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浮かれているブラボー・ワン

◆19


 扉を開けるといつものように甚六が驚いた。いつものように紺のブレザーにボタンダウンシャツ、レジメンタルストライプのネクタイだ。「帝国鋲螺商会」もそうだが、この「ミッドナイト・サーカス」も、時間が冬の蜂蜜のように固まっていて流れない。

 幾松もいつもの席へ腰を下ろし、ビールを頼んだ。ハイネケンの緑色の瓶とグラスが目の前に置かれる。自分で注いで飲む。いつもと同じ、何も変わらない。

 この店へ来るのはなぜだろう。自分が望んでいるのは変わらない世界なのか、それとも変わっていく環境なのか。

御師は講が変わらないことを望んできた。そして、その対極には変化を求めるグループがつねに存在していた。御師に指図された庄之助と先代の幾松が何度潰そうと、そのたびに変革を望む声は必ず甦った。澱んだ沼に浮かび上がる泡のようなものだ。澱みの底にはいつも現状を耐えがたく感じている者がいる。そのすべてを黙らせておくことはできない。そして、それはひとりの人間のなかにも存在している。変わることを望まない心の底にも、それを裏切る心の欠けらが潜んでいるだろう。

 御師の指図を愚直に受けていいのか。そうすべきなのか。講の汚濁を引き受けて生きていくのが正解か。御師に逆らい、改革を求める側に着くという選択肢もある。あるいは、目の前の対立そのものから逃げ出してしまうことだってできるはずだ。講の外には生きる道はないのか。

 先代が教えてくれたことのなかに答えはなかった。ただ、幾松が日本から逃げ出したときには、先代は何も言わずに助けてくれた。あれは、先代自身が御師に従って講のなかで生きてきたことについて悔やむ気持ちがあったからではなかったか。

 戻ってきてはいけなかったのかもしれない。

 目の前には、講を抜けた男がいつもの怯えたような顔でいる。甚六がたどり着いた自由な場所は、どんな色をして、どんな匂いに満ち、どんな風が吹いているのか。

 以前から棚上げになったままの疑問を、今日こそ訊いてみよう。その先に答えはあるような気がした。


 幾松は煙草に火をつけ、手近にあった灰皿を引き寄せた。黒い陶器の灰皿に赤い口紅のついた吸殻が三本並んでいた。口紅はまだ付いたばかりのように湿っていた。客が帰ったあともすぐに灰皿を片付けない甚六のずぼらさ。とはいえ、自分の前に客があったことのほうが驚きだった。

 女の客がひとりで来るような店ではない。尻の筋肉が引き攣るような嫌な感じ――身体が意識よりも先に答えを出しているのだった。幾松は吐き気といっしょに〈ヴァイオレット〉を思い出した。

「この前のあの女はあれから来てないか」

 幾松は何でもないことのように訊いて、落ち着いた動作でビールをひとくち飲んだ。視線はカウンターのなかで椅子に腰かけている甚六に据えつけたまま。

 甚六は幾松の前の灰皿に目を落とし、しまったという顔をした。

「どの女?」

 かすれた声でとぼける。笑いたくなるほど甚六は芝居が下手だった。幾松は灰皿から吸殻を一本摘み上げ、甚六の鼻先に突き出すと、また灰皿に落とした。

「どの女もこの女も、ほかにどの女がいるんだ? この前おれが来たときジン・フィズを飲んで帰った、あの全身紫色の女だよ。おまえと話題にできる女っていったら、あとはおまえのオフクロくらいしか知らねえよ。……まさか、オフクロさんが来たのか」

「いや、どっちも来てない。それは幾松の知らない客が吸ったんだ。近くの倉庫で働いているオバサンだよ。茶髪ですげえ太っててさ。声もつぶれてて、大昔はヤンキーでしたって感じの人だよ。倉庫でフォークリフトを運転しているんだってさ。最近は女の人もそういう仕事をしているんだな。遅番のシフトのときはどうせ帰っても食事の支度をするわけじゃないからって、よくウチに寄ってくれるんだ」

