もし見つけることがあったら
◆26
何本もの光条が幾松の周囲に交錯した。サバイバルゲームでも楽しんでいたような格好の男たちが林のなかからぽつぽつと出てきた。所持しているのが本物の銃であることを考慮してもなお、彼らはマイナーなゲームに興じる若者たちだと言っていいのかもしれなかった。
幾松が数えると七人いた。彼らは幾松を、いることに気づいていないかのように無視していた。ふたりずつに別れて、倒れている元ゾンビを拘束し、萬蔵をレンジローバーに担ぎ上げた。亀吉の死体を手際よく青いビニールシートに包んだ。
細い道を大きく揺れながら白いハイエースが走ってきて、レンジローバーに並行して停車した。横腹のスライドドアが開いた。なかには粂太郎と、壮一がいた。
「無事か、竜二」
「どういうことだよ?」幾松は立ち上がった。「いつからいたんだ?」
「おまえより前から来ていたよ。萬蔵さんが隙を見て連絡してきたんだ。あのひとだってケータイを持っているんだよ。もっとも、こういうときしか使わないけど。こっちが萬蔵さんのお宅に到着したときには、亀吉はもう萬蔵さんを連れてお山へ移動したあとだった。あわててこっちに来てみたら、彼女も人質になっていたしな。だから、金棒引きの連中を山に潜ませて、制圧するタイミングをはかっているうちにおまえが来たんだ」
幾松はショルダーバッグを引っ掻き回して煙草を出した。潰れて曲がっていたが湿ってはいなかった。オイルライターで火をつけて、深々と吸い込むと頭の芯が、じん、と痺れた。
「金棒引きなのか、彼らは?」
「そうだ。アメリカにはいろんな学校があるんだな。傭兵養成スクールみたいのもあるんだぜ。そこからわざわざインストラクターを呼んでさ、訓練させているんだ。もっとも、射撃の練習は外国へ行かなくちゃいけないんだけどね。カネはかかったがそれなりの装備も整えた。もう以前のごろつきみたいなイメージでは見てほしくないね。まあ、まがりなりにも兵士と言っていいレベルにはなったんじゃないかな」
「おれはつまり……そっちの邪魔をしたことになるのか」
「そういう面がないわけじゃない。が、大した問題じゃないよ。おまえが来たときにはびっくりしたけどね」
壮一は不出来な弟を慰める顔で微笑んだ。優しい兄貴だ、と幾松はため息をついた。
「亀吉が帳元株を買い集めていたんだ」幾松は言い訳のように言った。
「じゃあ、御師に指図されたつとめはこれでケリがついたってことかい?」
「いや、裏で糸を引いていたやつがいる」
「そうか。で、そいつはもうわかったのか」
「まだ、わからない」幾松は振り返った。ビニールシートに包まれた亀吉がレンジローバーに積み込まれようとしている。「……もう訊けないな」
「おまえが気絶させたふたりに訊いておこう」壮一は近くにいた金棒引きに指図して、縛り上げた元ゾンビをハイエースの荷台へ運び込ませた。「おまえは粂太郎さんを家まで送れ。彼女には迷惑をかけたなんてもんじゃすまないからな。いずれ御師から彼女の親御さんのほうにも詫びを入れてもらうよ」
そう言っているあいだに金棒引きがひとり走ってきて、現場の処理は終了したと報告した。幾松は其の辺りにグロックが落ちているはずだと言った。金棒引きはハンドガン二丁はすでに回収ずみだと答えた。
幾松は粂太郎を成城の自宅へ送っていった。着いたときにはすっかり夜が明けていた。雨も上がり、空は薄青く晴れ渡っていた。彼女の自宅はひとりで暮らすには大きすぎるようだった。柵の向こうの広い庭には雑草が我が物顔に生い茂っていた。そこまで手が回らないのだろう。
車中ずっと黙っていた粂太郎が「ありがとうございました」とかすれた声で言って降りていった。彼女は車の前を回って、自分の家の門の前に立った。鍵を出してそれをしばらく見つめていたが、不意に反転して車に戻ってくると運転席の窓を叩いた。
幾松は窓を開けた。腰を屈めた粂太郎の顔がすぐそばにあった。化粧は雨に流れて、童顔がよけいに子どもっぽく見えた。肌が白磁のように白いのは、朝の光のせいだろうか。小さな口唇も色を失っていた。
「コーヒーでも飲んでいきませんか」
粂太郎は震えた声で言った。それは雨に濡れて身体が冷えているせいばかりではないようだった。
