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トモダチ たぶん腐っている

◆10


 重い扉を引き開ける。ジャラン、とベルが鳴る。煤をつけたガラス越しに見るような暗い店。陰気なジャズがかすかに流れている。ぼんやりした赤いランプがカウンターに沿って天井から下がっている。客の姿はない。カウンターのなかで店主が驚いたように立ち上がる。いらっしゃい、のひとこともない。

 いつも客がいない。隠れ家みたいなバー、と甚六は言っていたが、本当に客から隠れてしまっている状態だった。冗談にもなりゃしない、と幾松は吐き捨てる。薄暗い店のなか酒瓶に囲まれて、甚六はいつも何かに怯えたような顔をしている。もっとも、甚六はバーを始める以前からこんな顔だったと幾松は思い出す。「いわゆる『不景気なツラ』なのよ」と白尾のウサオイも言っていた。

「急に休むなよ」と幾松は言った。「せめて『本日休業』くらいドアに貼っとけ。無駄にドア引っ張っちまった」

「いつの話だよ?」

「水曜」

「水曜は定休日だよ」

 そう言いながら、甚六はボタンダウンのシャツの襟の上にだぶついているあごの肉を掻いた。どうしてバーテンダーが七〇年代風アイビースタイルなのだろう。いつも幾松は不思議に思う。

「そんなのいつ決めた?」

「前々からそうだよ」

「初耳だぜ」

「おまえが聞く耳持たないってことが証明されただけのことさ。何にする?」

 幾松はちょっと考えた。結局、いつもと変わらないものを頼む。

「ビール。キンキンに冷たいやつ」

「うちのはどれも開店以来冷蔵庫で冷やしっ放しだからな」

「冗談に聞こえないな」

 甚六は、へへへ、と笑う。その笑い方が気持ちが悪い、というのは何も幾松ひとりの感想ではなかった。むしろ、昔からの友だちとして、そんなには気にならない、とまでは言えた。それでも「甚六は他人に不快感を与えるか」という投票があれば賛成票を投ぜざるを得ない。

 甚六は栓を抜いたハイネケンの瓶とグラスを幾松の前に置いた。ブレザーの袖口の金ボタンが一か所取れていて、ほつれた糸もそのままだ。そのくせ新品のロレックスが自慢げに輝いている。仕事服ならそういうところにも気をつけるべきだし、儲かっていないくせに親からもらった金を無駄使いすべきじゃないし、せめてビールは注ぐぐらいしろよ――そういう小言はもう何度も言ってきた。いまさら言うだけ無駄とわかったのでもう言わない。根本的に甚六はサービス業に向かないのだ。では何に向くのかと言われても答えようはないのだが、客商売だけは絶対にないと断言できる。

 幾松だけじゃない。そんなことはみんなわかっていたのだ。白尾のウサオイも、ウサオイの講の帳元たちも、甚六の両親にしたって重々承知していたことだ。ただ、甚六ひとりが納得しなかった。


 かつて幾松は幾松ではなかった。そして、甚六も甚六ではなかった。


 幾松が甚六になる前の甚六に初めて会ったのは、先代に引き取られた最初の年の夏だった。

学校が変わって友だちもできないまま始まった夏休み。幾松は毎日、「帝国鋲螺商会」に連れて行かれ、店の奥の小上がりで夏休みの宿題をやらされた。昼はたいてい素麺で、小学生の幾松が喜ぶと思ったのか、先代は色どりに混じっている赤や青の一本を必ず幾松の器に入れた。午後は二階で昼寝して、目が覚めるとバックヤード――先代はそこをたんに「裏」と呼んだ――へ回って、飛礫の稽古をした。店の壁に先代が蝋石で的を描いた。幾松はそれに向かって小石を投げた。小石なら足もとに幾らでも転がっていた。

 しばらく続けると宿題もほとんど終わってしまい、素麺にも飽きた。根が好きなのか、飛礫の稽古には飽きなかったが、プールやゲームが恋しくなった。素麺はたまにハンバーガーやカップ麺に替わったが、プールとゲームは戻ってこなかった。

