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(5)罠の奥から伸びてくる罠


 ロマノウンの西方にある公爵邸は、公爵の人柄を表すように白と褐色の堅実な造りだった。緑の庭園が前方に広がり、夏の花の上を涼しい夏風が渡っていく。けれど、その美しい庭にも目を止めず、馬車から降りるなり、ディーナは急いで石段を駆け上った。


 公爵家から出てきた案内が驚いているが、待っている余裕もない。前方を早足で歩くイルディの背中を追いかけて、落ち着いた造りの建物に入り、二階の奥にあるアグリッナの部屋へと小走りに向かう。


「アグリッナ様!」


 イルディに続いて、開いた扉の中へと駆け込んだ。


「ディーナ!? イルディも、どうしたのです!?」


 突然入ってきた二人に驚いて、アグリッナが立っていた窓辺から振り返った。しかし、華やかな夏のドレスに包まれた姿を見た瞬間、思わずディーナは悲鳴をあげそうになった。


(なっ……! なんて、なんてかわいいの!)


 王宮では決して身に纏わなかった最新の流行を意識した、肩を広く開けたフリルの衣装だ。


 立体的に裁断されたドレスは、小柄ながらも女らしいラインをアグリッナに浮かび上がらせ、それが肩口と袖につけられた白いフリルで更に愛らしく見せている。


「役得―!」


(ごめんなさい、陛下! 陛下が絶対に見れないアグリッナ様のこんなかわいい姿を拝めるなんて!)


 思わず遠くの宮殿に向かって懺悔しそうになってしまう。


「役得? なんのことです、ディーナ」


 アグリッナの声に思わずはっとした。


「ディーナ……、気持はわからないでもないですが……」


 完全に呆れたようなイルディの声に、慌てて咳払いをする。


(そうよ! そんな場合じゃなかったのよ!)


 ただ、前にいるアグリッナがあまりにも絶世の美少女すぎて、絵本のお姫様を見ているようでうっとりとしてしまった。だから軽く表情を引き締めて頬を叩くと、本来の用件を思い出す。


「そうです。そんな場合じゃなかったんです!」


(陛下には、後で自慢しておこう)


 そうすればきっと悔しくて悶えるのを楽しまれるだろうし、そのお蔭でニフネリアへの心変わりも、当分の間防ぐことができるのに違いない。


 そう決心すると、一度閉じた瞼を強く開く。


「実は、パブリットがニフネリアを寵姫候補に推してきました!」


「パブリットが!?」


 気持を切り替えて一息に言い切ったのだが、それだけで、どうやらアグリッナには事の重大性がわかったようだ。さっと顔色を青く変えると、目を見張っている。


「どういうことです!? イルディ!」


「パブリットから使節がまいりまして。それによると、パブリット王のはとこに、ニフネリア嬢の妹姫を娶わせたいと。合わせて、姉姫にあたるニフネリア嬢をオリスデン王が側に迎えることで、友好条約の絆としたいという申し出のようです。陛下に既に最愛の婚約者がいることは有名なので、寵姫でよいとのことのようですが――」


「なんてこと――」


 手で押さえたアグリッナの頭が、ぐらりと傾いた。


「おそらく今回の寵姫騒動の情報を売ったのはドレスレッド侯爵と思われます」


「そうでしょう。そうでなければ、敵国がこんな絶妙のタイミングで、我が国の王室問題に関与してくる筈がない」


「陛下はアグリッナ様以外を妻に迎えるつもりはないと常々私に断言されております。ですから、今回もこの件絡みで、アグリッナ様との婚約を破棄されるおつもりはございません!」


「そう――」


 しかし、必死に王の気持を伝えたディーナに、アグリッナは微かに寂しそうに微笑んだ。


「アグリッナ様……」


(本当は、陛下のことをお好きなんじゃないんですか?)