 甚六は腰を浮かし、幾松のほうへ身を乗り出して、早口にまくしたてた。

 幾松は苦笑した。甚六はむかしからそうだった。ウソをつくときは不必要に細部まで作り込んでしまう。追求すれば、その架空のオバサンの亭主の年収や、子どもの持病まで教えてくれるだろう。

「そうなんだ。この店におれの知らない客がいるとはね」

「そりゃいるさ。失礼な」安心した様子で甚六はまた椅子にストンと尻を落とした。

〈ヴァイオレット〉がジン・フィズを飲みたくなってこの店にまたやってきたとは考えがたい――幾松はあの女が残していった吸殻の上へ自分の煙草を擦りつけた。まともな舌の持ち主なら、ジン・フィズが飲みたくなったらほかのバーへ行く。

――世界に星の数ほど店はあるのに、彼女は甚六の店にやってきた。

 問題はそこなのだ。


 答えの出ない問題に悩んでいると、スマートフォンが鳴った。粂太郎からだった。幾松は胃液が食道を焼くような嫌な感じを覚えた。あわてて電話に出た。

「どうした?」

――また会います。

 まったく唐突な女子大生だった。何のことだかわからない。幾松が何の話か訊き返すと、粂太郎は明らかに不機嫌な声になって、亀吉とまた会うのだ、と言った。

「何のために?」

――何のために? はあ、いま、「何のために」っておっしゃいました? そんなの黒幕が誰かを知るために決まってんじゃないですか。知りたいって言ったのは、幾松さん、あなたでしょ?

「よけいなことをするな、とも言ったよな」

――よけいなことじゃありません。講のためなんです。

 それがよけいなことだ、と言おうとして幾松は言葉を呑み込んだ。彼女は彼女なりに真剣なのだ。

「よくまた会ってくれるもんだ」

――それはやっぱり会うと思いますよ。何しろこちらは考え直したって言っているのですから。幾松さんが亀吉さんだとしても、帳元株が手に入るせっかくの機会を逃したくはないでしょう?

 粂太郎は得意げだった。彼女は頭が回るのか回らないのかよくわからない。たしかにいったんは断った株の譲渡を考え直したと言えば、亀吉が食いついてくるのはまちがいない。だが、向こうだって海千山千の世話人だ。昨日今日にこの稼業を始めたわけではないのだ。素人の女子大生の手玉に取られるはずがなかった。急に気が変わった裏に何があるのか警戒しているだろう。きっと上総屋の捜索が始まったことと結びつけて考えるはずだ。罠にはめたつもりが逆にはまっているなんてことになりかねない。

「やっぱりまた気が変わったって電話しろよ」

――何でですか。せっかくのチャンスじゃないですか。あたしの努力を無にする気ですか。あ、わかった! あたしのお手柄で自分の評価が下がることを恐れているんですね? 仕方ありません。これは幾松さんの命令であたしが動いたことにしてあげますよ。それならいいでしょ?

「よくない!」

 幾松は電話に怒鳴った。ビビった甚六が手にしていたグラスを落として割った。

 粂太郎の頭の回転が速いのは認めよう。しかし、空回りではしょうがない。

――幾松さんが何を言っても、あたしは亀吉に会いますから。会って必ず黒幕の名前を聞き出します。もう決めました。

 幾松の脳裏に銭屋の老人が肩を落とす姿が浮かんだ。「おいおい、幾松さんよ」と悲しげに首を振るだろう。

「危険なことはやめてくれないかな。そういうのはおれたちに任せてくれよ。そのための世話人なんだから。帳元であるキミに何かあったらおれの責任になっちまう」

 こうなったら泣き落とししかないだろう。と思ったが、粂太郎の「男が泣き言を言うなんてみっともない」のひとことで終わってしまった。どうやら彼女の望むようにやらせるしかないようだった。

「わかったよ。会えばいいさ。ただし、おれたちが監視しているところで会うこと。これだけは絶対の条件だ。いいね?」

――わかりました。まかせてください!


