天使の話:一番大切なこと
「……」
つくしとのテレパシーを終えた俺は、僅かな間思考を止めていた。彼女から聞いた言葉の衝撃が大きすぎたのだ。
「あいつ、どういうつもりだ」
……いや、今はそんなこと考えている暇はない。こうしている間だって風真は苦しみ、つくしは泣きそうになっているのだろうから。
俺は踵を返し、先ほどまでいた上司の元へと全速力で羽ばたいた。
「大天使様!」
事情を説明した俺は必要なものを手早く揃え、緊急用の人間界への最短ルートを通る許可を得た。この移動ルートは通常の移動の約十分の一の時間で行ける代わりに天使の力を大きく消費する。万が一敵対された時のことを考えるとまずいが、とにかく今は時間が惜しかった。
「風真! つくし!」
「ソエル君!」
人間界へ降りたって即座に風真の元へと向かうと、自室のベッドで力なく倒れ伏している風真と、酷い顔をしたつくしがいた。彼女の隣には同じように元気の無さそうな飼い犬もいる。
「待たせた」
「私、どうしたらいいか分からなくて……どんどん宇佐美さんの体が無くなって、ずっと苦しんでて」
見れば、捲られている布団から見える風真の腕はもう無くなっているようだ。着ている服の長い袖の部分だけ抜け殻のようになっている。
「おい風真! 起きろ!」
「……そ、え」
「すぐに元に戻してやる。つくし、風真の頭を上げてくれ」
「分かった!」
声を掛けると呻きながら風真がすぐに目を開ける。恐らく苦しさのあまり眠っていなかったのだろう。つくしに指示を出し慎重に頭を上げさせると、俺は用意して来た水筒の口をそのまま風真の口元へ持って行った。
「飲め」
「っな、これ……げほっ」
「飲め」
一口飲んだ瞬間吐き出しそうになった風真の口を押えて無理やり水筒を傾ける。「ううううっ……!」と、言葉にならない悲鳴を上げているが無視した。
「飲まねえとホントに死ぬぞ、いいのか」
暴れ出しそうになっていた風真にそう告げると、ようやく動きを止めた。依然としてくぐもった悲鳴は上がっているが。
「そ、ソエル君……一体何を飲ませてるの?」
「俺特製、数々の辛い物詰め込んだミックスジュース」
「それ効くの!?」
「効くんだよ。……この症状の原因は特殊な毒草だ。魔力を膨大に増殖させる効果があるが、体の方がその増殖速度に耐え切れずに崩壊していく、一種の麻薬のようなものだ」
「魔力って」
「人間の体にも僅かに含まれている。この世界にも多少魔力を含む物体が存在するからな」
とはいえ魔力を使って何かができるほどの量ではない。出来たとしても本当に稀な存在だ。
「こいつは今多量の魔力に苦しんでいる。だからこそ、反対に全く魔力の存在しないものを体内に取り入れ、増殖を鎮静化する必要がある」
「魔力が無い物?」
「甘い物は比較的魔力が含まれているものが多い。逆に含まれていないのは……苦い物や辛い物だ」
唐辛子を始めとした辛い食材を手早くミキサーに掛けてブレンドした。うちにミキサーが無かったので勝手に同僚の家に入らせてもらったが、緊急事態なので多分許してくれるだろう。
「う、宇佐美さんの体が!」
風真を支えていたつくしが驚いて叫ぶ。効果が出始めたのか、体の拡散が止まり、徐々に腕が再生されていくのが分かったのだろう。腕が無くなったとはいえ拡散した粒子はまだ部屋の中に漂っている。魔力の増殖さえ止まれば、自然と体は元の姿を取ろうと風真に引き寄せられるのだ。