 そうでなければ、ここまで気性のはっきりとしたアグリッナが、十年も婚約をそのままにしていたのが腑に落ちない。


 嫌いではない――だけでは、あれだけ宮廷で辛い立場になりながら、王の気持を受け止め続けた理由として弱い気がするのだ。


 確かに軍事王国で、絶対な功績をもつ公爵家と王家との政治的な配慮もあったのだろう。


(だけど……、ひょっとしたら、これまで積極的に王との婚約を破棄したいと思われなかったのは、アグリッナ様自身が気づかれなくても、やはりそれが好意に近い感情だったからなんじゃないかしら……)


 それなのに、あの男ルディオスがアグリッナ様の微妙な心を惑わせたせいで、今は秘めたささやかな声から目を背けて、違う道を探されようとしている。


「あの……、変なことを聞きますが、あのルディオスというオーリオの大使に仕えている男は、あれから公爵邸に参ったりしているのでしょうか?」


(もし、そうなら今日帰ったら足を潰そう)


 武器の扱いに自信はないが、ハイヒールの踵で指の骨を砕く踏み方くらいなら知っている。


 だから決意して訊いたのだが、アグリッナは突然のディーナの質問に目を丸くしている。


「いいえ。ルディオス殿とは、宮廷でお別れしたきりですが――」


「そうですか……」


「きっと私を思いやって、そっとしておいてくれるのでしょう」


(おかしい)


 あの女癖の悪い奴が、人目が少ない、こんな近づきやすい時を逃すなんて。


 しかも、今のアグリッナは差し伸べてくれる手があれば、誰のものでも喜びそうなほど、不安定な精神状態だ。


(あの女たらしが、こんな絶好の機会を逃すとは思えないけれど……)


 遠い昔との違和感に、微かに考え込んだ時だった。


「とにかく! パブリットはこれを利用して、オリスデンと事をかまえたいのでしょう」


(さすが、アグリッナ様! 一瞬で相手の思惑を見抜かれている!)


「敵国の息のかかった者をオリスデン王室に、ましてや陛下の側に近づけるなど言語道断です! それは将来、必ずオリスデンの後継に争いをもたらす! たとえ、今ニフネリアにパブリットに利するつもりがなかったとしてもです!」


 毅然と顔を持ち上げて、アグリッナが宣言する。


「はい!」


「私もどうすれば今回のことを穏便に断れるか考えてみます。グアテナイ大公爵にも相談してみますから、陛下には、どうかくれぐれも怒って軽率なお返事だけはされないようにお伝えください!」


(さすがアグリッナ様! 陛下が断るつもりということは、微塵も疑っておられない!)


 内心感嘆してしまう。


(多分、陛下なら、アグリッナ様が好きとか宮廷に戻るとか一言走り書きでもされれば、すぐにでも狂喜乱舞で断られそうだけど……)


 それは、今は更に事態を悪化させそうなので、ディーナは静かに頭を下げておく。


「あ、あと、イルディ」


 けれど出て行こうとした時、アグリッナがディーナに並んでいる背中を呼び止めた。


「ティーナの立場は、これまで以上に微妙なものになります。十分、身辺に気をつけてあげてください」


「アグリッナ様――」


(こんな時まで、私の心配をしてくださるなんて……)


 じんと感動してしまうが、瞼の熱くなったディーナの表情をアグリッナは不安と勘違いしたらしい。


 安心させるように慈愛に満ちた瞳で見つめると、怖がらせないように笑いかけてくれる。


「大丈夫です。たとえドレスレッド侯爵とリオス殿下が今回の話を進めようと陛下に推されても、我がラノス公爵家とオリスデン最大のグアテナイ大公爵家が反対の態度を表明すれば、解決策を見つけるまでの時間稼ぎはできるはずです。ですから、どうかこれまで通り陛下を支えて、あまり心配せずに過ごしてくださいね」


 向けられてくる柔らかい笑みに感動してしまう。だから、心から深く頭を下げた。


「はい。では私は陛下にその件をお伝えいたします。そしてアグリッナ様の代わりに陛下のお側におります」


 そして、隠せない不安を揺らしているアグリッナの瞳に気づいて、安心させるように微笑みかけると、公爵邸を後にしたのだ。



 

 王宮に帰ると、もう辺りはすっかり暗くなっていた。


 それでもまだ王宮内は多くの人が行きかっている。幾人かのドレスの裾を引く貴婦人とすれ違いながら、大きな蝋燭が揺らめく大階段を昇ると、あまたの絵画に彩られた王の部屋の前に立つ。


(陛下……)


 きっと、今も悩まれているのだろう。


 もう時間はかなり遅いが、部屋の中には複数の人の気配がする。


 一度深呼吸をすると、ディーナはアグリッナからの言葉を心で反芻して、部屋に入るのに歩き出そうとした。


「あのう」


 けれど、足を一歩踏み出そうとした時、廊下の奥から一人のメイドが姿を現すと、金の茶器セットを持ちながらディーナを見上げている。


「これから陛下のお側にいかれるのですか?」


「ええ、そうよ」


 自分と同じくらいの年だろう。新米なのか、まだどこか所作が慣れていない感じのメイドに、頷いて答えてやる。


「よかった! さっきから入室禁止にされていて、お茶をお届けすることができなかったんです。替えてくるように言われたんですが、入れないのなら、側におられる女性の方に預けてくるようにと言われて――」


