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死人の部屋

◆8


 矢野は几帳面なタイプらしかった。部屋は整理が行き届いていてゴミひとつ落ちていない。幾松の部屋など比べ物にならなかった。幾松からすれば、2LDKというのはひとり暮らしには広すぎる。

 整理されているということは、あるべき物があるべきところにある、ということだ。言い換えれば、意外な物はどこにもない、ということでもある。

 先に亀吉が部屋に入っている。重要な物はもう持ち出された可能性もある。だが、重要な物とは何か。それがまずわからない。

「タイマを探すところからじゃないですかね」と丁子屋は言う。

 タイマは「大麻」と書く。が、マリファナのことじゃない。持ち主が講中であることを示す証明書だ。ミミズがのたくったような筆文字の書かれた紙切れにすぎない。

 もともと大麻とは、江戸時代に伊勢講の手代たちが全国の講中へ配って歩いた伊勢神宮の神札のことである。それがいつの間にか、身分証になってしまった。

 講中なら必ず持っている。四角いのも、剣形のもある。いずれにせよ、昔の粗末な紙だから保管に気を使う。幾松の場合はパウチして銀行の通帳と一緒にしまっている。丁子屋は、特製のプラスチックケースに入れている、と言っていた。

 持ち歩く物ではない。矢野が講中なら、この部屋のどこかにあるはずだった。亀吉がそれを持ち出したとは考えにくい。幾松にしても、見つけたところで持ち出そうとは思わない。タイマ自体には大した価値はないのだ。

 見つかれば矢野は講中だということになる。それがわかるだけのことだ。もちろん、矢野が講中かどうか調べる方法は他にもあった。たとえば、八つの講親すべてに問い合わせるという手がある。昔なら面倒だったろうが、いまならメール一本ですむ話だ。他の講に知られるのが嫌なら江の島の御師のところへ行って、全講中のリストを見せてもらってもいい。何かしら理由をでっちあげればできないことじゃない。これも現在はデータベース化されているから、氏名で一発検索できる。あっという間だ。

 正式な手続きを踏むことがはばかられる場合も、まったく手段がないわけではない。あまり使いたくはない一手だが、やり方はあった。

 実の兄に電話をかけるのだ。兄の壮一はいま、庄之助の跡を嗣ぐべく手代を務めていた。壮一ならそうした情報にもアクセスできる権限を持っている。真面目に馬鹿がつくくらいの兄のことだから、そんなことを聞けば眉をひそめるにちがいないが、弟の頼みを断りはしないだろう。


――だが、壮一はあくまで最後の一手。

 貸しをつくるのが嫌だとか、そんなつまらない理由ではなかった。兄を汚れ仕事に関わらせたくない。講という仕組み自体が表に出られないいかがわしい存在だ。せめて兄にはそのなかのきれいな部分だけで生きていてもらいたかった。


 幾松は書斎、丁子屋はベッド・ルームに別れて探した。

 幾松はまず、スマートフォンで書斎の写真をいろいろな角度から何枚も撮った。

部屋とは人だ、と先代が言っていた。「食器棚から靴下が出てくるってことは、つまり、おまえはそういう人間だ」と呆れていた先代を思い出す。

 しかし、この部屋ではたいていの物は予想したとおりの場所にあった。物にはそれぞれふさわしい位置がある。鍋はキッチンのシンクの下の戸棚に入っていたし、エレキギターは書斎のコーナーに立っていた。

「つまんねえやつだな」とつぶやいた。

 矢野哲夫と友だちにはなれそうにない。幾松の部屋では依然として予想だにしなかった場所から突拍子もない物が見つかる。先日も洗濯機の裏からフライ返しが見つかった。つまり、おまえはそういうやつなんだよ、と先代の声が聞こえる。

 講中の多くはタイマをどこに置いているだろう。神棚や仏壇のある家はたいていそこに置いている。あとは預金通帳や株券や登記書などといっしょにしているのがほとんどだろう。たまに引き出しの裏に貼り付けているとか、ビニール袋に入れてトイレのタンクに沈めてあるなんて変わり種が出てくる。

――ここの住人なら通帳といっしょにしているはずなんだが……。

 預金通帳は書斎の机で見つけた。引き出しには鍵がかかっていたが、玩具のようなものだった。幾松はクリップを使って数十秒で開けてしまった。そこに通帳や実印が入っていた。しかし、タイマは見つからなかった。

