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紫の女

◆5


 真夜中だ。さすがに高速道路に乗ってしまえば東京を出るのに時間はかからなかった。

 丁子屋は上機嫌でハンドルを握っている。彼は車を運転さえさせておけば文句はないのだ。自分でも所有しているが、講の勤めではまず使わない。

 彼は講中が乗っている車のリストを作っていた。次に誰から借りるかも、いつも決まっていた。とっかえひっかえ講中たちのを借りて乗っている。彼が世話人を続けているのは、ひとえにその楽しみのためだけかもしれなかった。 

 画商のボルボ・エステートは後部荷物スペースに死体を乗せて、暗いほうへと暗いほうへと走っていた。

 幾松たちが向かっているのは〈お山〉と呼ばれている場所だった。萬蔵さんのとこ、と言われることもある。

 どの時代に始まったことかはわからないが、表立って埋葬できない死体、闇に葬らなければならない死体、戸籍上まだ死んでいない死体、その他諸々の面倒な死体がそこには埋められてきた。墓所ではない。墓というのは埋葬している人物を記憶するための場所だ。お山は埋めて忘れ去るための場所なのだ。

 その存在を知っているのは講のなかでも限られた人間だった。世話人と、ウサオイら講親たちと、講全体を束ねる御師とその手代だけである。

 ふつうの講中はそんな場所があることすら、夢にも思わないだろう。

「萬蔵さんはいくつになったんでしょうね?」

「初めて会ったときから死にそうな年寄りだった」

「そんなことはないでしょ」丁子屋は笑いながら、さらにまた暗いほうへハンドルを切った。「もう七十を超えましたかね」

「電話で話したって言っていたけど、まだ生きているってことが驚きだ。てっきりもう代替わりしているもんだと思っていた」

「声は元気だったけどねえ。去年はさいわい……さいわいだよねえ……萬蔵さんと会うことはなかったから、もう一年以上ご無沙汰だったわけですけれども……」

 そうか、一年会っていないか、と幾松は感心した。萬蔵に会うこともお山へ行くこともなかった一年。世話人になって以来、そんなに長く開けたことはなかった。

 これは大きな面倒に巻き込まれなかったということだ。世話人としては喜ぶべきことなんだろう。しかし、そのツケが回ってきたかのような、後ろのスペースに転がっている死体だった。


 真っ暗な場所で丁子屋は車を停めた。闇のなかに光っているカーナビはどことも知れない位置を示していた。地球上のどこか。日本のどこか。

 ヘッドライトが照らしだしているのは、鬱蒼とした真夜中の森だった。

 お山に着いたのだ。

 午前三時――約束の時間。スポットライトのような光のなかへ、上手からスコップと鍬を担いだ老人が現れた。小さくて痩せた、チンパンジーのような爺さんだった。赤い野球帽をかぶっている。茶系のチェックのシャツにだぶだぶのオーバーオール。パッと見はアメリカの農民のようだ。

 老人は光の真ん中で立ちどまり、こちらを向いた。光を受けて老人の目が光った。

「いつまで車んなかでボーッとしているつもりだ」

 老人は怒ったように言った。その口調は懐かしい萬蔵のものだった。

「とっととロクジを降ろしちまいなよ」

 幾松たちは車を降りて、ハッチバックのドアを開けると梱包した死体を引きずり出した。ビニールシートの青がやけに嘘っぽく夜の底に沈んでいた。

「ご無沙汰していました」

 丁子屋がそつのない挨拶をした。幾松はぺこっと頭を下げた。中学生の頃とそう変わっていない。ちゃんと挨拶できない子が、そのまま挨拶ひとつ満足にできないオトナになった。

「お父様はお元気ですか」

 ええ、まあ、と曖昧な答えを返しながら、幾松は腹のなかで舌打ちしていた。彼の父親が大番頭で、次の御師と目されている庄之助だということは、秘密でもなんでもなかった。とくに古くから彼を知っている者には、あえて持ち出す必要もないほどの、常識とさえいえる前提だった。

 幾松は庄之助のことが大嫌いだったから、血縁を利用したことはない。ただ、その血縁に期待して近づいてくる者もいないわけじゃなかった。十代のころは相手のそうした狙いに気づかず傷ついたこともあった。その反動で、二十歳のころは近づいてくる講中をことごとく拒絶した。講そのものから逃げ出したいという気持ちが膨れ上がってどうにもならなくなった。

