二人の話:ラストチャンス
「可笑しいだろ! 何であの流れでそうなるんだよっ!」
家に帰ってわくわくした様子のソエルにあの後あったことをそのまま話すと、途端にそう言って激怒した。
半年近く協力してもらったのにそれをぶち壊したのだ、ソエルがそう言うだろうなということは分かっていた。だけど、それでも俺はソエルよりも優先するべきことがあったのだ。
「つくしが言い寄られてたんだからこっちも負けじと告白するとこだろ普通!」
「……両想いの二人に割り込んで、それでどうしろって言うんだ」
「両想い? つくしがそう言ったっつーのか」
「昔、好きだったと」
「昔だろうが。今はどうかなんて知らねえだろ」
「相手は観月さんのことが好きに見えた。……俺だって同じように昔から好きだ」
「お前らがそうだからつくしも一緒だろうって?」
「今はたとえそうじゃなくても、今後そうなる可能性だってある」
アドレスを交換していた、二人はこれからも連絡を取り合うのだ。だから今後観月さんがあの男を好きになっても可笑しくない。ましてやあれだけ昔からモテた男なら尚更に。
「お前嫉妬すらしねえのか」
「するに決まってるだろ! ……でも」
彼女に好かれていたあの男が羨ましくて堪らない。昔ずっと思い続けた観月さんの視線の先に居たのがあの男だったと知って、苦しくて、腹の底が黒い感情で満たされていく感覚がする。
だが、それでも。
酷く厳しい表情を浮かべるソエルから目を逸らして俯いた。
「……元々、無茶苦茶な頼みだったんだ。前に、お前言ったよな。観月さんを付き合わせるのが申し訳ないと思うんなら早く本当の恋人になれって。だけどもし観月さんが他のやつを好きになったら、優しい観月さんはきっと俺に付き合うのが邪魔になってもそれを言わない」
「だからその前に解放するって? ……半年過ぎると“矢”で射抜くと言ったはずだが」
「……観月さんじゃなければ、どんな人を好きにさせられたって同じだ」
「……そうか、よーく分かった」
突然やけに明るい声でソエルが言う。わざと作ったと分かる声色に思わず顔を上げると、そこには酷く冷え冷えとした視線があった。
「お前には失望した。つくしの気持ちを汲んで身を引いたとでも思ってんのかよ、馬鹿馬鹿しい。結局お前は我が身が一番可愛くて、振られるのが怖くてその前に逃げただけだろ」
「……」
「この半年でお前はちっとも変わっちゃいない。お前のそれは優しさじゃない、ただの臆病者だ。てめえがその気なら俺ももう知らねえよ。一生そのままお優しいいい人って言われ続けて、そのまま死ぬんだな」
感情も込めずに吐き捨てた口を閉じると、ソエルはこちらに背を向けた。
もう俺のことなど一切見ることなく、ソエルが消えていく。そして完全に一人になった部屋で俺は一人顔を覆った。
「ソエル、全部お前の言う通りだよ」
ごめん。俺はやっぱり、何一つ変わることなんて出来なかった。
数日後、水曜日。私はいつも通り大学に行って、いつも通り講義を受けていた。
「つくし、元気ないけど……大丈夫?」
けれど、他の人から見ればちっともいつも通りには見えていなかったらしい。心配そうな顔をした亜紀に、私は意識して笑みを作って「平気」だと言った。……実際の所、ちっとも平気じゃない癖に。
あの同窓会の日の帰り、宇佐美さんに……振られた。いやはっきりと言われた訳ではないが、別れを告げられたも同然だろう。
まったく教授の言うことが頭に入らないまま講義は終了し、こちらを窺う亜紀に手を振って別れる。足は勝手に歩き慣れた道を歩いて駅までたどり着くが、いつもと同じ時間に乗った電車の中に、いつものひょろりと背の高い彼と天使はどこにもいなかった。
その事実に、また体のどこかが痛くなるような感覚がした。
「……」
電車の中で喋ることも、その後駅の地下街で寄り道もせずにとぼとぼ家に帰る。「今日は水曜日なのに早いわね」なんてお母さんに言われながら自室に入ろうとした私は、扉を開けた瞬間思わず鞄を取り落とした。
「……」
「そ、ソエル君」
部屋のど真ん中で、酷く苛立ち気に腕を組んでソエル君が立っていた。そのあまりの気迫にたじろぎながら後ろ手に扉を閉めると、私は恐る恐る尋ねてみる。
「どうしたの? 何かあった……?」
「何かあった、だと」
「え」
「つくし、てめえどうして風真を引き留めなかった。お前はあいつのこと好きじゃなかったのか」