 通帳とタイマがいっしょにない理由――それは矢野にとって通帳とタイマが異なる範疇に入るものだからだ。矢野はタイマと何を同類に考えているのだろう。

 幾松は書斎の真ん中に突っ立って考えた。目の前の机には大きなモニター。右手に窓。後ろはワードローブ。左手に戸口があってその隣に本棚。コンピュータの専門書とビジネス本。幾松がわからないか、興味のない本が並んでいる。下の棚に写真アルバムが立っている。ひとつ引っぱり出してみた。適当に開く。

 小学生の写っている写真。どれもこれも同じ男の子だった。背景に写り込んでいる物から類推すると九〇年代初めくらいだろう。何のことはない、この子は矢野哲夫なのだ。念のため他のアルバムも開いてみた。どれもこれも矢野の写真だった。乳児から始まって、大学の入学式の写真で終わっていた。

「気持ちわりい。絶対こいつとは友だちになれねえな」

 アルバムを本棚に戻した。その同じ段に、高校野球で貰った盾が立っている。小さなトロフィーもある。いちばん上にラケットを振っているミニチュアが付いているからテニス大会で貰ったもののようだ。大きさからしてせいぜい大学サークル内トーナメントか何かだろう。並んで使っていない名刺の入った箱がある。幾松は名刺を一枚貰った。「株式会社 エスディーピー東京 代表取締役社長 矢野哲夫」とある。「エスディーピー東京」というのはインターネットで調べたときに見つけた、あのブログのOLが勤めている会社だった。どうやらあの写真で当たりだったらしい。

 盾とトロフィーの奥には、卒業証書を入れる紙筒が寝かしてあった。


「ああ、そうか……」幾松は息を吐いた。


 矢野にとってのタイマはアイデンティティを保証するものなのだ。だから、アルバムや卒業証書といっしょにしまってある。

 幾松は紙筒を取った。紙筒らしからぬその重さに驚いた。すごく重いわけではない。手にずしりとくるくらいの物がなかに入っているようだった。

 ポンッ、と良い音をさせて蓋を開けた。なかを覗く。卒業証書といっしょにパウチしたものが入っていた。引っぱり出すと案の定タイマだった。それによると、矢野の屋号は「上総屋」というのだった。

 まだ紙筒のなかには重い物が残っていた。机の上で逆さにすると、それは重い音を立ててキーボードに落ちた。

「丁子屋!」幾松は相棒を呼んだ。しかし、紙筒から出てきた物からは目が離せなかった。「丁子屋、来てくれ」

 そんな大きな声を出さなくても、とぼやきながら丁子屋が書斎に入ってきた。

 幾松の肩越しに机の上にある物を見て、息を呑んだ。

「まいりましたね、これは……」

 ふたりが見ていたのは、時代がかった錠前だった。錆びているところもあって値打ち物にはとても見えない。骨董品屋に行けばいくらでも似たような物が転がっている。特徴らしい特徴といえば、鍵穴の横に「丙戌」と打刻してあることぐらいだった。

 しかし、その「丙戌」が問題なのだった。


 東京には同じ錠前が、全部で六〇個ある。そのひとつひとつに干支が打たれている。そして、いま幾松たちの前にはそのうちのひとつである「丙戌」の錠前があるわけだ。この錠前を所有する者は講の「帳元」である。つまり、矢野哲夫は帳元でもあったということだ。

 帳元の仕事を簡単にいうなら金庫番とでもなるだろうか。

 講の〝業務〟の中心は昔もいまも貸金業だ。講中にほとんど無に等しい低利子で貸し付けを行う。結婚、葬式、出産、入学、転居――人生に何度か訪れる、まとまったカネが必要になるタイミング。講中ならそういうときは迷わず講親に電話をかけるだろう。すぐに必要な金額が講中の銀行口座に振り込まれる。

 また、住宅街の真ん中でドネル・ケバブのスタンドを開業することを思いつくかもしれない。そのときも講親へ申し出ればいい。ただし、その場合は無条件で資金が得られるとはかぎらない。現実的な話なのか、採算が取れるのか、融資する価値はあるのか、きびしい審査にかけられることになる。

