いつもと同じ朝
◆1
朝は潮の匂いがする。……海は見えないが遠くはない。
この朝も、どの朝も似たようなものだ。
幾松はパーカーのフードを深くかぶり、見えない海のほうへ歩いていた。日が昇ったばかりのこの時間、駅からの道にはほとんど人けがない。犬を散歩させている老人や、ジョギングする中年男など、いつも見かける人とすれちがうだけだ。
あと一時間もすれば渋滞が始まるだろうが、車道もまだ空いている。
開いている店はコンビニエンスストアだけ。ガラスの向こうにやる気のなさそうなアルバイト店員のアクビ顔が見える。
コンビニの隣、自然食カフェの店内は真っ暗だが、そこは何時になっても暗いままだろう。先週突然休業してそれっきりだった。もう二度と開くことはない。
自然食カフェの場所は何の商売をやっても上手くいかなかった。バーガーショップだったことも、一〇〇円ショップだったこともある。上手くいかない理由ははっきりしない。最寄りのバス停の位置だとか、コンビニ前の郵便ポストの向きだとか、ひとつひとつは些細な、原因ともいえないような事象が複雑に絡み合っているのだろう。
テキサスのハリケーンの原因がブラジルで羽ばたいた蝶だとしても、誰にもそれは断言できない。原因がわからなければ、人はそれを運命と呼ぶのだ。
店の前に着くと、幾松は煙草をくわえて火をつけた。
間口二間の店だが、ここが彼の店だった。ところどころに錆の浮いた、灰色の重そうなシャッター。その上には、いつ掛けられたのかわからない看板がある。白地に黒く、太い字体で「帝国鋲螺商会」と書かれている。一文字一文字が大きい。塗料が剥がれて銀色のトタンが見えている箇所もあって、いかにも昔からある店という感じだった。
隣のビルとの間の狭い隙間へ入っていく。
毎朝の習慣だった。店の裏に猫の額ほどのバックヤードがあって、シャッターを上げる前にそこで一本吸うことにしていた。
店の裏は運河に面している。表からは、そこに小さな空間があるとは誰も思わない。両側の建物に挟まれ、対岸は要塞のように並ぶ雑居ビルの背面がそびえていて、日も当たらない場所だった。
運河はだいぶきれいになったと古い人は言うが、幾松にはそうは見えない。クリームの足りないコーヒーのような色に濁っている。落ちないよう鉄柵が付けられているが、根本がすでに腐っていた。
幾松がバックヤードに回ると、そこには先客がいた。砂利を敷いた地面に男が寝ていた。幾松が知るかぎりここに人が入り込むのは初めてだった。
男は足を運河の方に向け、仰向けに無防備に手足を伸ばして横たわっていた。長めの髪が額にかかっていた。痩せた顔は若いというほどではないが、皴もない。排気ガスに煤けた白壁のような顔色。睡っているというには違和感があった。
――死んでいるかな?