 ほっとしているメイドが話しているのは、きっと陛下の部屋つきの侍女のことなのだろう。


 もっとも、陛下の極端なまでのアグリッナ様への純潔証明のために、身の回りに仕えているのは今はほとんどが侍従で、侍女はほんの一握りしかいないが。


 だから困っていたのだろうと、ディーナはメイドが持っていた金の茶器を盆ごと受け取った。


「いいわ。これを陛下のお部屋に置けばいいのね?」


「はい、お願いします!」


 愛らしい笑顔を浮かべて、メイドの女の子は、黒いスカートを翻していく。


 遠ざかっていく後姿を見つめ、ディーナは閉っている王の部屋の扉を見つめた。


 一度息を吸って口を開く。


「陛下。ディーナです。アグリッナ様からの伝言をお預かりして来ました」


 ディーナの声が響くや、扉が内側から開かれた。開けてくれた侍従に一礼をすると、ディーナは重厚な机に座ったままの王の表情を見つめる。


 下を向いている王の顔は暗い。だが、入ってきたディーナに気がついて、俯いていた顔を持ち上げると細く笑った。


「ディーナか、帰ったのか」


「陛下――」


(なんて、ひどい顔なのかしら)


 きっとあの後、食事を何も取られていないのだろう。ひどく憔悴してやつれた顔が痛ましい。だから、ディーナは机に金の茶器を置くと、金のカップを取り上げて紅いお茶を注いだ。


「アグリッナ様にお会いしました」


(せめてお茶だけでも飲めば、少しは気分が落ち着くはず)


 そして、湯気に優しい香りを纏わせている金のカップを王へ差し出す。


「何と言っていた」


「断る口実を探すお時間を作ると。アグリッナ様のラノス公爵家とグアテナイ大公爵家が口を揃えて反対すれば、お返事をする時間を稼げるので、その間にお断りする方法を考えると仰られていました」


「アグリッナらしい――」


 金のカップにゆらゆらと輝く紅いお茶を一口飲みながら、王は小さく苦笑する。


「いつも助けられている。私はアグリッナを守るどころか、辛い想いばかりさせているのに――」


「陛下」


 柔らかい香りをあげるお茶を見つめる王の瞳が、あまりにも切なそうで、思わず息を飲んだ。


「お言葉ですが、きっとアグリッナ様は陛下のことをお好きだと思います。それは、今はまだ信頼とか柔らかな思慕のようなものかもしれません。でも、あのはっきりとしたアグリッナ様が本当に嫌われているのなら、たとえ一秒でも陛下がお側にいるのを許されるとは思えないのです」


「なんか慰められているのか、止めを刺されているのかわからない言葉だな……」


「いえ、異性と意識されてないというだけで。たとえば父とか兄ぐらいにはお好きだと確信できるのです」


「だから、やっぱり塩を塗りこまれている気分なんだが……」


「あら、でも陛下はその方が燃える性分なのでしょう? こう身悶えしたいような微妙な感じが」


「だから、なんで貴方の中での私のイメージは被虐趣味なんだ!」


 けれど、口を大きく開いた王に、ディーナは優しく笑いかけた。


「よかった。やっぱり陛下はそれぐらい元気な方が、らしいですわ」


 それに王が、開いた琥珀色の瞳をきょとんとさせている。けれど、その瞳がディーナの言葉に、すぐに柔らかく微笑んでいく。


「そうか、そうだな――」


「ええ。きっと何もかもうまくいく方法がございます。だから、陛下も落ち込んだりされず――」


 その時、笑っていた王の口元から一筋の赤い血が流れ落ちた。


「――――えっ?」


 一瞬何が起こったのかわからなった。けれど目を開いたディーナの前で、王が突然咳き込むと、口から溢れるように鮮血が迸り出たのである。


「陛下!?」


 急いで駆け寄る。しかし、激しい咳で溢れてくるのは真っ赤な血ばかりだ。


「陛下!? 陛下、しっかりして!」


 苦しそうに身を屈める王に走り寄ったディーナの側で、机に置いてあった金のカップが、血そっくりのお茶を紅く撒き散らしながら床へと転がっていった。



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