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江の島の老人

PART8「ペントハウスの女」(R18)からの続きです。

◆15


 目が覚めたのは太陽が高く昇ってからだった。時計は九時を回ったばかり。〈ヴァイオレット〉は言っていたとおり戻ってきていない。

 プレハブ小屋にはシャワールームもキッチンもあった。幾松はケトルに水を入れ火にかけた。ガスコンロの横に紅茶のティーバッグの箱が転がっていた。きれいそうなマグカップを見つけてティーバッグをひとつ放り込んだ。それから、キッチンの引き出しにチーズ用のナイフを見つけた。

 幾松は床に座り込み、ナイフを逆手に持って、ギザギザの刃で気長にテープを切っていった。湯が沸くのと両手が自由になるのとほぼ同時だった。痕のついた手首をさすりながらカップに沸騰した湯を注いだ。

 スマートフォンを見るとメールが数本入っていた。一本以外は全部丁子屋からだった。酔っ払いがわけのわからないことを言っている。どうやら彼は終電後の閉店まであの店にいて、結局、駅の近くのマンガ喫茶へ転がり込んだようだ。つまり、幾松が酷い目に会っているあいだ、丁子屋はのんきに酔い潰れていたということだ。

 丁子屋でない一本は、兄の壮一からだった。手代筆頭の熊八として送ってきていた。御師が久しぶりに会いたがっているという。何のことはない、呼び出しのメールだ。壮一自身が昼前に店のほうへ迎えにくると言っていた。

 幾松は舌を焼きながら熱い紅茶をすすった。まだ自分の部屋に帰ってシャワーを浴びて着替える時間はある。


 幾松とちがって、壮一は幼いころから「熊八」として生きる覚悟を決めていた。代々手代筆頭を勤めてきた家柄の総領に生まれついて、講のなかで生きることに何の疑問も持っていないように見えた。幾松にとってはそこが兄の凄いところであったし、愚かしく思われるところでもあった。

 幾松が大野の家を出て先代幾松のもとへ引き取られた朝、三歳年上の壮一は寂しがるどころかとてもうれしそうだった。


「よかったな、竜二。これでおまえも自分の屋号が手に入るじゃないか」


 幾松はそんなものを欲しいと思ったことはなかった。もちろん、喜んでもいなかった。家を出ていかなければならない悲しみのほうが大きかった。母親の目が赤いのは一晩中泣いていたせいだ。いつも怖い父親ですら妙に優しい。しかし、壮一は本気で、幾松のためを思って喜んでいた。兄の感覚はちょっとずれている―― そんな抽象化はまだ当時の幾松にはできなかったが、ぼんやりと違和感を覚えていたのはたしかだった。

 とはいえ、兄が幾松を愛しているのもまちがいなかった。


「よう」

「帝国鋲螺商会」の入口に現われた壮一は、一部上場企業のエリート・サラリーマンにしか見えなかった。実際、手代熊八の仕事は大企業の中間管理職と大差ないだろう。世話人幾松とはちがう。秘密結社で表裏を言うのは無意味だが、それでもあえて分けるなら熊八は陽の当たる側の人間だった。

「どうだ、調子は? 白尾のウサオイに迷惑をかけていないか。たまにはウチへも顔出せよ。母さんが会いたがっているから。ほら、これ」壮一は封筒をポケットから出した。表に「竜二さまへ」とある。いつもどおりなら中身は数枚の一万円札のはずだ。「どうやら母さんはお前が極貧に喘いでいると思っているらしいんだ」

 壮一は声を出して笑った。幾松もいっしょに笑った。それは息子を八歳で捨てた罪悪感への代償行為だよ、とは言えなかった。

 車に乗ると、壮一は運転席にいた若者に「やってください」と声をかけた。その丁寧な物言いひとつにも彼の人柄が現れていた。

 幾松は兄の悪口を聞いたことがない。子どものころから彼はいつも褒められていた。学校の成績やスポーツなどで抜群の実績を上げて称賛されるというような目立ったことはなかったが、何をやらせても人並み以上ではあった。それよりもむしろ「優しい」とか「しっかりしている」とか言われる子だった。まるで生まれつき手代筆頭として求められる資質を缺くところなく備えているようだった。