「ねえ、キミ。もしかしてキミはおれたちが正義で、亀吉たちは悪だとか、そんなふうに考えてはいないか」

 粂太郎の乾いた笑い声が聞こえた。

――オトナってよくそういう言い方をしますよね。現実はもっと複雑で、どちらが正しいとか簡単には決められないんだ、みたいな。でも、それってやっぱり逃げですよ。亀吉たちは講に争いの種を蒔こうとしているんですよね? そのつもりはなくても、結果的にはそうなるだろうということをしているわけでしょ? あたしはお蕎麦屋のお爺さんからそう聞いています。ちがいます?

 幾松には返す言葉がなかった。彼女の言うとおりだった。結局、ここには善も悪もない。自分の立ち位置を一歩進むごとにたしかめられるかどうか、そういうことなのだ。

「亀吉とはいつ会うんだ? 場所はもう決めてあるの?」


 粂太郎の電話を切って幾松はため息をついた。状況をうまくコントロールできていない。もっとも、そんなことをできた例はこれまでもなかったのだが――。

 いつも行き当たりばったりで生きてきた。目前の状況に対応していくことだけに精一杯で、選んだ道がまちがっていて、見通しのいい場所に出るはずが、どこともわからない場所に迷い込んでしまうこともしばしば。それでも立ちどまっているわけにはいかないから歩き続けていたら、結局この体たらくだ。

 覚悟を決めろ、と丁子屋が怒るのももっともな話だった。もはやメインストリートに戻ることはかなわない。幾松は人通りの少ない裏道を行くしかないのだ。

 それでも――と幾松は思う。メインじゃない道だからこそ迷ってしまうのではないか。べつに自分のことを救おうとは望まない。ただ何を守るかを決めるのは自分自身のはずだった。リストのいちばん上にいつも講がくるとはかぎらないということだ。そしていま、そこに書かれているのは、無知な若い講中、粂太郎だった。

――彼女を傷つけるわけにはいかない。

 肉体的な傷だけではない。どんな意味でも彼女には無傷でいてほしかった。無垢な人間に罪を負わせたくはなかった。

「甚六、おかわり」

 ハイネケンの瓶がカウンターに並んだ。甚六が何か言いたげだった。幾松は空のグラスに自分でビールを注ぎながら甚六をしゃべりだすのを待った。

 甚六は頭を掻き、煙草に火をつけ、ネクタイを緩めて、ふうっと息を吐いた。

 幾松は冷えたビールを喉に流し込んだ。目の前の古い友人は何をためらっているのだろう、と思った。おそらくはつまらないプライドが邪魔をして、舌が自由に動かないのだろう。

 甚六は意を決したように唾を飲み込み、膨らんだ頬を赤くさせてようやく口を開いた。

「この前言っていたストライクゾーンの件だけどさ――」


――いやいや、そんな話じゃないはずだ。


 甚六が正直になる前にもう一本電話が入った。怒っている相棒からだった。煙草に火をつけてから出た。

「何かわかったかい?」

――上総屋は講を抜けようとしていたのかもしれません。

 丁子屋はそれがとても悲しい事実であるかのように暗い声を出していた。彼が小倉直緒から聞いた話では、矢野は結婚後会社を人手に渡して小倉の実家がある大阪へ移ることを決めていた、ということだった。

「ああ、そういえば……」

――ん? 何か思い当たる節でもありましたか。

「いや、小倉直緒のしゃべり方には関西弁のイントネーションが残っていたな、と思ってさ」

――なんだ、そんなことですか。彼女の父親は介護が必要らしいんですよ。母親も歳なのでひとりでは大変だから戻ってきてほしいと頼まれているのだそうです。結婚がそのためなのかどうかはわかりませんが、上総屋も向こうへ行くことには同意していて、すでに会社を譲渡する話もかなり進んでいた状況らしいです。

「じゃあ、帳元株の譲渡についても亀吉との間で話がついていたと考えてよさそうだ」

――そうですね。あの部屋に残っていたボストンバッグには手付金が入っていたんでしょう。三千万円でしたっけ? そいつはどこへ行ってしまったのでしょうね?

