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新しい死体

◆21


――サツマにはただの当て逃げとして届けてあるのだな?

 庄之助の声には、息子の身体を心配する父親らしい気づかいなど、一切感じられなかった。が、幾松はべつに腹も立たなかった。

 亀吉を奪われたあと、しばらくすると誰が呼んだのか救急車が来た。そのときにはもう丁子屋も気がついていた。救命士の問診を受けているあいだに警察もやってきた。そっちの相手は幾松がした。

 隠し切れない部分は正直に話した。よけいなことはすべて黙っていた。「ゾンビが乗っていたんです」などとしゃべって、ややこしい話にはしたくない。結局、乱暴な運転の対向車にぶつけられて、ぶつけた相手はそのまま逃げてしまったという話に落ち着いた。

 それでも、警察のケリがつくまで一時間以上。講中の修理工場がミニバンを取りにきてくれるのを待って小一時間。それから、念のためにと脳神経外科へ運ばれてしまった丁子屋の様子を見に行き無事を確認して、「帝国鋲螺商会」へ戻ってきたときには、すでに夕方だった。

――追けられていたのか。

「それはないはずだ。亀吉は粂太郎に会いにきたんだ。それだけなら、尾行する相手がいない。やつが拉致されることがあらかじめ分かっていたから、敵はゾンビのマスクと銃を用意してきたんだろう。それに連中は正面から走ってきた。こっちの走る道がわかっていたとしか思えない」

 ほとんど一日留守にしていた店のなかは、機械油の臭いが澱んでいた。日中のドタバタで危うく庄之助への定期報告を忘れるところだった。いつもより一時間遅れで電話をかけた。待ちくたびれていたらしい庄之助が不機嫌そうに出た。今日の顛末を話すと不機嫌さのレベルが上がった。目の前にいたら噛みついてきそうな声は、他人にはとても耐えられないかもしれない。

 幾松は空いているほうの手で胡桃ほどの大きさのナットを弄んでいた。軽く投げ上げて受け止める。掌にずしりとくる重さだった。これが頭に当たったら昏倒はまちがいない。当たりどころが悪ければそのまま死に至ることもあるだろう。

――待ち伏せされていたということだな。おまえの動きは相手に知られていたんだ、馬鹿が。それで、情報がどこから漏れているのか心当たりはあるのか。

 馬鹿と罵られて言い返せないのが情けなかった。先代の顔に泥を塗ってしまったのはまちがいない。なんて不様な仕事ぶりだろう。〈秘かに、素早く、確実に〉とは真逆の結果だった。

――おまえの相棒、丁子屋といったか、その講中は信用できるのか。

 庄之助は冷ややかに丁子屋に対する疑念を口にした。幾松は深く息を吸って、電話口で怒鳴りそうになるのをこらえた。

「あいつを疑うくらいなら、おれを疑えよ」

――実の息子を疑わなければいけないのか……そんな恥ずかしい話はないとは思わないか、竜二?

「おれは丁子屋より実の父親のほうが信用できないけどな。――実際、今日の話を知っている人間は限られている。おれと丁子屋と粂太郎と……甚六と、そして、あんただ。ウサオイには教えていなかったからな。粂太郎は論外だし、甚六には細かいことは話していなかった。まるで、誰かがおれの後ろにずっとくっついていて、おれのやることなすこと全部見ているような気がする」

――おまえの全部?