 結果、申請どおりの金額が援助されるかもしれないし、申請は却下されるかもしれない。全額ではなく一部だけ、ということもあった。それは出し渋っているのではなかった。しなくていい失敗を回避させるという判断だ。講中を損害から守るのも講の役目だった。

「寄合」と呼ばれるこの審査を行うのが、講親と帳元たちである。講親はもちろん同じ講の身内だが、帳元は必ず他の講に所属する者でなければならないとされている。それは公平性を保つための、先人たちのくふうだ。

 矢野もまたどこかの講で帳元を務めていたということだ。ウサオイの講ではない。身内の帳元なら全員、幾松は知っていた。もちろん、それは彼が世話人だからで、ふつうの講中の知るところではない。幾松にしてもほかの講の帳元についてまでは知りようがなかった。


「こいつは面倒なことになりましたねえ」丁子屋がため息をついた。「上総屋がただの講中ならそのまま放っておかれることだってあったかもしれなかったのに、帳元とあっちゃそうは問屋がおろしません。次の寄合がいつだか知りませんが、そこに顔を出さなかったらすぐに講親は調べますよ」

「亀吉はそれで来たのかな」

「昨日がアカメのとこの寄合だったとしたらその可能性はありますね。丙戌の帳元がアカメの講の帳元かどうか内々で調べられればいいんですがね」

 期待するような目を丁子屋が向けてくる。幾松はさりげなく無視して、紙筒に入っていた物を元へ戻した。

「とりあえずウサオイに報告したほうがいいでしょう。そのあとのことは、あの人がどう判断するかです。ただ、ここまでわたしたちがやってきたことは全部、ロクジを棄てて行った人間の目論見どおりのはずですよ」

 幾松は書斎を見まわして来たときと変わっているところがないか確認した。スマートフォンの写真と見比べる。すべてが元のままだ。机の引き出しの鍵も元通りにかけてある。

 よし、とつぶやいて、書斎を出た。丁子屋のあとについてリヴィング・ルームへ移動した。


「ロクジを棄てて行った人間は、あそこに置いておけば、キミが後腐れのないように始末するとわかっていたんです。警察に通報するなんて露ほども考えなかったんでしょうね。実際、世話人であるキミは警察に連絡して余計な関わりを持つより、わたしを呼んでお山へ埋めてしまうことを選んだ」

「うん。そこまではわかる」

 丁子屋は幾松の頭を「イイ子、イイ子」と撫でて革張りのソファにストンと腰を落とした。

「わからないのは、どうしてサツマが来たのかでしょう?」

「そうなんだ。警察を避けたくてウチの店を使ったなら、なんで通報するのかな。理屈に合わない。だから、棄てていったやつと通報したやつは別なんだと思う」

 幾松はリヴィング・ルームをうろうろと歩き回った。その部屋の床はフローリングだった。薄いソックス一枚越しに冷たさが足裏へ伝わってくる。

「棄てていった人間をXとしましょうか。このXはロクジに鍵と免許を残していました。つまり、この部屋を調べろというメッセージです。調べれば、矢野が上総屋であることも丙戌の帳元であることもわかる。Xはそれをわからせたかったってことです。なぜでしょう?」

 十畳ほどのリヴィング・ルームの中央を大きな革のソファと漆黒の頑丈そうなセンターテーブルが占領している。その外周を幾松はぐるぐると回り続けた。歩くのは考え事をしているときのくせだった。そうして回っていたら、ふと、一箇所だけ足の滑り具合のちがう場所があるのに気がついた。

 幾松は滑りの悪いところで足をとめた。何度も足の裏を床に擦りつけた。そこだけ、すっ、と抜けない。ワックスが剥がれているような感じだった。

 見下ろすと、その部分はほかに比べて天井の明りの反射も悪い。しゃがみ込んで顔を近づけてみた。板の継ぎ目に何か黒っぽい物が入り込んでいた。

「名刺ある?」

「ああ」と答えて丁子屋が名刺入れから一枚抜き出した。

 名刺には丁子屋の本名と大学講師という肩書が印刷されていた。幾松は名刺の角で継ぎ目をほじってみた。黒っぽい汚れが名刺についてきた。指で擦ると名刺の表面に赤黒く伸びた。指先にべたつきが残った。