「し、ぬ」
命の危機から脱したはずなのにそんなことを言った風真は全部飲み干した瞬間につくしの支えから離れ、敷布団に顔を突っ伏した。効果が無くなるから吐くなよ。
「ソエル君! ありがとう!」
「……助かった」
「わん!」
ようやく明るい顔になったつくしと布団に埋もれながら小さな声で呟いた風真、そして俺のことは見えていないはずの犬が元気よく吠えた所で、俺は大きく溜息を吐いた。
間に合ったという安堵と、問題はこれからだという重荷。
「おい、いい加減にしろ。いるのは分かってるんだ。メル、出てこい」
「……え?」
「先輩がそう言うのなら」
俺の声につくしが首を傾げた。その直後、この場には姿が見えないやつの声が響き、そして俺の目の前にそいつ……メルは姿を現わした。
いつも通りの、笑顔で。思わず大きな舌打ちが出た。
「メルちゃん、いつの間に」
「どうしたんですか先輩? そんなに怖い顔して」
「メル……風真を陥れたのはお前、だな」
「なんだ、と……?」
げほげほと咳き込んでいた風真が顔を上げる。その目は酷く信じられないものを見るようだった。傍にいるつくしも同じ表情で、俺は目の前のにこにこ笑顔の胸倉を掴みたくなるのを堪えながら冷静に口を開いた。
「つくし、俺が離れてから風真が倒れるまで、何か口に入れたものがあるんじゃないか?」
「あ、ココアを」
「ココア?」
「……メルちゃんが、くれたんです。でも私も飲んだんだけど……」
「風真の物にだけ、毒を入れたんだろう」
メルは俺のことを何でも知っていると公言している。どうせ風真のことだってある程度調べてあるだろう。だからこいつが甘い物嫌いだということも知っていた可能性がある。が、それでも風真にココアを飲ませた。どうせ断れなかったんだろうが、それこそ想定済みだったのかもしれない。
毒を仕込めば当然味も多少なりとも変わって来る。風真だからこそ、嫌いなココアに微量の毒を入れても気付く余裕はないだろうと判断したのではないか。
実際にメルがどこまで知っていて、どこまで考えていたのかは分からない。だがこいつが本気になるとどこまでも突き抜けるのを知っている。
「この毒草は人間界には自生していないし、そもそも風真に何の処置もせずにここを離れたのが可笑しいんだ。この症状はお前もよく知っている。人間界にあるもので処置が可能だと分かっていたはずだ」
何しろこいつ、昔この毒草を直に食べたことがあるのだ。その時何日も苦い物や辛い物を食べさせられて苦しんだというのに知らないはずがない。
「どうなんだ。答えろ、メル」
「ほ、本当に、メルちゃんがやったの?」
そう尋ねるつくしは酷く戸惑っている。風真も同じように、困惑した顔をしながらメルに視線を送っている。
「先輩の言う通りです。でも陥れたなんて人聞きの悪いこと言わないでくださいよー」
だというのに張本人のメルは、全く動揺することなく笑顔でそう言った。
「こっちだってちゃんと気を遣ったんですから。即死しない程度に毒は薄めましたし」
「なんで、どうしてそんなこと!?」
「そんなの、勿論先輩の役に立ちたかったからに決まってるじゃないですか」
「俺、の?」
風真を苦しめることが俺の役に立つと、こいつは本気で言っているのか……?