 幾松の父親は電話口の向こうで何かに気づいたかのように口ごもっていた。


 庄之助と話してから一時間もしないうちにウサオイのベンツが「帝国鋲螺商会」の前に停まった。しかし、ウサオイは乗っていなかった。岩槻がひとりで訪ねてきたのだった。

 驚いている幾松の前で岩槻はいつもの柔和な笑顔のまま、人差し指を口唇に当てた。手にしていた紙袋をレジ台に置いて、背広の内ポケットから手帳を取り出した。万年筆で何か書きつけるとその一枚を破いて、幾松が読んでいたP・オースターの開いたページの上に置いた。

〈いま持っている携帯電話を捨ててください〉

 幾松がスマートフォンを見せると、岩槻は黙ってうなずいた。

 幾松はスマートフォンを持って店を出た。バックヤードに回って、そこでスマートフォンから電池をはずし、柵越しに運河へ投げ捨てた。

 店に戻ると岩槻はヤカンを火にかけていた。

「たまにはいいお茶を飲みませんか」と背中を向けたまま岩槻は言った。レジ台にあった紙袋がゴミ箱に捨てられていた。「先代はお茶が好きだったでしょ。お茶だけはいつも奢っていましたよねえ」

「急須はどこかわかりますか」

「ああ、わかります。……あなたのケータイですけどね、盗聴されていたようですよ。位置情報も盗まれていた可能性があるそうです。そういう……アプリっていうんですか、そんなのが仕込まれていたのかもしれないそうです。ウサオイのところへあなたのお父さまから緊急連絡が入りましてね。至急幾松さんに伝えてくれということでしたので、わたしが来ました」

「ありがとうございます」

 礼を言いながら幾松は電話で庄之助が口ごもってしまった理由を理解した。幾松の行動は逐一〈敵〉に筒抜けだったということだ。しかし、盗聴器なんていつ仕込まれたのだろう。

「ウサオイが癇癪を起していましたよ、あなたが勝手をしているって。ほかの世話人とはちがうんだ、幾松だから仕方がないですよってとりなしてはおきましたが、あなたからも電話を一本入れておいたほうがいいですよ。ああ、ケータイは捨てちゃいましたね、はは。でもね、ウサオイにとってあなたは歳の離れた弟のようなものだから、弥生ちゃんと同じように自分のものだと思い込んでいるふしもある。御師にとって幾松という世話人が特別であるように、ウサオイにとってのあなたもほかの世話人とはちがうんですよ。そこをわかってあげないとね」

「ご機嫌を伺えってことですか」

 岩槻が両手にカップを持って戻ってきた。日本茶の芳香が油臭い店のなかを微かに流れた。岩槻は片方のカップを幾松に差し出して、百グラム三千円、と言った。そして、口唇を尖らして茶をすすった。

「わたしにとってあなたたちはね、いつまでもマサコちゃんとリュウちゃんですよ」

 岩槻は茶を飲み終えるまで店にいて、それから帰って行った。封の切られた高級緑茶のパックは残していった。

「しばらくは贅沢な気分を楽しめます――気持ちにそれだけの余裕があればですけどね」

 岩槻はそう言って笑った。

 幾松はいつもより早めに店を閉めた。そして「ミッドナイト・サーカス」へ行った。看板に明かりがついていなかった。時間が早すぎるのではない。ドアを開けようとしたが鍵がかかっていた。水曜でもないのに店は休業のようだった。


 丁子屋は右眉の上に貼りつけた絆創膏を気にしていた。しかし、彼が本当に気にしていたのは、亀吉を奪還していった連中の反撃だった。「帝国鋲螺商会」のウナギの寝床のような間取りでは正面から攻撃されたら逃げ場がない、としきりに店の外へ出たがった。

 幾松は首を振った。

「駄目だよ。ここんとこ休みすぎてるからね。たまには店を開けておかないと、お得意を逃がしちまう」

「こんな店、開けていても閉めていても、ほとんど儲けに関係はないでしょう。はしたガネといのちとどっちが大事です?」

 たしかに店を開けておくことは儲けに大して影響がない。「帝国鋲螺商会」の売り上げのほとんどは講中からのネット注文だった。

 とはいえ、幾松は丁子屋ほどには心配していなかった。講の不穏分子が今の時点で事を構えるとは思えなかった。まだ準備が足りない。講全体を動かすためにはまだまだ帳元の株が不足している、と庄之助も言っていた。


――亀吉はある帳元を探している。いまはそちらに力を注いでいるようだ。

「おれならまず家を訪ねてみるけどな」

――とぼけるな。粂太郎と同じザンギリの講中だ。おまえも聞いているだろう?

