私の話:犬と雨
「……さむ」
十一月半ばともなると随分冷え込んで来て、日が落ちるのも早くなる。六時少し前に電車から降りるともう外は真っ暗だ。
「すみません!」
そう声を掛けられたのは、早く家に帰って温まりたいと思っていた矢先だった。
私が振り返った先に居たのは、小学生らしき男の子……と、その子の隣におすわりする犬である。
「? 何か用?」
「あの、犬好きですか!」
「犬? 好きだけど……」
「じゃあ、こいつ飼ってもらえないですか?」
男の子の声に反応するように、大人しくしていた犬――多分ラブラドールレトリバー――がひとつ「わん」と鳴いた。立ち上がってこちらへやって来るので思わず頭を撫でる。可愛い。
「君の犬じゃないの?」
「そこの空き地に捨てられてて……通る人に飼えないか聞いてるんだ」
「そっか……」
「本当は俺が飼いたいけど、うちの兄ちゃんが犬嫌いで」
「ごめんね、うちのマンションペット禁止なの」
「駄目かー……」
がっくりと肩を落とした男の子に罪悪感が沸くがどうしようもない。落ち込んでいるのが分かるのか、犬も男の子の足元にすり寄り「くうん」と甘えた声を出した。
「ごめんな」と男の子が力なく首元を撫でると、ぺろぺろと顔を舐め始める。彼がくすぐったそうに笑うと、犬は更に顔中を舐めた。
「もうやめろって!」
「随分懐いてるね」
「ちょっと前から餌だけやってたんだ。だけど冬になるし、いい加減飼い主見つけないと……うーん、やっぱり」
「?」
「やっぱり、俺が飼いたい! 兄ちゃんはどうにか説得してやるから安心しろ!」
「わん!」
「わ、だからやめろよー!」
顔を涎でいっぱいにしながらも嬉しそうな男の子は私の方に向き直ると、少し恥ずかしそうに「えっと……お騒がせしました」と言った。礼儀正しい子だ。
「じゃあ俺、帰るから」
「あ、待って。こんなに暗いのに一人で帰るなんて危ないよ」
犬がいるとはいえ小学生が一人で夜道を歩いて、もし何かあったら大変だ。初対面だが、このまま知らぬ顔をして帰るのも躊躇われた。
「よければ一緒に行こうか?」
「……でも、知らない人に着いて行ったら駄目だって言われてるしなあ」
男の子はそう言って悩む。しかし数秒後、ぱっと顔を上げたかと思うとにか、と私に笑いかけて来た。
「まあ姉ちゃんいい人そうだしいっか!」
「……うん」
それでいいんだろうかこの子。ちょっと今後が心配になる。
捨てられていた時に繋がられていたというリードを男の子が手にして歩き出す。鼻歌を歌いながら軽快に歩いており、非常に楽しそうだ。
「こいつの名前何にしよっかなー。……あ、そういえば姉ちゃんの名前は?」
「観月つくしだよ」
「つくし……こいつっぽくないなー」
「犬の名前の参考にされても困るんだけど……。君は?」
「俺は宇佐美当真。小学三年生!」
「え?」
宇佐美?