 そんなある日、先代が素麺を茹でる手をとめて、今日は講中のところへ行く、と言った。「講中」ということばを聞いたのはそのときが最初だったかもしれない。

――向こうにもおまえと同じ年の子がいる。その子に遊んでもらえ。いずれおまえと同じく講を継ぐ子だからいまから仲良くなっておいて損はないはずだ。ただし、おまえとちがって相手はまだ講のことを何も知らない。だから、おまえも講のことはいっさい口にするな。

 そして、連れて行かれたのが甚六の家だった。甚六の家は駅前商店街のなかにある乾物屋だった。甚六の祖父が始めた店だというから、子どもにすれば大昔からある店だったが、のちのちオトナになってみれば講には江戸時代から続く老舗なんていうのがゴロゴロしていて、とりたてて古い店というのではなかった。

 甚六はそのころから太っていた。夏だというのに鼻がつまっていて口でハアハア息をしていた。幾松に友だちがいないのは転校したばかりだったからだが、甚六はまたべつの理由で友だちがいないのだとひと目でわかった。

「うちの子の友だちになってやってくれるかい?」

 先代の甚六が幾松の頭をなでながら言った。幾松はこれをつとめだと思った。世話人としての最初の仕事。

 先代は甚六の父親と出かけていき、幾松はクーラーの効いた部屋に「デブ」と取り残された。ほかにすることもないのでテレビゲームをした。甚六は幾松がやったことのないゲームを持っていた。そして、そのゲームで勝つたびに自分はすごく上手い、天才であると自慢するのだった。幾松は冷静に経験者と未経験者の差だと思って悔しくもなかった。ただ、こいつは友だちとゲームをしたことがないんだということは、漠然とわかった。

 先代と甚六の父親はそのとき何をしていたのだろう。そんな日が一週間ばかり続いた。さすがに毎日同じゲームで戦っていると彼我の差なんて徐々になくなって、しまいには幾松のほうが強くなってしまった。そうなると甚六のゲームに対する関心は一気に薄れてしまった。幾松が顔を出すのをあきらかに嫌がるような態度を見せ始めた。

 六日目だったのか、とうとう甚六はゲームをやらないと言い出した。じゃあ、どうするんだ、と尋ねると、外へ出かけようと言った。「つとめ」だとわりきってしまえば、依頼人の都合による急な予定変更など何でもない。幾松は甚六の後ろにくっついて炎天下の町へ出て行った。

 甚六は言い出したわりに具体的に何をするのかまったく計画がなかった。ゲームセンターを覗いてみたり、本屋へ行ってみたり。しかし、すぐに何もやることがなくなってしまった。この見通しの甘さと無計画性はオトナになっても治っていない。顔を真っ赤にして汗をだらだら流しながら、幾松は甚六に腹を立てた。これが甚六の父親から頼まれたのでなければ、とうの昔に放り出していただろう。

 喉が渇いたと言って甚六は駄菓子屋に入っていった。そのあとに起きたことは、タイミングが悪かったとしか言いようがない。ふたりが駄菓子屋のなかで瓶のオレンジソーダを飲んでいると、そこへ甚六を知っている子どもたちがやってきた。友だちではない。甚六には友だちがいない。彼の周りにいるのは「知っている子」たちだ。

 彼らは甚六にすぐ気づいた。なかのひとりが甚六を「うんこ」と呼んだ。またずいぶんと単純な呼び名だな、と幾松は感心した。何となくそう呼ばれるようになったいきさつも想像できた。

「うんこ、帰れよ」と誰かが言った。それをきっかけに「帰れ、帰れ」とシュプレヒコールが始まった。幾松が見ると、甚六は真っ赤な顔をしてうつむいていた。「知っている子」たちに囃し立てられていることより、この状況を自分に見られていることのほうがつらいんじゃないか――幾松はそんな気がした。

 むかむかした。何で真夏の町をさんざん引きずり回されたあげく「友だち」のみじめな姿を見せられなければならないのか。どうして「友だち」のせいで自分までいたたまれない気持ちにならなければならないのか。ラッパ飲みした炭酸がシュワシュワと喉を焼いてむせそうになる。プールで耳に水が入ったときのように、現実が薄いヴェールの向こうへ退いていった。

