黴臭い組織と若い講中
◆17
店でいつものように本を読んでいると、丁子屋が約束よりだいぶ早くやってきた。今日は赤いムスタングだった。最新モデルだ。幾松はチェーホフを閉じて丁子屋を怒らせるべくインスタントコーヒーをいれた。
丁子屋は「このあいだは突然消えるから――」とブツクサ言いながらコーヒーを飲んで唸った。「泥水ですよ、こいつは」
「そうかもしれない」幾松は認めた。
ムスタングは快調に首都高速をとばしていた。約束より早かった分だけ遠回りをしている。そして、丁子屋はご機嫌だった。
「通報したのは……その……〈ヴァイオレット〉だったんだね?」
幾松は丁子屋にペントハウスへ女を訪ねて行ったことを話した。もっとも、何をされたかまで告白する必要はなかった。
「おれはもうあの店に二十年もいるんだぜ。まあ、あいだに空白期間はあったけど――それにしてもさ、運河の向こうにあんな女が住んでいたなんて知らなかった。しかも、ずっと覗かれていたんだ」
「あそこで何か見られてまずいことをした記憶は?」
「運河に向かって立ちションしたことはある。夏にデッキチェアを出してビールを飲んでいたんだ」
「それは通報されるかも」丁子屋は声を上げて笑った。「でも、もうあそこの屋上にはいないんですか。どういうつもりですかね? キミを強請る気はないようだし――となれば、本当に強請る相手がわかったってことですかねえ」
――それなら、と幾松は考えていた。〈ヴァイオレット〉はどうやってそれを知ったのだろう?
丁子屋が来る前に、ウサオイにも〈ヴァイオレット〉のことは報告していた。彼女は安心していいのかと何度も聞き返した。幾松は「たぶん大丈夫だろう」と答えた。
――たぶんじゃ駄目よ、たぶんじゃ。
電話の向こうから聞こえるウサオイの声は震えていた。攻撃型の彼女だったが、防御となるとめっぽう弱い。
「どうしろって言うのさ?」
――おカネで黙らせられるなら何とでもなるんだけど……。
「そんなの駄目だろう。かえって後を引くことになっちまう」
――そういうもの?
心細げな返事だった。とはいえ、彼女を完全に安心させることなど、幾松には不可能だった。
――死人に口なし、とも言うわ。
「おいおい。勘弁してくれよ。何でそこまでやらなくちゃいけないんだ」
――でも、その女がサツマにしゃべったらどうするの。
「完全な安心が欲しいなら何でもいいから信仰してみたらどうだ? たとえば御師とかさ。ウチの親爺のお薦めだよ」
ウサオイの愚図っぷりに腹を立てて、幾松は天井を仰いで愚痴ったが、受話器のマイクはふさいでおいた。
幾松たちがこれから会う相手のことも、丁子屋は上総屋のロクジにかかわる調査だと思い込んでいた。完全にハズレではないにしても、御師の指図があって動いているとはまだ気づいていなかった。ただ、頭のいい男だからいずれ悟られてしまうだろう。幾松にしてもそれは覚悟していた。
たとえ悟られても、御師の指図は不穏分子を探しだすことまでだと思わせなければならなかった。その始末ということまでは知られるわけにはいかない。
江の島から戻った幾松が最初にしたことは、銭屋に電話をかけることだった。銭屋は幾松から連絡があるのを誰かから教えられていたかのように、幾松が話を切り出す前に向こうから「帳元株の件だな」と持ち出してきた。
「そうです」
――御師の指図だね、幾松さん?