「失踪したらしいね」

――ザンギリの鯨飲の報告によれば、その帳元は亀吉から手付だけ受け取って雲隠れしてしまったらしい。手付金は三千万円だそうだな。婚約もしていたらしいじゃないか。なぜ失踪しなければならない? 帳元の株を売って残りのカネも受け取るほうがいいとは思わないか。

「そうだな。でも、そいつには何か考えがあったんじゃないのか。まあ、おれに聞かれてもわからないよ」

――そうか。おまえならわかるかと思ったんだが。

「その手の回りくどい言い方にはうんざりだよ。言いたいことがあるならはっきり言ってくれ」

――おまえにとくに言いたいことはない。報告を忘れるなというだけだな。


 丁子屋に岩槻が持ってきた高い日本茶を飲ませると、「ここで人間の飲物が飲めるとは思いませんでしたね」と目を丸くした。

「岩槻さんに粂太郎の保護を頼んだ」

「粂太郎ちゃんはいま、どこにいるんです?」丁子屋は愛おしそうにカップを両手で包んで茶をすすった。

「知らない。彼女は岩槻さんのセーフハウスへ連れて行ってもらった。あの人がどこにセーフハウスを確保しているのかはあえて聞かなかった。でも、あの人のやることだ。まちがいはないよ」

 丁子屋はまるでネジの箱の間に毒蛇が隠れているとでもいうかのように急にキョロキョロとし始めた。

「盗聴はもう心配ないのですか」

「うん、午前中に専門の業者を呼んでチェックしてもらった。講中じゃない、全然関係ない業者を頼んだよ。とりあえず店のなかに盗聴器は仕掛けられていないそうだ」

 丁子屋は不安そうに店のなかを見回した。店中のネジから悪意が染み出しているとでも言いたげだった。ゾンビに襲われたのがトラウマになってしまったらしい。弱気なことばが漏れる。

「信用できるのかな?」

 幾松は丁子屋の顔を見つめた。こんなに弱気になっている丁子屋を見るのは初めてだった。いまの彼は炭酸の抜けたコーラのようだった。すぐに元の調子に戻るかどうかもわからなかった。もう二度とピリッとしないかもしれない。

「信用するしかないだろ」

 そう聞いても、丁子屋は安心できないようだった。せっかくの高い茶をあわてて飲み干して帰って行った。去り際に、しばらく行方をくらます、と言い残していった。幾松はどこに隠れるのかとは訊かなかった。丁子屋にも誰にも言っていないセーフハウスがあるはずで、その場所はたとえ相手が幾松でも教えてくれないだろう。

――戻ったらまた連絡が入るさ。

 戻ってこない可能性もある。しかし、そのときはそのときだった。悲観的になるのはやめよう、と幾松は思った。物事が悪い方向にばかり進むとはかぎらない。


……結局、幾松も庄之助もまちがっていた。幾松は自身の読みの甘さを反省することになった。事態は人が望んだ速度では進まない。いつもそうだ。いつも遅すぎるか、早すぎるかだ。忘れたころに背中をどやしつけられてびっくりするか、あるいは何の準備も整わないうちにぶん殴られるか。

 翌朝、幾松がいつものようにバックヤードへ煙草を吸いに行くと、そこにまた死体があった。今度は女の死体だった。顔は殴られた痕で別人のようになっていたが、引き裂かれた服の色ですぐにわかった。


――〈ヴァイオレット〉だ。


 幾松はあまりの驚きで、その場にへたり込んでしまった。目の前に紫色の髪の毛があった。上総屋とちがって後頭部に傷はなかった。

 どれだけ殴られたのだろう。顔の形が変わっていた。死ぬ前にかなり痛めつけられたのはまちがいない。爛熟した果実のようになった口唇のあいだから、歯の折れた歯茎が覗いていた。

