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銭屋の老人

◆12


 禿頭の老人、「銭屋」はコンビニで発券されたチケットをじっと見つめていた。まるでそれが何か見当もつかないといった様子だった。もちろん銭屋はそれが何かよくわかっている。アイドルグループのライブチケットだった。最近では最も入手困難と言われるプラチナチケットである。

 幾松は銭屋が何も言わないので出されたお茶をすすった。蕎麦屋らしくそば茶だった。芳ばしい香りが鼻を抜け、沸かしたての湯の熱さに舌先が焼けた。銭屋の家業は手打蕎麦屋である。先代の銭屋が引っ越してきて始めた店だった。

 幾松は首を伸ばして店を見回した。鰹だしの濃い香りが空間を満たしている。大きくはないが、昭和の雰囲気がある。「帝国鋲螺商会」と同じだ。ここでは時間が停まっている。隅の高いところに持ち上げられたテレビでは、昨晩の鉄道事故のニュースを流している。土間に客はいない。隅のテーブルで店主と幾松のふたりが向かい合っているだけだ。小上がりには工場の作業服を着た中年男がひとりいた。まだ昼前だというのにコップ酒を飲んでいた。テーブルの上には酒と肴の小さい器があるきりだった。

 銭屋は顔を上げた。泣いているみたいにくしゃくしゃだ。

「曾孫が見たがっていてね。これで少しは曾祖父ちゃん株も上がろうってもんだ。これを取るのは大変だったろう? ファンクラブの人でも運が良くなきゃ取れないって曾孫は言っていたよ」

「まあ、蛇の道は蛇ってね。やりようはあるんですよ」

幾松は秘密めかして答えた。実際はネットオークションで正価の十倍近い額を払って入手したのだった。べつに自分の懐を痛めるわけじゃない。差額は経費請求すればすむことだ。

「さすが幾松さんだねえ。お代はいくらだい?」

「前にお話ししたとおりチケット代だけで結構です。そこに書いてある金額で」

「幾松さん、そいつはいけないよ。自分の骨折り賃をちゃんと取らなきゃ」

「鍵屋さんからいただかなくても、その分は講から貰っていますから大丈夫ですよ」

「幾松さんは馬鹿正直だね。他の世話人なら講からの手当とはべつに手間賃を請求するだろうに」老人は感心しないというふうに首を振った。「でもね、そんなことじゃ、あんた、損するだけだよ。それにさ、幾松さん、たとえ良くないことだとわかっていても、場合によっちゃ他に合わせることも大事だよ。あんたはまだ独り身で気楽なもんだろうが、いずれお嫁さんを貰うだろうし、子どももできるだろ? そうなったときに講の手当だけでやっていけるかどうか。他の世話人の身になって考えてごらんな。連中だって欲の皮をつっばらせて手間賃を取っているわけじゃないぜ。払うほうだって、それをわかって払ってんだ」

 そこまで言われたら、まさかちょちょいとネットで落としたものだとも言えなくなってしまった。幾松が曖昧にうなずくと、銭屋は席を立ってレジへ行った。レジを開けて一万円札を掴んで戻ってきた。それを幾松の前に広げて置いた。

「ほい。これが今日の代金だ。取っておいてくれ。釣りとか野暮はなしだよ」

ざっとチケット代の倍だった。幾松は二つに折ってポケットへ入れた。

「ノリどおり領収書は出ませんので」

「そんなことは百も承知さ。やだねえ、それをあんたに教えたのはあたしだよ」

 そうなのだ。幾松が跡目を継いだとき、何も知らない彼に、講の古いノリや習慣を教えてくれたのが銭屋だった。銭屋の老人がいなければ、右も左もわからないままで、世話人の務めもきちんとは果たせなかっただろう。

 帳元とは何か、ということを教えてくれたのも銭屋だった――。


「……するってえと、何かい、幾松さんは帳元ってのが何か、ご存知ないってわけかい?」

 老人は呆れたという顔で幾松を見た。

「まあ、ご存知ないって言えばご存知ないですかねえ……」と頭を掻いた。

「何をなさけねえことを言ってんだよ。しょうがねえなあ。じゃあ、あたしが教えてやるから、ちょっとそこへ座んなよ――」

 銭屋は小上がりを指差した。とっとと帰るつもりでいた幾松だったが、老人を怒らせるわけにもいかない。スニーカーを脱いで座敷へ上がった。その間に、銭屋は調理場から冷酒と枝豆を持ってきた。