幾松は電話口で黙ってしまった。無言は肯定と変わらないのはわかっていたが、銭屋相手には言い繕いようがなかった。
――ウサオイの分際で、と言うのも変だが、ただの講親が気にかけるようなことじゃないからねえ。それに、先代もそうやって御師の指図で動くことがあったよ。「幾松」ってのはウサオイの講中にちがいはないが、ちょっとまた特別なのさ。幾松さんのお父上でもある、いまの庄之助さんは御師の懐刀として、講という大組織を支えてきた。大所帯だけにところどころほころびが出る。それが取り返しのつかない傷となるまえに修繕してきたのが、先代の幾松さんだ。ほかの世話人とは立ち位置がちがっていた。あんたもそうなんだろう?
「そんな話、聞いていませんでしたけどね」
思い返せば、先代はときどきウサオイの指図ではないつとめを果たしていた。それが御師から出た指図だということは、何となくわかっていた幾松だった。
――先代の許へ自分の子であるあんたを送ったのは、庄之助さんに特別な考えがあってのことだったんじゃねえかな。御師を絶対裏切らない手駒が欲しかったってことなんだろう。
「手駒ですか」
――怒ったかい? でもなあ、手駒って言葉はたしかに悪いかもしれねえが、実際、そういうものだから仕方あるめえ?
銭屋は幾松の自覚を促すつもりか冷たく突き放した。
個人である以前に秘密結社の一員であることを忘れるな。屋号で呼び合うのにはそういう戒めの意味もあるのかもしれない。いずれにせよ、講中が互いに求めるのは講中としてのつとめを果たすことだ。誰もおのれのつとめから逃げることはできないのだった。
銭屋は株の譲渡を持ちかけられたという帳元を教えてくれた。
――幾松さんと同じで、若い講中だからね。株の売り買いについてよくわかっていなかったようなんだ。それで同じデンエモンの講の帳元であるあたしに相談してきたってわけよ。
「そのひとは結局どうしたんですか。帳元株を手放したんですか」
――いいや。目先のカネより先々の安定を取った。あたしゃ、賢明な判断だと思うがねえ。
銭屋は幾松に同意を求めてきた。自分の答えに自信が持てないのかもしれなかった。
「いくらで買うって話だったんですか」
――五千万だそうだ。手付に三千万円。証文と錠前と引き換えに残り二千万と聞かされたらしい。
おれなら五千万円もらえれば魂だって売る、と幾松は迷うこともなかったが、それを聞けば銭屋は悲しむだろうと思って口にはしなかった。
「証文かあ……」
――証文と錠前はふたつでひとつさ。
銭屋に言われるまで証文のことなどすっかり忘れていた幾松だった。
証文は錠前の正式な持ち主を証しだてる物だ。たいていは、何年、何月、何日、甲は乙に五千万円で庚申の錠前を譲渡します、って体裁をとる。譲渡するほうされるほう両方が一枚ずつ持つが、実際に意味があるのは譲渡されるほうだった。所有している錠前が誰かから騙し取ったものではないという証明になる。
「その帳元に会えますか」
――本人が何て言うかわからないが話してみるよ。ちょっと待っていてくれるかい?
