆっくりと牢へ近づいてくる。
こつこつと乾いた靴の音が、石の床に響いた。
「よう」
そして、額を合わせるように格子の向こうからディーナを覗き込んだ。一本だけの蝋燭の明かりに揺らめく不敵な表情が、にやりと口元を引き上げる。
「ここからじゃあ、さすがに俺の邪魔はできないだろう?」
「なっ――!」
見つめてくるすかした顔に、ディーナの怒りが一瞬で頂点に達した。
格子の間から足の先だけを出すと、ルディオスの靴の上から小指のある位置を思い切り踏んでやる。
「痛え! てめえなにしやがる!?」
「何とはこっちの台詞よ! わざわざここまで嘲いに来たの!?」
「誰がそこまで暇かよ!?」
それなのに、ルディオスはまだ持ち上げた足を痛そうに抱えながら、ディーナに舌打ちをしている。
「ちっ、相変わらず凶暴な奴――やっぱり、これ以上邪魔をされないように閉じ込めて正解だったぜ」
「なっ――!」
思わずルディオスの言葉に、ディーナは格子から顔を乗り出すように体を近づけた。それなのに、今までそこにいたルディオスは、ディーナから身を離すように背をそらすと、薄い笑いを浮かべている。
「どういうことよ!? あんたが私を嵌めたの!?」
「ご名答――――。折角、アグリッナ様に近づけたのに、お前があんまり周りをちょろちょろとして邪魔をするんでな。だけど、お蔭でドレスレッド侯爵に、お前と同郷の知り合いと勘違いされて声をかけられたんだ」
「ドレスレッド侯爵!? ルディオス、まさか――」
頭の中で、一週間前の映像がはっきりと蘇ってきた。
(あの時!)
退出するアグリッナを送って出ようとした時に、振り返った廊下でドレスレッド侯爵とルディオスが一緒に消えていった光景。
「あの時に……」
口惜しさに唇を噛む。けれど、ルディオスは睨みつけているディーナにふんと腕を組んでいる。
「どうにかお前を王の側から排除できないかという話でな、成功したら俺を部下にして正式にオリスデンで取り立ててくれるというんだ。それなら乗らない方が馬鹿だろう?」
「どうして!? あんなにアグリッナ様に媚を売っていたじゃない!?」
(信じられない! あんなにアグリッナ様に熱心に取り入っていたのに、それを急に翻すなんて!)
「俺のその努力を無駄にしてくれたのは、お前だろうが。まあ、俺は結果的に出世さえできればいいんだから、得する方に方針転換ということだ」
だから、メイドの新人を口説いて、王の側にいるディーナにお茶を届けるようにさせたと言うルディオスに、強く唇を噛む。
「信じられない――!」
(そうだわ……。昔から、こいつにとって女なんて、利用するだけの価値しかなかったのよ)
あの慣れない仕事を頑張ろうとしていたメイドの子も! 家が破産した途端捨てられた私も!
(私は男が嫌いと思っていたけれど、今明確に違うとわかったわ! 私は、人として最低なこいつが嫌いなだけよ!)
それが男の顔をして、女を利用している。だから、今まで気づかずに、全ての男を嫌い続けた。それこそが、いつまでもこいつから解放されていない証だったのに。
「なんて、最低な奴……!」
怒りで声さえも震えそうだ。
けれど、きつく睨みつけてくるディーナにふんと笑うと、ルディオスは真っ直ぐに正面から見下ろした。
「俺のことより、自分の心配をしたらどうだ? このままじゃあ、明日にはお前の首は胴体と泣き別れだぜ?」
笑うルディオスの言葉にはっと顔を上げる。
「お前がやったとばらすわ!」
(そうよ! 今、はっきりとルディオスは自分が王に毒をもったと言った!)
これを証言すれば、この牢の中に入るのはルディオスに変わるはずだ。
けれど、ルディオスはくくっと笑っている。
「どうやって? お茶を持っていったのはお前だ。メイドの子が、ちゃんとお前に渡したと証言していたからな。それに王に飲ましたのもお前。そんな最有力容疑者が、俺を犯人と証言しても、誰が信用するというんだ」
ぐっと言葉に詰まった。
「それに、俺がアグリッナ様に媚を売っていたことは、今までにたくさんの奴が見て知っている。お前が俺を犯人と言い立てても、公爵令嬢を裏切って王を寝取ったお前が、アグリッナ様に罪をなすりつけようとしていると言えば、納得しない奴はいないだろう?」
「よくも――……、こんなひどいことを……」
「まあ、安心しろ。さすがに、ドレスレッド侯爵も王を暗殺する度胸はなかったから、あの薬で陛下が死ぬことはない。第一、寵姫争いで死なれたら、本末転倒だからな。侯爵は、本当は邪魔なお前の毒殺を考えていたんだが、それよりは生きられる日にちが少しは長くなっただけよかっただろう?」
「少しも嬉しくなんかないわよ!」
黒い髪を振り乱して叫んでしまう。けれど、怒ったディーナの顔を見ながら、ふっとルディオスは笑う。
「まあ、しばらくあのメイドの娘も実家に帰らせたし。これでお前は立派な国王暗殺未遂犯。あの公爵令嬢も、暗殺犯を王に近づけたということで、宮廷での地位はどんなに王が庇っても失墜だな」
「なっ……!」
「おっと、心配するのなら、自分のにしろよ? お前のは、軽くすんで追放、まあ最悪でも安心しろ。祈りの一回ぐらいは、目覚めが悪いからきちんと墓の前であげてやる」
「絶対にいらないわよ!」
けれど、高笑いをするとルディオスは踵を翻していく。
「待ちなさい! ルディオス!」
(よくも……! 許さない!)
しかし、ディーナの言葉にもルディオスの足が止まることはない。
石の通路を進む姿に、冷たい鉄格子の中から必死に手を伸ばすが、ルディオスの姿はディーナの叫びにも止まることなく奥に曲がって消えてしまった。