 この女には腹を立てていたが、この姿を見て喜べるほど恨んでいたわけではなかった。むしろ、哀れさのほうが先に立つ。運河を挟んで似たような境遇を生きてきた人間同士、逢い方がちがえばまた別の関係があったのかもしれない。そう考えて幾松は首を振った。別の関係があったとしても、それもまた愉快なものではなかったような気がする。

頸部に痣を見つけた。扼殺された痕のようだった。

 幾松は死体の手首を持ち上げて爪のあいだを見た。右手の人差し指と中指の爪に血がついていた。これは犯人の血だろう。首を絞められてその手をはずそうと抵抗したときに相手を引っ掻いたらしい。

 服はびりびりに破れてほとんど半裸の状態だった。靴もはいていない。紫色のストッキングは裂かれて脚にまとわりついていた。腿はストッキングに覆われていない部分も暗紅色に腫れ上がっていた。下着は刃物で切られたようだった。紫色に染められた陰毛が冗談のようだった。死体を置いていったやつは、わざと下腹部が見えるようにしていった。

彼女が死ぬ前にどんな目にあったのか、特別な想像力を働かせなくてもわかる。

 わからないのは彼女の死体がここにあることだった。彼女はパズルの半端なワンピースだった。彼女は講中ではない。雑居ビルの屋上から死体を見つけただけだったはずだ。どこに嵌めていいのか、ぴったり嵌まる位置が見つけられなかった。しかし、どこかに必ず彼女のピースも嵌まるはずだった。


◆22


 丁子屋は携帯電話の電源を切っていた。幾松はしばらく迷ったが、伝言は入れなかった。しばらくそっとしておけばまた元の調子を取り戻すにちがいない。丁子屋にしても昨日や今日に世話人を始めたわけではないのだ。荒っぽいことだってこれまでに何度もこなしてきた。ただ、これまでに反撃されたり受け手に回った経験がないというだけのこと。今回はちょっとびっくりしてしまったのだろう。彼のなかで整理がつけばまた戻ってくるはずだ。――新しい皮膚ができるまでは瘡蓋を剥がしてはいけない。

 ウサオイに電話をかけるにはまだ時間が早すぎた。岩槻の話では幾松に対して気分を損ねているようだし、新しいロクジの話で眠りを中断されたりしたら、きっと彼女は爆発するだろう。ただでさえ面倒な状況なのに、輪をかけてややこしくする必要もなかった。

 幾松は〈ヴァイオレット〉のそばで煙草を二本吸った。空は今にも雨が降りそうだった。昨日よりも風が冷たかった。

 きっと年寄りは朝が早い。

 そう決めつけて萬蔵に電話をかけた。呼び出し音が長く続いた。留守電の設定をしていないのは以前からだった。萬蔵は携帯電話を持っていないから家の電話だが、こんな早くから外出はしていないだろう。

 幾松があきらめてかけなおそうと思った矢先、電話がつながった。

「もしもし――」


――おまえ、幾松だろう?


 その声は萬蔵ではなかった。聞き覚えのない甲高い声だったが、相手が誰か察しがついた。その男以外にはありえない気がした。

「そう言うあんたは亀吉さんだね?」

 返事のかわりに、ひきつった笑い声が聞こえてきた。

 幾松はゴミ箱を蹴飛ばしてやろうかとも思ったが、先代の言葉を思い出してこらえた。〈明鏡止水のこころを保て〉こういうときこそ冷静でなければならない。店の裏に〈ヴァイオレット〉の死体があることと、萬蔵に電話を駆けたら亀吉が出たこととは、どう考えればつながるのか。冷めた頭脳をフル回転させるときだった。