 しかし、彼は世話人として育てられてきた。ふつうの講中とはちがう。先代の幾松に話すと、先代は外国へ逃げたらどうかと預金通帳を出してきた。大野竜二名義で七ケタの貯金があった。跡目を失うことについては「んなこたあ、どうでもいいじゃあねえか」と笑った。

 幾松は先代の言葉に甘えて日本を離れた。戻ってくるつもりはなかった。父親が怒っているという話も伝わってきたが、かえって気分がよかった。

だが、結局、ウサオイからの電話一本で彼は帰ってきた。二度と戻るつもりはなかったのに、先代に二度と会えないとは考えたことがなかった。愚かしい矛盾だった。

 先代はこのお山のどこかに埋まっている。そういう最期だった。どこに埋まっているのか幾松は知らない。萬蔵も教えてはくれないだろう。


 矢野の死体をブルーシートに包んだまま棒に縛りつけて、ふたりで担いだ。先棒は背が低いほうの幾松だった。ふたりは萬蔵のあとについて山の斜面を登って行った。しばらくは人の通れる道が作られていたのでまだ歩きやすかった。途中から森に入ると、何度か下生えに足をとられて転びそうになった。萬蔵が懐中電灯で足元を照らしてくれなければとても先に進めなかっただろう。

 前方に大きな闇のかたまりが現れた。夜が地面にうずくまっているように見えた。そこまで幾松は何時間も歩かされたような気がしたが、時計を見ると三十分と経っていなかった。

 闇のかたまりと見えたのは深く掘られた穴だった。ふたりは穴の傍らに荷物を下ろした。萬蔵が大ぶりなナイフを出してビニールシートを切り開いた。繭から出てくる昆虫のように矢野が現れた。萬蔵は続けて矢野の着衣を切り始めた。

「裸のほうが分解が早い……と思う。服は明日、こっちで燃やしておくから、置いていけばいい。ビニールシートも置いていけ。処分してやる」

 萬蔵はゴム長の足で、裸になった死体を穴へ蹴り落とした。幾松たちはスコップと鍬で掘り返した土を穴に戻した。

 すっかり穴を埋めてしまうと幾松は道具を放り出して、そばの木の根方に座り込んだ。煙草に火をつける。隣に腰を下ろした萬蔵にも一本すすめた。

 萬蔵はひと口吸って、つらそうに咳をした。肺を病んでいるような咳に聞こえた。

「おれもね、もうだいぶ弱ってきたよ。まあ、おれ自身はいつ死んだっていいんだけどさ。気にかかるのはこのお山のことだよ。跡目がいないから、おれが最後の萬蔵になるかもしれない。そのときここは誰が面倒見るのかね?」

「跡目はいない?」

「いないよ」萬蔵は闇のなかで力なく微笑んだ。「幾松さん、今度御師に会うときでいいから、萬蔵の跡目を探すように言ってくれよ。ちょっと急いだほうがいいって付け加えてもらえるとありがてえな」

「萬蔵さん……」

 幾松は久しぶりに会った萬蔵が気弱なので少し驚いた。記憶のなかの萬蔵は、年寄り扱いされるのが大嫌いな扱いづらい爺さんだったはずだ。記憶と現実の乖離に、胸が絞られるようだった。

 幾松は煙草を消して立ち上がった。大きく息を吐いて、煙とはちがうものを肺のなかから全部追い出した。

「いつになるとは言えないけど、会ったら忘れずに伝えておく」

「ああ、そうしてくれ」萬蔵は幾松の腕をつかんで大儀そうに立ち上がった。「でかくなりやがって、まあ。初めて会ったときはおれの腰ぐらいまでしかなかったのによお」

「さすがにそんなに小さくはなかったろう」

「いやあ、まだ小っちゃかったよ。先代の陰からおれのことをチラチラうかがっていて、目が合うと先代の後ろに隠れるんだ。かわいかったねえ」

 萬蔵は身ぶりつきで昔を語った。うれしそうだった。痩せた肩から老人の孤独が滲みだしていた。

「そんなことを言うなんて萬蔵さんも歳食ったってことだな」

「おまえさんは、ちょっと育ち過ぎたんじゃねえか」

 萬蔵はそう言って自分で笑ったが、そのうちに笑いは苦しげな咳に変わった。そして、咳はなかなか治まらなかった。


◆6


 幾松は丁子屋に「帝国鋲螺商会」へ送ってもらった。じきに夜が明けようという時間だった。もう自分のアパートに帰って布団にもぐる余裕はなかった。もっとも徹夜をそんなに気にする必要もない。どうせ客なんてめったに来ないのだから、店の奥でうとうとしていればいいのだ。