 犯人が持って行ったならカネ目当ての殺人ということになるが、被害者自身がどこかに隠した可能性も捨てきれない。しかし、丁子屋はその可能性はほとんど考えなくていいのではないかという意見だった。居間に置かれていたボストンバッグが整理好きの上総屋の部屋では「浮いている」というのだった。たしかにあのボストンバッグにはあわてて放り出されたような違和感があった。

「でも、犯人ならバッグごと持っていけばいいじゃないか」

――ボストンバッグがそこに残っていないとまずいことがあったんじゃないですかね。たとえば誰かにそこにバッグがあることを見られていて、バッグがなくなってしまうとその時間に部屋にいた自分が犯人だとわかってしまうとか。それならバッグだけ残して中身を持ち出してもおかしくないでしょう?

 釈然としない感じは残ったが、いまは否定も肯定もできなかった。幾松は上総屋の話はそれで切り上げて、粂太郎が亀吉と会う件を持ち出した。

――やりますねえ、粂太郎ちゃん。

 丁子屋は面白がっていた。幾松は彼に車の手配を頼んだ。目立たない車にしてくれ、と注文をつけた。いつものような派手な外車は困る。たまにはそういう車もいいかな、と丁子屋は答えた。


 結局、幾松が帰るまで甚六は語らなかった。幾松は彼にも粂太郎の件で手伝いを頼んだ。講を離れた甚六を使うのは望ましいことではないが、彼ならほかの講中に顔を知られていない利点があった。自由に動ける人間がひとりは必要だ。あまり役には立ちそうもないが、それでもいないよりはましだ。


◆20


「いいかい、キミが入っていったら窓辺の席にいる気持ちの悪いデブが退くからそこに座るんだ。そこなら外から全部見えるからな。マイクのことは意識しなくていい。キミがどこを向いていても、小さい声でも入るから」

 粂太郎はミニバンの後部座席でコクリとうなずいた。緊張しているのだろう、彼女はほとんどしゃべらなくなっていた。本来の彼女なら「気持ちの悪いデブってだけじゃわかりませんよ」とか言うだろう。そして、幾松は「スタバの入店コードギリギリの気持ち悪さだから絶対わかる」と答える。それから、粂太郎が実際にスターバックスの窓際に陣取っている甚六を見てくすくす笑う。

 望ましいのはそういう段取りだが、そんなふうに気軽にすむはずがない。アルバイトの面接に出かけるのとはわけがちがうのだ。

 盗聴用のマイクを、粂太郎はTシャツの下、胸の谷間に絆創膏で貼りつけていた。すでにチェックはすませてある。亀吉との待ち合わせは、昼前のいちばん人出の少ない時間を指定させた。場所も南新宿の高層ビルの一階に入っているスターバックスにさせてある。窓際の席が向かいの建物に入っているコンビニから見える。マイクの音声もそこならクリアに拾えた。

ミニバンはスターバックスが入っているビルの地下駐車場に停めてあった。車内からエレベータールームの出入口が見える。

「やつが外へ出ようって言っても絶対に断るんだ。もし、危ないと思ったら、犬の話をしろ。すぐにおれが助けに行くから。いいな? こっちで危ないと判断した場合も、おれが突入するから、キミは丁子屋と一緒にこの車へ戻ってきて、そのままセーフハウスにしばらくご逗留だ」

 運転席の丁子屋が「まあ、そんなことにはならないでしょう」と微笑んでみせた。

「亀吉が来る前に状況が変わったときは、キミのかわりに店を出た気持ちの悪いデブがまた店に入っていく。そうしたら店を出て大学へ行け。そして、今日は家に帰らずにこのホテルへ行け」幾松は粂太郎にカードを渡した。「そこに書いてあるだろ、河合奈緒美って名前で予約してある。おれがいいって連絡を入れるまで部屋にこもっていろ。悪いが食事はルームサービスにしてくれ。長くても三日でケリをつけるから。宿泊料金の心配はしなくていい。全額を講が支払う……だからって、高級ワインとか注文すんじゃねえぞ」

「未成年ですから、ワインなんか飲みませんよ。……そんなに危険ですか」

 粂太郎はへの字口になっていた。しかし、幾松を見る目は潤んでいた。

「場合によっちゃ一生モンの敵をつくることになるかもしれない。怖いのはわかる。やめたかったらやめてもいい。ドタキャンだろうが何だろうが、そんなことを気にする必要はないからな。いまなら亀吉ひとりが腹を立てる程度ですむ」