幾松は少し迷ったあとで、睡いから帰る、と答えた。それから粂太郎が家のなかへ入るのをたしかめて車を出した。
睡いのは本当だった。だが、ベッドに倒れ込む前にすませなければいけないこともある。借りた車をすっかり泥だらけにしてしまった。これはプリンだけでは赦してもらえないだろう。もう一日延長させてもらって、自動車の車内クリーニングに出さなければならない。そんな仕事をしている講中がいただろうか。丁子屋なら知っているにちがいなかった。
二四時間営業のファミレスに入って、ドリンクバーでエスプレッソをカップの縁まで注いだ。胃が悪くなるだけで、睡気は去らないかもしれない。熱く苦い液体に舌を焼きながら、丁子屋に長文のメールを打った。
すぐに返信があった。三〇分後に自由が丘の駅前に来い、という内容だった。肝心なときに役に立たなかったやつだ、少しぐらい待たせてもいい。幾松はトイレへ行って、顔を洗った。鏡に映った自分を溺死者の幽霊のようだと思った。それから、ゆっくりエスプレッソを飲み、湿気て不味くなった煙草を吸ってから車へ戻った。
夕方、目が覚めると、幾松は「ミッドナイト・サーカス」へ行った。案の定、扉は開かなかった。何日休んでも誰からも文句を言われない店だ。
幾松は右隣の倉庫の閉じたシャッターの前に立った。押し上げようとしたが鍵がかかっていた。彼はいったんシャッターから離れると、スマートフォンを出して甚六にかけた。シャッターの向こうから、呼び出し音が聞こえてきた。
「いるじゃないか」幾松はつぶやいた。
ここが甚六の住まいだった。面倒臭がりの彼にバスや電車に乗って毎日店へ通勤するなんてことができるはずがない。隣へ行って、隣へ帰る。傘もいらないこの通勤距離がいかにも甚六だった。
彼はどこかへ逃げたわけではなかった。自分のねぐらに引き籠もっただけなのだ。昔の生活に戻っただけだともいえる。
幾松はシャッターを叩いて甚六の名を呼んだ。反応はなかった。肥満体の甚六が丸くなって息を潜めている姿を想像して、幾松はおかしくなった。もう一度シャッターを叩く。
「いい加減に開けないと親を連れてくるぞ!」
そう怒鳴ってシャッターを蹴飛ばした。
煙草をつけて待っていると、シャッターはゆっくりと半分だけ上がった。甚六がそこから顔を出して、よお、と言った。
「よお、じゃねえよ」
甚六は腰を折った姿勢のまま、怯えた目で周囲をうかがった。
「幾松、おまえひとりか」
「ああ」
「ケリはついたのか。もう安全か」
「ああ」
甚六が、ほおっ、と息を吐いた。長い髪が顔にかかって落ち武者のように見える。
「じゃ、店を開けよう。お客が来るかもしれない」
そう言って、甚六はのそのそと外へ出てきた。隣へ行って扉の鍵を開ける。幾松はその尻に一発、思いきり蹴りを入れた。
夜がふけて、ひとりでいることが罪悪のように感じられるころ。幾松のスマートフォンに粂太郎からメールが届いた。「風邪ひいた。バカヤロー!」とだけ打たれていた。
◆27
江の島へは電車で行った。幾松は私鉄の駅を降り、歩いて島へつながる橋を渡った。土産物屋のあいだを抜けて「玄虎楼」へ向かう。大きな木製の門をくぐると水を打った敷石に迎えられた。黒く光る不揃いな石を伝って門からは見えない位置にある玄関にたどり着いた。
フロントに立つと、漆黒の髪をアップにまとめた女が十円玉くらいもありそうな目を見開いて、「幾松様ですね、お待ちしておりました」と言った。三十歳前後に見える。身体にぴったり合った黒いスーツが胸の大きさを強調していた。
「御師に会う約束があるんだ」
幾松は緊張を悟られないよう、自分では自然な笑顔だと信じている表情をした。
「皆様、すでにお待ちになっておられます」
「皆様って誰?」
フロント係は、それがわからないなんて頭がおかしいんじゃないか、というような表情で答えた。
「太夫と、庄之助さんと熊八さん、それに白尾のウサオイ様もいらっしゃっています」
幾松は「さん」と「様」の使い分けに講の本拠らしい嫌らしさを感じながら、作り笑顔のままうなずいた。
案内はまた喜之助だった。ふたりきりになると少年は声をひそめて、「幾松さんは熊八さんと兄弟なんですよね?」と言った。幾松が、そうだ、と答えると、喜之助はさらに声をひそめて打ち明けた。