 壮一が褒められるのを聞くと――それが壮一から熊八に変わっても――幾松は誇らしく思った。羨んだりひがんだりする気持ちはなかった。早くから分けられて、比べられることもなく育ったのがよかったのだろうか。


「最近何か面白いことはあったかい?」

 壮一は会うと必ず同じことを訊いた。彼は世話人というつとめが刺激的で、毎日ドキドキハラハラの連続――だと思っているのかもしれなかった。

 幾松は答えに悩んだ。

 ゆうべ強姦されたよ、とは言えなかった。感電しすぎて頭がフラフラする、とも言えない。ましてや、こないだウチの裏にロクジが落ちててさあ、などとは口が裂けても言えない。

「最近、講のなかがキナ臭いらしいよ」

「どういうことだい?」

「講を割ろうとしているやつがいるんじゃないかってさ。兄さんのところへは、何かそういう話はきてないの?」

 壮一は、真面目そうに見える黒縁の眼鏡を中指で押し上げて、「全然」と言った。

「くわしく教えてくれるか。誰がそんなこと言っているの? ウサオイかい?」

「ウサオイじゃないけどね。話の出どころは約束もあるから内緒ってことでね」

「情報ソースは秘密か。そうか。何だかそれってスパイ物みたいでカッコイイな」

 壮一は喉を鳴らして面白そうに笑った。

「兄さん」

「何だい?」

「兄さんには……その……何だ……えー、秘密結社の幹部だっていう自覚がないだろ?」


 車は江の島に向かっていた。御師は代々その地に暮らしてきた。表向きは江戸時代から続く老舗旅館が、講の本丸である。庄之助はその旅館の番頭をつとめてきた。そして、御師は宿の主人ではなく、長期逗留客として離れの一室を占有している。

 これは隠された知識であって、東京という街の秘められた真実だ。この真実を知る者を講中という。

 幾松たち講中にとって、世界はつねに二重だ。

見たまま聞いたままの世界と、講というフィルターをかけて眺めてみた世界。誰かの善意と見える言動も、裏を返せば誰かの欲望充足でしかないかもしれない。美しいものがじつは鼻をつまみたくなるほど腐り果てているかもしれない。パンドラの箱に残っていたのは希望ではなく欲望かもしれない。

 江の島の老舗旅館の離れ――その一点から引いた補助線によって、世界は美しくも正しくもない正体を見せる。その反対はありえない。なぜなら、講とは自分の身勝手な欲望を叶える代償に他人の欲望を叶える手助けをするという仕組みだから。

 そんなものは見えないほうが幸福だと言うウサオイがいる。見えるままの世界など講の有無とは関係なく虚妄だと丁子屋は言う。

 壮一はどう言うのだろう? 幾松は訊いてみたことがない。彼には到底耐えられない答えが返ってきそうで恐ろしかった。


「――秘密結社の幹部? ああ……そういうことになるんだよなあ。うーん、おまえの言うとおりそんな自覚はないかもなあ。あっちへ電話して無理を交渉したり、こっちで人に会って頭を下げたり、向こうのおカネをそっちに回してほっと息をついたり――ふつうの仕事をしているって感じしかしないな」

 そんなものかもしれない、と幾松は納得する。しかし、幾松は少し前から気づいていたのだが、彼らの乗る車に付かず離れずついてくる二台のバイクがあった。どちらもレーサータイプで、黒革のレーシングスーツに黒いヘルメットのライダーが乗っている。幾松は追けられているのかとも思ったが、車の運転手と合図を交わしているのを見て、彼らが壮一の護衛なのだとわかった。〈金棒引き〉と呼ばれている者たちだ。講は本人ほど暢気ではない、ということか。

「それより、竜二、講を割ろうとしているやつがいるって話だ。具体的に何かそれらしい動きがあるのか」

「帳元株を集めようとしているやつがいるらしい」

「誰だ?」

 いつになく壮一の口調は厳しかった。ゆるんで見える表情ほど内心はのんきではないのだろう。幾松は肩をすくめた。

「それがわかっていれば名前を出しているよ」

「ああ、そりゃそうだよな」壮一は苦笑した。「でも、ひとつわかったよ。何で太夫が今日おまえを呼んだのか、その理由が何となくね」

 太夫というのは御師の呼称だった。講の大番頭の家に生まれた幾松は小さいころから知っていたが、一般の講中の知らないことだった。なかには御師の実在を疑う人さえいる。

「おれに探らせるつもりかな?」

「たぶん、そうだろう」壮一は声をひそめた。「だが、そいつはノリに背いている。ルール違反だ。おまえはウサオイの世話人で、御師といえども講親を通さずに働かせることはできない」