「おばさあん、このへんの商品はタムラ菌がついてるから、もう売り物にならないよ」

 いちばん勉強のできそうな子が甲高い声が狭い店内に響きわたった。どっと笑い声があがる。

 駄菓子屋のおばさんも「だいじょぶよお」と言ってケタケタ笑った。


 暴れだしたのはずっと甚六だと思っていた。

「いや、最初に商品ケースひっくり返したのは幾松だから」と甚六に教えられたのは世話人になったあとだ。

 幾松は、駄菓子屋のなかを滅茶苦茶にし、甚六の同級生を追いかけ回し、そのうちの何人かに怪我を負わせ――そして、先代に殴られた。「世話人たるもの〈明鏡止水のこころ〉を保たなくてはいけない」と初めて説教された。もっとも、当時の幾松にとって、話はそれで終わりだった。店やその他への賠償は講から支払われたが、そんなこと幾松たちは気にもしなかった。

 駄菓子屋を全国紙の新聞記者が訪ねてきたのは「事件」から一週間も経たないうちだった。嵐のあとのような店内で、記者は駄菓子屋のおばさんを取材し、いたく同情して帰った。

 数日後、地方面に「悪化するいじめ問題」として特集記事が載った。甚六もいじめた子たちも駄菓子屋もすべて匿名の記事だった。幾松のことなどその場にはいなかったかのようにひとことも触れられていなかった。

 そのまた数日後、同紙に特集記事に対する投書が掲載された。教育学部で学んでいる女子大生が書いたもので、オトナである駄菓子屋のおばさんが、いじめっ子に同調して甚六を笑ったことを非難していた。いじめられた子が暴れたのは良くないことだが、その気持ちは理解できる、と彼女は書いていた。この一通が新聞の投書欄に論争を呼び起こし、やがてテレビが目をつけた。

 カメラを引き連れたレポーターが商店街にやってきて駄菓子屋の取材を行った。編集されて午前中のニュース番組のなかで全国に放映された。おばさんの顔にはモザイク、声も変えられて知らない人にはわからない配慮がされていた。しかし、それがかえって彼女の印象を悪くした。

 世間の論調はおおむね駄菓子屋に批判的だった。

 店の上得意だった小学生たちも彼女を鬼のように言い出して、自分もひどいことをされたことがあるなどと言いふらし始めた。

 もちろん地元では甚六をいじめた子たちがすぐに特定されて、母親たちのネットワークで一気に拡散した。

 駄菓子屋は半年もしないうちに店をたたんで逃げるように町を去った。

「タムラ菌」と言った小学生は「ヒトラー」というアダ名をつけられて不登校になった。

 甚六は友だちこそできなかったものの、とりあえずいじめられることはなくなった。


 要は、新聞社にも、大学にも、テレビ局にも、地元の主婦のなかにも、講中はいる、ということだ。

 警察にも、都庁にも、消防署にも、自衛隊にも、国会議員にも、講中はいる。ネジ売りもいれば、中古車ディーラーもいる。旅行代理店の社長や、データ入力会社の社長もいる。堅気もいれば、ヤクザもいる。ふつうの人もいれば、ふつうじゃない人もいる。

 講中は東京のありとあらゆる場所に入り込んでいる。


 甚六の父親は講に大きな借りをつくることになったものの喜んでいた。すっかり幾松を気に入って勝手に息子の親友という位置に祀り上げた。

 先代の幾松には殴られたが、彼が怒っていたのはやり方の拙さについてだった。「この国が決めたきまりなんて関係ない。講にとって正しいことを、おれたちは秘かに素早く確実にやるんだ」とまだ子どもだった幾松に教えた。「そう、誰にも知られず、効果的な方法で、ときに激しく、ときに穏やかに――」

 当時から大番頭だった幾松の父親は激怒した。講を大きく動かさなければいけなかったことが気に入らなかったらしい。そして、「竜二のパパは何もないのが一番だってタイプだからねえ、オヒョヒョヒョ……」と江の島の御師は笑った。