「ぼく、手代の仕事じゃなくて金棒引きに入りたいんですよ。幾松さんからお兄さんに口を利いてもらえませんか」
「その話、兄貴には言ったの?」
喜之助は首を振った。
「じゃあ、まずは自分で言うんだね。ただ、そんなにヒソヒソ話さなきゃならないことだと思うんなら、やめたほうがいいんじゃないか」
「何でです?」
キミの本心はその判断をまちがっていると思っているからだ、とは幾松は答えなかった。その前に離れに続く渡り廊下の前へ着いてしまった。幾松は前回と同じようにボディチェックを受け、ポケットに入れてあった物を喜之助が開いた巾着袋に落とした。
「あ、ケータイ、機種変更したんですね」
「うん。いろいろあってさ」
盗聴アプリを仕込まれたからだ、とは言わなかった。そして、ここ以外でスマートフォンを身体から離したことはなかった、ということも黙っていた。
「それも預かります」
喜之助は、幾松が肩から下げていたエナメルのスポーツバッグを見て言った。
「いや、これは持って入る」
困惑顔の喜之助にチャックを開いてなかを見せた。少年の表情が驚きに変わった。子どもらしい「スゲー」のひとことが漏れた。バッグに入っていたのは三千万円の現金だった。厳密には二九八四万円。幾松が回収する前に、甚六は〈ヴァイオレット〉に口止め料を払い、それから新型のゲーム機とゲームソフトを購入していた。
喜之助が赤い扉を引いた。離れが見えた。渡り廊下の向こう端に壮一が立っていた。やはり銀行員のようにしか見えなかった。
幾松が煙草をポケットから出すと、庄之助が舌打ちした。
「喜之助め、見落としたな。幾松、ここは禁煙だ。太夫のお身体を考えろ」
幾松は煙草をポケットに戻した。すでにバッグは庄之助の足元にある。バッグのなかには証文も入っている。幾松はひと通り説明を終えたところだった。
「幾松……お茶を……飲むかね……熊八……」御師が片手を上げた。
壮一が机の内線電話を取りあげて人数分の紅茶を頼んだ。幾松はビールが欲しかったが、庄之助に小言を言わせるだけだと思って口には出さなかった。
喜之助がワゴンにカップとポットを乗せて運んできた。スライスされたレモンと、温められたミルクと、ピラミッドのように積み上げられた角砂糖。ウサオイがポットから紅茶を注いだ。幾松はレモンを浮かべた。レモンティーなんて何年ぶりに口にするだろう。庄之助がミルクと砂糖を入れて御師に運んだ。
「つまり、亀吉は帳元株の譲渡代金を横領するために上総屋を殺したというんだな。そして、上総屋のロクジを元の甚六に手伝わせておまえの店の裏に運んだ。おまえは仕方なくそのロクジをお山に埋めたが、甚六は亀吉を裏切って三千万と証文を持って逃げた。亀吉が甚六を探しているところへ、甚六は女を送って証文を残金の二千万で売りつけようとした。逆上した亀吉は女を殺し、粂太郎を人質にとって、おまえに甚六を連れてくるように脅したと――こういうことでいいのか」
庄之助は幾松のだらだらした説明を簡潔にまとめてみせた。幾松は首を縦に振った。
「誰が亀吉を操っていたんだ?」
幾松は黙って肩をすくめてみせた。
「熊八、捕まえたふたりの尋問はどうなった? やつらは何と言っている?」
「亀吉に雇われただけで、その上に誰がいるのかは知らないようです」
幾松は声を上げそうになった。あのとき元ゾンビは躊躇なく撃ってきた。はっきりと記憶している。あのとき感じた恐怖まで、ありありと――。
御師が震える指を一本立てた。自分にしゃべらせろ、という意味だ。
「その男たちは……講中……じゃないのかね……?」
「ちがいます、大夫。元は渋谷の半グレです。それを亀吉がカネで雇っていただけです。講のことは何も知りません」
壮一は淡々と報告した。幾松は兄をまじまじと見た。やはり銀行員か公務員のようだった。拷問に立ち会ったようには見えなかった。
「萬蔵の……具合はどうだ?……だいぶかかるか……」
「怪我のほうは見た目ほどではありませんでしたが、それとはべつに胸が悪いようです。肺にがんが見つかりました。このまま引退させたほうがいいかもしれません」
庄之助の声に寂しがっているような感情がわずかににじんだ。
「……跡目を……さがさなくてはな……」
