俺の話:危機
「哉太どいて! ぶつかる!」
「安心しろ亜紀、俺がちゃんと受け止め――」
ぐはっ、と言葉の途中で三波が彼女に吹き飛ばされた。
以前大学祭に行ったメンバー、つまり三波達と俺と観月さんの四人は、年明けにスケートに来ていた。
「あの、三波さんすごい音しましたけど……」
「あいつは丈夫だから平気だ。ほら、もう復活してる」
ドゴ、と氷に頭を打ち付けた三波を観月さんが心配そうに見るが、当の本人は元気そうだ。今も「亜紀、どこも怪我してないか!?」と大声で尋ねている。
「……」
三波達の方を見ている観月さんを気付かれないように窺う。彼女の手には、クリスマスの時の手袋がはめられていて、それを見る度につい顔が緩んでしまう。
しかし彼女を見て思い出すのはそれだけではない。嫌でも頭に過ぎるのは、先日の正月のことだった。
「兄ちゃん大変だ!」
正月、酒で泥酔した親戚にさんざん絡まれてぐったりしていた所に当真が血相を変えて駆け込んで来た。
「つくし姉ちゃんが何かかっこいい男とデートしてた!」
……はあ!?
今、当真は何と言った。観月さんが、誰かと、デート、してた……?
「何かの間違いじゃないか」
思わず真顔になって開口一番にそう言ってしまった。願望がつい口から零れたのだ。
しかし当真はぶんぶんと大きく首を横に振った。
「相手の男がデートって言ってたんだよ! そんで兄ちゃんに、もたもたしてると奪ってやるって伝えろって!」
「……」
あまりの衝撃に言葉も出なかった。
付き合っている男がいるのか、と観月さんに尋ねてしまいたい。だが聞いたら聞いたで、それが真実だったら立ち直れる自信もない。
当真がかっこいい男と言っていた。きっと俺なんかじゃ足元にも及ばないような男なのだろう。苦々しい気持ちばかりが心の中に沈殿していく。
「観月さん」
「どうしました?」
だがどうしても気になって聞かずにはいられない。さっきから気になり過ぎて何度も転んでしまっている。観月さんに恋人が出来ようが俺が口を出す問題じゃないと分かっている。だけど。
頼むから否定してくれ、と願いながら俺は彼女に声を掛けていた。
「その、正月に当真が」
「誤解です!」
随分と食い気味に言葉を遮られた。
「え?」
「いやだから、当真君が色々誤解してるんです! 付き合ってないですから!」
捲し立てるように言葉を重ねる観月さんに、俺は一瞬唖然としながらもその言葉を頭の中で反芻し、理解しようとした。
男はデートだと言っていたらしい。しかし観月さんは付き合っていないと言っている。
「付き合っていないのなら、当真が見たっていう男は何なんだ?」
彼氏面かよ、と自分でも思いながらついそう言ってしまう。
「もしかして言い寄られてる、とか」
「違います! というかやっぱりソエル君から何も聞いてないんですか!?」
「ソエル?」
「一緒にいたのはソエル君ですよ。ちょっといつもの姿じゃなかったですけど……」
正月にソエルが観月さんと一緒に居た。……当真に見えたということは天使の姿ではなく、以前俺の姿になった時のように変身していたのだろう。
そう考えればその男が言っていたという俺を挑発するような言葉の意味も変わって来る。クリスマスに告白しなかったことを散々怒られたばかりなのだ、発破を掛けられたとしか思えない。
はあ、と息を吐く。疲労と安堵、どちらの意味でもだ。
「ソエル君が当真君に出鱈目言うから、ちゃんと誤解を解いてほしいって言ったんですけどね」
「僕を呼びましたか?」
ぱっ、と俺と観月さんの間にソエルが現れる。その手にいつの間に用意したのか暖かそうなココアを持って。
そのままココアを口に運び「やっぱり寒い所で飲むココアは最高ですねー」と呑気に言った天使に頭痛がした。