 粂太郎は深々と息を吸って一気に吐き出した。

「やめませんよ」

「わかった。準備はOKか」

 粂太郎が勢いをつけてうなずいて車のドアを開けた。幾松も降りた。よし、行ってこい、と背中を叩く。

 粂太郎は「痛いなあ」と怒ったような表情でエレベータールームへ歩き出した。その後ろ姿を見送りながら、幾松はケータイで甚六を呼んだ。

――ホイ、こちらブラボー・ワン。

「おまえのコードネームはブラボー・ワンだとは言ったけどさ、まさか真に受けるとは思わなかったよ、甚六」

――冗談なら冗談て言えよ、恥ずかしいなあ。で、いまのところ異常はない。チャーリー・ワンはもうそこを出たのか。

「え、誰だって?」

――だから、チャーリー・ワンだよ。冗談だってわかってるよ。馬鹿じゃないんだからさ。でもな、幾松、おまえはあの女子大生の名前をおれに教えていないじゃないか。ほかにどう呼べって言うんだよ?

「彼女はそっちに向かった。もう店に現れるころだ」

――あ、来た。チャーリー・ワンを確認。

「なんだ、気に入ってんじゃん」


 幾松は盗聴器の受信機のスイッチを入れた。

――気持ちの悪いデブを見つけました。たぶんあの人でまちがいないと思います。

「始まりましたね」と丁子屋が言った。

 甚六は粂太郎と入れ替わりに店を出て、このあとは店の入口を監視する役につく。だが、彼がそこで亀吉を見つけるとしたら、それは最悪の状況だ。亀吉が車で移動していることはわかっている。この辺りにはコインパーキングがないから、料金が多少高くてもこの駐車場を使う可能性が高い。地上に上がるには彼らの前のエレベータールームを通過しなければならない。万が一、亀吉がこの駐車場を使わなかった場合のためだけに、甚六をスターバックスの前へ配置していたのだった。

 粂太郎を危険にはさらせない。幾松は彼女を亀吉に会わせるつもりはなかった。その前に亀吉の身柄を押さえてしまう計画だった。

 受信機からは、粂太郎が震える声でキャラメルマキアートのトールをオーダーしている声が聞こえている。

「いま講に何が起きているんですか」

 運転席の丁子屋がロリポップキャンディーを差し出してきた。幾松はビニールの包装を剥がして口に入れた。オレンジ色のロリポップ。匂いも味もほとんど感じない。自分も緊張していることに気づいた。

「何って?」

「キミは御師に会ったんでしょう? どんな指図を受けたのかは聞きませんが、御師としてもキミに直接頼まなければならない何かがあるってことだけはたしかじゃないですか。わたしもね、あとで面食らうのは避けたいんですよ。嵐が来るとわかっていながら巣穴から頭を出している馬鹿はいないでしょ?」

 幾松は丁子屋の顔を見た。微笑んではいるものの、まだ怒っているのがわかった。しかし、傍から見たら、ロリポップをくわえた男がふたり、見つめ合っている姿は滑稽すぎるだろう。

「講が割れるかもしれないんだ。そうなったときには、抗争ということになるかもしれない。御師はそれを避けたがっている」

「なるほど、そうでしたか。で、わたしたちは御師派なのですね?」

 幾松は相棒から目をそらした。エレベータールームへ目をやる。いまは出入りする人影はなかった。約束の時間まではまだしばらく間がある。亀吉が現れるのはもう少しあとだろう。

「おれは……まだ決めていない」

 それは、できの悪い生徒の答えだったのだろう。劣等生を相手に、大学講師は声のトーンを一段階上げた。

「何を寝ぼけたことを言っているんですか。あなたは――というか、あなたの家は御師派に決まっているんですよ。御師が歳をとったいまでは、講を動かしているのは庄之助――あなたのお父上だと誰もが認めるところです。そして、あなたのお兄さんは講の金庫番である手代筆頭をつとめている。いいですか? 庄之助と先代の幾松、先代の白尾のウサオイ、この三人が御師の権力を確固たるものにして、その後も支えてきたんです。いまは代が替わったとはいえ、このトライアングルの意味が変わることはありませんよ。もし抵抗勢力に権力が移ってしまったら、ウサオイは既得権益を失うことになります。自分が損をするようなそんな事態を彼女が黙って認めると思いますか」