「午後は予定どおりでいい?」

 車の窓から顔を出して丁子屋が訊いてきた。幾松は頭にどんよりと雲がかかっているような感じだった。それで一瞬ためらったもののうなずいた。ぐずぐずしていると後手を踏むことになりそうな気がした。

「じゃあ、二時ごろ迎えに来るよ」

 そう言い残して丁子屋は走り去った。彼にはまだボルボを銀座の画商に返す仕事が残っている。

 いつものように幾松はシャッターを上げる前にバックヤードへ行って煙草を吸った。そこに死体はなかった。空は抜けるような青空だが、運河は今日も濁っていた。

 少し安心した。


 たぶん夢なのだろう、と思った。そして、夢ならずいぶん安っぽい、と思った。

 見知らぬ女が揺れながら通路を近づいてくる。床から数センチ浮き上がっているような歩き方だった。異様な何かを感じさせる。しかし、その感じは不安定な動きのせいよりも、むしろその外見のせいだった。

 ウィッグなのか自毛なのか、胸元まであるまっすぐな髪は、菫の花を薄めたような紫色をしていた。そして、薄紫色の羽衣のような、ふつうの人なら着て歩かないだろうという上着を羽織っていた。その下は濃紫のタンクトップ。淡い紫色のホットパンツからは細い脚が伸びている。ひざより下は紫と紺の縞模様のニーソックスに包まれていた。厚底のスニーカーもパステル調のパープルだ。

 紫に揃えたいという、女の願望が直接に出ているのはわかる。だが、どうして紫にそんなにこだわるのかがわからない。こだわりすぎて病的な感じがする。

 しかも、意味不明に微笑んでいる女の顔には、その若さとは不釣り合いな生活の疲れが浮き出していた。昼の光のなかに生きている者ではなかった。夜の人工灯の下でようやく息がつける人間のように見えた。

 そして何より「帝国鋲螺商会」という場所に似つかわしくなかった。幾松の店には、この女が欲しがるような物は置いていないはずだった。

 女は幾松の前に立つと、机の上にボール紙の小箱をひとつ置いた。ほとんど放り出したといってもいいような乱暴な置き方だった。いつの間に棚から取ったのか気づかなかったが、女の手には重すぎたのだ。


「これちょうだい」と女は言った。

 爪も紫だった。


 幾松は箱のラベルを見た。紫色の女が買おうとしているのは「+」のナベ頭小ネジだった。M6と呼ばれるやつ。六ミリ径で長さが一四ミリ。ピッチは一・〇。材質はステンレス。一パックに四〇本入っていて、箱にはパックが一ダース入っている。つまり四八〇本のネジ。

「九千七十二円になります」

「うそっ」

 紫の女は自分が置いた何の飾りもないぶっきらぼうな灰色の箱を見た。彼女は自分が何を買おうとしているのかまるで理解していないらしかった。

「これ、そんなに高いの? もっと安いのでいいんだけど」

「これがこの種類では一番安いものになります。どれくらい必要なんですか」

 幾松は紫女の目を見つめた。煙草のせいか、酒のせいか、白目が黄色く澱んでいた。そこに黒目がぼんやりと浮かんでいる。睡そうで淫靡な雰囲気が漂う。衰頽しつつある者の美しさ、があった。

 紫女は後ろめたげに目を伏せた。

「ほんのちょっとでいいのよ」

「ばら売りはしてないんで、最低でも一パックからになります。一パック四〇本ですよ」

 女の年齢を自分より若いと幾松は推測した。まだ二十代半ばだろう。ただ、ひどく消耗しているように見えた。もし生命力が分泌物みたいなものなら、すっかり涸れ果ててしまっているようだった。

「四〇本? それでいくらなの?」

 紫女は四〇本も何を買うつもりでいるのだろう?