「御師はウサオイを疑っているのかな?」

「さあ、どうだろう。信用できないと思っているだけじゃないか。それを言ったら何も聞かされていないぼくだって信用されていないってことになるわけだし、疑っているってほどのことじゃないだろう。少なくともおまえのことだけは信じているんだろうな」

 その口ぶりには、ほんのわずかにせよ、不服そうな感じがあった。

「以前に講が割れたときには――」

「一九六五年。前の東京オリンピックの翌年だ」壮一はまっすぐ前を向いていた。「御師は当時の庄之助と対立したんだ。負けた庄之助は講を追われて、うちのお祖父さんが代わって庄之助になった」

「くわしいな」

「うちに絡んでいる話だからな。おまえはきっとカン違いしているから教えてやるけど、大番頭の庄之助ってのは世襲じゃないからな。つまり、講が割れたときの庄之助とうちには血のつながりはない。だから、父さんが引退したからといって、そのあとをぼくが継ぐと決まっているわけじゃないんだ」

「そうなのか」幾松は驚いた。いずれ兄が庄之助になるものと思っていた。

「お祖父さんは当時熊八だった。御師が庄之助にしたんだ。御師が講中から指名するノリなんだよ。だから、おまえがなる可能性だってあるわけだ。あー、カン違いするな。ぼくは可能性があるって言ったんだ。可能性しかないという意味でもある」

「カン違いなんかしてないよ」幾松は笑った。「御師が引退したらどうなる?」

「どうなるって?」

「やっぱり親父がそのあとを継ぐのか」

「ふん。みんなそう言っているけどね。べつに庄之助が継ぐって決まっているわけじゃない。番頭や手代、講親が合議して決めることになっている。まあ、いまならまちがいなく父さんが御師になるだろう」

「そうしたら、兄さんが庄之助だな」

 壮一は幾松を真顔で見つめた。数秒そのまま凝視を続けていたが、やがて視線をはずして息を吐いた。

「おまえは単純だな。あの人のことをよくわかっていないんだ。父さんはそういう人じゃない。あの人が御師になったら、ぼくを庄之助にはしないと思う。……もちろん、おまえなんて問題外だからな、はは。――実際、あの人は五十年前の争いを間近で見ているからね。身内を庄之助にはしないだろう」

「どういうこと?――御師と対立した庄之助って身内だったのか」

「庄之助は御師の父親だった」壮一はボソッとつけ足した。「あの争いのあとその人を見た者はいないそうだ」

 萬蔵さんのところか――とは訊けなかった。幾松は両手で顔を擦った。少しのぼせているような感じがした。電気ショックのせいばかりではないようだった。


◆16


「幾松さん」と庄之助に呼ばれた。

 幾松は板の間に置かれた革張りのストゥールから立ち上がった。大ぶりなスリッパが歩きづらい。平日だし時間も悪いのだろう。ロビーに客の姿はなかった。

 壮一は幾松を旅館「玄虎楼」の玄関まで送りとどけると、あとはひとりで行けと消えていた。

 フロントのカウンター越しに見る父親は、しばらく会わないうちに少し痩せたようだった。そのせいで、いつも人を疑っているような鋭利な目つきがより剣呑さを増していた。胸に「支配人」のプレートをつけている。

「太夫は離れでお待ちです。あの方ももうお歳です。近頃はずいぶん体力が落ちて疲れやすくなっているので、あまり長居はしないようにお願いします。また、できるかぎり興奮させないでください。それから、今日ここへ来たことは口外なさらないように。もちろん講親にも内緒でお願いします」