「ウサオイが御師についたとしても、それを講中には強制できないだろ?」

 幾松は間抜けな答えを繰り返してしまったらしい。丁子屋の声はさらに高くなった。

「ねえ、ウサオイに利益が入らなくなったら、その下の講中にも回ってくる分が減るってことがわかりませんか。まさかどの講親のところへも公平に資金が分配されているなんて思っているんじゃないでしょうねえ? 講はね、仲良しクラブじゃないんです。この組織をつないでいるのは、友愛でも、思想でも、信仰でもない。根本にあるのは経済です。おカネですよ。俗な言い方をするなら、カネの切れ目が縁の切れ目。そのかわりカネが回っているあいだは、こんなに強い紐帯はない。つまり、いまのウサオイを見限って敵につく講中なんかいないってことです」

 丁子屋はレモン味のロリポップを口に戻した。それはしゃべっているあいだずっと手に持ったままだったのだ。甘味にほっとしたのか幸福そうな緩んだ表情を浮かべた。

 幾松はエレベータールームの自動ドアへ目を戻した。丁子屋がしゃべっているあいだも横目で注意していた。女がひとり出てきただけだった。

「それなら亀吉は反御師派ってことになる」

「そうなんですね。帳元株を買い集めているグループがわれわれの敵となるわけですよ」

 幾松はロリポップを噛んだ。いつも最後までなめきることができない。キャンディーはふたつに割れて舌の上に残った。ふやけた紙の棒の捨て場所に困って煙草のようにくわえた。

「アカメの長足も反対派だということ?」

「そんな単純ではないでしょうね。実際に動いている亀吉はどうしても目立つでしょう。そんなことを自分の世話人にやらせますかねえ。むしろ、講を割ろうとしている人間は、自分と関わりのないところで実際に動いてくれる人間を探したんじゃないでしょうか。たまたまそれが亀吉だったということでしょう。引き受けたからにはあの男にもそれなりの旨味があるんでしょうね」

 それは幾松も考えていたことだった。おそらく亀吉はカネで動いているのだろう。講親を裏切っているという意識などない可能性もある。秘密のアルバイト程度の意識で帳元株の売り主を探しているのかもしれない。亀吉はわけがわからないまま深みにはまってしまっているのだろうか。

 丁子屋はロリポップを口から出した。

「亀吉は中古車といっても高級外車専門のディーラーです。資産のある講中と接触しても全然おかしくない。本業のために会ったのだと言い逃れできますからね。わたしが知っている講中のなかにも彼の仲介でビンテージカーを手に入れた人が何人かいます。なかなか乗らせてはもらえませんがね。亀吉と黒幕が交わしたのは委託契約のようなもので、亀吉は自分で客を選んで交渉していたのではないですかね。成功報酬として何パーセントか受け取るといった契約があったものと、わたしは思います。それなら、上総屋のマンションで空のボストンバッグを見つけたとき、亀吉がしきりに『困った』と言っていたという小倉直緒の話も腑に落ちるのですよ」

「つまり、消えた三千万円は亀吉の責任になるということ?」

「そうでしょうね。亀吉はきっと上総屋が三千万円を持ち逃げしたと思っています。騙し取られても表沙汰にはできないカネですからね。彼はいま上総屋探しに必死のはずですよ。粂太郎ちゃんから気が変わったっていう連絡が入ったのも、彼としては失点回復ぐらいのつもりでウハウハ喜んでいるじゃないでしょうかね」

「そんなに警戒する必要はなかったのかな」

「いや、用心に用心を重ねて悪いことはありませんよ」

 丁子屋は手のロリポップを見つめた。それはすっかり乾いてしまって不味そうだった。


――まだ来ない、まだ来ない。

 受信機から鼻歌が聞こえてくる。粂太郎も少しは緊張がほどけてきたようだ。約束の時間まであと五分。

 幾松のスマートフォンが鳴った。甚六からだった。胃が縮む。予想外の事態だった。丁子屋と顔を見交わす。丁子屋の顔も渋い。幾松は舌打ちをして電話に出た。

――こちらブラボー・ワン。対象はまだ確認できない。オーバー?