 甚六との腐れ縁はこうして始まった。甚六が脳卒中で倒れた父親の跡を継いで「甚六」になったのは、幾松が日本を離れている間だった。

 甚六は乾物屋を継ぐのを嫌がって大学進学を志したものの、いつもどおりの見通しの甘さから、レベルの高すぎる志望校には二浪しても届かなかった。ゲームデザイナーを目指すと言って入学した専門学校も一年続かずに退学した。父親が倒れたとき、彼は家の二階に引き籠もって日がなゲームをしているだけの人だった。

 乾物屋は母親ひとりでも人を雇えば何とかなった。そんなわけで、幾松が跡目を継いだとき、甚六は「引きこもりの講中」という、講のなかでも特異な存在になっていた。

「さきゆきを考えて乾物屋を継ぐことを無理強いはしない」と病床の甚六の父親は、見舞いに行った幾松に語った。「でも、何か仕事を見つけて働いてくれないと。心配で心配で死ぬに死ねない」

「じゃあ、死ななきゃいいじゃねえか」と幾松は答えた。

「頼むよ、竜ちゃん。あのバカに言ってやってよ」と言って、甚六の父親は動くほうの手で幾松の腕を弱々しく握った。傍らに立っていた甚六の母親は白いエプロンの端で目頭を押さえた。

 それから幾松は、甚六の部屋に行って、テレビの電源を落とした。ゲーム機のメモリを抜き取り、ゲームソフトをことごとくへし折った。逆上して跳びかかってきた甚六の鼻の骨を叩き折り、二階の階段から転げ落とした。

 まずは仕事に身体を馴らすところからと、近くのゲームセンターのオーナーに話をつけて無理やりアルバイトとして放り込んだ。そこは一週間ももたなかった。その後、本屋、貸ビデオ屋、貸スタジオ、写真館と甚六が音を上げるたびに次の職場を見つけては押し込んできた。

 珈琲豆屋の店番で三カ月目。たったそれだけの期間で、これは甚六の天職なのではないか、と周囲が淡い期待を抱き始めたときだ。チェーンの居酒屋に幾松を呼び出して、甚六はとんでもない決意を告げた。

「おれは人に使われるタイプじゃないんだ」甚六は氷ばかりで中身の少ない葡萄ハイを飲み干した。「おれは独立するよ」

「珈琲豆屋かい?」

「いや」甚六はニヤニヤ笑った。彼がこんなふうに笑うときはたいていどうしようもないことを考えてるときだった。

「何を始めるんだ?」

「カウンターバー」

 幾松はビールを吹き出した。甚六がどこからそんな発想を得たのか皆目見当もつかなかった。メイド喫茶のオーナーになるとでも言ってくれたほうがまだ納得できた。

「バーテンダーを雇うつもり?」

「まさか。そんなの自分でやるさ。全部ひとりでやるつもりだよ。おれは人から使われるのも、人を使うのも好きじゃないから」

 甚六は店員を呼んでカルピスサワーを頼んだ。チェーン店でカルピスサワーを注文するバーテンというのもどうか、と幾松はくらくらした。

「もう物件も見つけてあるんだ。親父に言ったら反対されてさ。おふくろのやつも、無理だからやめろなんて言うんだよ。だから、講から金を借りて始めようと思うんだ。ウサオイにはどう話せばいいのかな?」


 甚六の見通しの甘さと無計画性については、もはや何も言うことがない。


 ウサオイは幾松から話を聞くなり言下に援助を拒否した。

「そんな客も来ない場所でやったら、一年ももたずにつぶれるわよ。どこをどうすると甚六にバーなんかやれるってことになるの。あれはマティーニを頼んだら『あいにくとオリーブが切れている』とか言って断るクチよ。まったく悪い冗談としか思えないわ」

 甚六にはそういう対人の仕事は向いていないんじゃないか、と帳元のひとりが言った。見た目からして人を呼ぶどころか人を遠ざけるものがある、と別の帳元が言った。

「講中から集めた大事なおカネをそんなドブに棄てるような真似はできないわ。幾松、甚六を説得してこの話はあきらめさせてちょうだい」

 ウサオイからの命令に、幾松は首を振った。ひとりの理解者も得られなかった甚六は依怙地になって、決意を石のように固くしてしまっている。そうなった甚六を納得させることはもう不可能だった。幾松はそのことを誰よりもよく承知していた。