「……ソエル、お前」
「そえるって誰だ?」
「あ」
観月さんが小さく声を上げて俺の背後を見る。まずい、と思いながら振り返ると、そこには楽しそうな顔をした三波達がいた。普段は真逆なのにこの恋人たちはそっくりな表情をしている。
話を聞かれた。何かやばいことは口走らなかったかと不安になる。多分天使とは口にしなかったとは思うが……。
「よく分かんないけどそのそえるって人と宇佐美が観月さんを取り合ってるってことか?」
「な」
「だからもうどうしてそうなるんですか!」
「えーでも、ちらっと聞いた感じだと三角関係っぽかったから。なあ亜紀」
「そうそう」
頷き合う三波達に必死に否定する観月さん。俺はというと、ソエルのことを変に知られた訳ではなさそうなのでもう否定もしようと思わなかった。だが二人とも誤解とはいえ他人ごとだからって本当に楽しそうだ。
「こんなことなら変身した時つくしに正体がばれないようにした方がよかったかもな」
「……絶対に止めろ」
ソエルにしか聞こえないようにそう言って軽く睨む。また他に男が出てきたら本当に心臓に悪いからやめてくれ。
「そういえば風真、いいこと教えてやろうか」
「?」
「実はな、人間の姿に変身したって言ったけど、その前に一度お前の姿でつくしに会ったんだ」
こいつまた勝手なことを……! というか一体俺の姿で何をしたんだ。
人前なのでこのまま怒れないのがもどかしい。
「いや、つくしの姉ちゃんがお前に会いたいって言ってたから俺が代わりに行ってやったんだよ。お前親戚に絡まれてて動けなかったし」
「……」
「でもつくしのやつすぐに見抜いたぞ。お前じゃないって」
「え」
「口調には気を遣ったつもりだったがばれた。あいつ、お前のことよく見てるな」
「……そう、か」
未だに三波達に弁解している観月さんを窺う。そうしていると、つい笑みが零れた。
スケート場から出ると「こっからは俺達デートだから」と三波がさらりとそう言って俺と観月さんは二人と別れた。観月さんはこのまま帰ると言っていたので俺も一緒に電車に乗り込む。
「風真、つくしを家に呼べよ。今日一人なんだろ?」
「……」
電車内の話し声に紛れるようにソエルが耳打ちして来るが黙殺する。確かに今日はうちに俺一人……いや、ノブナガはいるし、ソエルもいるが。とにかく人間は一人だ。父さんは元々単身赴任中、当真は友達の家に泊まって冬休みの宿題のラストスパート、もとい写させてもらう、母さんは当真が居ないのでせっかくだからと友人と一泊の温泉旅行だ。
しかしだからって観月さんを呼ぶとか、そんなことなら告白の方がまだ出来る。……じゃあすぐにやれよと言われるので言葉にしないが。
「そういえば宇佐美さん、同窓会の話聞きました?」
「ああ」
声を掛けられて思考を遮断する。小学校の同窓会を今月末にするというのだ。
「行きます?」
「せっかくだから俺は行こうと思ってる」
観月さんに再会出来ていなければ勿論絶対に行ったが、現状でも懐かしい顔を見たい。
「観月さんは?」
「私も久しぶりに友達に会う予定つもりなので」
「そうか」
「この前久しぶりに電話して、同窓会で会うのが楽しみなんです」
にこにこと笑う彼女に、「それは女友達か」とは聞きづらかった。小学校の頃を思い出しても、観月さんは普通に男友達も女友達もいたようだったから。
「……」
観月さんに気付かれないように小さく溜息を吐く。聞きたいことも碌に聞けない。結局俺はソエルが来る前と全然変わっていないのだ。ただ密かに彼女を窺っていた、小学生の頃からまるで進歩していない。
「宇佐美さん? どうかしましたか」
「……いや、なんでも」