 暢気な声だった。幾松の「友だち」は面白がっている。

「脅かすな、馬鹿! 連絡は来たときだけって言っただろ!」

 そう吐き捨てた幾松の腕を、丁子屋がつかんだ。顔を上げると、エレベータールームへ近づいていくスーツ姿の男が見えた。一歩ごとに跳ねるような、ペンギン歩き。まちがいなく亀吉だった。

 幾松は車を降りた。いったんは亀吉の死角へ回り込む。スニーカーをキュッとも鳴らさずに足を速めた。

 ミニバンの前に立っている丁子屋に視線を送る。丁子屋が小さくうなずくのが見えた。周囲に人はいないという合図だ。

 幾松はポケットから黒いニットのスカルキャップを出した。歩きながらかぶる。これでもうどこから見ても立派な不審者だ。

 亀吉はエレベータールーム側へ通路を渡ろうとしていた。自動車の走行音さえ聞こえないのに、律儀に歩行者横断用のマークの上を歩いている。

 幾松は亀吉がエレベータールーム側を歩き出すのを待って一気に差を詰めた。

 エレベータールームから自動ドア越しに薄暗い駐車場へ光が漏れている。亀吉はその光のなかへちょうど踏み入ろうとしたところだった。気配を消した背後の幾松には気づいてはいなかった。

 幾松は亀吉の肩へ手を伸ばした。亀吉が自動ドアのほうへ身体をひねろうとするのと同時だった。視界の隅に幾松の姿を捉えたかどうか――亀吉は自動ドアの前でひしゃげるようにくずおれた。

 自動ドアが開く。エレベータールーム内には誰もいない。が、エレベーターが何階にいるかを表示するランプは、一階が光っている。チンッと鳴って、到着を予告するオレンジ色のライトが点滅した。

 幾松はスカルキャップを脱いで、亀吉が落としたカバンを近くの車の下へ蹴とばした。中身はこの前見たからわかっている。

 亀吉の腋に手を入れて上半身を持ち上げ、身体を引きずった。通路を横断してミニバンへ向かう。痩せている身体は重くはないが、意識がない分運びづらい。

 自動ドアの向こうでエレベーターの扉が開くのが見えた。誰かが降りてくる。

 丁子屋が車椅子を押して走ってきた。ふたりでぐったりした亀吉を車いすに乗せる。エレベータールームのドアが開いて出てきたのはビジネススーツを着た若い女だった。三人のほうへ一瞬視線を投げかけてそのまま反対方向へ歩き去った。

 丁子屋が、肺に何か悪いものでも溜まっていたかのように、大きく息を吐いた。


 車は首都高速に乗っていた。丁子屋は車と車のわずかな隙間を縫って行くいつもの走りを控えていた。

 幾松は亀吉の手足をガムテープで拘束し――それは嫌な記憶を甦らせたが――途中で意識が戻ったときの用心に耳栓と目隠しもした。意識のない男の身体を扱いながら、幾松はこんなふうに何度も気絶させられたら脳に障害が残るのではないかと心配していた。亀吉の身体を気遣っていたのではない。このあとの尋問に支障をきたさないか不安だったのだ。

 亀吉を捕まえてすぐに甚六へは電話をかけた。スターバックスの店内へ戻れ、という指示を出した。それで粂太郎は店を出て大学へ向かったはずだ。今日は家には帰らず、教えてあったホテルへ行くだろう。びくびくしながらこれから数日をそこで過ごすことになる。幾松の心配が杞憂であれば身を隠す必要もないのかもしれない。しかし、〇・一パーセントでも可能性があるなら、それは回避すべきだった。一般の講中を傷つけるわけにはいかない。