 混乱してはいけない。そして、敵に混乱を気づかれるのはもっといけない。

「萬蔵さんに電話したんだけどな」

――爺さんは出られそうもない。もう当分出られないだろう。もしかしたら二度と出られないかもしれない。

「萬蔵さんに何をした?」

――ちょっとものを訊いただけだ。上総屋のロクジをどこに埋めたか教えてくれって言ったんだが、教えてくれなくてな。ちょっと聞き方が乱暴になっちまった。困ったことにまだしゃべりやがらねえ。

 幾松は胃が灼けるような怒りを覚えた。あんな年寄りに手を上げられる人間がいることが信じられない。しかし、興奮すれば負けだ。亀吉にペースを握られてしまう。

「無駄なことをしてんじゃねえよ。知らなきゃ答えようがねえし、知ってりゃよけいにしゃべるわけにはいかねえだろ。しゃべらないってことが萬蔵さんのつとめなんだから」

――おれには誰かさんをかばっているようにしか思えないんだがな。

「誰かをかばっているわけじゃないだろ。講のつとめを果たしているだけだ。あんたなんか萬蔵さんには人一倍世話になってるんじゃないのか。いったい何人くらいのロクジをお山に埋めてもらったんだ?」

――馬鹿か、おまえ。それこそこのジジイのつとめだろうが。肉屋は肉を売る。医者は病人を治す。世話人は講中の面倒に始末をつける。萬蔵はロクジをお山に埋める。みんなてめえのつとめを果たしてるだけだ。親切でやっているわけじゃない。

「〈おのれのつとめを果たせ〉――そういえば講のノリだっけな。でも、ノリを守るなら、亀吉さん、〈身内には手を出さない〉ってのもノリのはずだ。萬蔵さんを痛めつけてオトガメなしですむと思うなよ」

――くだらねえ。ノリなんて方便にすぎないんだぜ。御師が替われば、そんなモノいくらでも変えられるって。

「御師が替わる? 結局、狙いはそこか。あんた、誰のために動いているんだ? いくらで雇われた?」

 亀吉は笑い出した。一生笑い続けるのではないかと思うくらいに、亀吉は笑い続けた。幾松が口に出した疑問は、人によっては冗談にしか聞こえないらしい。

 幾松は亀吉の甲高い笑いが波のように退いていくのをじっと待った。〈頭を働かせろ〉と先代が耳元でささやく。〈秘かに、素早く、確実に、ことを為せるよう、考え続けるんだ〉

 考えることしかできなくても、考えることができるならそれはチャンスだ、と先代には教えられた。いまがそのチャンスだ、と幾松は必死に頭を働かせた。なぜ上総屋の死体がバックヤードに現れたのか。なぜ〈ヴァイオレット〉の死体が同じ場所に棄てられているのか。なぜ亀吉は萬蔵のところにいるのか。そして、なぜ亀吉は笑っているのか。

 何かひとつピースが足りない。それさえ揃えば絵の全体が見えてきそうだった。絵が見えれば、亀吉とその背後にいる人間の先へ出られるだろう。


――おまえはいま店にいるのか。そこに女のロクジがあるだろう?

 笑うのをやめた亀吉が痰のからんだような声で言った。

「あんたが置いていったのか」

――厳密には、おれと仲間がそこへ棄てに行ったんだ。……まあね……殺ったのはたしかにおれだけどな。こんなことをおまえに隠しても仕方ないからしゃべっちまうけどさ。

 幾松は驚かなかった。亀吉の声を聞いた瞬間からそんな気はしていた。ただ、〈ヴァイオレット〉が亀吉に殺される理由がわからなかった。

「おれにあのロクジをどうしろって言うんだ?」

――そこにロクジがあったら困るだろ? お山に埋めるつもりでいたんだよな? だから、萬蔵に電話してきたんだろ?

