俺の話:再会
水曜日は、好きだ。
「ただいま」
「あ、兄ちゃんお帰りー」
家に帰るとすぐ、リビングから弟の当真がこちらに駆け寄って来た。俺とは十も年の離れた弟の低い頭に手を置くと、嬉しそうに服の袖を掴んで来る。
「なあ兄ちゃん、いいことあったのか?」
「何でだ?」
「何か機嫌良さそうだったし」
鋭いな、と素直に感心した。年が離れている所為で赤ん坊の頃から面倒を見ているので、ふとした時その成長に少し驚く。「そうだな」とだけ言葉を返して階段を上がると、俺はいつも通り自室の扉を開け、鞄を置いた。
そんな時だった。
「パンパカパーン! ご当選おめでとうございまーす!」
「……は?」
そいつは突如として現れたのだ。自分以外誰も居なかった部屋に突如として響き渡った幼い声。弟のものとも違うそれに反応して顔を上げた俺は、目の前に存在するそれを見て思わず言葉を失った。
天使。俺の目の前にいたのはそうとしか言いようのない翼の生えた金髪の少年だったのだ。
「な……なんだお前!」
「僕は天使のソエルです、よろしくお願いします。そしてそして、宇佐美風真さんに重大発表―! これから僕がこの半年であなたに恋人を作ってあげることになりました!」
「はあ!?」
まったく意味が分からない。そもそもこの生物の存在自体が分からない。何故突然この部屋に現れたのか、どうして俺の名前を知っているのか。疑問をそのまま投げかけてみると、天使の模範のような笑みを浮かべていた少年――ソエルが少々面倒臭そうに眉を顰めた。
「僕は天使ですよ? この部屋に入ることぐらい訳ないですし、あなたの名前は抽選時に調査済みです」
「抽選? そもそも最初に言った当選っていうのは……」
「若者の恋愛促進のために僕たち天使がサポートするように神様に言われました! そして恋愛に消極的な若者をランダムに選んだ結果、あなたが偶然選ばれてしまった訳です!」
「ますます意味が分からない……」
思わず頭を抱えた。同じ言語で喋っているはずなのに全く理解できない。
詳しく説明を求めると、少子化がどうの滅びがどうのと色々と言われたが、勿論納得など出来るわけもない。大体恋愛に消極的とか大きなお世話だ。神様何やってんだ。
「サポートとか必要ないから帰ってくれ」
見た目が子供だからあまりきつい言葉は言いたくなかったが、流石に拒否するしかない。
しかしそう言った直後に聞こえて来たのは先ほどまでの子供らしい声ではなく、唸るような低い声と舌打ちだった。
「ああ? お前に拒否権なんてねえよ。俺は仕事で仕方なく人間界に来てやってんだ。とっとと好きな女ぐらい捕まえやがれ」
「……そっちが本性か」
「だから? せっかく営業スマイルしてやったっていうのに。ともかくお前は俺に黙って従えばいいんだよ。そうしたらお前がさっき電車の中で見てた女とくっつけてやるから」
「な」
「恋愛に消極的っつーから女に興味無いかと思ったが、好きな女がいてこっちも楽ってもんだ」
な、な、なんでこいつ……。唖然としてしまって頭が回らない。
確かに俺は今日電車に乗って大学から帰って来た。そして今日――水曜日にしか会うことの出来ないその女の子を、俺は電車の中でそっと見ていたのだ。
肩よりもやや下まで伸びる黒髪、飛び切り美人だとは評されないかもしれないが普通に可愛い女の子。俺が毎週帰りの電車の中で密かに窺っていたのはそんな子だった。
「見ていた、のか」
「ここに来る前に偵察してた。まあお前取り立てて不細工でもねえし、上手い事接触出来ればどうにかなるかねえ。若干暗そうなのがあれだが」
「……ほっとけ」
「そういう訳にはいかないっての。まあお前が俺の言う通りに動けば彼女にさせてやるから任せな。……という訳で風真、しばらくの間よろしく頼むぜ?」
そう言ったソエルの顔はどう見ても天使のしていいような表情ではない、邪悪なものだった。
「だから、さっさとあの女に話しかけろと何度言ったら分かるんだてめえ!」
「……」
あの訳の分からない出会いから一か月が経った。毎週毎週のソエルの怒声を聞き流すのにも慣れて来た所だ。
俺は満員電車の中で、気付かれないようにそっと彼女を盗み見る。釣り広告でも見ているのかその顔はやや上に向いている。……やっぱり似ていると、何度も考えたことをまた思った。
俺の初恋は小学生の時だった。五年の時、近所で飼われていた犬が学校へ入って来たことがあり、俺は運悪くちょうどその場に居合わせてしまった。
恐らくその犬はただじゃれていただけだったのだろうが、大型犬が突撃するように俺の前に飛び出して来て、当時今以上に臆病だった俺は必死に逃げ出した。
しかし逃げていると足がもつれてコンクリートの地面に強く膝を打ち付けて転んでしまった。もうその頃には犬は他の生徒達に取り囲まれて楽しそうに撫でられており、彼らの外からそれを見た俺は何だか酷く惨めな気分になった。
「大丈夫?」
半泣きになりながら立ち上がろうとしたその時、潤んだ視界の中で小さな手が見えた。
「怪我してる。保険室行かないとね」
優しい声に顔を上げると、そこには見覚えのない女の子が心配そうにこちらを見ていた。困惑したまま彼女を見上げると、動かない俺に痺れを切らしたのかその手が俺の腕を掴んで引っ張った。