 粂太郎は知りたがるだろうから、いずれ顛末を話してやらなければならないだろうが、それはまだずっと先――さまざまな面倒事にケリがついたあとだ。


 幾松たちは甚六の店に向かっていた。倉庫街の一角にあるあの店なら、昼も夜もどれだけ騒ごうと気にする住人はいない。甚六の店だから講にも知られていない。尋問にはぴったりの場所だった。

 丁子屋は落ち着いて車を走らせていた。誰かを拉致することなど日常茶飯事だという顔をしていたが、幾松と同様、初めてではないにしろ慣れてはいないはずだった。

 幾松は暗い気分だった。こんなつとめは好きじゃない。これから行う尋問にしても痛めつける以外に情報を聞き出す方法が思い浮かばない。自白剤とか薬屋で売っていれば、と愚にもつかない想像をめぐらしてため息をついた。

「仕方ないじゃないですか」と丁子屋はそんな幾松にまた不機嫌になっていた。

 車はもう倉庫街に入っていた。甚六のバー「ミッドナイト・サーカス」まであと数分。ちょうど正午を迎えたところだったが、倉庫の町には人影はほとんどない。これなら車から店へ亀吉の身体を運び込む作業も、誰にも見られずにできるだろう、と安心した矢先だった。

 そのピックアップトラックが猛スピードで交差点を曲がってきたのを、怪しいと思う間もなかった。

 青いトラックはレースでもしているような速度で、幾松たちのミニバンへ近づいてきた。トラックの運転席と助手席にゾンビが乗っているのが見えた。突然、トラックがセンターラインを超えてミニバンの鼻先へ突っ込んできた。

 丁子屋が反射的にハンドルを左へ切った。同時にトラックは元の車線へ方向転換したが、車体は尻を振るかたちで荷台側からミニバンの右前方へぶつかってきた。

 激突の瞬間はスローモーションを見るようだった。奇妙なことに、そのとき幾松が考えたのは――こんなふうに感じるのは脳が細工しているんだ――と脳に関するポピュラーサイエンスの本で最近得たばかりの知識だった。

 激しい衝撃――一瞬で視界が真っ白くなったのはエアバッグが広がったからだった。

 幾松が車が停まっていることに気づいたとき、ひび割れたフロントガラスの向こうに、トラックからふたり降りてくるのが見えた。どちらもドンキホーテで買ったようなゾンビのマスクをしていた。手には銃を持っている。

 丁子屋を見ると、彼はしぼみつつあるエアバッグに突っ伏して失神していた。

 ゾンビたちはミニバンの両側に別れると、幾松たちに銃口を向けながら近づいてきた。幾松は銃が本物か偽物か試す気にはなれなかった。シートベルトで椅子に固定されたまま、両手を上げた。

 運転席側のゾンビは丁子屋が意識不明なのを確認して、後部座席のドアを開けた。幾松側のゾンビは窓越しに幾松の頭を狙っている。銃はグロック36のようだ。幾松も撃ったことがある。

 ドアを開けたゾンビは、衝突の衝撃で後部座席の下に転がり落ちていた亀吉の身体へ手をかけると、乱暴に車から引きずり出そうとした。片手は銃を持ったまま、それを依然として丁子屋の後頭部へ向けたままだったから、空いている手だけでオトナの男の身体を扱うのに苦労していた。それでも何とか車の外へ亀吉を引っ張り出すと、そこからは両手を使って肩に担ぎあげトラックの荷台へ放り込んだ。そして、自分は運転席へ戻ってエンジンをかけた。

 幾松側のゾンビも銃で幾松を牽制しながらトラックへ戻っていった。こんな仕事には慣れているのか、どちらのゾンビも落ち着いているように見えた。

 トラックはまるで配送を終えた運送業者のように法定速度で走り去った。トラックが幾松の前に現れてから消えるまで一分もかかっていなかった。

 幾松はシートベルトをはずして、車の外へ出た。頭がふらふらする。路肩にしゃがみ込んだ。額に手をやると指先が絆創膏に触れた。そばの倉庫から人が出てくるのをぼんやり眺めていた。大丈夫か、と叫びながら走ってくる人がいる。

 幾松は煙草をくわえて火をつけた。さしあたって、ほかにできそうなこともなかった。

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