地を這うような低い声で発せられた言葉に私はすぐに返事が出来なかった。それでも詰問するようにこちらに睨みを利かせる天使に、言葉を探しながらも口を開く。
「……好きだよ、勿論」
「なら何で黙って引き下がりやがった」
「ソエル君が知ってるか分からないけど、宇佐美さん好きな人が居たんだって」
私はあの日にあったことを少しずつ話し始めた。宇佐美さんに昔から好きな人がいると聞いてしまったこと、告白しろと言われていたこと、そして帰り際に言われた言葉を。
話が進んでいくにつれ、どんどんソエル君の表情が凶悪なものに変わっていくのを間近で見つめる。
「だから、宇佐美さんに私はもう必要ないんだよ……」
むしろ、彼が好きな人と上手く行ったのなら邪魔にしかならない。そう言おうとしたその時、目の前から聞こえて来た大きな舌打ちがその言葉を止めた。
「……ざけんな」
「ソエル君?」
「お前らふざけんじゃねえ! いい加減にしねえとホントに矢でその脳天ぶち抜くぞ!」
凄まじい力でテーブルにソエル君の手が叩きつけられる。その音に思わずびくっと怯えてしまったというのに、何故かソエル君のことを怖いとは思わなかった。
ソエル君は苛立ちを隠すことなく頭を掻きむしると、こちらを思い切り睨み付けて叫ぶ。
「ああもうったく、てめえらのことなんかもう知らねえと思ってんのに畜生! このまま放っておけるか馬鹿どもが!」
「そ、そえ」
「何でお前らはそうやって相手を思い遣ったつもりでいい気になってやがる!? 自分を好きにさせてみせるとでも言えねえのか! 言いたいことも言わないで、何のために神様が人間に口を付けたと思ってんだ! そんなんだから早く滅びる未来になるんだよ!」
「あの」
「どうでもいい建前なんて捨てて、さっさと素直になりやがれ!」
ふわっ、と体が浮く感覚がしたのはその瞬間だった。以前二度ほど味わったことのある感覚に驚いていると、すぐに目の前の景色がぐるりと切り替わった。
瞬間、私の体は宙に投げ出される。
「ひゃ」
「うわっ!」
体がどこか温かい物の上に落ちた。直後聞こえて来た自分以外の驚きの声に、私はぎくりと嫌な予感を覚えながら顔を上げる。
「み、観月さん!?」
何度か来たことのある部屋。その部屋の中で私はベッドに……正確に言うとそこに寝転がっていた宇佐美さんの上に落ちていた。
「あ――」
「もうこれ以上背中押さねえからな、バーカバーカ!」
背中から自棄になったようなそんな声が聞こえてぱっと振り返ったが、そこには既に誰も居ない。
「どうして急に……」
困惑した声が頭の上から聞こえて来て、釣られて顔を上げると至近距離で宇佐美さんと目が合った。
瞬間、私は気が付かないうちにぼろぼろと涙を流していた。
「宇佐美さん……」
「だ、大丈夫か! どこか痛いのか!?」
付いていけない状況にパニックになって、押さえていた気持ちが途端に溢れ出してしまう。急に泣き出すなんて面倒くさい女だと思われたくないのに、そもそも早く彼の上から退かなければならないのに、そんなことを考える余裕なんて全くなかった。
突然降って来て泣き出した女にも、宇佐美さんは嫌な顔ひとつしない。それどころかおろおろしながらも背中を擦って、ただただ心配そうな表情を浮かべるだけだ。その変わらない優しさに余計に涙が止まらなくなってしまう。
そして溢れ出した感情も、止まらなくなってしまった。
「……やです」
「観月さん?」
「い、や……です! 私、もっと宇佐美さんとっ、一緒に居たいんです……! 一緒に出掛けて、色んなことを話して、もっと、ずっと……」
泣きながら、何度も言葉が詰まっても必死に伝える。酷い顔を見られたくなくて両腕で顔を覆っていると、ずっと労わるように背中を擦ってくれていた宇佐美さんの手に急に力が込められた。
「っ」
自分の腕で何も見えない中で背中を押されるようにして、私は温かいものに包まれた。
「俺は」
耳元で聞こえて来た宇佐美さんの声に、抱きしめられたのだとようやく思考が追いついた。
「……俺は、また間違えたんだな」
「宇佐美、さん」
「今まで観月さんを不安にさせたり、怒らせたり……今度は泣かせて。いつも俺は間違えて、失敗してる。……だから、今から言うことも観月さんをきっと困らせる」
「何を」
「好きだ」
ひゅっ、と息が止まった。あまりに驚いたのか涙も一緒に止まり、私は乱暴に腕で顔を拭って彼を見上げた。
今まで一度も見たこともないくらいの優しい微笑みで、彼は私を見ていた。