幾松たちが待ち合わせの店に到着したとき、庚申の帳元は先に来て待っていた。人気のパンケーキ屋を指定してきたので行列を心配して早めに着くようにはしていたのだが、もうブームは去ったのか行列どころか空席がちらほらあった。
銭屋からは若い講中だと聞いてはいたが、想像以上に若い相手に幾松も丁子屋も少々めんくらっていた。ふたりの前に座って、重ねたパンケーキにナイフを突き立てているのは、今年大学に進学したばかりだという女の子だった。
ショートボブの髪で丸い縁の眼鏡をかけていた。栗鼠に似ている。前歯が出ているわけではないが小動物のような雰囲気がある
「ここはマカダミアナッツのパンケーキが人気なんですよ」とその子は言った。
「キミが庚申の帳元?」
テーブルに立てて開いた大きなメニューの上から、丁子屋は顔の上半分を出した。
「粂太郎です」
女の子は恥ずかしそうに名乗った。
「いつから?」
「大学入学と同時です。ちょっと聞いてくださいよ。ウチの両親、ひどいんですよ」粂太郎はへの字口になってパンケーキをぐさぐさと切った。「あたしが大学に入った途端、勝手に仕事をリタイアしてフィリピンへ移住しちゃったんです」
「ご夫婦で?」
「ええ。マニラに行ったら寄合には出られないからって、あたしに跡目を継がせたんです。まったく信じられませんよ、大のおとなのすることですか」
粂太郎は大きく切り取ったひときれを口にねじ込んだ。薄茶色いクリームがからんだパンケーキは幾松の口には甘すぎるように見えた。丁子屋が開いているメニューを横から覗き込んでエッグベネディクトを見つけた。丁子屋が迷っているのにかまわず店員を呼んだ。
純白のシャツに黒いキャップとエプロンというありきたりのお仕着せを着た店員が颯爽と店を横切ってくる。
「講のことはそれ以前から知っていたの?」
「両親は計画的だったんですよ。中学生のころから少しずつ教えられてきたんです。お蕎麦屋のお爺さんのところとかにも連れて行かれたりして――」
「お蕎麦屋のお爺さん?」丁子屋が聞き咎めた。
「銭屋さんのことだよ」幾松が注釈を入れる。「それより丁子屋は何を頼むか早く決めてくれよ」
テーブルの横に立ったに店員が丁子屋を見下ろしていた。粂太郎と同じくらいの年頃だった。人気投票をしたら2対8で粂太郎は負けるだろう。粂太郎に入っている二票は幾松と丁子屋の分だ。どんな場合も無条件に講中に票を投じるのが、講の暗黙の約束である。
店員は微笑んでいたが、目が笑っていなかった。丁子屋は散々迷った挙句、ホイップクリームが山盛りになっているイチゴのパンケーキを選んだ。
「今日時間を作ってもらった理由は銭屋さんから聞いている?」
粂太郎は頬張っていたパンケーキを無理に飲み込んだ。
「ええ。帳元株のことですよね。突然知らない人が売ってくれって言ってきたんでびっくりしたんです。蕎麦屋のお爺さんからはそのときの話をするように言われています。あれはきっとあたしに経験がないから簡単に何とかなるって思ったんじゃないですかね。『あなたには講なんて古臭い付き合いで面倒なだけでしょ』って言われました」
「実際、そう思わない?」
「幾松さんはそう思っていますか。講のこと、あたしは結構好きですよ。いろいろな人と出会えるし。いまはまだあたしよりずっと年上の人たちばかりだけど、そのうち同じくらいの歳の人も増えてきますよね。古臭いっていいますけど、そこがいいんじゃないですか」
粂太郎はパンケーキの隅を小さく三角に切り取って口に運んだ。
「そのうち飽きるかもよ?」
「飽きませんよ、きっと」
「クメタロウのくせに」
粂太郎がむせた。「やめてください」
「だって、本当にクメタロウじゃないか」
「ほんと、こればかりはどうにかならないんですか? 講のことは好きだけど、これだけは気に入りません。べつにかわいくなくてもいいから女の人の名前に変えられないんですか? おツルとかおトラとかでもいいですよ。何とかならないんですか」