「税込みで七五六円ですが……どうします?」

「じゃ、いただくわ」

 紫色のスパンコールで覆われた長財布から千円札が一枚、机に投げられた。

 幾松は箱を開けてM6のパックをひとつ取り出した。それだけでも掌にずしりとくる。千円札をレジスターに入れて釣銭といっしょにネジを渡す。

「領収書はいりますか」

「いらないわ、そんなもの」

「まいどありがとうございました」

 紫女はネジのパックを手に持ったまま動かなかった。何か言いたそうに幾松を見下ろしていた。

「他にも何かお入り用ですか」

 なけなしの愛想笑いで幾松は女が話しだすのを待った。しかし、女は大きく首を振って彼に背を向けた。来たときと同じように、ゆらゆらと、覚束ない足取りで店を出て行った。


 夢でないのは蓋の開いたネジの箱を見ればわかる。じゃあ、何だったんだよ、とひとりごちる。睡眠不足もあって、やはり、夢を見ているような気分が続いていた。

 紫の女の目的がネジを買うことでなかったのはたしかだ。

 ふと思いついて幾松は立ち上がった。机の上にネジの箱を出しっぱなしにして店を出た。一ブロックほど先に紫の女の背中が見えた。ゆらゆらと陽炎のように揺れている。

 入口の戸に鍵をかけて、幾松は女のあとを追った。彼女は駅から遠ざかるほうへ向かっていた。かなり離れていたが、あえて距離はちぢめなかった。女の進む先には運河をまたぐ橋がある。女はそれを渡るだろうと幾松は予想した。橋の向こうは戦前から続く歓楽街だ。かつては三業地と呼ばれたエリアだった。その辺ならきっと、あの女も息をしやすかろう。

 睨んだとおり紫の女は橋を渡った。幾松は気づかれないよう路上駐車していたトラックの陰に隠れた。

 橋を渡った女がどちらへ行くのか興味があった。右へ折れてさらに海に近づいていけばその辺りは戦後の一時期、自ら「パラダイス」と名乗った赤線地帯だった。今はもうすっかりさびれて風俗営業どころか盛り場ですらなくなっていたが、女にはその衰微した雰囲気が似合っているような気がした。

 しかし、女は左へ曲がった。運河の対岸を遡ることになる。その道はネオン街が続く。紫の女にはいかにもの進路だといえた。ただ、その街が息づくにはまだ時間が早過ぎた。街は新しい睡りについたばかりだった。

 幾松は女が橋を渡りきるのを待ってまた動き出した。橋の上に立つと潮の匂いが強く感じられた。海のほうから吹き抜ける風が、睡気をさらっていった。

 ネオン街に輝くネオンはなく、朝の名残りのどこか白けた空気が人けの少ない街を覆っていた。カラスが生ゴミをつつき、醒めた顔の男たちがつまらなそうに信号待ちをしている。

紫女はどこかへ引っかかることもなく、ゆらゆら歩き続ける。幾松はあとを追う――というより、間隔をあけて一緒に歩いているような感覚だった。

 やがて紫女はある建物の前で立ち止まり、引っ張られるようにそのなかへ入っていった。幾松は足を速めてその建物に向かった。


 スナックやバーが入っている古い雑居ビルだった。背の高い両隣のビルから脅されているような圧迫感があった。この圧迫感はなじみ深かった。そこはちょうど運河を挟んで「帝国鋲螺商会」の真裏にあたる雑居ビルだった。

 紫の女は正面奥のエレベーターに乗ったようだった。経過階を表示するランプが3、4、5と右へ動いていき、6階で停まった。そこは最上階だった。各階の案内表示を見ると、六階には「サンスーシ」というクラブがひとつあるきりだった。女はその店に入ったらしい。

 しかし、まだ出勤時間にはいくらなんでもまだ早すぎる。


◆7


「それで、キミはその紫色の女がサツマに通報した本人だと睨んでいるわけだね?」

 丁子屋はハンドルを抱え込むようにして、フロントグラスから通りの向こうの茶色いマンションを見つめていた。

 今日の車はミニクーパーだった。大きな男とふたりで乗る車じゃない、というのが、幾松の正直な気持ちだった。しかし、ニューモデルだということで、丁子屋は機嫌が良かった。昨夜とうってかわって丁子屋はいかにもオシャレな大学講師ですという恰好をしていた。芥子色の格子柄のツイードジャケットの下に、焦茶のV字襟のシャツ。褪せた色のジーンズを穿いていた。

「確信があるわけじゃない。でも、たぶんあいつだ。あの女はうちへ様子をたしかめにきたんだよ」

「様子って――ロクジがまだ残っているかどうかですか」

「全然笑えねえ冗談だ」と返して、アクビひとつ。

 気休めだとわかっているが、幾松はシートを倒して外から見えにくいように頭を低くしていた。頭がぼんやりする。睡魔は今がピークだ。こんな体勢を続けていたら、もう十分もしないうちに睡ってしまう。