 ソファから腰を浮かして丁子屋は幾松がやることを見ていた。

「そういうことは自分の名刺でやったらどうですか。どうしてわたしのを使いますかねえ。店には置いてあるでしょう、『帝国鋲螺商会』の店主って名刺。あれを持ち歩きなさい。キミ、れっきとしたオトナなんですから――」

「これ」幾松は名刺を丁子屋の鼻先に突き出した。

 丁子屋は幾松の手首をつかんだ。名刺を焦点の合う位置まで遠ざけると、喉を鳴らすように唸った。

「これは……血……のようだね?」

「たぶんそうなんじゃないかな。この辺りに一生懸命擦ったあとがある。きっと血を拭いたんだと思う」

「矢野はここで殺されたということですか。どう思う? Xは、ここまでわたしたちにわかってほしかったのかどうか?」

「いや、それはないんじゃない。わからせたいなら血なんか拭かなくてもいいはずだ。いま気がついたのだって、どちらかといえば偶然だからな」

「ふうむ――そうなると、どういうことになりますかね……」

 丁子屋がソファに深く沈んで考え込んだとき――


 ピン・ポーン。


 主を喪った部屋に、チャイムが鳴った。幾松たちは無言で顔を見合わせた。


◆9


 新聞屋の集金か宅配便なら、応えなければ行ってしまうだろう。しかし、そうではない気がした。

「逃げる?」丁子屋が眉をひそめて訊いてくる。

 幾松は黙って首を振った。

 玄関へ行ってドアに耳をつけた。やがて階段を登ってくる足音が聞こえてきた。

 幾松は自分のスニーカーと丁子屋のローファーをひっつかむと、玄関の鍵をかけて、そばの書斎に隠れた。丁子屋が妙に落ち着いた様子であとに続いた。

「余裕だね」と幾松は囁いた。

 丁子屋は口唇を左端だけ吊り上げて意味ありげに笑った。そのまま部屋の隅へ行き、スタンドに立ててあるギブソン・レスポールの隣に座った。こうしてじっとしていれば楽器に見えるだろう、とでも言いたげだった。

 幾松は部屋のドアをわずかに開け、壁に背をつけて息を殺した。

 誰かが玄関の外に立った気配がした。そして、小さな金属音。どうやらピッキングしているらしい。

……鍵のはずれる音がした。

 玄関ドアが開く音。一瞬、外の音が聞こえてくる。

 ドアが閉まり、靴を脱ぐ湿った音がした。

 咳き払いひとつ。入ってきたのは男だ。ひとりきり、だ。

 足音が近づき、幾松が息をひそめている部屋の前を、男が通り過ぎた。亀吉だった。まっすぐリヴィング・ルームへ向かっている。

 幾松はそっとドアを開け、廊下へ滑り出た。目の前に亀吉の背中がある。

 亀吉は幾松よりも頭ひとつ背が低かった。

 背後からそっと近づく。

 一歩、二歩――間合いに入った。

 うなじに手を伸ばした。

 亀吉の身体が足元に崩れ落ちる。

「さすがだな」丁子屋がパチパチと手を叩いた。「久しぶりに拝見させていただきましたよ、サカナデの技」

「そんなちょくちょく使うようなもんじゃないだろ」と答えて、亀吉の腹をちょんちょんと蹴ってみた。

 反応はない。

 しばらくぶりに使ってみたが、腕は落ちていない。飛礫とサカナデは、幾松を継ぐ者だけが代々伝えてきた秘技だった。幾松は初め、世話人ならみんな使えるのだと思っていた。そうでないことを知ったのは幾松の屋号を継いでからだった。

 サカナデにはおそらく「逆撫で」をあてるのだろう。いつ、どこに起源があるとか、そういう話は先代から聞いていなかった。先代も知らなかったのではないか。知っていたのに告げる機会がなかったとは思えない。修業は先代の許へ引き取られたときから始まったのだ。時間も機会もありすぎるくらいあった。先代はストイックだったが無口ではなかった。知っていることはすべて幾松に伝えていたはずだ。

 いつかこの技を次の幾松に伝えることになるのか。正直、幾松にはそういう講のあり方に疑問があった。先代が亡くなって跡目を継いではみたが、納得できない気持ちはずっとくすぶり続けていた。しかし、いまはまだ、いずれ答えを出す日がくる、と問題を先送りするだけだ。