幾松は首を振った。丁子屋は肩をすくめた。
「駄目だね。キミはそいつを誰かに押し付けるまで一生粂太郎だ。粂太郎からは逃げられない。おれは幾松をやめられないし、このおじさんは丁子屋をやめられない」
「意地悪なこと言わないでください」粂太郎は唇を尖らした。「あんまり意地悪を言うとこのまま帰っちゃいますからね」
「どんなやつだった? 向こうは名乗ったかい?」
「アカメの足長のところの世話人だって言っていました」
丁子屋が生クリームを口唇につけたまま何かうめいた。どうやら「ビンゴ!」と言ったらしかった。
「亀吉だね?」
「そうそう、そう言っていました。……亀吉なら粂太郎のほうがまだマシかなって思ったのを覚えていますから」粂太郎は小さく切るように方針変更した分、ものすごいスピードでパンケーキを食べていた。「亀吉ですって真顔で言われたときには噴き出しそうになりました」
「突然訪ねてきたの?」
「最初に電話がかかってきたんです。講中だけど帳元株のことでお話がしたいので会ってほしいって」
「電話番号が知られていることを変だとは思わなかった?」
女子学生の手が止まった。パンケーキの上から丸いマカダミアナッツがひとつ、皿に広がるソースのプールへ転げ落ちた。
「いけなかったですか」
「いけなくはないけどね。覚えておいたほうがいい。講中だからってお互い何でも教え合うものじゃない。おれは一応つとめがらウサオイの講中の個人情報は知っている。でも、ほかの講親のところの講中についてはほとんど知らない。たとえば、キミの本名も電話番号も住所も通っている大学も知らない。キミの許しなしにそれを知る権利はおれにはない。ウチの講親にだってほかの講親の講中のことを勝手に調べていい権利はない。だから、今日こうして会うのだって、キミを知っている銭屋さんに段取りしてもらったわけだ。こういうことは講の外でも内でも変わらない。よその講の世話人である亀吉がキミの電話番号を知っている理由がない」
「亀吉さんはなぜあたしの電話番号を知っていたんでしょう?」
「キミの知り合いで、そういうことをペラペラしゃべりそうな講中はいる?」
粂太郎はブンブン首を振った。「そんなの、わかりません」
幾松は粂太郎に電話番号を教えた講中を挙げさせた。講親「ザンギリの鯨飲」、世話人たち、大腹のデンエモンの帳元仲間、あと数人の仲のいい講中。そのなかの誰かが亀吉に粂太郎の情報を流したということなのだろう。
「丙戌の帳元のことは知っている? 上総屋って屋号で、おれと丁子屋のあいだくらいの歳だ」
粂太郎は迷う間もなく大きくうなずいた。
「丙戌の帳元はあたしと同じザンギリの講中ですから。でも、あたしの電話番号は知らないと思います。……上総屋さん、いま大変なんですよねえ?」
幾松はギョッとした。この子は何を知っている? 内心の動揺を目の前の女子学生に悟られないよう、幾松は卵の黄身をパンケーキになすりつけることに集中しているふりをした。
「粂太郎さんはどう聞いているんです?」
丁子屋がさりげなく質問した。それから、訊いたことなどどうでもいいかのようにパンケーキの上のクリームだけすくい取ってなめた。
「行方不明になっているって本当ですか。婚約者を残して失踪したって聞きましたけど」
「なんかそうらしいですよねえ……。わたしたちも聞いた話なので、たしかなことはわからないんですよ。粂太郎さんは誰からお聞きになったんですか」
「ウチの講の世話人さんから今朝電話があったんです。同じ帳元同士で何か聞いていませんかって」
「行方不明になっているって言ってました?」