男の子が名乗った名前に、私は一瞬思考を止めた。その苗字と同じ名前のあの人が頭に過ぎった。
そういえば、弟の名前は当真だと言っていなかったか。
「……ねえ、当真君のお兄さんの名前ってもしかして、風真?」
「ん? 何で知ってんの?」
「やっぱり。知り合い、だと思う」
同姓同名、というには状況が一致し過ぎている。兄弟の名前まで一緒だとか、年が離れているだとか。宇佐美さんが降りる駅は私が降りる駅の次だと言っていたから、家も近いのだろうし。
当真君は足を止めてきょとんと目を瞬かせて私を繁々と眺めた。催促するようにリードが引っ張られたことに我に返った彼は「マジで?」と口にしながら歩みを再開する。
「大学生だよね?」
「うん。あのひょろっと伸びた……それこそつくしとかもやしみたいな兄ちゃんだけど」
「合ってると思う」
失礼ながらに頷くと、当真君は何だか妙に嬉しそうに「そっかー」と笑った。
「兄ちゃんあんまり友達とか他の人のこと喋らないから心配だったんだ」
「大丈夫だよ。大学にも友達いるみたいだし」
年の離れた弟にこんな心配をされていることに宇佐美さんは気付いているんだろうか。
「あ、そういえば聞きたいんだけど、最近兄ちゃん何か変な気がするんだ。姉ちゃんそう思わねえ?」
「変ってどんな風に?」
「急に独り言が増えたり、よくぼーっと上の方見てたり。なーんか隠してる気がして」
あー、と私は声に出さずに納得した。考えるまでもない、十中八九ソエル君の件だ。この前も三波さんに怪しまれたし、宇佐美さんって多分あんまり隠し事は得意じゃないのだろう。
「……さあ、知り合ってそんなに経ってないし、私はよく分からないかな」
「ふーん」
じっとこちらを見る目はどこか疑っているようにも見える。私は誤魔化すように笑いながら、話を戻して犬の名前の候補について話し始めた。
「ここ! 俺のうち」
結局名前が決まることなく家に着いてしまった。外から見ると結構大きな一軒家で、確かに表札には宇佐美と書かれている。当真君は右手にリード、そして左手で私の腕を掴みながらそのまま玄関の扉を開けた。
「ただいまー!」
「当真! あんたこんな暗くなるまでどこ行ってたの! ……って」
当真君が元気に声を上げると、家の中からお母さんであろう人がすぐに小走りでやって来る。そして当真君を叱るとすぐにお母さんは犬と私を交互に見て首を傾げた。
「ええっと、その子は?」
「暗いからって送ってもらった。つくし姉ちゃんは兄ちゃんの友達なんだって」
「風真の? ごめんなさいね、当真が世話を掛けて」
「いえ、勝手に上がってしまってすみません」
「母ちゃん、この犬捨てられてたんだ。飼ってもいい?」
「飼う?」
お母さんは連れて来た犬をじっと見つめる。玄関に入ってからまだ一度も鳴かずに大人しく座っている犬としばし目を合わせた後、「可愛い!」と大きな声を上げて背中を撫でた。
「お利口さんねえ、可愛い可愛い」
「母ちゃんいい?」
「勿論! この子は今日からうちの子です!」
犬嫌いだという宇佐美さんを待たずに即答しているがいいんだろうか。テンションの上がっている親子に口も挟めずに眺めていると、ふと階段を降りて来る足音が聞こえて来た。
「当真、やっと帰って来た……な」
案の定、宇佐美さんだ。彼は階段を降りた直後玄関の光景に目を疑うようにぎょっとした。
「あ、お邪魔してます」
「観月さん!?」
「あ? つくし……さん? なんでここに」
彼の後ろからふよふよと着いていたソエル君も同じように驚いている。というか、別に呼び捨てでも何でも構わないんだけどな。
ソエル君がそのままこちらへやって来る。が、宇佐美さんは階段の前で動くことなく立ち往生していた。
「その、犬は」
「ああこの子、うちで飼うことになったから」
「兄ちゃん、嫌いなのは分かってるけど、ちゃんと俺が世話するから許して!」
その時、不意に座っていた犬がすくっと立ち上がった。当真君たちの視線で宇佐美さんに気付いたらしい犬は彼をじっと見た後、そのまま玄関を上がり床に飛び乗った。
「お、おい来るな」
じりじりと後ずさりする宇佐美さんに合わせて犬もぐいぐいと彼の方へ向かう。次の瞬間、「わん!」と一声鳴いた犬は大きく跳躍して宇佐美さんに飛び掛かっていた。
「や、止めろって!」