一体いつまで、俺はこのままでいるつもりだ。
「こんにちは!」
内心酷く落ち込んだ俺に明るい声が掛かったのはそんな時だった。
平日よりは乗客も少ない電車内、その中で真っすぐに俺達に向かって挨拶をしたのは小柄な女の子だった。
まるで見覚えのない子だ。ウェーブの掛かった金髪に帽子を被り、元気の良さそうな笑みを浮かべる女の子。観月さんの方を見てもきょとんとした顔をしていた。
「こ、こんにちは」
「風真さん、つくしさん、この前ぶりです!」
「あの、どこかで会いました?」
「はい! 前も同じように電車で」
名前を知られている、ということは人違いじゃない。それなのに全く該当する人物が頭に浮かんで来なかった。
一体誰だ、と尋ねようとした所で、隣から重たいため息が聞こえて来た。
「……メル、何のようだ」
「あ、やっぱり先輩には分かっちゃうんですね! 愛の力ですか?」
「ふざけんな」
「私も先輩のことならなんでも分かりますよ! 例えば……甘い匂いがするからさっきココア飲みましたね?」
「……はあ」
メル、というとこの前一度来た天使の女の子の名前だ。ソエルの言葉に驚きながら改めて彼女を見ると、確かにくるくるとした金髪や笑顔にどことなくメルの面影を見る。
「メル、ちゃん? あの、どうしてその姿なのかな」
「この方がお二人と普通に話せるじゃないですか。それについでに映画のDVD買いに来たんで」
「映画?」
「こいつ人間界の映画鑑賞が趣味なんだよ。部屋の中から溢れるくらい買ってやがる」
「また一緒に見ましょうね、先輩」
「二度と見ねえって言ってんだろうが」
「もー。あ、そういえば先輩、言い忘れてたんですけど」
「なんだよ」
「上司さんが至急戻って来いって言ってましたよ」
「それを早く言え!」
周囲に気を遣ったのか上司という言葉を使ったメルに、ソエルは即座に声を上げた。それが本題だったのだろう。この前もその上司らしい大天使様の伝言を言いに来たのだし。
「……分かった、すぐに戻る。風真、つくし」
「なんだ?」
「あれ、持ってろよ」
俺と観月さんの方を見てそれだけ言ったソエルは、そのまますぐに電車の中から姿を消した。俺はそっとソエルの羽が入った鞄に触れる。
「じゃあここからは、私が先輩の代わりになりますね!」
「え?」
ソエルと一緒に戻るかと思ったメルが元気よくそう言った。
「私がちゃーんと風真さんのサポートをしますから、安心してください!」
「あ、ありがとう」
強い笑顔に押されるように頷く。ソエルに対する態度もそうだが、この子は随分と押しが強い。
「……観月さん?」
「あ、いえ何でもないです」
そのメルの横で、何故か観月さんは少し不安げな表情を浮かべているように見えた。
「メルちゃんってソエル君の後輩なんだよね? 天使ってどうやってなるの?」
帰り道、観月さんのマンションまでの道を珍しく三人で歩く。観月さんはもういつも通りの表情に戻っていて、興味津々にメルに質問を投げかけていた。
「死んだ人間の魂の中で、天使になれる素質のある魂を選んで新たに天使として生まれ変わらせるらしいですよ。大天使様が言ってました!」
「え、じゃあメルちゃんもソエル君も人間だったの?」
「勿論その頃の記憶はありませんけどね。今の私はただのメルですから。……あ、ちょっと待っててください!」
メルは突然そう言って駆け出す。一体何だろうかと思っていると、彼女は自販機の前で止まり何か飲み物を買っているようだった。
「あの、宇佐美さん」
「どうした?」
「ソエル君が言ってたあれって」
「ああ、クリスマスの時の羽のことだ。持ってるか?」
「いえ、今はうちに置いてあります」