「それはもう始めていたところでした。――熊八、どんな状況だ?」
「候補者は三名おります」壮一は得意げだった。「あとは御師に選んでいただければ来月の初めには代替わりできると思います」
「ん……そうか、わかった……あとで……候補者のファイルを……持ってきて……」
「はい、わかりました」
萬蔵の話題はこれで終わりだった。とりあえず怪我のほうはひどくなかったようで、幾松は安心した。がんについては予想していたので驚きはなかった。本当ならがんのほうを心配すべきだろうが、その病が萬蔵の身体を蝕んでいくことは、不思議と自然なことのように感じられた。
「甚六の屋号はまだウサオイの預かりなのだな?」
庄之助はウサオイのほうへ向き直った。責めているような口ぶりだった。蒼白な顔をしたウサオイが無言でうなずいた。
「しかし、証文には甚六とある。丙戌の帳元株は上総屋から甚六に譲られている。これはどういうことなんだ?」
「わかりません」ウサオイの声は怯えたように小さかった。
「帳元株を買い集めている人間はまだ表に出たくないんでしょう。元の株主に本当の譲渡先を知られたくなかったんだと思います」壮一は庄之助と幾松のあいだに戻ってきた。「つまり、いったんは実体のない甚六名義に書き換えて、時期が来たら甚六から一斉に自分へ譲渡し直そうということではないですか。あるいは自分が甚六の屋号を継ぐつもりなのかもしれない」
また御師が指を立てた。何か言いかけていた庄之助が口を閉じ、御師のほうへ耳を傾けて言葉を待った。
「……甚六という……講中は……いま現在いないのだな……ならば……甚六名義の……証文は無効だという……通達を……出しなさい……全講中に……知らしめよ……株の譲渡で得たカネは……証文の控えといっしょに……講に供出すること……隠していた場合には……相当のお咎めがあると……」
それだけ言うと、御師は胸に顎をうずめて息を整えた。
「それならば、亀吉の黒幕にもかなりの打撃でしょう。これまでにどれくらいの株を集めたかわかりませんが、二億は使っているのではないかと思います。それが全部無駄になってしまうのですから。致命傷にはならないかもしれませんが、しばらくは鳴りを潜めるでしょう」
庄之助がうれしそうに言った。
「……争いなんぞ……ないに越したことはない……」
御師は床を見つめていた。そして、顔の前の蠅を払うように手を振った。それは退がれという合図だった。
幾松はひとり、ロビーの喫煙コーナーに行って煙草を出した。火をつけようとしてライターがないことに気づいた。そこへ庄之助がやってきた。
「煙草のことでは喜之助を怒らないでやってくれ。ライターはあの子に預けてあった」
庄之助はうなずき、ポケットからブックマッチを取り出すと片手で火をつけた。幾松の前へ突き出す。幾松は煙草に火をつけた。黒いブックマッチ。「玄虎楼」のロゴが印刷されていた。いまどきブックマッチを作っている旅館なんて希少だろう。
「報告しろ」と庄之助が言った。
「さっきしたばかりじゃないか」
「黙っていたことがあるだろう、竜二?」
幾松は父親の顔を穴の開くほど見つめた。今さらながらに、このひとも歳をとったと思う。庄之助は口を固く結んで幾松の返事を待っていた。
「――亀吉は講が萬蔵の跡目を探していることを知っていた」
今度は庄之助が黙り込む番だった。
「おれはあんたにしか話してない。あんたは誰に話した?」
幾松はゆっくりと煙を肺に送り、肺がんの萬蔵のことを少しだけ考え、それからまたゆっくりと吐き出した。顔を上げると、まだ庄之助に見つめられていた。
「億単位の裏金を動かせる人間が、講中に何人いるかな。でも、ここの金庫には常時それぐらいのカネはあるだろ」
庄之助は幾松から顔を背けると、大きなガラス窓のほうへ視線を向けた。窓の外は、小さな竹林のように造られていた。青々とした太い竹が生えている。
「親父は最初から気づいていたんだな?」
「恥ずかしい話だ……」
庄之助はつぶやくようにそう言うと、ブックマッチを灰皿の隅に乗せて、去って行った。その背中は小さく見えた。
◆28
海が見えなくなるまで、ベンツのなかには岩槻がかけたMJQ以外の音がなかった。ウサオイも幾松もそれぞれ自分側の窓へ顔を向けていた。ウサオイがぽつりと言った。