「善意で一緒に居てくれる観月さんを困らせたくなかった。……いや、違う。俺が嫌われるのが怖くてずっと言えなかった。ずっと……観月さんが俺のことを知る前から、ずっと好きだったんだ……」
「ずっと、って」
「……引かれるかもしれないけど、小学校の頃から。初恋で、観月さんは俺のことなんて知らなかっただろうけど、卒業するまでずっと見てた」
小学校って……。それじゃあ同窓会の時に言っていたことは。
「大学に入ってからだって、ソエルが来るよりも前に電車で観月さんのことを見つけてた。だけど昔と同じように声を掛けることも出来なくて……ソエルにも言われた、俺は何も変わってないって。振られるのが怖いただの臆病者だって。その通りなんだ。だから今までもずっと伝えられなかった」
「宇佐美さん」
「ごめん、恋人でもないのにこんな風に抱きしめたりなんてして」
背中に触れていた熱が無くなり、宇佐美さんが体を離していく。だけど私は咄嗟に離れていく腕を掴んで、そしてそのままこちらから宇佐美さんの胸に飛び込んだ。
「!? み、」
「好き、です。私も、宇佐美さんのことが……」
思い切り固まった宇佐美さんを抱きしめながら、恥ずかしくて小さな声で言った。
「優し過ぎて、お人よしで、人のことばっかり優先して……心配にもなるけど、そんな宇佐美さんが好きです。だから今度こそ……本当の彼女にしてくれませんか?」
瞬きもせずに大きく見開かれた目に見下ろされる。口が小さく開かれたかと思えば、また躊躇うように閉じる。それを何回か繰り返した所で、宇佐美さんは赤い顔で「本当に」とようやく声を出した。
「俺なんかでいいのか」
「宇佐美さんじゃなきゃ駄目です」
「……その、宮本は、いいのか」
「宮本君、って……なんでそれ」
「悪い、この前の同窓会で見たんだ。あいつ、観月さんのこと好きみたいだったから」
ばつが悪そうに立ち聞きしたことを謝られるが、私も同じようなものだ。だからこそ、宇佐美さんが好きなのは他の誰かだと勘違いしてしまった。
「観月さんも昔あいつが好きだったって聞いて……俺は邪魔になるんじゃないかって思って、それで」
「それで離れようと?」
「……あいつと付き合ってる観月さんを、見たくなかったから逃げたんだ」
「あの……確かに宮本君には告白されましたけど、ちゃんと断りました。好きな人がいるからって」
「そう、か」
「なんか、すれ違ってばっかりですね。……私もあの時、宇佐美さんが小学校の時から片思いしていた子がいるって話、聞いちゃってたんです。だから帰りにああやって言われて、その子と付き合い始めたから私はいらなくなっちゃったのかな、と」
「違う! 俺が好きなのは」
「はい、今は分かってます」
焦ったように声を上げた宇佐美さんにそう言って、泣いたばかりなのに今度は小さく笑みが零れた。
「ソエル君に言われたんです。相手を思い遣ったつもりでいい気になってるって。言いたいことも言わないで、神様は何のために人に口を付けたんだって」
「確かに、な」
「はい、ちゃんと言えてればよかったんですよね。自分の気持ちを」
「……観月さん」
腕を掴まれて体を引き離される。そして姿勢を正して向き合うと、腕を掴んでいた手が私の右手を握った。
「ずっと前から、観月さんのことが好きでした。言うのが遅すぎたけど、どうか俺と付き合って下さい」
「……はい。私も、宇佐美さんのことが好きです」
手を握り返してそう言うと、宇佐美さんは赤い顔のまま――きっと私もそうだろうけど――ほっと息を吐いた。
自然と、そのまま距離が近くなる。目を閉じると肩に手を置かれたのが分かって――
「ただいまー! 兄ちゃん、靴あったけどつくし姉ちゃん来てんの?」
バターン、と思い切り音を立てて、部屋の扉が大きく開け放たれたのはその直後だった。
「あ」
「わう」
瞬間目を開けると、とてつもない至近距離で宇佐美さんと目が合った。そして首を動かすと、扉を開けたポーズのままぽかんとした顔の当真君と、尻尾をぶんぶんと振っているノブナガが視界に入った。
「と、当真」
「ごゆっくりいい!」
「わん!」
再びすごい勢いで閉まった扉と、そしてどたどたと大慌てで立ち去っていく足音。
「……あはは」
思わず乾いた笑いが漏れると、宇佐美さんががっくりと頭を落とした。
……が、すぐに彼の頭は上がり、両肩に込められていた力が増す。
「悪い」
「え、ちょっ」




