私の話:SOS
「ただいま」
「おかえり……どうしたのあんた、元気ないけど」
「……なんでもない」
家に帰ってすぐお母さんにそう声を掛けられたが、緩く首を振ってそのまま自室へ入る。
ぱたん、と扉が完全に閉まると、私の口から思わず、という感じで言葉が零れ落ちた。
「嫌だなあ」
本当に、嫌だ。
メルちゃんはソエル君のことが好きだ。それは宇佐美さんだってソエル君自身だって勿論知っているだろうしこっちが唖然とするほど愛情表現だってすごい。それは分かっている。
それなのに、宇佐美さんと二人で帰る後ろ姿を見て嫌な気持ちが沸き上がった。本当に自分が嫌になる。
「……でも宇佐美さん、大丈夫かな」
暗い思考を振り払って顔色の良くなかった宇佐美さんを思い出した。スケートをしていた時は元気そうだったけど、また体調を崩したのではないだろうか。もしくは最初から具合が悪かったのにそれを隠していたのかもしれない。
気になるが連絡したら気を遣わせるかもしれないし、きっと何でもないとしか返ってこないと思ったので携帯を取り出そうとした手を止めた。
「そうだ、羽を」
ソエル君と宇佐美さんに言われたことが頭を過ぎって机の引き出しを開ける。そこにはソエル君から貰った真っ白な羽があり、私はそれをすぐに服のポケットにしまい直した。確か他の人には見えないと言っていた。……きっと葵ちゃんには見えるだろう。殆ど会うことはないが、あの子の前では出さないように気を付けなければ。
『悪いことは言わない、出来るだけ身に着けておいてくれ』
宇佐美さんはああ言っていたがどういうことだろう。この羽はソエル君と連絡が取れるらしいけど、どうしてもそうしないと困る事態に直面する可能性があるのだろうか。
「つくしさん!」
考え込んでいたその時、突然目の前に小さな光が現れた。それは息つく暇もなく大きく膨れ上がり、そして人型を作って弾けた。
そこに現れたのは、先ほど別れたメルちゃんだった。ただし今は以前に見た天使の姿だ。
「メルちゃん?」
「大変なんです! すぐに来て下さい!」
「なにが――」
あったのかと尋ねる前に体がふわりと浮き上がる感覚がした。それと同時に視界がチャンネルを変えるように切り替わり、我に返った時には見知らぬ部屋の中に居た。
ただし見慣れないのは部屋だけだ。部屋の中にあるベッドには、つい先ほどまで一緒にいた宇佐美さんが酷く苦しげに息を吐いて眠っていたのだから。
「う、宇佐美さん!」
大丈夫かなと心配していたが、想像よりもずっと辛そうだ。
「辛そうだったので家までテレポートしたんですけど、すぐに倒れちゃって……」
「早く病院に……!」
「いえ、つくしさん。それは待って下さい」
「どうして!」
「これを、見て下さい」
焦る私を宥めるようにそう言ってメルちゃんが宇佐美さんに掛かっている布団を少し捲り上げる。
次の瞬間、私は絶句した。
そこにあるはずの宇佐美さんの右手がぽっかりと消えて無くなっていたのだ。
「な、に、これ」
「体が徐々に透明化……いえ、拡散し始めています。明らかに人間界の病気じゃありません」
何で、どうして急にこんなことに。
なんで、なんで、とそれだけしか考えられない。何で宇佐美さんがこんなに苦しまなければいけないんだ。
「メルちゃん、どうしたら……」
「突然こんな風になった原因は必ずあります。人間界の病ではないのなら、もしかしたら天界に行けば治療法が分かるかもしれません」
「天界に」
「私が今から天界まで行って治療法を探してきます。つくしさん、それまでどうか風真さんのことをよろしくお願いします!」
狼狽える私に頭を下げたメルちゃんは、次の瞬間また光になって姿を消した。声を掛ける間もなかった。
残ったのは魘されるように苦しむ宇佐美さんと、途方に暮れた私と、沈黙だけが残る部屋だ。……いや、扉の外からゴンゴンと叩くような音が聞こえているのに気付いて、私はふらふらと扉を開けた。
「くうん」
「ノブナガ」
扉の外で力なく高い鳴き声を上げていたのはノブナガだった。私が扉を開けるとするりとその体を部屋の中に滑り込ませて一目散にベッドまで走る。
「ノブナガ、駄目!」