「無理だ、ウサオイ」

「無理でもやって。講親の指図は絶対のはずよ」

「できないことをやれって言われたって無理だ。おれが何を言おうと、あいつは絶対にバーを始めるよ。こっちが言えば言うほど、あいつの気持ちは強くなるんだ。講がダメだと言うなら、講を抜けてもやるだろう」

 そして、実際、幾松が言ったとおりになった。甚六は「甚六」の屋号を講へ返し、甚六でなくなった。甚六の両親は店を売ってそのカネを息子に与えた。このカネで縁切りだ、と父親は言い、息子は、わかった、と答えた。

 甚六でなくなった甚六は、親から貰った金で店を借り、バーを始めた。何から取ってきたのか「ミッドナイト・サーカス」と名づけた。立地も悪ければ、人あしらいも下手。値段が安いわけでもなく、良い酒が揃えられているわけでもない。誰もが予想したとおりまったく客が入らなかった。

 両親が店を売って作った金を少しずつ食いつぶしている甚六だった。いずれ訪れる最後の日がまだ百年も先にあるようなふりで、夜になると看板に灯を入れ、めったに訪れない客を、酒瓶の間の暗がりで息を殺して待つ。

 幾松は一度訊いてみたいと思っていた。「講を抜ける」というのはどういう感じがするものなのか。幾松も講を抜けたくて日本から逃げ出した。しかし、そのときも講とのつながりが完全に切れたわけではなかった。だから、本当の自由は知らない。

 甚六は群れを離れた草食動物のようなものだ。怯え、震えているように見える。

 ウサオイが預かったかたちになっている「甚六」の屋号を返してやることはできないのか、と幾松はウサオイに相談したことがある。

「まずは儲からないバーをやめることね」とウサオイはにべもなかった。


◆11


 ビールは怖くなるほど冷えていて、喉に刺さった。

「なあ、甚六はさあ」

 幾松はカウンターのなかで丸椅子に座っている幼馴染に声をかけた。講中でなくなったあとも幾松は甚六と呼ぶのをやめなかった。また子どものころの呼び名に戻すのはかえって他人行儀な気がした。

「ううん?」

 煙草に火をつけていた甚六は間の抜けた返事を返した。

 客の前で煙草を吸うバーテンダーというのはどうしたもんだ、と幾松はため息をついた。仕事をする気がないのか。

「おまえ、ストライクゾーンてどのくらいだ?」

「腋の下からひざじゃないのか。あれは人でちがうんか」

「いや、野球じゃなくて。女の話だよ。おまえは下は何歳から上限何歳までつきあえる?」

「年齢以前に、二次元かどうかだな」

「三次元で考えてくれよ」

「つまり、アイドルの旬は何歳までかってことでOK?」

「ちがうよ」

 幾松はビールを飲み干して首を振った。彼は小倉直緒のことを考えていたのだった。婚約者である上総屋とは親子ほども歳が離れていると言った。彼女は上総屋が姿を消したのにはそのことが関係しているのではないかと疑っていた。そうでないことを幾松は知っているが、その理由を説明すれば、かえって彼女を苦しめることになるだろう。

「帝国鋲螺商会」のバックヤードが使われた。上総屋は講の人間として殺されたのだ。ボストンバッグには何が入っていたのか。亀吉はしきりに困っていたという。彼を困らせるような物とは何だ?

 幾松はビールをもう一杯頼んだ。甚六は椅子に腰かけたまま冷蔵庫を開けてハイネケンの瓶を出した。栓を抜いて幾松の前に置いた。グラスを替えようとはしない。

「家で飲んでいるみたいだ」

 ぼやいていると突然、背後で入口の扉の開く音がした。客か――あまりの驚きに声も出ない。

 店主である甚六まで驚いている。口を半開きにして入口を凝視。ハマー・プロのホラー映画でよく見る面だ。濡れた口唇に煙草が貼りついてぶら下がっていた。いらっしゃい、と言うことさえ忘れているが、次に出てくるのは悲鳴かもしれない。