 丁子屋は肩越しに幾松を振り返った。目が笑っていた。

「キミがサツマに引っ張られたかどうか知りたいなら、何も店のなかまで入ってくる必要はない。ましてやネジを四〇本も購入する必要はない。そうでしょう?」

「そうだね」

 幾松は胸ポケットの煙草に手をかけてとめた。車内禁煙はミニクーパーの持ち主が出した唯一の条件だった。

「じゃあ、あの全身紫色は何だったんだよ?」

「たんに幾松さんに気があるとかじゃないですか、くっくっくっ」

 幾松は想像してゾッとした。そいつは都市伝説を地でいく話だと思った。

「まさか」

「そう、まさかですけどね。可能性はゼロじゃない」

「そんなの、何だってありってことか。じゃあ、もしかしたら、あれと関係があるかもしれないわけだよな」

 幾松はフロントグラスから見える通りの向こう、矢野のマンションの前を行ったり来たりしているセールスマン風の男を指差した。一歩ごとに跳ねるような、ペンギンを思わせる特徴的な歩き方。その男のせいで、ふたりはミニクーパーのなかで足止めを食らっているのだった。


 死体の住んでいた部屋を調べるのにこんな邪魔が入るとは予想していなかった。マンションの前にいるのは、亀吉という講中だった。「アカメの足長」という講親の下で世話人を務めている、幾松たちの仲間だった。

 もっとも同じ世話人同士だからといって気軽に声をかけるわけにもいかない。どうしてアカメのところの世話人が死体のマンションに来ているのか。その理由がわからない以上、接触は避けなければいけない。「帝国鋲螺商会」のバックヤードに死体を放り出して帰った本人かもしれないのだから。

「ふたりが何らかのかたちで連絡を取り合っている可能性は、実際、キミが紫の女にストーカーされているという仮説より、ずっと高いんじゃないでしょうかね」

「しかし、邪魔なやつだよな。いいかげん帰らねえかな。あの様子だと誰かと待ち合わせかもしれない。そうだとすると、当分帰らないよ」

「待ち合わせなら誰が来るかたしかめたほうがいいでしょう」丁子屋もアクビをひとつ。徹夜をしたのは幾松ひとりではなかった。「紫色の女が現れるというのも、あながち冗談じゃないかもしれませんよ」

 幾松は時計を見た。じきに午後三時になる。お山で萬蔵と会ってからちょうど十二時間。丁子屋も起きているのがつらくなっているのだろうか。亀吉が待ち合わせなら、その相手もそろそろ姿を現すだろう。きっと三時に約束しているにちがいない。

「来ましたよ」

 丁子屋のうれしそうな声に、幾松も頭を上げて窓の外を見た。


 ダークスーツの亀吉の前に立っているのは、淡いピンクのスーツを着た女だった。年ごろはウサオイと同じくらいに見えた。とすれば、四十代後半か、と幾松はあらためて数字に直して覚えた。ウサオイよりも背は高いが、余分な肉のついている感じはしない。すっと伸びた一本の草のようだった。ウサオイと同じように外に仕事を持っている女性だ。ただ、ウサオイのような刺々しい感じはない。もっと穏やかそうに見えるのは、笑った表情が柔らかいからだろう。

「ウサオイと同じ種族だな。昔は美人っていう――」

「昔はってことはないでしょう。いまだって綺麗ですよ、ウサオイも、あそこの人も。幾松、キミはストライクゾーンが狭すぎる。世間一般の基準からしたら半分もない。そんなんじゃ幸せにはなれませんね」

 丁子屋は女に向けたオペラグラスから目を離さなかった。

「そんなこと言うけど、ウサオイの若いころは本当に綺麗だったぜ。子ども心にこんなに綺麗な人がいるのかって思ったくらいだから」

「それを最近彼女に言ったことはありますか」

「ないよ。あるわけないじゃん」

「まあ、褒められているとは思わないでしょうからね。――おっ、動きそう」

 幾松が見ると、女がマンションへ入って行くところだった。亀吉がそのあとへ続いていく。ひょこひょこと歩く姿は気弱なセールスマンにしか見えないが、あれで亀吉という世話人は汚れ仕事を厭わないと仲間うちでも一目置かれていた。