しかしノブナガは宇佐美さんに飛び掛かることなくすぐにスピードを落とすと枕元で座り込んだ。そして鳴くこともなくじっと鼻先を宇佐美さんに近付いて大人しくしている。
私も扉を閉めるとベッドの傍まで向かい、ノブナガの隣に座り込んだ。じっと宇佐美さんを見るノブナガは、この状況を理解しているかのように見えた。
「ノブナガも宇佐美さんが心配なんだね……」
「くう」
「……う……ん」
ノブナガが私に答えるように小さく鳴くと、それに反応するように宇佐美さんが小さく呻いた。そして強く顰められていた表情が僅かに動き、数秒後に重たそうな瞼がゆっくりと上がって行った。
「み、づ……」
「宇佐美さん!」
「俺、は」
目だけで私達を見た宇佐美さんは少し驚いたような顔をして、しかしすぐに苦しみ始める。
「俺は、どうなって」
「……大丈夫です。メルちゃんが治療法を探しに行ってくれました。きっとすぐに治ります!」
体が消失し始めているなんてとても苦しんでいる宇佐美さんに伝えることは出来なかった。
少しでも安心させたくてその手を握ろうと手を伸ばした私は……握る手すらないことに気付いて愕然とした。
「からだ、が、動かないんだ。全く、感覚が」
「宇佐美さん……」
「おかしいよ、な、さっきまで普通、だったのに」
途切れ途切れにそう言った宇佐美さんが泣きそうな顔で小さく笑った。言葉も返せない私の代わりに、ノブナガが甲高い声で小さく鳴いた。
「お前、も、心配して、くれてんの、かな」
「わうん……」
「ありがとな。……み、づきさん、頼みが」
「私に出来ることならなんでも!」
何も役に立たない、手を握って力付けることも出来ない。だからこそ、私が出来ることならなんでもする。少しでも役に立てるなら。
「そ、える」
「ソエル君?」
「伝えて、くれ」
それだけ言うと宇佐美さんは酷く疲れたように目と口を閉じた。
「ソエル君に……」
はっとしてすぐにポケットを漁る。そこから出て来た白い羽を両手で握りしめた私は、祈るようにして必死にソエル君の名前を呼んだ。
「ソエル君! 気付いてソエル君っ!」
ソエル君は、宇佐美さんはこんな事態になることを予測していた? だから羽を持つようにと言ったのか。
分からないけど、今はとにかくソエル君に呼びかけるしかなかった。
“……つくしさん?”
どこからか……頭の中に幼い声でそう聞こえた気がして、勢いよく顔を上げた。
「ソエル君! 宇佐美さんが!」
“……風真に何かあったのか”
「大変なの! 急に倒れて、体がっ」
ソエル君の声に堪えていた涙が零れ落ちる。声も震えて上手く話せなくなって、早く伝えなければいけないのに言葉にならない。
“落ち着けつくし。落ち着いて、詳しい状況を伝えろ”
「っ」
“風真が、倒れたんだな? どういう状態なんだ”
「……帰りに顔色が悪くなって、それで家で倒れたって言ってた。体が、拡散してるって。手がもう消えてて、すごく苦しそうで」
“拡散、だって?”
つっかえながら深呼吸を繰り返して宇佐美さんのことを話す。しかしソエル君は私の話を聞き終えると急に険しい声で黙り込んでしまった。嫌な沈黙にどくどくと心臓が軋んでいく気がする。
“メルは”
「メルちゃんは天界に戻るって言ってました。人間界の病気じゃないから、天界なら治療法が見つかるかもしれないから探すって」
“……なんだと”
冗談だろ、と低い呟きが聞こえた。
「ソエル君も天界にいるんだよね。その治療法って分からないの?」
“……つくし”
「うん」
“すぐに戻る。風真のことは俺がどうにかしてやるから、お前はこのままあいつの傍に居てやってくれ”
「どうにかするって……ソエル君? ソエル君!」
まるで電話が切れたように、頭の中で何かが途切れた感覚がした。そしてそれ以上、何度呼びかけてもソエル君から返事が来ることはなかった。
「……宇佐美さん」
「ぐ……う……」
「大丈夫です……絶対に、大丈夫ですから」
自分に言い聞かせるように呟いて彼の額に触れる。思わず手を引いてしまいそうなほどの冷たさに、私は体温を分け与えるように触れ続けた。ノブナガも、冷たいであろう頬を温めるように舐め続ける。
「み、づ……き、さ」
「ちゃんと、ここにいます」
ソエル君、お願いだから早く。