「おれから電話がかかってくるのを、そこで待っていたのか。ヒマなやつだな」

――とんでもない。おまえとちがって正業も繁盛しているんでね。猫の手も借りたいくらいだよ。その忙しさのあいだを縫っておまえの相手をしてやっているんだ。いいか、いまからおまえに写真を送ってやる。おまえの店の裏庭で撮った写真だ。もちろんおまえんとこの裏だってはっきりわかるように撮ってある。わかっていると思うがモデルは……もう死んでいたから被写体って言ったほうがいいか……そこのロクジだよ。わかるかい、その女の真似だ。同じことをしてやったんだ。女も上総屋の写真を撮っていただろ。おまえも見たんだって? 女はちょっと殴っただけでベラベラしゃべったぜ。痛めつけられながら姦られるのも好きだったし、殺すにはちょっと惜しかったが後腐れはないようにしないとな。もちろん、女の撮った写真もおれが貰ったよ。……なあ、幾松、おれが何をすると思う?

 幾松は亀吉に対して沸きあがる凶暴な感情を必死に抑え込んだ。冷静を装い、軽口で返す。

「そうだな、死体写真のコレクションかな」

――ブッブー、不正解だ。はは、幾松くんは愉快なやつだな。上総屋の写真と女の写真、両方ともサツマに送ってやるよ。おまえ、サツマが来たときロクジなんて知らないってとぼけたらしいじゃないか。女にもシラを切ったようだが、ダメダメ、女は勘づいていたぜ。写真が送られてくれば、サツマはまたおまえの店へ行くだろう。今度は前回みたいに簡単にはすまないだろうな。よくて死体遺棄、悪けりゃ連続殺人の犯人だよ。

「おれが正直にしゃべったらどうする?」

――サツマにかい? 『わたしは江戸時代から綿々と続く秘密結社に属しておりまして、これはその秘密結社内部の血で血を洗う権力争いの結果なんです』って話すの? 馬鹿かい、おまえ? サツマがそんな話を信じると思うか。正気を疑われるよ。だいたい、おまえが講を裏切るような真似をするはずがないじゃないか。

 おまえは講を裏切らない――これには幾松が驚いた。傍にはそんなふうに見られているということだ。とんだ買い被りだった。いや、裏切る度胸もない小心者と見透かされているのだろう。

――それと、もうひとつ絶対の保険をかけたからな。

「絶対の保険? 何だよ?」


――幾松さん……。

 聞こえたのは泣きだしそうな声だった。幾松は混乱した。どうしてその声がいま聞こえるのかわからなかった。

「粂太郎――か? 粂太郎だよな?」

――そうです。あたし……。

「おまえ、何でそんなところにいるんだ? 岩槻さんのセーフハウスにいたんじゃないのか」

――そうなんだけど……突然この人たちが来て、ここに連れてこられたんです。ねえ、どうなっているんですか。幾松さん、早く来てください。お爺さんがひどい怪我してるの。早く病院に連れて行ってあげなきゃ死んじゃいます。

 一瞬、幾松は岩槻を疑った。しかし、彼が粂太郎を売ったとは考えにくい。粂太郎自身が何かミスをやらかした、とするほうがまだ自然だ。しかし、どんなミスだ? なぜ亀吉に、幾松も知らない居場所がばれた?

――ねえ、幾松さん、聞いてます? ここのお爺さんが大怪我しているって言ってるんです。すごく苦しそうなんです。

 いつの間にか粂太郎の声には、彼女本来の芯の強さが甦っていた。幾松の声を聞いて少しは気力を取り戻したのかもしれない。

「おまえは? キミ自身は無事なのか」

――あたしはいまのところ大丈夫です。あたしよりお爺さんです。早くしないと……すごく血が出ていて……ねえ、幾松さん、どうにかしてくださいよ。世話人なんでしょ? 世話人なら講中を助けてください。それが世話人の仕事ですよね?……もしかして、あたしのこと怒ってます? 捕まるなんて間抜けだって思っているんですか。だって、幾松さんが知りたがっているからって、親から国際電話がかかってくれば、そりゃどこにいるか答えますよ。当然でしょ? あたし、まちがってます?……あ、もしかしていま、うちの親のことを馬鹿だと思いませんでした? ちがいますからね、うちの親は幾松さんのこと知らないんですから、亀吉さんが幾松さんのふりをしたってわからなかったんですよ、仕方ないじゃないですか。