 いくらめったに来ない客だからって、そこまで驚かなくてもいいだろう。幾松はグラスにビールを注ぎながら入口を振り返った。

 声が出なかった。

 ビールが溢れるのにも気づかなかった。カウンターを流れて腿に垂れた。冷たさにようやく我に返る。


 新しい客は入口から一番近い椅子へ座った。

「何よ? お店、開けているんでしょう?」

「あ……ああ」甚六が慌てて立ち上がった。「何にします?」

「マティーニちょうだい」

 甚六は客に背を向けて冷蔵庫の前にしゃがみ込んだ。FBIの捜査官が持つようなマグライトを口にくわえてカクテルのレシピ本を開いた。いくら何でもマティーニのレシピくらいバーを始める前に覚えておけよ――幾松は何をやっても泥縄の幼馴染に呆れた。

 新しい客は幾松を見なかった。だが、彼の視線を感じているのはまちがいなかった。彼女はカウンターにひじをついて髪をかき上げた――紫色の髪を。

 昨日の紫の女だった。

――偶然か。

 いや、それはない。店からずっと尾行されたのだ。幾松は大量の泡といっしょにビールをひとくち飲んだ。喉を軋ませる冷たさで、冷静さを取り戻した。尾行される側に回るとは考えてみたこともなかった。

「うううう」と甚六はうなった。彼はマグライトをくわえたまま紫の女を振り返った。

「眩しいわよ!」

 顔を強烈な光で照らされた女が怒り、甚六はあわてて口からライトをはずした。

「お客さん」

「何よ?」

「悪いけどマティーニは駄目だ。オリーブが切れてる」

 たぶんこの店の根本的問題は、バーのくせにFBIが使うような懐中電灯はあってもオリーブのストックがないということなんだな、と幾松はぼんやり思った。

「レモンと炭酸はある?」

「……たぶん」

「たぶん――?」

「あるよ。レモンも炭酸もある。ある、ある」

 甚六は頭をガクガク振ってレモンと炭酸の存在を強調していた。まるで世界の秘密を打ち明けているようだった。そういえば、甚六が母親以外の女と話しているところを見た記憶がない、と幾松は思い至った。

「じゃあ、ジン・フィズ」

 甚六はまたレシピ本を開いた。そして、絶望的な表情で紫の女を見た。

「何よ? そんな難しいもんじゃないでしょ? まさかジンがないとか言うんじゃないでしょうね?」

「いや、ジンはあるよ。ジンはある……」

「それならさっさと作ったらどうなの」

「……シェイクしなくちゃ駄目かな?」

 そのひとことは紫の女を絶句させた。女は頭を掻きむしると紫色のバッグから煙草を出して紫色の百円ライターで火をつけた。せわしなく数度、煙を吸うとカウンターの離れたところにあった灰皿へ手を伸ばして自分の前に引き寄せ、まだ長い煙草をぎゅっと擦りつけた。

「あたしを馬鹿にしてるわけ?」

「ちがうよ。ちがいます」

「あんた、バーテンよねえ?」

「うん」甚六は照れたように頭を掻いた。「この店のオーナー兼バーテンダーだよ」

 女が灰皿を投げつけそうになったので、甚六は両手で顔を隠した。

「乱暴はよしてくれよ」

「じゃあ、とっととシェーカー出してジン・フィズを作りなさいよ!」

「ああ、やっぱりシェイクするんだ」甚六は悲しげに首を振った。「絶対に笑うなよ。絶対だからな」

「あんた、それでカネ取るつもり? カネを払わせるならちゃんとやりなさいよ」

 甚六は亀のように首をすくめた。

 それから、彼はレシピ本を見ながらジンとレモン果汁と砂糖と氷をシェーカーに入れた。尻をななめ後方に突き出すという珍妙な格好で、アフリカのポリリズムのような、他人を不安にさせるリズムでシェーカーを振った。それはカクテルを作っているというよりも雨乞いの踊りのように見えた。神妙な顔をしているのがまたおかしい。

「笑ってんじゃねえよ、幾松」

 甚六は太った身体を不規則に揺らしながら、幾松を睨んだ。

 シェイクを終えた甚六は百メートルを全力疾走したかのように息を切らしていた。タンブラーに氷を入れ、シェーカーから酒を注ぐと、炭酸水をマドラーに伝わせてそっと注いでいった。数回ゆっくり掻き回して、はぁ、とため息をついた。