「ええ。一昨日、上総屋さんが帳元をしている『黒鹿毛のナミアシ』の講の寄合があったんだそうです。そこに欠席して連絡も取れなかったんで、黒鹿毛からザンギリのほうへ問い合わせが入ったんですって。それで世話人さんが調べたら家には誰もいないし、経営している会社のほうにも連絡がなくて大騒ぎになっていたんだそうです。婚約者もその会社で働いているんだそうですけど、その人がもう警察に捜索願を出しているって話らしいです」粂太郎は眼鏡を押し上げてにやっと笑った。「その婚約者って上総屋さんよりも二十歳くらい年上なんですって。熟女フェチですねって、あたしが言ったら、ウチの世話人さんは、ちがうんじゃないかって――」
「キミが言ったのか」幾松は黄身の滴るケーキを口に運ぶ手をとめて聞き返した。
「ちがいますよ、ウチの世話人さんが言ったんです」
「いや、そうじゃなくて。熟女フェチですねってキミのほうから言ったのか」
「はあ? 問題はそこですか。いいじゃないですか。だって、熟女フェチは熟女フェチでしょう。知ってました? レイモンド・チャンドラーも熟女フェチだったんですよ。奥さんのシシィは十八歳も年上だったんです。ちなみにアガサ・クリスティの二度目のご主人は十四歳年下でした」
「およそおれの人生にもキミの人生にも影響を与えない、どうでもいいトリヴィアだな、そいつは」
幾松は口唇の端についたオランデーズソースをナプキンで拭い、ブラックコーヒーで口のなかをさっぱりさせた。
「そちらの世話人さんは何て言っていたんですか」
丁子屋は空にした皿を脇によけて、白いテーブルクロスにひじを突いた。
「上総屋さんは婚約者に弱みを握られていたんじゃないかって言ってました。それでしたくもない結婚をさせられそうになっていたので逃げ出したのだろうって。でも、あたし、思うんですけど……それって熟女フェチと必ずしも矛盾しませんよね。上総屋さんは熟女フェチだからその年上の女性と付き合った。でも、上総屋さんはほかの年上の女性ともつきあいたいから結婚はしたくない――ね?」
「何が『ね?』だよ」幾松は煙草が吸いたくなったが、禁煙席なのを思い出した。「そんなことで何もかも放り出して逃げ出したりするか。結婚したって浮気すればすむことじゃないか」
「浮気すればすむって――幾松さん、あなた、最低」
寸前まで「熟女フェチ」を連呼していた女子学生の帳元に「最低」と罵られて、幾松は苦笑した。
この娘が好きだと言う「講」も、幾松が生来の悪疾のようなものだと感じている「講」も、同じひとつの「講」なのは事実だった。彼女の親が南の島へ逃げ出す前に講の醜い部分を教えていかなかったのは怠慢としか言いようがない。帳元をつとめていたなら、そういうところを嫌になるほど見てきたはずだった。見てきたからこそあえて娘には伝えなかったのかもしれないが、子からすればそんな残酷な仕打ちもない。いまは好きだと笑ってもいられるが、いつか拭いがたい嫌悪感をもって講を見るようになるかもしれない。
幾松は、への字口で自分を睨んでいる目の前の若い講中が哀れになった。
◆18
粂太郎と話して、図らずも丙戌の帳元がどこの講の帳元であったか知ることができた。壮一に借りをつくらずにすんだことを、幾松は素直に喜んだ。
丁子屋はムスタングを上総屋の職場へ走らせていた。この車も持ち主が吸わないので禁煙だった。幾松としてはそろそろ煙草に火をつけて、ここまでにわかっていることをまとめたい気分だった。
ムスタングは一般道をなめらかに走っていく。車が喜んでいるようだった。それが丁子屋の才能なのは疑う余地もない。まるで周囲の車の流れまで、彼がコントロールしているかのようだった。
「亀吉は帳元から株を買おうとしていたのでしたか。そんな話は今日初めて聞きました。キミは知っていたのですよね? なぜわたしに黙っていたんですか」
「銭屋が最近帳元株を買い集めているやつがいるって言っていたからさ。可能性があるかもって思っただけだ。たまたまビンゴだったけどな」
丁子屋のことはどうせ騙せないとわかっているから、幾松はすぐにばれるような嘘をついた。