「どれくらい寝ているもの?」

 丁子屋が亀吉の傍らに膝をついた。背広のポケットに手を入れてなかを探った。

「この様子なら一時間は目を覚まさない。たぶん気がついても何が起きたのかわからないだろう。こちらの姿を見ていないから、誰かに何かされたとは思わない。脳溢血だとか、心臓発作だとか、自分の身体に異常が起きたことを疑うね。いままでの経験では、たいていそうだよ」

 亀吉の膝の横に黒い革カバンが転がっていた。幾松は拾い上げてなかをあらためた。仲間のカバンを覗くことは後ろめたかったが、ロクジを棄てていったのは亀吉かもしれない。カバンには分厚いシステム手帳が入っていた。アカメの講中のリストはないかと期待したが、そんなページはなかった。当然といえば当然だった。幾松にしてもそんな不用心なものは作っていない。亀吉の表の顔は外車専門の中古車ブローカーだった。手帳のスケジュールを見ても本業の予定ばかり。今日のページも、この時間のスケジュールは空白だった。

 丁子屋が名刺入れを見つけた。いちばん上に入っていた名刺は矢野のものと同じデザインだった。「株式会社 エスディーピー東京 専務取締役 小倉直緒」と印刷されていた。幾松はスマートフォンのカメラに収めた。丁子屋は名刺入れから亀吉の名刺を二枚抜き出した。一枚を幾松に寄こした。淡いブルーのカードに洒落たフォントで本名が刷られている。幾松は免許入れを出して、それを自動車免許の裏に差し込んだ。

「これはさっき亀吉と一緒にいた女のでしょう。専務なんですね、あの人」

 丁子屋は小倉直緒の名刺を名刺入れに戻して、亀吉の背広の内ポケットに返した。

「何で戻ってきたんだ? さっきはなかへ入れなかったのかな」

「いや、それはないでしょう。部屋のなかに入らなかったのならもっと早く出てきていたはずです。あの専務さんはこの部屋の鍵を持っていたのですよ。なぜかは知りませんけどね。最近じゃ社長さんは会社に自宅の鍵を預けておくものなのでしょうかね」

「姉と弟とか――」

「ああ、それはあるかもしれません。もっと生臭い関係だとしても驚きはしませんよ」

 幾松は肩をすくめてみせた。そりゃ何だってありだろう、と思う。

「まっすぐリヴィングに行こうとしていましたね。目的の何かがリヴィングにあるということでしょうかね」丁子屋は立ち上がりリヴィング・ルームのドアを開けた。「あの女性の目があるところではできないことをしようと思ったんです。何をしようとしたんだろう。……いちばんありそうなのはリヴィング・ルームにある何かを持ち出すことだ」

 丁子屋はリヴィング・ルームへ戻った。革のソファに上って部屋を見回した。天井の照明に頭がぶつかりそうだ。

「何が見える?」幾松はそばまで行って相棒を見上げた。

「リヴィング・ルーム」と丁子屋は答えた。

 幾松はため息をついた。

「うん。いたって自然な解答だと思うよ。……で、何か興味を引くものは?」

「ないね、何もな――、幾松くん、そこにボストンバッグがありますね。何が入っていますか」

 窓際に黒いボストンバッグがあった。ぺしゃんこで何も入っていないようだった。実際、持ち上げた瞬間に空なのはわかった。幾松は念のためチャックを開けて、なかをたしかめた。両手で口を開いて丁子屋にも見せた。

「亀吉さんはこんな物を持ち帰ってどうするつもりなんだ?」

「ハズレかあ……この部屋の調和を乱しているのは、それぐらいなんですけどねえ」

 丁子屋はうなだれて頭を掻いた。幾松はバッグを元の場所へ、最初に見たときと同じつぶれ具合で置き直した。


 ふたりはそのあともしばらく矢野の部屋を調べた。バス・ルームにもトイレにも、これといって興味を引くものは見つけられなかった。結局、気絶している亀吉をそのままにして部屋を出た。幾松はあやうく鍵をかけそうになったところを、丁子屋に指摘された。最後に入ったのは亀吉なのだから、鍵は開いたままでなければおかしいのだった。来たときと同様に階段を使って一階に下りた。