 庄之助は他の番頭や手代の前だからか、他人のようにふるまった。


 中学を出たばかりのような少年が先に立った。新しい手代だろう。幾松にすれば何度も来ている場所だ。案内などいらなかった。

「屋号は?」

 幾松は小太りの少年の丸い背中に訊いた。

「喜之助です」

 少年は顔だけ振り返って答えた。

「先代を知っている」と幾松は言った。幾松のことを露骨に嫌っている老人だった。そういえば少年には老人の面影があった。

「祖父です」

「引退されたのかな」

「いえ、死にました」少年はどうでもいいことのように即答した。

「そうか。それでキミが跡目を継いだんだ。いつからここで働いているんだ?」

「先月です」

 手代になりたてのほやほや。まだ見習いのようなものだろう。実際、どれくらい汚れ仕事については知っているのか。まだ何も聞かされていないかもしれなかった。

「迷わなかったの? なりたい職業とかあったんじゃないの」

「全然迷いませんでした。小さいころからいずれここで働くんだと祖父に言われていましたから」

 講の本当の姿を知ったら、それを悪意と欲望で動く汚らしい仕組みだと、少年は幻滅するのだろうか。それとも、必要な力だと納得するのだろうか。

 少年は赤い漆塗りの扉の前で停まった。

「こちらです」

 少年はそう言うと、幾松のほうへ手を伸ばした。

「何だよ?」

「ボディチェックをお願いいたします」

 幾松は眉をひそめた。少年は、規則が変わったのだ、と言い訳した。御師の指図なんです、と付け足した。幾松は両腕を左右に開いた。パーカーのポケットがジャラジャラいったので、少年が困ったような表情で顔を上げた。幾松はポケットからナットをつかみ出した。

「これは――?」

「ネジ売りなんでね。商品見本だよ」

「へえ――」少年は幾松の言葉を疑うことなく鵜呑みにしたようだった。未熟なのは仕方がない。喜之助少年にはこれから先、講の手代としてまだまだ学ばなければならないことが山積みだった。「これに入れてください」

 少年が開いた赤い巾着袋に、幾松はナットを入れた。腕時計もスマートフォンも取り上げられた。ペンはないかと聞かれたが持っていなかったので、少年の胸ポケットからボールペンを抜いて袋に放り込んだ。少年がくすくす笑った。

「知っているか。クレジットカードが一枚あれば、人なんて簡単に殺せるんだ」

「ええ? じゃあ、財布もこのなかに入れてください」

 言わなければよかったと思いながら、幾松は財布を袋に入れた。たしかにカードは人を殺す凶器になるのかもしれなかったが、彼は口にしてみただけで実際にそのスキルを身につけているわけではなかった。

 少年が巾着袋を抱えて、赤い扉を引いた。

 扉の向こうは屋外だった。離れの建物へ廊下がまっすぐに伸びている。渡り廊下の下は池になっていた。

 幾松は廊下へ一歩踏み出した。


 その部屋を初めて訪れた者はたいてい驚くのだった。とはいえ、その部屋に特別なところはなかった。

 百年以上続く組織の長がいる場所だということで、ひとは江戸風の和室を想像するものらしい。しかし、そこは大企業の社長室だと言われれば納得してしまうような部屋だった。大きな事務机に応接セット。壁にはモンドリアン風の抽象画。ただ南側の大窓から見える庭だけは日本庭園だった。

 御師は広い部屋にひとりきりだった。以前に身の回りの世話をする女性がいるのを見たこともある。今日はひとり、窓辺の陽の当たるところへ置いた安楽椅子に座って、腿から下には毛布をかけていた。干からびて欲も消えたような老人に見える。が、鼠色のシャツの襟元まできっちりとボタンをはめて、アーガイル柄のカーディガンにも着崩れた感じはない。

「太夫。幾松が参りました」

「よく来てくれたね……」

 御師はにっこりと笑った。人懐こい笑顔ではあるのだった。そして、幾松のほうへ左手を伸ばした。どういう意味か、とっさに幾松にはわからなかった。

 御師の口元が吊り上がった。とまどう幾松を面白がっているようだった。老人は手を取れといっているのだった。

 幾松は御師の前に進んで、その手を取った。御師が握り返してきた。老人の手は乾いてじんわりと温かかった。

「わたしは子どもを作らなかった……講のためにはそれが正しいと思ったからね。でも……歳をとってつくづく感じるのは……もう少し自分を優先してもよかったんじゃないかと……ふふふ、いまさら遅いのはわかっているけれど……そんなふうに思う」

 御師は幾松の手を両手で包んだ。

「しかし、わたしには……おまえや壮一やヒロユキがいる……ヒロユキは……さっき会っただろ、あたらしい喜之助だよ……おまえたちがわたしの子どもだし、孫だ。……曾孫かな、ふふふ」