 教えてやると言いながら、じつは呑む理由と相手が欲しかっただけかもしれない。調理場と店を仕切る暖簾のところからおかみさんが睨んでいた。

「帳元っていうのはよ、結構実入りがいいんだよ」

 銭屋は枝豆のさやを口に持って行きながら言った。

「そうなんですか」

 子どものころから、誰が帳元かは知っていたが、実際にその人たちが何をしているのかは知らなかった。やはりそれは世話人として持っていなければいけない知識にはちがいない。

「講中が払う冥加金はウサオイやアカメたちの講を経由して御師のところへ集まるわけだが、御師はそいつをまず各講へ配分するわけよ。配分するったってカネを配るわけじゃないぜ。それぞれの講が使える運用金の額を教えてくるんだ。たとえばウサオイんとこの今月の割り当てが一千万だとするな」

「そんなもんですか」

 意外に少ないんだ、と思った。

「馬鹿。もっと多いに決まってんだろ。こいつはたとえだよ。ほんとのところは幾松さんといえども教えてはやれねえ。そいつはきつい御法度だ。だから、まあ、わかりやすく一千万だとしとけよ。次にその一千万の運用金を講のなかで分けるんだ。講親が半分、帳元はそれぞれの担保金に比例して分ける」

「担保金?」

「ああ、帳元はそれぞれ講に担保として金を入れているんだよ。これは帳元によってちがう。増やすことも減らすこともできるが、減らせばそれだけ運用金の額が減っちまうからふつうはしねえな」

「減るとまずいんですか」

「そりゃ、多いほうが得に決まってらあな。で、幾松って帳元さんは一千万のうち二百万を動かせるとしようか。担保金が多けりゃこれが三百になったり、四百になったりするわけだ。ま、いまはとりあえず二百ってことにしようぜ」

 冷酒のグラスをくいっとあおって、銭屋は空になった江戸切子のグラスに、涼しげに透きとおった酒を注ぐ。

「二百万ねえ、何に使うかな……テレビ……」

 幾松はそのころ、自分の部屋には大ききすぎるぐらいの液晶テレビが欲しかった。

 銭屋は酒をふきだした。汚れたテーブルを手で拭う。

「駄目だよ、使っちゃ。帳元はその金を使えねえんだ。講中の誰かが――たとえばあたしがさ、新車を買いたいから二百万貸してくれって講に申し出るわけだよ。すると、講親であるウサオイがそれを寄合にかける」

「ああ、そうして貸すんですね?」

「そんな簡単には貸せないよ」銭屋は困った顔で首を振る。「あたしに返す能力があるかたしかめなくちゃ」

「あるでしょ?」

「そりゃ本当はね。でも、いまはたとえばの話さ。もし、幾松さんがあたしに返済能力は『ない』と思えば、貸さないって言えばいい。でも、そのとき丁子屋って帳元は『ある』って判断したとしよう。そうしたら、丁子屋の運用金からあたしに二百万を貸すわけだ。この貸付についちゃ丁子屋以外の帳元は、講親も含めて、何のかかわりもないってことになる」

「じゃあ、おれも丁子屋も『ある』って思ったらどうするんです?」

「そのときはふたりの運用金から半額ずつ出すことになる。三人なら三等分、四人なら四等分さ。逆の場合だってあるぜ。全額は貸せないが、半額だったら返せるだろうという場合だ。そんときは半額だけ貸してやるってことになるな」

「はあ、なるほど」と答えたが、それほど明確に理解できたわけではない、

「講の利子は月一分というノリだ。二百万円を借りたあたしは、月々決めた額を講に返すが、そのうち利子の分は半分に割って片方が講に、もう片方が丁子屋に入る」

「丁子屋のやつ、月々一万も貰えるんですか。いいなあ」

「いいことばかりでもないんだぜ」銭屋は最後の枝豆に手を伸ばした。「講中が返済できなくなったら、そんときは帳元が担保金から残りの金額を肩代わりしなけりゃなんねえ。連帯保証人みてえなもんさ」

 鼻先がほんのりと赤くなった銭屋は、おかみさんに「もう一本」と冷酒の空瓶を振って、「あんた!」と叱られた。


 あのおかみさんも数年前に亡くなった。膵臓がんだった。かつておかみさんの定位置だった調理場と店を仕切る暖簾のところには、いま、パートのおばさんが立っている。銭屋がどれだけ呑もうと叱る人はいない。