 建物の外へ出ると、まだ明るかったが、風は冷たくなっていた。丁子屋が急に元気になって、スロープから駐車場へ入っていった。

 矢野の白いアルファロメオ・ジュリエッタは、暗い駐車場のいちばん奥に収まっていた。車のなかはきれいなものだった。ゴミひとつ落ちていない。昨日納車されたばかりといってもおかしくないくらいだった。ただ、ラゲッジスペースにボタンが一個転がっていた。オリーブ色のプラスチックのボタン。幾松はそれをポケットに入れた。

 ひととおり調べてあとはもう帰るだけになると、丁子屋が、ちょっと走らせてみたい、とわがままを言い出した。幾松は、駄々っ子のような中年を説得して、マンションをあとにした。

 今日のうちにまだすませておきたいことがあった。


 コーヒーショップの柔らかい椅子に座っていると、引いていた睡気の波がまたぶり返してきた。丁子屋が禁煙席を選んでしまったせいで、煙草でごまかすこともできない。ダブルで頼んだエスプレッソは苦いばかり。目蓋を押し上げる役には立っていない。しかし、待ち合わせた相手に会うまではしゃんとした顔をしていたい。

「べつに今日じゃなくてもいいんじゃないですか」

 アルファロメオをに乗れなかった丁子屋は不機嫌だった。

「また来るのは面倒だ」睡くて返事もおのずと不愛想になる。「一度ですませてしまう」

「それならキミが対応すればいいのに」

「おれはあの年頃の女に受けが悪いんだ」

「まるでわたしが得意にしているみたいな言い方だね」

「丁子屋は女性全般に受けがいいじゃん。下は幼稚園児から上は要介護まで、オールオッケーだろ。おれはどうにも相手を怒らせちまうから」

 これは嘘ではなかった。幾松のぶっきらぼうな態度がいけないのか。初対面の女性はたいてい怒るか怖がるかなのだった。「あんたは人を怒らせるようなことしか言わない」とは、幾松をおそらくいちばんよく知っている女性――白尾のウサオイの言である。

 女性対応の場合は丁子屋が出る、といつの間にか役割分担が決まっていた。そして、そのことにこれまで彼が文句を言ったことはなかった。女の扱いには自負するものがあるように見える。ブツクサ言ってはいたが、今回も実際に電話をかけて呼び出したのは丁子屋だった。

 幾松は二杯目のエスプレッソを買いに席を立った。ダブルで、と注文する。一杯目と同じ店員だった。濡れたように黒い髪をツインテールにしている。目は黒々と隈どられ、口紅は毒々しく赤い。ゴスロリのヴァンパイアをイメージしているか、本物のヴァンパイアなのだろう。

 財布から硬貨をきっちり数えてカウンターに並べた。その間、店員に見つめられていた。それが蔑みのまなざしなのか、憐れみなのか、判断がつかない。尊敬でないことだけはまちがいなさそうだ。出てきたエスプレッソはカップの下のほうに溜まっているだけで、何だか心許ない。煮詰めた醤油のような色をしていた。胃が悪くなりそうだ。

 席に戻ると、丁子屋が立ち上がった。さっきまでのふてくされた顔はどこへやら、人当たりの良さそうな、「好人物」印のラベルのような笑顔で迎えられた。

 何だ、気持ちわりい、と言いそうになったとき、突然背後から声がした。


「あの、お電話いただいた、矢野のお友だちの方でしょうか」


 振り返ると、すぐうしろに、あのピンクのスーツの女が立っていた。小倉直緒、矢野哲夫の会社の専務、マンションの鍵を持つ女――そんな情報が、閃光のように頭に浮かんだが、幾松もできるかぎり愛想のいい顔をしてみせた。歳の分だけ丁子屋のほうが芝居は上手いようだった。

 女はハイヒールの踵を鳴らして幾松の前を通過した。

「わざわざ出てきていただいてすみません」と丁子屋。

「いえいえ、とんでもございません。それよりも矢野が何かご迷惑をおかけしているようで……たいへん申し訳ございません」

 女が慣れた手つきで名刺を取り出した。気がつくと丁子屋の手にも名刺がある。いつの間に取り出したのだろう。いつも幾松は不思議に思うのだ。とても真似できない。

「あらためまして、わたくし、小倉と申します。矢野の下で働いておりまして……」女は何かつけたそうとしたが、結局、何も言い添えなかった。

「祝田です」

 丁子屋は名乗りながら、相撲取りが懸賞金を受け取るときのように手刀を切った。それはいかにも不自然なしぐさで、小倉も見咎めるように眉を動かしたが、それ以上の反応はなかった。