言葉は先ほど顔を舐められていた時の当真君と一緒なのに、こちらは顔を真っ青にしている。しかしそんなことをまるで意に介さず、犬はじゃれるように大きな体を宇佐美さんにぶつけ、そのまま倒れた彼の顔を舐め始めた。
「や、ホントにやめ」
「何だよ、会ったばっかりなのに兄ちゃんに一番懐いてるじゃんか!」
「風真は昔から動物に好かれるからねえ」
「あいつ今にも死にそうな顔してるな」
「……あの、止めなくていいんですか?」
三者三様に呑気に感想を口にしているが当の宇佐美さんは本当に死にそうな顔だ。助けを求めるように伸ばされた手を見て、私は少し迷った末に「すみません、ちょっと上がってもいいですか」とお母さんに確認を取ってから靴を脱いで宇佐美さんを助けに行った。
「わうん……」
「こら、大人しくして」
大きな体を何とか宇佐美さんの上から退かすと、「わんちゃん足拭こうね」とお母さんが家の中から雑巾を持って来た。俺が拭く! と雑巾を受け取った当真君に犬を預けると、のろのろとした動きでようやく宇佐美さんが起き上がった。
「宇佐美さん、大丈夫ですか?」
「あ、ああ……何とか」
「風真、犬なんか怖いんですか? へえー」
「……」
にやにやと笑うソエル君を見て、私にしか聞こえないくらいの声で「お前だってホラー駄目だろうが」と宇佐美さんが軽く彼を睨んだ。
「……また、助けられた」
「何のことですか?」
「何でもない! ……ところで、何で観月さんがうちに」
「帰りに当真君に会って。それでもう暗いので家まで一緒に来たんです」
「そうだったのか。観月さん、弟が迷惑を」
「なーなー兄ちゃん、飼ってもいいだろ?」
「いいも何も既に決定事項なんだろうが……。なるべく俺に近付けないでくれ」
「分かった!」
「わん!」
当真君に合わせて鳴いた犬は勿論まるで分かっていないように宇佐美さんに飛びつこうとするが、当真君とお母さんが必死にリードを引っ張って何とかそれを防ぐ。
「風真、その子……つくしちゃん? 送ってあげなさい」
「分かってる」
「え、いいですよ。そんなに家も遠くないですから」
「何言ってるの。子供もだけど女の子も、夜道を一人じゃ危ないって」
いいから、と背中を押された宇佐美さんが靴を履く。一応再度確認するように彼を見上げると静かに頷かれた。
「それじゃあ風真、頼むわよ」
「姉ちゃんまたな!」
「わん!」
「お邪魔しました」
見送りに頭を下げて家の外に出る。が、直後「風真!」とソエル君が声を上げた。二人揃って振り返ると、そこには傘立てを指さすソエル君がいる。
「傘、一本持って行って下さい」
「傘? だが」
「いいですから」
今日は雨が降るなんて天気予報では言っていなかった。むしろ一日中快晴だと言ってきたのだが、とにかく持って行けと強く言うソエル君に押されるように宇佐美さんは一本の黒い傘を手に取った。
「家は確か、あっちの方だったよな」
「はい。……あれ」
「どうしたんだ?」
「いや、ソエル君は着いて来ないんだと思って」
少し歩いた所で振り返ると、いつも宇佐美さんの頭上を飛んでいる天使はどこにもいなかった。勝手に着いてきていると思っていたのだが、家にいるのだろうか。
同じように背後を振り返ってきょろきょろと辺りを見回した宇佐美さんは「あいつが着いて来ないと嫌な予感するな……」と小さく呟く。
「……そういえば、あれから何にもないか? 変なこととか」
「いえ、特に何も」
あれから、と言われてすぐに思い当たるのは当然この前のお化け屋敷のことだ。あの時は外に出た瞬間に人前で号泣してしまって今思うと非常に恥ずかしい。亜紀達にも迷惑かけてしまったし、こんな年になってまであれだけ泣くとは思っていなかった。
しかしそれからは何事もなく生活している。夜だって特に悪夢すら見ずに熟睡である。どうやら私は昔から、色々と大変なことが重なってキャパオーバーになると大爆発してしまうのだが、後には引かない性質らしい。
「宇佐美さんって犬嫌いなんですか?」
「……嫌いというか、苦手だ。猫とかはまだいいんだが、犬は昔からすぐに飛び掛かって来られて」
「さっきの勢い、すごかったですもんね。好かれてるみたい」
「できれば、もう少し大人しいやつだったらよかったんだが」
「宇佐美さんが来るまで結構大人しくていい子でしたよ」