「歩ける?」
「……うん」
そのまま俺を支えるようにして保健室に誘導した彼女は、先生に俺のことを言付けると「お大事にね」と何故か俺の頭を撫でてから保健室を出て行った。直後、俺は自分で分かるほど顔が熱くなったのを感じた。
それが彼女とまともに顔を合わせた最初で最後だった。その日から俺はあの子を見かける度に視線を送ってしまったが、元より影が薄い俺に彼女が気付くことは一度もなかった。
そのまま時間は過ぎて卒業式を迎え、結局彼女は俺とは違う中学校へ進学していった。その後のことは何も知らない。
「……」
そしてそのまま中学、高校を卒業した俺は大学へ進学した。入学して数週間経った頃だっただろうか、電車で初恋の女の子の面影を見付けたのは。
ずっと思い続けていたとは正直言えない。似たような優しい女の子に惹かれたこともあったし、彼女の顔も朧気にしか思い出せなかった。だけど何となく似ているような気がして、俺は気付けば毎週水曜日に電車で一緒になる彼女をつい遠目から見てしまうようになっていた。
「ったく、話しかけもせずにじっと見てるだけとかストーカーかよ」
「……煩い」
ソエルの言葉に小さな声で唸った。確かに俺もちょっとそう思わないでもないが、簡単に話しかけられたら苦労などしない。
この横暴天使には彼女が初恋の女の子に似ているということは話していない。話したら余計に何か言われそうだし、そもそも彼女があの子だと確信はないのだから。
「俺の言う通りに話せばいいって言ってんだろ? これだから奥手野郎は――ん?」
相変わらずの暴言に溜息を吐いているとソエルが不自然に声を止めた。何があったのかと顔を上げるやいなや電車のブレーキがかかり、俺はつり革で何とかバランスを取ってよろけることなく済んだ。
いつも彼女が降りる駅だ。しかし大きな駅なのでいつも降りる客は多い。背後から何人もの乗客に背中を押されて抗うことも出来ずに足が前に出てしまった。俺の近くにいたのは何らかの同じ集団だったようで、大きな話し声と共に俺をぐいぐいと電車の外に押し出し、笑いながら階段を上がって行ってしまった。
「はあ……」
疲労感が全身を襲う。俺が降りる駅は次だったのに。
ベンチに座って次の電車を待とうかと電光掲示板を見上げると、次に来る電車は俺の降りる駅を通過してしまう。なんだか余計に損した気分になってのろのろと人が減ったホームを歩くと、見下ろした足元に緑色のパスケースが落ちていた。
「なんだそれ」
「パスケースだ。誰かが落としたんだろう」
今降りた乗客が落としたのかもしれない。駅員に届けた方がいいだろうと、俺は誰かに蹴飛ばされたのか少々汚れたケースを手で払い、そしてその中に入れられていたICカードを何とはなしに見た。
「え?」
そこに書かれていた名前を見た瞬間、思考が止まった。
「観月……つくし」
「あ? なんか言ったか? ……っておい!」
ソエルの言葉に返事をすることなく、俺はすぐに階段を駆け上がった。人の合間を縫って早足で通路を進み、そしてあの子の背中を目に留めて声を上げた。
何度か彼女を呼んでも反応がなくて、つい腕を掴んで彼女を止めてしまう。
「待ってくれ!」
「わっ」
そうして振り返りこちらを見上げた彼女……観月さんを間近で見た俺は、やっぱり彼女が昔出会ったあの子だったのだと確信した。
「どうして観月さんにあんなこと言ったんだ!」
家に帰った俺は、話しかけて来る当真を躱して部屋に入るといの一番にそう言った。
思い切り猫を被ったソエルが観月さんに言ったとんでもない頼みに俺は頭を抱えたかった。彼女、とか。ドン引きされなかっただけましだが本当にとんでもないことを……。
おまけに彼女は俺を覚えていなかった、つまり初対面だというのに。……正直はじめましてと言われた瞬間落ち込んだ。うちの小学校は生徒も多かったので、一度も同じクラスになったことのないやつを覚えていないのは仕方がないのだが。
「だいたい矢がどうのとか全く言わなかったくせに……!」
「聞かれなかったからな」
この野郎……。
睨み付けてもソエルは平然と邪悪な笑みを浮かべるばかりだ。さっきの営業スマイルはどうした。
「あのままだったらそのまま別れてても可笑しくなかったからな。接点が出来てよかっただろう。俺が頑張って約束取り付けてやったんだから精々頑張れよ」
「そんなの……無理に、決まってるだろう」
「ああ? ふざけんな」
今まで碌に話しかけることも出来なかったというのに。というか何より観月さんに申し訳なくてたまらない。
俺がそう言うと、ソエルは唇を吊り上げて挑発するようなわざとらしい声を出した。
「そんないい子ぶったこと言って、結局頷いたのはどこの誰でしたっけー? 結局お前だって愛しのつくしちゃんとデート出来るって下心があったんだろう?」
「……」
「まあいいさ。お前が少しでもあの女に付き合わせるのが申し訳なく思うんなら、早いところ落として本当の恋人にでもなるんだな。そうすれば何の問題もない」
「簡単に言ってくれる……」
そんな奇跡のようなことが起これば苦労などしないというのに。
俺がぽつりと呟いた言葉に、ソエルは挑戦的に眉を上げた。
「何言ってんだ。天使っていうのは人に奇跡をもたらすもんだぜ?」
次回も引き続き風真視点です