「やはり矢野の部屋に行くんですかね?」

「亀吉さんがウチに棄てていったのだとしたら、こいつはまた穏やかじゃないな。相手は武闘派のアカメかよ。こりゃ血を見ることになるかなあ」

「何も喧嘩しなくても」

「こっちにその気はなくても向こうはやりたがっているんじゃない? アヤをつけてきたのはあっちなんだぜ」

「亀吉さんがロクジを棄てていった犯人だと決めつけるのはまだ早いでしょう」

「そう?」

「考えなしのふりをするのはキミの悪い癖だ。実際、どれくらいの可能性だと踏んでいるんです?」

 幾松はシートを起こした。誰もいなくなったマンション前を睨んだ。実際、亀吉がロクジを棄てていった可能性はどれくらいだろう。亀吉なら棄てただけということはない。生きている矢野をロクジに変えたのも、彼の仕事のはずだ。――そうなのか? 頭がうまく働かない。脳みそに酸素が足りない。濃いコーヒーも必要だ。

「亀吉さんはまだ矢野が生きていると思っているのかもしれない」

「さもなければマンションまで訪ねてこないということでしょうか」

「それもそうだし……何よりあんな女と接触するのがおかしい。あの女はいったい何もんだ? どうやらあの女がいないと、亀吉さん、マンションの玄関の鍵も開けられないようじゃないか。ロクジからは財布が消えていた。でも、鍵は残っていた。部屋に入りたいなら鍵もロクジに残さず持っていればよかったはずだ」

「つまりアカメの講は絡んでないってこと?」

「そんなのわからない」幾松は吐き捨てるように言った。「少なくともアカメのとこの世話人が動いているんだ。無関係とは言えないだろうな」

 丁子屋は納得いかないという顔で、幾松を見返した。


 女と亀吉は二十分ほどしてマンションから出てきた。その様子は不動産屋が客に物件を案内してきたところにしか見えない。

 女は来たほうへ帰っていった。亀吉はその後ろ姿をしばらく見送っていたが、やがて踵を返すと足早に歩き去った。そのときの顔は、さっきまでの気弱で優しそうなマスクは剥がれ落ちて、冷酷で狡賢そうなものだった。これが亀吉の本当の顔だと幾松は知った。そして、自分もあんな顔になってしまっているのか怖くなった。

「さて、行きましょうか」

 丁子屋が車を動かす。あらかじめ見つけてあったコインパーキングに駐車して、そこから歩いてマンションへ向かった。途中の自動販売機で缶コーヒーを買ってひと息に飲み干した。ただ、その程度のカフェインで集中力が保てるのかは心許ない。

 矢野のマンションは地下に駐車場があって、一階にはコンビニエンスストアとクリーニング店が入っていた。二階から上が住居部分で、矢野の部屋は五階にあった。

 玄関エントランスのインターホンで矢野の部屋を呼んだ。同居人が誰かいるかもしれない。用心はいつだって大切だ。用心に用心を重ねて、用心しすぎるということはない。亀吉にしても矢野の部屋に行ったとはかぎらない。まったく別の理由でこのマンションへ来たのかもしれないのだ。

 矢野の部屋から返事はなかった。念のためもう一度チャイムを鳴らす。

「どうやらひとり暮らしらしいね」

「わかりませんよ、そんなこと。共働きかもしれません」

 チャイムが鳴ってから一分待った。やはり反応はない。幾松は電子キーを出して鍵穴に突っ込んだ。玄関が開く。

 五階へは階段を上って行った。防犯カメラに映像が残る可能性をできるかぎり減らしたかった。玄関エントランスでも、丁子屋はずっとカメラの死角に立っていた。

 矢野の部屋の前に立ち、キーホルダーから部屋の鍵を選び出して鍵穴に差し込む。丁子屋の気配がないので振り返ると、階段室から顔半分だけ出してニヤニヤ笑っていた。

「何だよ?」

 睨みつけると、丁子屋は首を振り、ボカーン、と声には出さずに口だけ動かした。

「爆弾が仕掛けられているって? 亀吉が仕掛けていったってこと? 何でそんなことしなくちゃならないのさ。ロクジを置いていったやつの罠というなら、世話人を爆殺する理由なんて全然思いつかないんだが――」

「そりゃたしかにそうだ。爆弾が仕掛けられている可能性なんて、心配する必要はまったくありません」

「じゃあ、こっちに来ればいいじゃん」

 丁子屋は高い背を丸め、手を顔の前でいやいやと振った。

「まあ、いいから、開けてくださいよ」

 爆発なんてするものか。そう思いながら、しかし、急に掻き起こされた不安を抑えることもできない。たしかに用心はしすぎてしすぎることはない。ちくしょう、まったく悪い冗談だ、と思いながら、鍵を回した。

 乾いた音がして、鍵が開いた。そろそろとドアを開く。もちろん爆発はなかった。

 相棒を振り返ると、丁子屋は階段室から出てきて「ほらね」と笑った。


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