「幾松さんはこのあと何か予定があるのかい? 時間があるんなら、あんたに聞いてもらいたいことがあるんだ。いや、頼み事ってわけじゃないんだよ。どうだい?」

 老人は真剣な表情で幾松を見つめた。黄色く濁った白目のなかで色素の薄い黒目が揺れていた。老人が聞かそうとしている話の深刻さを予感させた。たんに呑みたいだけではないようだ。

「わかりました。今日は用事もありませんしね。店に戻るのは何時でも大丈夫です」

 老人はうなずいて席を立った。調理場に消えたかと思うとビールの大瓶とコップを二個持って戻ってきた。立ったまま「ほい、これ」と幾松に一個持たせるとビールを注いだ。幾松が注ぎ返そうと伸ばした手をうるさげに払って、銭屋は手酌で自分のコップも満たした。それからようやく椅子に座った。

「まだ昼前だが、一本くらいいいだろ」そう言ってコップに口をつけた。

 幾松も飲んだ。そば茶で火傷した舌先を冷たい泡が撫でていく。空になったコップはすかさず銭屋が注ぎ直していっぱいになった。

「いまからする話は、聞いたらすぐ忘れてほしいんだ。いいかい? あたしが『大腹のデンエモン』の講の帳元をしていることは知ってるね……」

 鍵屋も矢野と同じく帳元だった。ただし、白尾のウサオイの講の帳元ではなかった。大腹のデンエモンの講の帳元である。ウサオイの講中には四人の帳元がいるが、彼らはいずれもウサオイの講の帳元ではなかった。それぞれべつの講で帳元を勤めている。

 ウサオイの講の帳元には、だから、ひとりもウサオイの講中はいない。これはウサオイの講だけではない。講のノリだった。自分の講の帳元となることは御法度なのだ。

 講の資金を運用するのが帳元の仕事である。自分の講の帳元になれないというのは、職権を私することを防ぐためで、ノリのなかでも古いものといわれている。帳元といえども自分が講に融通してもらいたいときには一講中として扱われているのだ。抜け道がないわけではないが、最低限の公正さは保たれている。そうでなければ、講のような組織はたちまち自壊してしまうだろう。

「帳元は相撲の親方と同じで株制度だろ。だからさ、簡単に言やあ幾松さんがカネを積んであたしから〈癸子〉の帳元の株を買うこともできる……もっとも、あたしはいくら出すと言われても癸子の株を売ったりしないけどね」

講親や世話人は――そして萬蔵は――世襲制だった。なりたくてもなれないし、やめたくても簡単にはやめられない。それに対して、帳元は株を買いさえすれば、どの講中でも帳元になれる。やめたくなったらやりたがっている者に株を譲ってしまえばいい。

「昔から帳元株についちゃ揉めごとのタネだった」

「揉めごと――?」

 幾松はまだ帳元株を巡る面倒には巻き込まれたことがなかった。それはたんに運が良かっただけかもしれない。

「カネが絡むとね、綺麗ごとではすまなくなってくるもんよ」銭屋はビールで皺だらけの口唇を湿らせた。「もう何十年も昔だが、講を割って〈戦争〉になったこともある。先代には聞いてないか」

 幾松は首を振った。先代はそういう話をいつするつもりでいたのだろう。彼が伝えたかったときに、おそらく自分は日本を離れていたのだ。

「いつの話です?」

「東京オリンピックのころだから、まだウサオイだって生まれていなかったか。あたしがまだ二十代の若さだからね。くっくっ、想像つかねえかねえ。これでもリーゼントでばっちり決めていたんだぜ」銭屋はいまや一本も毛のない頭を撫でまわした。「この店はまだ親父がやっていた。あたしが遊び歩いていたんで、年中親爺には怒鳴られていたよ。そんなにムキになって働かなくてもいいじゃねえかって思っちゃいたが、それを言っちゃ殴り合いになるから、へいへいって項垂れて親父の小言を聞いていたもんだ。そうだねえ……思い返せば、のちのちに高度成長期って言われて、皆んながむしゃらに働いていた時代だなあ」