 そういうことか、と幾松は納得した。粂太郎や親に腹を立ててもしようがない。しょせんただの講中なのだ。それよりも岩槻が信用できるとわかって助かった。まだ頼ることができる。

「わかった、わかった。おれはキミのことを怒っていないし、キミの親のことを馬鹿にもしていない。萬蔵さんも、キミも、おれが何とかするから、そこで待っていてくれ。絶対に無茶はするな」

――わかりました。待ってますからね。

「わかったら、また亀吉に替わってくれ」


 亀吉の声は弾んでいた。この状況を楽しんでいるようだった。

――さあ、これで、おまえはおれの言うとおりにするしかないってわかったろ?

「萬蔵さんを病院に連れて行け。あの人は関係ないだろう。講中の病院なら難しいことは言わずに診てくれるはずだ。サツマに通報される心配もない」

――おいおい、おれを誰だと思っているんだ。そんなことはおまえに言われるまでもなく承知しているよ。まあ……あわてるこたあないよ。萬蔵が死んだら死んだでいいさ。いまは次の萬蔵を探している最中なんだろ。期限が早くなるってだけのことだ。

 幾松は自分のなかに湧き上がる感情に気づいた。生まれて初めて他人に殺意を覚えていた。この黒い感情に呑み込まれないように――幾松は息を整えた。

「わかったよ、条件は何だ? どうしたら粂太郎を解放してくれる?」

――簡単さ。お友だちをここへ連れてこい。……お友だちってのは、元の甚六のことだよ。

「甚六? 何であいつに関係があるんだ?」

――理由は本人に聞きな。それがいちばん早いぜ。

「じゃあ、あんたもおれになんか頼まずに直接甚六のところへ行けばいいだろう? あいつはたいてい店にいるよ。『ミッドナイト・サーカス』ってバーさ。場所はおれのケータイの位置情報を調べていたんだからわかるだろう?」

 ため息が聞こえてきた。それから短い笑い。ガラスを引っ掻くような気持ちの悪い笑い声だ。

――その店にはもう行ったよ。そこにいなかったからお前に連れてこいって言ってるんだ。知らないのか。おまえがおれを拉致ろうとした日から、おデブのお友だちは行方不明だよ。

 幾松はため息をついた。手に甚六の店のいくら引っ張っても開かないドアノブの感触が甦った。甚六も亀のようにクビを引っ込めたということだ。それを非難する気にはなれなかった。むしろ、彼らしくない敏捷な行動を褒めてやりたいぐらいだった。

――期限は今夜の二時だ。おれはお山で待っているから。元の甚六とロクジを連れてきな。

 幾松は壁の時計を見た。まだ一九時間残っている。――やれるか?


「なあ、あんた。『が』とか『ど』とか濁る音が聞き取りづらい。ぜんぶラ行に聞こえるよ。自覚してるか。前からそうなのか。ろれつが回っていないって言われたことはあるか」

――はあ? 何言ってんだ、おまえ?

「それはたぶん後遺症だ。数日の間に二回も術をかけたからな。脳に障害が残ったんだ。次にまた術にかかったらやばいぜ、あんた、きっと運動障害が出る。死にはしないだろうが、半身不随ぐらいにはなるだろう」

――それで脅してるつもりかよ。

「まあ、せいぜい背後には気をつけることだな」

 幾松は電話を切った。脳に障害なんてはったりにすぎなかった。亀吉が信用するかどうかもあやしい。ただ、爪の先ほどの効果にすぎなくても、期待できる何かがあるのは悪くない。

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