ブックウィスパー
床に寝転んで本を読む。
別段、ここから得られるものはない。
ただ、寝返りと寝返りの合間に、天井を隠すようにして読んだ。
「お前はこのままで良いのか?」
目を閉じると、本が喋り始めた。
僕はある時から、本の声を聞くことができるようになった。まあ、思えば、本は色々な人生の集合体であるわけだから、言語を解しても然程不思議は無い。
「変わりたいのか? お前は一体、何がしたい?」
本の声を無視して、寝返りを打つ。
本によって話しの内容は異なるのだが、今日読んだのが哲学書だったのがいけなかったのだろう。聞こえてくるのは、どうにも小難しいことばかりだ。
僕は本を顔に被せてアイマスク代わりにすると、そのまま目を閉じた。
今日も今日とて本を読む。
大きな書斎の、床に寝転んで。
何年そんな生活を送っているか、もう分からない。
気がつけば、書斎の本でまだ手をつけていないものは、後一冊になっていた。
そう思うと少し寂しい。
僕は、その表紙に何も書かれていない本に、手を伸ばした。
まず挨拶でもと、耳を澄ませる。
「…………」
「あれ?」
声が聞こえない。
何度かこちらからも呼びかけてみるが、反応はない。
僕は驚く。
それは、何も話さない本だった。
どんな本にだって感情はある。どんな本だって、必ず言葉を発する。そう言った常識から外れた存在だった。
僕が本の声を聞けるようになってからは、初めてのことだった。
妙に思って早速、無地の表紙を繰ると、そこには真っ白な空白だけがある。
なるほどな、と思う。印刷ミスか、あるいはそういう本なのか。これならば、声が聞こえてこないのも納得だ。
同時にこうも考えた。
この本を喋らせてみたい。
この本と話してみたい。
有り得ないとはわかっていた。
だが何か方法があるような気がして、僕は眠りながら考えた。
いつもの通りに、夢を見る。
僕は、どうにも奇妙な夢ばかりを見る人間だった。
ある日、またまた不思議な夢を見た僕は、なんとなく、本当になんとなく、その内容を『無口な本』の一ページ目に書き込んだ。
折角真っ白な本があるのだから、夢日記でもつけてみようと思ったのだ。
その時だった。
「……ぁ……」
本から、微かに何かが聞こえたような気がした。
喋ったのか?
そう思い耳に神経を集中させるが、
「気のせいか」
僕はまた、本を読んで眠りにつく。
今は二周目の序盤だが、さすがに覚えていない本が多い。本の方も、僕のことなど大抵、忘れている。
これらを最後に読んだのは、もう十年も前のことだから、当然か。
「久しぶりだな!」
それでも稀に、僕のことを覚えている本がある。
僕が十年前、没頭して、貪るように読んだ本たちだ。
彼らは、僕が彼らを覚えているのと同じように、僕のことを覚えている。
本曰く、自分のことを必死に読み解こうとしてくれる人間は、どうにも忘れられないらしい。
読書とは、本との対話だ。
一つの意識との、人間関係の構築だ。
僕はそう思う。
起床。
夢の記憶が薄れないうちに、内容を夢日記に書き留めておく。
「今日も、あなたはこんな悪夢を見ていたのですね」
「ん? まあ、不気味な夢だったとは思うけど」
この数年の間、僕は一日たりとも休むことなく、夢日記を続けた。
その結果、本当にいつの間にか、『無口な本』は言葉を紡ぐようになっていった。
最初はぎこちない幼子の様な口調で。
でも、僕が毎日毎日書き込んでいると、段々と意識がハッキリとしてきたようだった。
今はもう、他の本たちと遜色ないくらいに、色々なことを話してくれる。
「夢っていうのはな、人間の深層心理からくるものだと言われているんだ。つまり、悪夢を見るということは、お前は現実に対して、どこか納得できていない。苦しんでいるんだろう。違うか?」
開いていた、小難しいだけでつまらない哲学書が、話を聞きつけてくる。
「うーん……」
「大抵の場合は、叶えられない望みがあるとか、目を逸らしていることに負い目を感じているとか、そういう積み重ねが、人に悪い夢を見せるんだ」
そうだな、と哲学書は続ける。
「自分が何になりたいのか、お前は知っているか?」
僕は答えに窮してしまった。
僕は、この部屋で、あまりにも長い年月を過ごしている。生まれてから、ほとんど部屋を出たことがなく、それは、本から仕入れただけの偏った一般常識から考えても容易に、好ましいことではないと分かる。
世の中には、たくさんの職業や趣味が転がっていて、なろうと思えば何にでもなれる。
それなのに、僕はどうしてこの書斎から出ないのだろうか。
「ほらな。考え始めたら、心が安定を失うだろ? それが、迷いってやつだ。そしてその感情が、お前がこの部屋に閉じこもる一方で、実は外を気にしているのだということの証明になる」
哲学書は、他の本とは一線を画すレベルで、よく喋る。
大体、本たちは、自身が閉じられている間の事柄は観測できないはずなのに、どうして、この本は、僕がここに引きこもっていることを知っているのだろう。
「お前は、やりたいことをやれているのか?」
夢は深層心理の表れだという話は、僕も本を読んで知っている。
つまり、深層心理を知りたければ、夢を知るのが手っ取り早い。
そして僕には、夢そのものを記載した本、夢日記があった。
「キミは僕の夢。そうだよね?」
僕は、机上の古書に話しかける。
「そうです。私はあなたの夢です」
「じゃあ、聞かせてよ。キミの話を」
「わかりました」
そして、僕の分身は語り始める。
僕は、自分の胸の内から、澱みのようなものが消え去っていくのを感じていた。
あれから、また何年も経った。
僕は未だに部屋を出ていないが、以前のように退屈に眠ることはなくなった。
僕は夢を見て、記し、本を読み、眠った。
何もかもが同じで、そして何もかもが、以前とは異なっていた。
了
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