「半世紀前ですね」

 幾松にとってそれは「歴史」として語られるだけの、他人の時間だった。


「先代の幾松さんと知り合ったのもあの頃だ。若気の至りというか、もてねえ野郎がはめられたというか、あたしゃ悪い女につかまっちまってねえ。三つばかし年上の玄人筋だったがね、こっちは色恋なんて慣れてないからすっかりのぼせちまってさ。まあ、実際いい女だったんだよ。こっちは本気だったが、相手には悪い男がついていてさ、美人局みてえなもんだよ。『うちの女房に手え出しやがって』って、この店に乗り込んできやがってさあ。あたしもそれでようやく目が覚めた。

 親父はそういうとき一歩も引かねえ気性だから、男を店から叩き出して「一昨日来やがれ」って啖呵きってなあ。男は気にする様子もなかったね。はした金が欲しかったわけじゃなかったんだよ。男の後ろにゃもっと悪りいのがついていて、端からこの店が狙いであたしに近づいてきたんだ。昼と夜、客が増える自分になるとその野郎が来て騒ぎやがるんだ。

 さすがにこれには親父もほとほと困り果てちまって、白尾のウサオイのところへ相談に行った。いや、先代じゃないよ。先先代――いまのウサオイの祖父さんだなあ。あたしも何回か会っているが、あの人はそうだねえ……焼野原になった東京の匂いってのかなあ、そういう雰囲気を死ぬまでずっと感じさせる人だったねえ。

 ウサオイは親父の話を聞いて、先代の幾松さんを寄こした。それがあたしが先代に会った最初だね。先代だって若かった。あたしよりひとつふたつ下だから二十歳になるかならねえかって歳だったろう。見た目は全然ふつうの人さ。『ネジ屋ではたらいているんですよ』って言うし、たしかにそう見えた。こんな人が頼りになるのかって、正直そう思ったよ。

 先代が来たのは夕方の忙しくなるちょっと前だった。店の前に車を停めさせてくれって親父に言ってね。うん、黒のグロリアだったよ。不思議とこんなことは覚えているもんだな。

 あたしを呼んで、いっしょに車へ乗ってくれって言ってね。男が来たら教えるって段取りだった。その日に限って男はなかなか来なくてさ、待ってるあいだにあたしたちは車んなかでいろいろと話したよ。歳も近かったし、話が合った。

 そのうちに男がやってきた。先代は男が店の前に来ると車を降りて、男の後ろにスッと近づいて行ったんだ。うん、あそこで何が起きたのかよくわからねえんだなあ、これが。先代がさ、男の後ろに立って、こう――肩を叩いたような、そうしたら、男がへなへなって――全身もう力が入りませんって感じで座り込んじまったんだよ。

 先代に呼ばれてあたしも車を降りたよ。で、ふたりで男を車の後部座席に放り込んでさ。そこまでは本当に一分もかかってない。人通りはあったんだがね、気がついた人はいなかったんじゃねえかな。

 先代もあっさりしたもんだ。まるであたしと世間話するために来たみてえに『じゃあ、また』って車に乗って行っちまった。うん、あのあとどうなったのか知らねえが、それきり男は来なくなったよ」


――その男もお山で眠っているのか。


「講がふたつに割れたのもあのころだ」

 老人は遠い目をしていた。固く奥歯を噛みしめているような口元を見れば、懐かしんでいるのではないとわかる。思い出したくもない記憶なのだろう。

「何が原因だったんですか」

「直接の原因は、当時の庄之助が銀座に講の集会所というかそういうモンを造ろうと言い出したことだ。庄之助は『ロッジ』って言っていたがね」

 幾松は庄之助という屋号に引っかかった。もっとも、一九六〇年代前半の庄之助が彼の父親であるはずはなかった。何代前の庄之助ということになるのだろう。しかし、父親への拘泥を銭屋に見せたいとは思わなかった。

「集会所ひとつで〈戦争〉ですか」

「まあ、集会所ひとつっていやあ、そうなんだけどな。家をひとつ建てますよって、そんな簡単な話じゃねえんだよ。つまりだなあ、庄之助は講の『ロッジ』を銀座におっ立てて世間に広く講の存在を知らしめようって言い出したわけだ。表に出ることでより発展できるっていうことを主張したんだな」

「秘密結社なのに?」

「おいおい、表に出ている秘密結社なんていくらでもあらあ。フリーメーソンだってそうだろう?」

 老舗蕎麦屋の老店主の口から「フリーメーソン」ということばを聞くのは、何だか奇異な気がした。笑いをビールで喉に流して、幾松はただ、はい、とだけ答えた。

「講中はどこにでもいるだろ。役所にも会社にもいるからよ、これを役に立てねえ理由はねえって話だ。労組や新興宗教の団体が幅効かしてんのとおんなじ理屈だあな。世の中が無視できない存在になれば、それだけ力も強まるだろうって庄之助は言ったんだ」