「ありがとう」
信号ふたつ分、幾松は黙っていた。
「何でおれに相談しなかった?」
「だって、あんたが何て言うか答えはわかるもの」
「おれが何て言うと思ったんだ?」
「サツマに自首しろ。事故だったと正直に話せって。――ちがう?」
ウサオイの目がまっすぐ幾松を見つめていた。幾松は目をそらして岩槻の横顔をうかがった。彼は何も聞こえていないふりでハンドルを握っていた。
「そうだな。たぶんそう言った。本当はいまだってそう言いたい気分だよ」
「本当に事故だったのよ。彼が結婚するという話はあの晩初めて聞かされたの。あたしは別れましょうって言ったのよ。あたしにだってプライドがあるもの。みっともない真似はしたくなかった。嫌がったのは彼のほうよ。わたしが帰ろうとすると、抱きついてきて引き留めようとした。あたしは何も考えずにただ突き飛ばしただけ。そうしたら彼が転んでテーブルの角に頭をぶつけたの。初めはあたしを引き留めるために死んだ真似をしているんだと思ったわ」ウサオイはそのときのイメージを甦らせたのか、右手で顔を覆った。「……でも、そうじゃなかった」
「疑っているわけじゃないよ、ウサオイ。おれは怒っているだけだ。あんたは自分のためにおれを利用した。バックヤードにロクジを放り出していくなんて、あんな真似はすべきじゃなかったよ」
「ごめんなさい。それは謝るわ。ほかにどうしていいかわからなかったのよ」
「そのうえ甚六まで巻き込んだ」
「甚六からは先月連絡があったの。講へ戻れないかって。あれも苦しんでいたのね。だから、講中に戻してやるって言えば手伝わせるのは簡単だった。ひとりではとてもあんたの店まで運べないもの。甚六に頼んだのは、ロクジを運ぶ手伝いと車の運転。矢野の車でロクジをあんたの店に運んで、あたしはそこで甚六と別れた。甚六はあのあとマンションに車を戻してから、もう一度店へ行ってロクジのポケットに車の鍵を入れてもらわなければいけなかった。そうすれば、彼の車を使ったなんて思われないと思ったの。ただ、矢野の部屋にあんな物があるなんて、あたしは知らなかった。帳元株を売ったなんて彼はひとことも言っていなかったから――」
「本当に甚六を講中に戻す気があったのか」
「……約束は守らなくちゃいけないでしょう」
甚六をしゃべらせるのは簡単だった。暴力に訴えるまでもなかった。幾松が講の執念深さと残酷さについて過去の実例を挙げて説明すると、甚六は急に腹を押さえて「ミッドナイト・サーカス」のトイレに駆け込んだ。しばらくして蒼い顔で戻ってくるなり自分からぺらぺらと話し出した。
甚六はウサオイに呼ばれてマンションへ行ったとき、書斎でボストンバッグを見つけたのだった。チャックが開いていて札束が見えていた。ウサオイが何も言わなかったから、彼はマンションへ車を戻したついでに中身を自分のスポーツバッグに移して持ち帰ることにした。わざわざ自分のスポーツバッグを取りに「ミッドナイト・サーカス」へ寄ったのは、自分のバッグに入れておけば何かあっても自分のものだと言い張れるという幼稚な発想だった。ボストンバッグには証文が入っているのも見つけたが初めはそんな物に興味はなかった。たまたま文面が見えて、そこに自分の屋号が書いてあるのを知ったとき、甚六は驚いたというより恐ろしかった。すべてがあらかじめ仕組まれていることのようだった。甚六は証文を持っていくのは自分の運命だと思った。講に戻ったときに使えるんじゃないかという考えは、あとになって落ち着いてから頭に浮かんだことだった。
スポーツバッグを肩にかけて、甚六は駅前でタクシーを拾った。そして「帝国鋲螺商会」とはだいぶ離れた場所で降りた。店まで歩いて行ってキーホルダーを死体のポケットに入れた。そのとき死体のしている腕時計に気づいた。そして、彼はそれもいただくことにした。節度を失った甚六は、死人の財布も自分のポケットに入れた。
ジンフィズを注文した女が翌日も現れたとき、それが自分に気があるからだなどと幻想を抱いたりはしないくらいには、甚六も人生で痛い目を見てきていた。女は死体写真を見せて甚六の腕にはまっているロレックスと同じ物だと言った。「月々一〇万の支払いでいいわ」と女は言った。甚六はうなずいた。三千万円があったし、講中に戻れば何とかなるだろうという腹だった。