確かめるのは一本吸い終えてからにしよう、と幾松は結論を先に伸ばした。
店の壁にもたれ、胸の奥まで煙を吸い込みながら、男を見下ろした。
デザイナーズブランド風の黒いジャケットにワインカラーのシャツの取り合わせはお洒落だった。しかし、胸は動いているようには見えなかった。
一本の煙草はすぐに灰になった。
幾松はスニーカーの爪先で男の頭を軽く蹴ってみた。頭が揺れる。反応はなかった。
しゃがんで男の首筋に指をあてた。冷たい。脈はなかった。
立ち上がり、男の身体を迂回して鉄柵のそばまで行く。いつものように、まだ火のついている吸殻を運河へ弾き飛ばした。こうして何本の煙草を捨ててきただろう。
この朝も、どの朝も似たようなものだ。
バックヤードに死体を見つけるまでは――。
◆2
幾松の店は、ガラスの引き戸を開けると、入口から奥まで細い通路が一本あるきりだ。その両側へ商品の箱が天井まで危なっかしく積み上がっている。震度四以上の地震のたびに崩れ落ち、そのたびに積み直してきた。
幾松が最初ではない。前の主人もその前の主人もそうしてきた。
だから、売れもせず崩れもしなかった商品は、ボール紙の箱でできた地層の最古層にいまだに睡っている。そいつらはこの「帝国鋲螺商会」で、幾松よりもはるかに長い時間を経た存在だった。
外光は入口のガラス戸からしか入らない。天井からぶら下がる蛍光灯はいつも点けていた。朝早くから夜遅くまで、客はめったに来ないが、幾松が店にいる間は明かりをつけていた。
そして、幾松はたいてい通路の一番奥、旧式のレジスターを置いた木の机で、本を読んでいた。
昼間なら、本を読んでいても客が来ればすぐにわかった。
通路に人が立つと、外光がさえぎられて、開いたページが暗くなる。「いらっしゃい」と言いながら顔を上げればいい仕組みだ。
「いらっしゃい」
ヘーゲルから顔を上げると、入口にふたりの男が並んで立っていた。どちらも似たような背格好で、似たような背広姿だった。年頃も、髪の毛のスタイルとその後退具合までそっくりだった。ふたりとも目がくぼみ、下唇がせり出したゴリラ顔だった。ヘーゲルまで含めれば三人ともゴリラ顔ということになる。
あいにくとおれはちがう、と幾松はひそかに残念がった。この邂逅に深遠なる宇宙的意味などなさそうだ。
狭い通路を、ふたりは並んだまま近づいてきた。肩先が傾いている商品の山をかすめているのも気にしてはいなかった。崩れるなら崩れればいい、とでも言いたげな口元。他人の店の商品よりも肩を並べて歩くことのほうが、ふたりには大事らしかった。
幾松の前まで来て、ふたりは初めて笑顔を見せた。
これまで何度となく繰り返してきたのだろう、シンクロした動作で名刺入れから名刺を出した。幾松の前へまるでステレオグラムのように並べて置いた。
「S**署から来ました」と向かって右側のゴリラが言った。
「店長さんはいらっしゃいますか」と左側のゴリラ。
「ぼくが店長です」
幾松の返答にふたりは、ほう、と大きくうなずいた。その同期っぷりときたら、ふざけているのだと言われれば一も二もなく信じてしまうレベルだった。
「刑事さんですか」
「ええ、そうです」と右ゴリラ。「店長さんはお若いですね。こちらのお店は結構以前からありましたでしょ?」
「まあ、帝国って付くぐらいですから古いですよ」
「第二次世界大戦前からあるんでしょうね。テイコクヘイ……ビョウ……? 何て読めばいいんですか。難しい字です。無知がばれてしまうな」
右がそう言って頭を掻くと、左はうんうんと何度も首を振った。幾松はどちらを見ていいのかわからなくなって目を伏せた。二枚並んだ名刺に向かって答えた。
「テイコクビョウラショウカイ、です」
「テイコクビョウラショウカイ」とふたりは笑顔で唱和した。
「こちらのお店には裏庭があるんですか」
「見せていただけないですか」
右側のゴリラの質問に答える前に、左側がふたつ目の質問をかぶせてくる。幾松は思わずうなずきはしたものの、どちらに対する答えなのか自分でもよくわからなかった。これは彼らが長年の経験から身につけた尋問テクニックか、といぶかる。あるいは、たんに左のゴリラがせっかちなだけか。