「何でなんだ……」
がっくりと肩を落とす彼に思わず小さく笑ってしまう。宇佐美さんのお母さんも言っていたが、本当に動物に好かれるのだろう。
「あ、ここ」
そのまま他愛のない雑談を続けていると、うちと宇佐美さんの家の中間辺りで懐かしいものを目にした。何のことはない、私が昔通っていた小学校だ。最近あまりこの辺は通らなかったので本当に久しぶりに見る。
「私、この小学校の卒業生なんですよ。……あれ、でも家があの辺りってことは宇佐美さんももしかしてここでした?」
引っ越していなければ宇佐美さんの家はこの学区内にある。ふとそこまで考えて問いかけてみると、彼は僅かに言葉に詰まった後頷いた。
「え、ってことは同級生? すみません、全然覚えてないです。宇佐美さんは覚えていましたか?」
「……俺は」
彼が口を開いたその時、急にぽつ、と一粒の水が鼻先に落ちて来た。
「あ、雨」
「……本当に振って来たな」
「ソエル君すごい。流石天使」
先ほどまで曇ることなく月も見えていたというのに、雨はどんどんと降る量を増やしていく。宇佐美さんが傘を広げると、彼は僅かに困った顔を見せた。
「宇佐美さん?」
「……そういうことかあの野郎」
「?」
「悪い。……少し狭くなるが、大丈夫か?」
ぶつぶつと呟いた後、宇佐美さんが傘をこちらに傾けて来る。ああそうか、一本しかないから必然的にそうなる。
「すみません」と言って私が宇佐美さんの傘の中へ入ると、雨音が遮られて小さくなる。肩がぶつかりそうな距離に少したじろいでしまった所で、先ほどのソエル君の言葉が頭を過ぎると同時に宇佐美さんの呟きの意味を理解した。
傘をあえて一本、と言っていたのだ。初めから相合傘をさせるつもりだったのだろう。ソエル君はとにかく宇佐美さんを女の子慣れさせたいみたいだし。
ザーザーと耳に心地よい音を聞きながら歩く。会話が途切れてしまって、それに距離が妙に近くて少々気まずい。
「宇佐美さんは、小学校の時の思い出とかありますか?」
「思い出……」
「林間学校とか、あと部活とか。私飼育委員やってたんですけど、もし宇佐美さんがやってたらきっとウサギとかにも大人気だったんじゃないですか?」
「……一度小屋に入ったことがあるが足元に群がられて動けなくなった」
「やっぱり」
その姿を想像するとちょっと面白い。多分優しい宇佐美さんのことだ、どかすことも出来ずにおろおろとウサギを見ているのだろう。
「昔」
雨の音に紛れるように、静かにその言葉は聞こえて来る。と、前を見ていた宇佐美さんの目が私を見下ろした。
「……近くの犬が小学校に入って来たことがあったんだ。それで追い掛け回されて、転んで膝を擦りむいた。それで、近くに居た子が保健室まで連れて行ってくれた」
「宇佐美さん、動物エピソードに事欠かないですね」
犬が入って来た、確かにそんなこともあったような気もする。あんまり覚えていないけども。
だけど怪我までしたら確かに苦手意識は持ってしまうだろう。頷いていると、宇佐美さんが何か言いたげに口を開き、しかし結局何も言わずに閉じてしまった。
どうしたのかと聞いてみたが、静かに首を横に振っただけだ。
「ここのマンションだったよな」
「はい、ありがとうございました」
「……じゃあ、また」
エントランスの前で屋根に入って頭を下げると、宇佐美さんは小さく片手を上げてそのまま踵を返す。
私が頭を上げると、数メートル先に宇佐美さんの背中がある。それを何気なく見送ろうとして、私は小さく声を上げた。
「あ」
エントランスから漏れる光に僅かに照らされるように、宇佐美さんの体の左側だけがぴしょぬれになっていたのだ。
「宇佐美さ――」
しかし雨音に紛れてもう声は届かない。全然気づいていなかった。冷静に考えてみれば、特に大きいとは言えない傘に大人二人が入ったら少しは濡れて当たり前なのに……私はちっとも濡れていないのだ。
暗いから気付けなかったなんて言い訳だ。だけど宇佐美さんは当然のように私の方に傘を傾け続けていた。そして、最後まで何も言うこともなく。
元々優しくていい人なのは分かってた。でも。
「……優し過ぎるでしょ」
思わず顔を手で覆った。
何これ、十一月なのに、もう夜なのに。こんなに寒いというのに、顔がぶわっと熱くなるのを感じた。