 御師は幾松の手を握ったまま黙り込んだ。幾松は老人の視線を追った。御師は窓へ顔を向けていたが、庭の木を見ていたのではなかった。窓に映った自分と幾松の姿を見ていた。

「いずれ講はおまえたちのものになる……そのときは……講の姿もいまとはちがったものになるのだろう……。いや……それはかまわないんだ……とやかく言うつもりはないよ。というより、そのときは……わたしはもうこの世にはいないだろうからね……ただ……それまではわたしに責任がある……講を完全なかたちでおまえたちに譲り渡す責任がある……ちがうかね?」

「わかりません。おれは一介の世話人にすぎませんから」

「竜二……おまえは講が嫌いだから、そんなことを言う。……わたしも……いや、これは御師が言っていいことじゃないな……。だが……おまえにはきっとわかってもらえると思うんだが……講という存在は悪だ……必要悪だとかそんなお為ごかしを言うつもりはないよ……講は絶対的に悪だ……われわれは悪事をはたらいている」

「そうですか。おれは犯罪者かもしれませんがね。さっきの喜之助はまだ何者でもありませんよ。あれも悪ですか」

 老人は幾松を見上げて怯えたようにうなずいた。

「もはや逃げられんよ、おまえ……わたしたちは悪であることを受け入れたのだ……社会の法を持ち出すまでもない……われわれの存在は人倫に悖る……しかし、もう逃げられないのだ……わたしは当然だが……おまえも……壮一も……あの子も……」

 幾松は御師の正気を疑った。老人の精神が狂気に蝕まれているのを、そばにいる庄之助たちはあまりに近すぎて、気づいていないのかもしれない。

「だから……わたしにはおまえたちに責任があるのだよ……講を……この呪われた姿のまま……おまえたちに残してやらねばならない……おまえたちが自分たちを救えるというのなら講を変えるのもいい……しかし……それがより悪いものになってしまうなら……やめておけ……あとの者をよけいに不幸にするだけだ……少なくとも……わたしの目の黒いうちは……やらせないよ……許すわけにはいかない……」

 御師は幾松の手を懐へ抱え込むように引っ張った。幾松は引かれるに任せて老人の傍らへ膝をついた。御師の顔が間近に迫った。すでに腐り始めているような臭いがした。

「竜二……講を割ろうとしている者がいる……戦争も辞さないつもりらしい……戦争だよ……すでに何人か帳元株を手放しているようだ……糸を引いているのは誰か探れ……そいつが誰かわかったら……竜二……おまえが始末してくれ……」

「始末? 帳元株を集めるのは御法度ですか」

「ちがう!……だから、頼めるのはおまえしかいないんだ……これはノリに背いている……そんなことはわかっているのだよ……誰かが手を汚さなければならないだろ……」

「見つけて始末するんですね、ノリを犯したわけではないのに?」

「すべては夜のうちに……すましてしまう必要がある……明るくなって……物が見えるようになってからでは遅すぎる……もう何もできなくなる……おまえは知っているか? ……半世紀前……わたしは……無用な逡巡だったよ……講を崩壊寸前の状況にさらしてしまった……そのとき悟ったのだ……芽は若いうちに……闇夜に事をなして……埋めてしまえば……はじめからなかったことになる……そうやって……これまでも……これからも……」

 老人は涙ぐんでいた。

 幾松は御師の発した、これまでも、という一句に引っかかっていた。銭屋は半世紀前の抗争のあとにも何度か危ういときがあったと言っていた。そのたびに御師は同じように対抗する者を始末してきたのだろう。そして、そのつとめを果たしてきたのが誰なのか、幾松は何となく察っせられた。

 御師は幾松の手を解放した。去れ、という意味だった。御師の言葉は絶対で「否や」は許されない。彼はこの部屋を去らなければいけなかった。もう一つの指図についても「拒む」という選択肢はなかった。