――つまり、この女は講中じゃない。

 初対面の相手に手刀を切るのは、講の者が相手も講中かどうかを確かめる際の秘密の合図だった。だから、相手にはっきりとわかるくらい不自然で、かつ逃げ出したくなるほどにはおかしくないしぐさなのだ。

 逆に、相手に手刀を切られたときは、自分の胸をポンとひとつ叩けばいい。それが「わたしも講中です」という返事になる。

 おたがいに講の者とわかれば、それなりの便宜を図るのが講のノリだった。――これは「則」である。幾松はかつて「乗り」と誤解していて先代に笑われたことがあった。同じカン違いをしている講中は若い世代に多い。「幾松さん、ノッてるね」などと言われてびっくりすることがある。


 小倉が丁子屋の前に座ったので、幾松も腰を下ろそうとすると、丁子屋に睨まれた。「小倉さんはコーヒーでよろしいですか。――大野くん、コーヒーをお願い。気をきかせないと駄目ですよ、キミ」

 これはつまりどういう立場なんだろう? 幾松はまたカウンターへと、小倉のコーヒーを買いに戻った。さっきと同じ店員にハウスブレンドを注文する。見つめると、店員は悲しげに目を伏せた。

 コーヒーを持って席に帰ると、丁子屋は長い脚を組んで、外国人のように両手を振りまわしオーバーアクション気味で喋っていた。それが嫌味に見えないところが丁子屋だった。たいていの女性と同じく小倉も食い入るような目で彼を見つめていた。

「矢野くんと連絡がとりたいんですが」と丁子屋はつらそうに首を振った。「電話がいつもつながらないんです。着信拒否というわけでもなさそうだし、どうしようか悩んでいたんですが、何かあったらあなたに連絡を取れと彼が言っていたのを思い出しましてね。それでお電話さし上げたという次第なんです。突然だったので驚かせてしまったと思います。申し訳ありません。彼は――矢野くんはいま、どうしていますか。どこか外国に行っているとか――?」

 彼ならいまお山の土の下だよ、と幾松は腹のうちで即答した。

 小倉は丁子屋の顔からわずかに視線をはずすと、幾松が買ってきたコーヒーに砂糖とクリームを入れてかき混ぜた。そうしながら何を話すべきか頭のなかでまとめているようだった。

「彼は、何かあったら私に連絡を取れと言ったのですか」

「ええ、そう言っていました。あなたをとても信用しているんでしょう」

「いつごろそう言ったのでしょう?」

 小倉の言葉には、詰問しているようなきつい感じがあった。

「あれはいつだったけ、大野くん?」

 当惑顔で丁子屋は幾松を見た。小倉の突き刺すような視線が幾松に向けられた。

「そんな前のことじゃありませんでしたよ。厳密にはどれくらい前だったかなあ」

「先週のことじゃありません?」

「ああ、それぐらいでした」適当にうなずいてみせる。「何か思い当たる節でもありましたか」

「婚約したんです」

 誰が? 誰と? と言いかけて言葉を呑んだ。丁子屋に爪先をぎゅっと踏まれていた。丁子屋はすかさず「おめでとうございます」と頭を下げた。

「おかしいでしょう? 親子でもおかしくないくらい離れていますのよ」と小倉は自嘲気味だった。

「それはふたりの問題でしょう。傍がどうこう言うようなことじゃありませんよ。たとえ言われたとしても気にしなければいいんです。矢野くんもそう考えたから結婚に踏み切ったのでしょう?」

 丁子屋の言うとおりだ――幾松は他人のことに関わりたくなかった。それがたとえ講中のことだろうと。婚約でも結婚でも好きにしてくれ、と思う。男がすでにくたばっていて叶わない約束になってしまったとしても、それは自分のせいじゃない。関係ない他人の話だ。ただ、目の前の女が怒っているように見えるのはなぜだ? 上総屋と年頃が似ているからなのか、責めるような目つきで睨んでくるのが怖い。