 甚六はできあがったジン・フィズを、左手で紫の女の前にそうっと押し出した。女はその様子をじっと見つめていた。甚六の指がタンブラーから離れた瞬間、彼女ははっと驚いたような表情を浮かべた。

「な、何だよ、文句があるのかよ」

「べつに。ただ、不味そうだなあと思って」

「嫌なら飲むなよ」

「それでもカネは取るんでしょ?」

 そう言って紫の女はタンブラーを持ち上げて口をつけた。コクリと喉が動いた。眉間にしわを寄せて、タンブラーをカウンターに戻す。

「まあまあね」

 ほっとした甚六が、ふうっと大きく息を吐いた。ワイシャツの襟に汗が染みていた。それは身体を動かしたからなのか、緊張のせいなのか。どちらにしても、そうまでして作られたジン・フィズなど、幾松は飲みたくなかった。

 紫の女はそのジン・フィズを飲むと代金を払って帰っていった。最後まで幾松を見ようとはしなかった。

「いまの女……ときどき来るのか」

「そういうときはふつう『よく来るのか』って訊くもんだろ」

 女が帰ると甚六は急に元気になっていた。

「この店によく来る客なんておれだけだろ? この店に何回来たかわからないけど、おれのほかに客がいたことなんて今日の女を入れても片手で足りるぜ」

「おまえの来ない日にお客は来ているんだ。自分の目で見たものしか信じないとか、そういう狭量な人間じゃいかんよ」

「つまり、初めての客だってことだよな?」

「どうしてそういうことになるんだよ?」

 甚六は唇を尖らした。三十近いデブにそんな顔をされても腹が立つだけだ。幾松は三杯目のビールを注文した。

「ビールでいいのか」

「何で?」

「ジン・フィズ作ろうか?」

「馬鹿」

 甚六は冷蔵庫からビールを出した。それをカウンターに置いたまま、栓も抜かずにじっと幾松を見つめた。

「なあ」

「何だよ?」幾松は栓抜きを持っている甚六の手元から視線を顔へ上げた。

「おれの屋号はいまどうなってる? 誰かほかのやつが新しく甚六になったのか」

 幾松は甚六の丸い目を見た。甚六は目をそらした。

「講に戻りたくなったのか」

「いや……そういうわけじゃないんだけど……」

「甚六の屋号はまだウサオイが預かったままだ。もし、戻りたいなら口をきくけど」

「いやいや、そんなことじゃないんだよ。ただ気になっただけだ」

 甚六は悪い夢から逃れようとするかのように、大きく首を振った。


 幾松はビールを三杯飲んでバー「ミッドナイト・サーカス」を出た。甚六の店は倉庫街の一角にあった。両隣が貸倉庫で、いつ見ても両方ともシャッターが下りていた。海の匂いがした。駅までたっぷり二キロはある。バスの路線からははずれている。タクシーもこんなところは流さない。「ミッドナイト・サーカス」の客は歩いて帰るしかないのだった。

 紫の女が偶然に幼馴染の店へ現れた可能性は低い。バックヤードで男の死体を見つけるより確率より低いだろう。追けられたのはまちがいなかった。とすれば、店を出たあとも追けられている可能性は高い。

 幾松は、見通しのきかない場所で唐突に立ち止まる、という行動を二、三度繰り返した。紫色の影は見えなかった。宵闇にまぎれているのかもしれない。しかし、そんな熟練した尾行技術を彼女は持っているのだろうか。

 紫の女が講の世話人である可能性も考えた。世話人なら全部の講の顔を知っている。女の世話人もいることはいるが、その中に紫女の顔はなかった。御師の隠し玉か――そんな者がいるならとうにばれていただろう。

 やはり女は講中ではない。何のために追けてきたのだろう? ただ尾行するだけなら、店に入ってくる必要はなかったはずだ。あれは自分の姿をあえて見せたかったとしか考えられない。

 気がつくと駅に着いていた。紫女の気配はなかった。そして、今日も「講を抜ける」というのはどんな気分か、甚六に訊ねるのを忘れたことに気づいた。


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