幾松に亀吉を拉致する手伝いを頼まれたときに、自分が手に入れた現金と証文の出どころがわかった。拉致が失敗して、甚六はそれを商売のチャンスだと考えた。証文を亀吉に買い戻させることにした。ただ、自分が直接接触する勇気はなかった。だから、紫色の女に一枚噛ませることにした。彼女は五分五分の取り分で納得して亀吉に会いに行った。甚六にしても、〈ヴァイオレット〉にしても、亀吉を甘く見ていたのだった。女は拷問され、殺された。甚六は巣穴に引き籠もっていたおかげで何とか亀吉から逃げることができた。ほんのちょっと彼女よりも運が良かった。
「幾松、あんたが本当に怒っているのはあたしじゃないわ。あんた自身よ」
ウサオイは突き刺すような目つきで幾松を見つめていた。幾松は少し暑いような気がしてシャツの袖をまくりあげた。
「言い逃れだな」
ウサオイははっきりと首を横に振った。
「ねえ、あたしは、あんたがまだヨチヨチ歩きの小っちゃなころから見ているの。あんたが先代のとこに来たとき、あんたがあんまりしょげているからあたしがデパートの玩具売り場に連れて行ったの覚えてる? あのとき、戦隊物の何とかジャーの武器を買ってあげたでしょ? あんたはそのあとずっとそのわけのわかんない武器を腰にぶら下げて地球侵略を企てる何かと戦ってたわね」
幾松には思い出せなかった。小学校三年で戦隊物ごっこというのは幼いのだろうか。少し心配になった。
「歳くったな、マサコちゃん。そんな思い出話してどうする?」
「思い出話じゃないから厄介なんじゃない。あの何とかジャーの武器はそのうちどこかに行ってしまったけど、あんたのなかには八歳の正義のヒーローがそのまま棲みついちゃったのよ。そいつはそれからもずっと悪と戦ってきたの。でも、気がついたら、あんた自身が悪の秘密結社の一員になっていたわけ。それがあんたの矛盾――」
「誰だって矛盾のひとつやふたつ抱えているだろ」
矛盾のない人生は美しいかもしれないが、味気なさそうだった。何度生まれ変わっても結局自分は矛盾した人生を選ぶのだろう、と幾松は確信した。
「……いつかあんたは講を裏切るかもしれないわね……。みんなはあんたに講中として生きることを望んでいるけど、誰にもあんたのここにいる何とかジャーを睡らせることはできないもの」
ウサオイは細い指で幾松の胸を二度突いた。
「あんたにロクジの始末を頼んでも何とかジャーに断られるだろうし、講親として指図することはできたけど、あたしにはそのほうが問題だった。講親の指図ってことは講のなかにこの顛末をさらすってこと。相手も講中でしかも帳元となると、『事故でした』『不運でしたね』ではすまされない。何かあればあたしの足を引っ張ろうと待ち構えているやつらには絶好のネタを与えることになるわ。最悪、『白尾のウサオイ』を返上するということもありえる」
ウサオイはキスするように顔を寄せてきた。そして、視界のなかに顔全体を収めきれないほど近くでささやいた。
「あたしは何として娘に『白尾のウサオイ』を遺さなければいけないの」
ウサオイの身体が離れた。淡い桃のような香りが残った。
◆29
その後、女性ビルオーナー殺害犯として全国指名手配された亀吉の写真が、駅や街角の掲示板に貼られた。その写真の亀吉は泣いたような顔をしていて、幾松はしばらくのあいだ見かけるたびに責められているような気がして胸が痛んだ。しかし、それもいつの間にか慣れてしまって、亀吉の写真を見ても誰だったか思い出せなくなった。
毎朝の習慣に変わりはなかった。幾松は「帝国鋲螺商会」を開ける前にバックヤードへ行って煙草を吸う。そこで死体を見つけることはもうなかった。ただ、そこへ行くと必ず対岸の雑居ビルを見るようになった。
オーナーを喪ったその建物がいまは誰の所有になっているのかは知らないが、取り壊されることもないままビルとビルのあいだに肩をすぼめるようにして建っている。幾松は煙草に火をつけると意識するともなく屋上を見上げてしまう。気がつくとそこに少女を探しているのだった。
もちろん、少女の姿が柵の向こうに見えたことはない。
だが、もし、見つけることがあったら、今度は必ず救けてやろう、と思う。
―了―