「今になって後悔しているのかもしれません」

 彼女はかたちばかりカップに口をつけると、そこに残った口紅を親指で擦った。無意識のしぐさに彼女の不安が察せられた。とはいえ、友人と名乗ったからと言って、初対面の人間に打ち明けるようなことか。それだけ不安が募っているということなのだろう。

「小倉さんも連絡がとれないのですか」

 丁子屋が意外そうに聞く。まったく千両役者だよ、と幾松は感心した。

「ええ、昨日から会社にも来ていませんし、家の電話もケータイも繋がりません。心配になって昨夜見に行ってみたんですが、部屋にもおりませんでした」

「旅行ではないんですか」

「車は駐車場に残っておりましたし、パスポートもありました。それに、どこか旅行へ行くなら私に何かひとことあるのが本当ですよねえ、婚約者なんですから」

「彼のご実家とかはどうなんです?」

「彼はひとりっ子で、大学生のうちに両親を交通事故で亡くしているんです。ほかに親しくしている親戚もないって言っていました」

「ふう、天に消えたか地に潜ったか、というところですか」

 実際の上総屋はまさに「地に潜ってしまった」わけで、丁子屋のたちの悪い冗談だった。何も知らない婚約者は自分が捨てられたのだと思って腹を立てている。それを何食わぬ顔で見ていることも同じようにひどい冗談にはちがいない。

「祝田さんは彼にどんな用事があるんですか」

「いや、ちょっと彼に貸しているものがありまして、そろそろ返してもらおうかなあって……いえいえ、いいんですよ、急ぐ必要はありませんから」

「何を貸しているんですの?」

「何をって……まあ、大したもんじゃありませんよ」救いを求めるようにまた幾松を見る。「えっと――」

「ギターなんです。エレキ・ギター。レスポールってわかりますか」

 幾松が適当なことを言ってあとを引き取った。上総屋の部屋にあった物で覚えているのはそれくらいだった。まさか、丙戌の錠前を貸していたとは言えない。

「ええ、彼の書斎に置いてあるギターでしょう? あれは――」

「大野です」

「大野さんのギターだったんですか。てっきり彼のだとばかり思っていました。もうずっとあの家にありましたから」

「はい、ずっと彼に貸してあったんです。ライブで使うからって貸して、そのままになっていたんですね。今度久しぶりにぼくもバンドでライブするものですから、返してもらわなくちゃいけなくて」

「何だったら、いま、取りに行きます? ここからなら彼のマンションは歩いて行けますよ」

 彼女の申し出は幾松をあわてさせた。いま上総屋の部屋に行ったらまだ亀吉が意識を失ったまま転がっているかもしれない。いくら死体を棄てていった張本人かもしれないとはいえ、講中を面倒に巻き込むのは本意でなかった。

「いやあ、そんなにあわてていませんから。矢野さんが戻ったら早く返してくれって言っていたと伝えてください」

「わかりました。でも、おかしいですね。彼ってそんなに人からいろいろな物を借りているのかしら。どこか行っちゃったと思ったら、貸した物を返せって人が続けざまに現れましたから。ええ、あなた方が初めてじゃないんです。実はさっきもそれでマンションまで行ってきたんですよ」

――亀吉も貸した物があると言ったのか。

 同じ言い訳をしていたことに、幾松は胃がきゅっと縮んだ。可哀想な婚約者もいまはまだおかしな偶然だと思っているだけだ。だが、不自然さはいずれ疑惑を生むだろう。

「やっぱり楽器ですか」とすっとぼけて丁子屋。

 小倉は小さく首を振った。

「カバンです。ボストンバッグ」

「マンションにはあったんですか」

「バッグはありました。でも、中身はなくなっているってその人は言っていました」

「へえ。中身って何だったんです?」

「それは教えてくれませんでしたね。でも、すごく困った様子でした。見ていて可哀想になるくらい。何度も『困ったな、困ったな』ってつぶやいていましたよ」彼女は丁子屋を睨みつけた。「彼はどうしてこんなに人を困らせるんでしょう? 結婚するのが嫌になったならそう言えばいいんです。おたがいもうオトナなんですから。突然隠れるなんて子どもだってやりませんよ。ねえ、そう思いません?」


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