「怪しいな」丁子屋が軽く加速して車線を変えた。「キミは他にも何か隠していますよね? どうせしゃべる気はないんでしょう?」
「いつかね。いつか話すよ。丁子屋だって秘密はあるだろう?」
「ないですよ」と丁子屋は笑った。
「せっかちすぎないか。このタイミングでまた訪ねていくのを変に思わないかな?」
幾松はさっきから気になっている懸念を口にした。
「そうですね。あの女性――小倉直緒は変に思うでしょうね。思わないほうがおかしい。でも、ザンギリのとこの世話人が動いたということは、講が正式に上総屋を探し始めたということです。さっきの女子大生が聞いた話では、ザンギリのとこの世話人はすでに小倉に接触しているようです。彼女の口から亀吉やわたしたちのことが知られる可能性もあります。なにしろ、わたしは名刺を渡していますからね、黒鹿毛の寄合よりも早くに上総屋を探しに行っていることがばれたら言い逃れるのは困難です。早急に手を打つ必要があります」
丁子屋の声は落ち着いていた。
「それは亀吉も同じだろう」
「そうです。亀吉も同じです。それも急がなければいけない理由です。わたしたちは亀吉が上総屋の部屋へ行ったことを知っていますが、向こうはまだわたしたちの存在を知りません。小倉直緒がしゃべらなければ自分は安全だと考えるでしょう。となれば、彼女をしゃべらせない手段を取る可能性があります」
「――しゃべらせない手段」
「いちばん確実なのは始末してしまうことですね」信号が黄色に変わり、丁子屋は無理をせずに車を停めた。「わたしたちが知っているとわかっていれば、そんな危険な手は選ばないでしょうが、自分と彼女だけの秘密だと思えばまずまちがいなくそうする。少なくともわたしならその手を選びます。だから、その前に彼女から得られる情報は得ておかないといけません」
「彼女を助けはしないんだ?」
しばらく間があった。横断歩道を保育園の幼児たちが保母さんに連れられて渡っていく。丁子屋は優しい目でそれを見ていた。そして、同じ顔で、静かな声で答えた。
「彼女は講中じゃありませんよ」
「結局、そういうことか」幾松は拳で窓ガラスを殴った。「講中でなけりゃどうでもいいわけだ」
「だって、そうでしょう。むしろ、それをおかしいと思うキミのほうが、わたしには理解できない。わたしたちはボランティアで講中の世話をしているわけじゃないでしょう。彼らにしたって期待しているのは善意じゃありませんよ。彼らが望んでいるのは特別扱いされることです。手に入れにくいプラチナチケットを入手する。ほかの人が行列を作っているところを待たずに店に入る。アイドル・オーディションを通過する。希望の会社に就職する。同期に先んじて出世する。夫の浮気をやめさせる。好きな人を恋人と別れさせる。競争相手を失脚させる。大口契約を成立させる。ライバル会社の営業を妨害する。陥れたい人間の秘密を探る。生きていては都合の悪い人間を殺す。――講中はどんなサービスも享受することをためらわない、なぜならそれだけの代償を払っているからです。講とはそういうものでしょう?」
「粂太郎にそれを教えてやってくれ」
信号が青に変わった。丁子屋は歩き出すように自然に車を発進させた。
「教えなくてもいずれわかりますよ。そのときあの子がどちらを選ぶかです。講中として生まれたことを幸運と思うか、不道徳な存在だとわが身を呪うか。まあ、十中八九は前者です。キミのように、講のいちばん汚いつとめを粛々と果たしながら、きれいごとを言ってはそれを自分をごまかす免罪符にしているような輩は、そうそういません」
丁子屋の口調は穏やかだった。幾松に対する怒りは溶けたタールのように彼の心の底に溜まっているようだった。これまでに蓄積した分にも火がついて燃え広がっている。
「第十一代『幾松』大野竜二さん、そろそろ覚悟を決めたらどうですか」
「――覚悟?」