 部屋を出る前に、戸口のところで幾松は振り返った。老人は背を丸めて、どこか痛むかのようにすすり泣いていた。


 渡り廊下の半ばに庄之助が立っていた。黒服を着てひとり――世界に彼しかいないかのように立っていた。

 幾松は殴ろうと思えば手のとどくところまで近づいた。

「竜二」

「――親父」

 庄之助は幾松の顔を真正面から見つめてきた。幾松は顔を上げて視線を受けとめた。目をそらしたほうが負け。父子は無言の睨み合いを続けた。

池のどこかで鯉が跳ねた。水音が響く。

呪縛が解けたように庄之助が口を開いた。

「大夫がおっしゃったことは、わたしたちだけの秘密だ。白尾のウサオイにも言うな」

「くどいな」幾松は吐き棄てた。

「大事なことだ。何度念押ししてもしすぎるということはない」

 庄之助の顔に何か特別な表情が現れることはなかった。感情を隠しているというより何も感じていないように見えた。

「おれが何を指図されたのかあんたはわかっているのか」

「当り前だろう」

「わかっていて、よくそんな平気でいられるな。自分の子どもが何をするか考えたら、ふつうの親ならとてもそんな顔をしてはいられないはずだ」

「依然として僻みっぽい男だな」庄之助の口端が嘲笑のように歪んだ。「おまえにしても、何もこれが初めてというわけではないだろう。わたしとしてはむしろ、講の求めに応えられるだけの技量を身につけた息子が誇らしいぐらいだ」

「冗談のつもり?」

「なぜ冗談を言わなければならない? そんな場合ではないだろう?」

 父親が本気でそう言っているようだったので、幾松はため息をついた。

「これがおれではなく兄貴だったらどうだ? 御師が兄貴を指名していたら? それでもあんたはそんなことを言うのか」

「そんなありえない質問をしてどうするんだ? ひとにはそれぞれに相応しいつとめがある。壮一には壮一のつとめ。竜二には竜二のつとめというものがある。あれにはできないが、おまえにはできるだろう。だから、おまえが指図された。そういうことだ」

「親父はいまの御師がまともだと思うのか。おれの手を握って泣いていたぞ」

「大夫は気持ちが弱くなっていらっしゃるんだ。しかし、ぶれてはいない。ご自分の身を切られるような思いで厳しい選択をなさった。昔のようにお強くはない。だから、泣いておられる。あの方はお前たちのために泣いていらっしゃるんだ」

「崇拝もそこまでいくともはや信仰だな」

 庄之助は右に寄って、幾松が通れる幅だけ道を開けた。これ以上会話を続けるつもりはないという意思の表明だった。

「帰りはどうすればいいんだ? 電車で帰るのか。それとも車で送ってくれるのかな?」

「壮一には仕事がある。母さんが顔を見たがっている。家に寄って帰りなさい」

「あそこはおれの家じゃない」

「――依怙地な」

「お袋には電話しておくよ。それでいいだろう?」

「よくはないが、仕方あるまい。……報告は毎日一回、わたしの携帯に直接かけてきなさい。わたしが出なかったら、また次の日にかけ直せばいい。壮一にも何も言う必要はない。緊急の場合はメールを入れておいてくれればこちらからかけ直す。わかったかね?」

「了解、了解。――ああ、そうだ。親父、別件でひとつ。伝えてくれって言われていたことがあるんだ」

「何だね? くだらない話ではないだろうな?」

 庄之助は訝るような目つきで幾松を見た。

「くだらなくはないさ。萬蔵さんからの要望だ。あの人ももう歳で、そろそろ引退したいらしい。自分が死んだらお山はどうなるのか心配している。早く跡目を探してほしいというリクエストだよ」

「ああ、萬蔵さんもお歳だったな。お幾つになられた?」

 庄之助は遠い目をした。何を思い出しているのだろう。どうせろくなことじゃない、と幾松は想像するのをやめた。

「何歳とまでは訊かなかったが、御師と似たようなもんじゃないのか。年寄りはみんな同じように見えるから。ただまあ、咳がつらそうだった。あれは胸が悪いんじゃないかな。急いだほうがよさそうだよ」

「わかった。早急に候補者を探すことにしよう」

「ありがとう」

 幾松はうなずいて、庄之助の前を通過した。庄之助は御師の様子を見にいくつもりなのか、そこから動かなかった。

「――竜二」

 数歩歩いたところで、うしろから声をかけられた。幾松は足をとめ、振り返った。


「頼りにしている」


 父親の低い声が静かな庭によく通った。それだけ言って背を向けると、庄之助は離れへ歩き出した。

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