「なるほど。実際、いまだって講中が立候補するって言い出せば、講は票集めに動きますもんね。それを大っぴらにやろうってことですか」

「庄之助は東京に閉じこもっている必要もないって言った。戦後、講中が日本全国いろんなところへ出ていくようになったってこともある。サラリーマンなら転勤が当たり前だろ? 東京から出られませんなんて言ったら出世の道も閉ざされるってもんじゃねえか。たしかに東京都下限定なんてノリでも謳っちゃいねえんだ。それならいっそ、地方でも講中を増やして、組織を大きくしたらどうだって、庄之助は言ったわけだ」

「悪い話じゃないように思いますけど――」

 銭屋はビールを飲み干して空のコップを、トンッ、と音高くテーブルに置いた。すでに瓶は空だった。

「そう、そんなに変な話じゃねえよな。それどころか至極まっとうな考えかもしれねえ。当時も庄之助の考えに賛同する講中は多かったよ」

「反対派はつまり、講を秘密のままにして、活動範囲も東京中心でいくってことですよね。革新対保守みたいな構図ですか」

「構図っちゃあそうだけどよお、反対派が保守かってえと、それもちょっとちがうんだよなあ。なんて言やあいいかねえ……」

 銭屋は思案顔で天井を見上げていたが、ポンと手を打つと立ち上がった。調理場へ引っ込む。上手い説明を思いついたわけではなく、たんにもう一本開けようと決断しただけだったらしい。すぐに茶色い瓶を手に戻ってきた。

「あのころだって、革新だ、保守だ、言う人はいたよ。新しいとか古いとか決めつけて話してたが……そういうことじゃねえんだよ。御師は『講が強くなってどうする?』って言ったっけ」

「強くなっちゃいけないんですか」

「そいつは……どう思うね、幾松さん?」

 銭屋は微かに笑って幾松の目を覗き込んだ。


「これは理念の問題なんだって御師は言ったよ。講は力のない個人のための梃子なんだ。梃子を使って小さい力で大きな物を動かす。そこには弱いからこその理がある。逆に、力のある者は自分の力を使えばいいんで、そのうえ梃子まで使うことには理がない。そいつは世間が許さねえってね」


「世間が許すとか許さないとか、そういう問題ですか」

「どう思う?」

 銭屋は答えをくれなかった。

「とにかく講は、御師につく講親と、大番頭につく講親のふたつに割れた。講は民主主義じゃねえからさ。話し合いじゃ解決しねえんだ。〈戦争〉だったよ。まあ、長くは続かなかったがね、ひと月ぐれえのもんか。それでも、だいぶ血が流れた。結局、庄之助が負けて講はそれまで通りのやり方でいくって決まったんだ」

 老人は口を閉じて項垂れた。そのまま睡ってしまったように動かなかった。泡の消えたビールがコップのなかでかすかに揺れていた。

 小上がりの客がテレビのバラエティ番組にひとり寂しく笑っている。

「どうして、いま、そんな話をおれに聞かせたんです?」

 幾松は黙りこくっている銭屋に問いかけた。

「講が割れたのはそれきりだが、割れそうになったことはそのあとも何度かあった。バブル経済の絶頂期とかね……たいていそういうときはカネの流れを握っている帳元の辺りから動き始めるんだ。帳元株を隠れて集めようとするやつが出てくるんだよ」

「またそういう動きがあると――?」

「ああ。まだ近くはねえんだ。だが、遠くのほうからきな臭い匂いが漂ってきている。あたしも歳だから、この鼻が馬鹿になってるってえなら、そのほうがいいんだがね」

「おれにどうしろというんです?」

「そいつは幾松さんがどう思うか次第さ」

 銭屋は顔を洗うように両手でごしごし擦った。

「ああ、やっぱり歳だねえ。これくらい呑んだだけで、すっかりいい心もちになっちまった。あたしゃ少し睡ることにするよ。幾松さん、チケットありがとな。年寄りだからって嫌わずにまた顔を見せておくれよ」

 銭屋は微笑って立ち上がった。そのまま調理場へ帰っていった。テーブルには飲みかけのビール。すっかり泡が消えて、ぬるそうだ。少しも美味そうじゃない。それは幾松のもやもやした気持ちを形にして置いた物のようだった。


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