「そう。これからも講で生きていくつもりなら、自分にはまだ天国へ行ける可能性があるなんてくだらない希望はいい加減に捨てるべきです。あなたはわたしといっしょに地獄へ行くんです。講の人間はみんな揃って地獄行きですよ。青臭い倫理感なんてものはもうお捨てなさい」
「御師が……あの爺さんも講は絶対的な悪だと言っていた……」
「ああ、会ったんですね。あの人こそ悪の権化ですからね。半世紀以上にわたって講の頂点に立ってきた人間だということをお忘れなく」
丁子屋は車を路肩に寄せて停めた。すぐそばに地下鉄の入口があった。
「降りてください。小倉直緒にはひとりで会ってきます。もともと偶然を装うつもりでしたから、ふたりよりはひとりのほうが自然でしょう? たぶん彼女は講のことなんて上総屋から何も聞かされていないでしょう。でも、何かそれらしい情報がないか探ってみますよ。わかったことがあればまた連絡します。キミには秘密にしても仕方がないですからね」
幾松は追い出されるようにムスタングを降りた。
丁子屋は挨拶もなく発進した。捨て台詞のような凶暴なエキゾーストノートを残して赤い車影は走り去った。
幾松は地下鉄に乗ってぼんやり乗降扉の上の路線図を眺めて、竹橋で降りた。お堀端を歩いて近代美術館へ歩く。
頭のなかがこんがらがっている。落ち着いて考えたい。そういうときは美術館へ行く。見たい絵があるわけではない。特別に好きな作家もいない。ただ、美術館なら絶対的にひとりになれる。
人は起きているとき、たいてい誰かと向かい合っているものだ。「帝国鋲螺商会」なんてめったに客が来ないが、それでも店を開けているというのはそこに誰か他人がいるのと同じだった。美術館では壁にかかった絵に向かう。あるいは絵を見ているふりをして壁に向かっている。隣に誰か立とうとそれは本質的に物と変わらない。
チケットを買って入り、ふらふら歩き、厚塗りの油彩画の前に立った。誰の絵かなんて気にしない。
――上総屋はアカメの帳元ではなかった。アカメの講中ですらない。
そこをとっかかりに幾松は乱雑に散らかった頭を整理し始めた。
アカメの世話人である亀吉と上総屋には直接の接点はなかったはずだった。亀吉はどこで丙戌の帳元を知ったのだろう。彼は小倉直緒に上総屋へボストンバッグに入れた物を貸したと告げていた。上総屋の部屋にバッグはあったが、空だった。そのせいで困っている様子だったと彼女は言っていた。
バッグには何が入っていたのか。そして、それを持ち去ったのは誰か。死んだ上総屋がバッグから出してどこかへ隠したか。それとも、上総屋を殺した人間が持って行ったのか。小倉直緒が隠したというのはないだろう。彼女が隠したのなら、関係ない自分たちにそんな話をするはずがない。
上総屋自身が隠したというのも不自然な感じがする。ひとつには、隠すのにはバッグから出さなくてもいいだろうということがある。もうひとつは、カバンの置かれ方だった。あれは最初に亀吉が部屋に入ったときも同じように居間に転がっていたにちがいない。中身を出したらあとはどうでもいいといった感じの放り出し方だった。上総屋だったら中身を出したあとのバッグもどこかへ片づけるだろう。部屋の隅にうっちゃっておいたりはしなさそうだ。
――じゃあ、殺人者なのか。バッグの中身が欲しくて上総屋を殺したのだろうか。
人を殺してまで手に入れたい物――やはり、カネか。
亀吉は帳元株の買い集めに動いていた。粂太郎には五千万だと言った。手付に三千万、錠前と証文と引き換えに残りの二千万という話だったらしい。上総屋の錠前は賞状入れに入ったままだった。とすると、手付の三千万円か。
――まあ、三千万なら殺してもおかしくない。
幾松は自分自身の選択としてふつうにそう考えていることに、ぞっとした。人のいのちをカネに換算することにいつの間にか抵抗がなくなっていた。