「先輩が風真さんに恋人を作るために色々やっていたので、私もお役に立ちたかったんです! お化け屋敷の時は中々距離が縮まったんじゃないですか? でもクリスマスの時は生憎先輩が早く戻って来てしまったので中断せざるを得なかったですけど」
「っあの時も、メルが……」
「吊り橋効果って言うんですよね、危険になればなるほどドキドキしやすいって。映画でもそうですもん。たった二時間で人は恋に落ちる。病床で死に際に想いを伝えるなんてよくある展開じゃないですか」
「ふざけんな」
すらすらと話すメルに、自分でも驚くぐらい低い声が出た。
「お前は自分のしたことが分かっているのか。人の、命をなんだと思ってるんだ」
「勿論死ぬぎりぎりで止めるつもりでしたよ? でも多少の危険や苦労を乗り越えてこそのハッピーエンドじゃないですか」
「メル、お前は何も分かってない」
これはお前の大好きな作り話じゃない。
冗談ではなく本当に本気で話しているらしいメルに怒鳴ろうとする気さえ起きなかった。ただ、酷く冷たい感情があるだけだ。
「先輩?」
「お前は天使失格だ」
「え」
「天使として最も大事なことが欠けているお前を、俺は天使と認めない」
へらへらと笑っていたメルの笑みが固まった。「先、輩……」と僅かに動いた口が呟くが、俺は無言で冷ややかな視線を向ける。
こいつは悪気の欠片もなかった、それはつまり自分の行為が正しいものだと心から信じ切っているのだ。他人を傷つけることが間違っていないと、そう言っているのだ。
そんなの、悪いと思いながらやっているよりずっと質が悪い。
「ソエル、メル」
誰もが口を閉じて黙り込んでいたその時、この場で聞こえるはずのない声が響いた。
「すみません、勝手にお邪魔して」
「な……大天使様!?」
なんであんたがここにいるんだ!
突如部屋に現れたその人――大天使様に、俺は思わずそう叫んでしまいそうになった。見た目は人間でいうと二十代、腰までの長い銀髪と俺とは比べ物にならないくらい立派な翼が印象的な彼女は、一度俺とメルを見た後、軽く笑って風真達に向き合った。
「大天使様って確か、ソエル君の」
「上司です。ソエルから報告を受けて、そのまま私も同行して来たんです」
同行って、知らない間に勝手に着いて来ただけだろうに。俺達下級天使はともかく、大天使様レベルが人間界に来るってただ事じゃないぞ……。
大天使様がちらりとこちらを見る。俺が考えていることが分かったのか「ちゃんと上には報告しますから、後で」と微笑まれた。
「その、大天使、様? はどうしてうちに来たんですか?」
「勿論部下の過ちを正す為です。……謝って簡単に許されることではありませんが、私の部下が、大変なご迷惑をおかけしました」
「あ……いえ」
大天使様はそう言って風真達に大きく頭を下げる。突然のことに狼狽えた二人をよそに、彼女は頭を上げるとその顔を動かし黙ったままでいるメルに向けた。その表情は微笑んではいなかったものの、怒っているとも言い難いものである。
「メル」
「……はい」
「ソエルの言ったことは正しいです。今のあなたには大事なことが欠けている。メル、それが何なのか分かりますか?」
「わか、りません」
「……では、天使の使命が何か。これには答えられますか」
「神様の御使いとして、ご意志に従って働くことです。……でも、今回だって神様が人間に恋人を作ってほしかったんじゃないんですか。私、間違ってなんて」
「なら、どうして神様はそんな任務を与えたと思ってる? お前は神が何を望んでいるか分かってないからそんなことが言えるんだ」
「ソエル」
思わず口を出すとすぐに上司に窘められた。無意識に舌を打つ。それにメルがびくりと肩を揺らすのが見えたが、そのまま目を逸らした。
大天使様が静かにメルの両肩に手を置いた。
「確かに今回の任務は神様から与えられたものです。けれどメル、その神様が一番望んでいるのは……人間の、幸せです」
「幸せ……」
「ソエル達が人間のサポートをするのは、彼らの未来を守るためです。メル、あなたがどんなに天使として一生懸命働こうと、それが人の幸せに繋がらないのであれば……ましてや怪我をさせたり命を脅かしたりしたら、それは神の願いに背くことになります」
はっと、メルの瞳が零れ落ちんばかりに開かれた。
「あなたは間違えました、だからこそ罰を受けなければなりません。――天界の牢獄へ送ります。処罰は後程決定しますので」
「……はい」
大天使様が右腕を振り上げる。すると次の瞬間、メルの姿は跡形もなく掻き消えた。
この世界から消える直前、憔悴した目が俺を窺うように見た。