「……悪い事は言わない、出来るだけ身に着けておいてくれ」
観月さんは知らないが、ソエルが居ない時にまた何か起こるかもしれないのだ。俺の言葉に彼女は不思議そうにしながらも頷いた。
「はい、お二人ともどうぞ!」
メルがたたた、と駆け足で戻って来る。その手に三つのココアを手にした彼女は俺と観月さんに一つずつそれを渡した。反射的に受け取ってしまったが、生憎俺は飲めない。
「お近づきの印です!」
「いいのメルちゃん?」
「はい、私も飲みたかったので」
財布を出そうとする俺達に笑顔で首を振ったメルは自分の分のココアの缶を開けてごくごくと飲み始めた。それを見ていた観月さんも釣られるように飲み始める。
「風真さんは飲まないんですか?」
「いや、俺は」
「あれ、宇佐美さんってココア苦手でしたか?」
「そんなことは……」
そんなことはある。
「先輩が好きなものをお二人と共有したかったんです。駄目でした?」
「……ココアは好きだ。メル、ありがとう」
「はい!」
が、結局俺はそう言って缶を開けるしかなかった。
「それで先輩、もう二度と一緒に見るかーって怒っちゃって」
「だからソエル君ホラー苦手だったんだ」
「でもすっごい面白かったんですよ。今度つくしさんに貸しましょうか?」
「……」
和やかに話す二人の横で俺は終始無言を貫いた。気持ち悪い。胃の中で嵐が巻き起こっている気さえする。以前のアイスでも懲りたというのに同じ轍を踏むとは……。
「宇佐美さん、体調悪いんですか?」
「ちょっと、な。大したことないから」
疑いの目をする観月さんから逃れるように視線を逸らす。そんな俺達を静かに見ていたメルが「あ」と声を上げた。
「つくしさんの家、あそこですよね」
「よく知ってるね」
「先輩に関係する方ですから!」
「ソエル君のことだけじゃないんだ……」
待て、それが本当ならもしかしてメルは俺が甘い物嫌いって知ってたんじゃ……。しかし観月さんの前ではそれを問い質すことも出来ない。
「送ってくださってありがとうございました」
「いや、それじゃあまた今度」
「風真さんはこのメルがしっかり見守りますので」
「……うん、よろしくね」
何か言いたげに口を開いた観月さんだったが、けれどそのまま微笑んで小さく手を振るだけだった。
「……っ」
「風真さん、大丈夫ですか?」
観月さんと別れた途端にどっと体が重くなるのを感じた。どうやら彼女の前では無意識のうちに見栄を張っていたようだ。真冬だというのに汗すら出てきそうで、気持ち悪さがどんどん悪化していく。
嫌いとはいえココアを飲んだだけでここまで酷いことになるとは。いや、もしかして今まで飲まなかったから気付かなかっただけで俺は何かアレルギーでもあったのだろうか。
「はあ……はあ」
「自宅までテレポートしましょうか?」
「……頼む」
正直家まで自力で帰れるとは思えなかった。ふわりと浮遊感を感じ、内臓が浮き上がる感覚に思わず吐きそうになったが全力で堪える。すると数秒も立たないうちに足が着いた。重たい頭を上げるとどうやらうちの玄関のようだった。
と、そこへどだどだと足音が聞こえてきた。家族はいないので、案の定その音の発生源は我が家の犬だった。
苦手なものを飲んで更に苦手なものがやって来る。気力もなく上がり場に膝を着くと、廊下の影からノブナガが出て来た。
「くう……」
しかしいつものように飛び掛かって来ることはなかった。それどころかゆっくりとこちらへやって来ると、まるで俺を心配するようにすり寄って来たのだ。
「ノブナガ……」
動物の温かさに思わず安堵した瞬間、視界がぐるり回転した。気が付けば天井が目に映って、俺は体に力を籠めることも出来ず、そして意識を手放した。