殺した人間は上総屋のロクジを「帝国鋲螺商会」のバックヤードまで運んできた。自分で捨てたり処分したりするのではなく、そこに放り出しておけば幾松が処分すると知っていた。そいつは講中にちがいない。ちがいないけれども、講中なら誰でもというわけではない。たとえば粂太郎など「帝国鋲螺商会」も世話人の正体も知らない。銭屋なら承知しているだろうが、そういう講中がどれくらいいるか。多くはないが、それだけで候補者を絞り込めるほど少なくもなかった。
幾松は上総屋殺しの犯人を考えるのはひとまず措いておくことにした。条件が少なすぎる。それよりも帳元株の買い集めの線のほうがたどりやすそうだ。
亀吉は交渉役でしかないだろう。一介の世話人に、いくつもの帳元株を集められるほどの資金があるはずはない。背後にいるのは、ふつうに考えれば講親であるアカメの長足だが、極秘に動かなければならないこんなことを自分の講の世話人にやらせるだろうか。亀吉はそのあたりをどう説明したのだろう? 粂太郎に確認する必要がある――。
幾松は美術館を出た。建物を出たところで粂太郎に電話をかける。電話番号は今日聞いたばかりだった。女子大生は数コールで出た。声が怯えていた。初対面は彼女にいい印象を与えなかったらしい。
――何ですか。
「亀吉さんはいったい誰が帳元株を買うって言った?」
――アカメの長足じゃないんですか。
「亀吉がそう言ったのか。アカメの長足に帳元株を売ってほしいって、亀吉はそう言ったんだね?」
電話の向こうで粂太郎は黙り込んだ。幾松は皇居のほうへ歩き出した。どんな時間にも皇居を回るランナーはいる。横断歩道の向こうを帽子をかぶった女性ランナーが走っていた。幾松は粂太郎の返事を待った。せかしはしなかった。正確な答えがほしい。あわててはいない。
小さく息を呑む音が聞こえた。
――いえ。誰が買うのかははっきりは言いませんでした。そうですね、いま考えてみると、亀吉さんはアカメの世話人だとは言いましたけど、アカメの代理だとは言っていませんでした。あの人はほかの誰かのために動いているということですか。
「そうだな。その可能性が高い。でも、キミが会ったときは買い手をはっきり言わなかったわけだ。ふつうならそこはまずはっきりさせるところだよなあ」
――アカメの長足が買いたがっていると思わせたかったんじゃないですか。
「どうして?」
幾松は横断歩道を渡り、平川門のほうへ向かった。
――蕎麦屋のお爺さんに聞きましたけど、帳元株を売り買いする話ってあまり大っぴらにはできないんでしょ? だから、帳元株を買い集めている誰かはなるべく自分の名前が出ないようにしていたんじゃないかと思うんです。きっと、契約がまとまりそうだというときになって初めて名前を明かすつもりでいたんですよ。だって、売るほうにしてみれば、ちゃんとおカネさえ払ってくれるなら相手は誰だっていいでしょう?
「誰だっていいってわけじゃないんだが……たしかにキミの言うとおりだな」
――幾松さんたちはそれが誰なのか調べているんですか。
「まあ、そうだけど――いいか、絶対にこのことは誰にもしゃべるなよ。銭屋さんにもだ。まあ、あの人は言わなくてもわかっているとは思うが、万が一ってことがあるからな。おれのためだけじゃない。キミ自身の安全のためでもある。キミはわかっていないが、じつはかなり危険なんだ。いいね? 黙っているんだよ」
女子大生は息を荒くしているようだった。怖がっているのかと思ったが、そうではなかった。「危険」の一語に興奮しているらしい。
――でも、幾松さんはその正体を知りたいんですよね?
幾松は言い方をまちがえたことに気づいた。怖がらせるようなことを言ってはいけない相手だったのだ。十八歳の好奇心に火をつけてしまった。
「いいか、よけいなことは絶対するなよ」
――わかってます。大丈夫。
そう言って粂太郎は勝手に電話を切った。彼女に電話をかけたのは失敗だった。あの子は何をやらかすつもりだろう? どんなことであれ、それが悪手であるのはまちがいなさそうだった。