幾松は二人を引き連れて店を出た。隣の建物との隙間を抜ける。さすがにここはふたりの刑事も並んでは通れない。不承不承という感じで左側のが後ろへ下がる。しかし、バックヤードに出た途端、あわてて肩を並べた。
「店長さんは今日はここに来ました?」
「ええ。シャッターを上げる前にまずここで煙草を吸うのが習慣ですから」
「そのとき何かおかしなことはなかったですか」
質問するのは右側にいたゴリラだった。左側のは地面に敷いてある砂利石を蹴飛ばして見たり、柵に近づいて運河を覗き込んだりしていた。
「あ、危ない」
思わず幾松は声を上げた。左ゴリラが鉄柵に手をかけて運河の上へ身を乗り出そうとしていた。
刑事は片方の眉を吊り上げて何か文句があるのかという表情で、変な声を出した幾松を振り返った。
「その柵は足が錆びて腐っていますから。体重をかけちゃダメですよ」
左ゴリラは立ったまま腰を曲げて、身体をペタッと二つに折った。見かけによらぬ身体の柔らかさだった。赤く錆びて虫に食われたように穴の開いている支柱を確認した。
「危ねえなあ。気をつけろよ、おい」
右ゴリラがぞんざいな口調で言った。左ゴリラは答えなかった。このふたりは仲が悪いのかもしれない、と幾松は思った。
「何かいつもとちがうところはなかったですか」
「いや、べつに」幾松は首を振った。「おかしいってたとえばどんな?」
「そうですねえ……」右ゴリラは相方の動きを目で追っていた。「店長さんが来る前に誰かがここへ入っていたとか、そんな感じはしませんでした?」
「全然。いつもと同じですよ。……何です? ここで何かあったんですか」
「いや、何かあったというわけじゃないんですけどね――」
「何ですか。気持ち悪いな。ここはうちの土地ですよ。うちに内緒ってことはないでしょう」
「内緒にするつもりはないんですがね」刑事は困惑の表情を浮かべていた。「ここに死体があるって通報があったんですよ」
「え、死体ですか」と幾松は驚いてみせた。「ここにあるって?」
驚きは一〇〇パーセント嘘ではなかった。警察に通報したやつがいる、ということには実際驚いていた。
「ええ、そういう電話だったんですけれども――」右ゴリラはバックヤードを見回しておどけたように続けた。「いまのところ発見できませんね」
運河を覗いていた左ゴリラが振り返った。
「運河に落ちたかもな。浚うか」
「浚って出なかったらどうする?」
「それもそうだな」
左ゴリラは不満そうに突き出た下唇をさらに突き出した。
「沈めたんなら、いずれどこかに浮かぶだろうよ」
右ゴリラは冷たく突き放した。それから、幾松をじっと見ると、店の中に戻りましょう、と言った。
「まだ店長さんのお名前をうかがっていなかったですね」
右ゴリラはB6サイズの大学ノートを取り出した。手帳として使っているのだろう。そういう人なのだ、と幾松は考えた。
「大野竜二です」
「よろしければ免許証とか拝見できますか」
「免許、ですか」
「べつに疑っているわけじゃありませんよ」刑事はなだめるように笑ってみせた。「たんに確認したいだけです」
幾松はポケットから自動車免許証を出して渡した。右ゴリラはノートに名前と住所を書き写した。その後ろで、左ゴリラが通路の両側に積み上げた商品をぼうっと眺めて歩いていた。
「ときどき酔っぱらいが入り込んで寝ていることがありますから、それと見まちがえたんじゃないですか」
「そういうのはよくあるんですか」
「年に一、二回はありますかねえ」
幾松は嘘をついた。そんなことこれまで一度もない。それに見まちがえたというのも、いったい誰がどこから見まちがえるというのだろう。バックヤードはどこからも見えないはずだった。対岸の雑居ビルにしても運河側にある窓はどれも嵌め殺しでスモークがかかっている。
「これ、ありがとうございます」右ゴリラは免許証を返してよこした。それの写真の幾松は泣きそうな顔をしている。「おおかたイタズラだと思いますよ。店長さん、最近何かトラブルはありませんでしたか。仕事のことでも、プライベートでも何かなかったですか。ご近所づきあいとかどうです?」
「何も思い当りません」
「あなたが気づいていないだけかもしれませんけどね。結婚はしてらっしゃらない?」
右ゴリラの視線は幾松の左手に向けられていた。
「ええ、独身です」
「まだ若いですもんねえ」首を伸ばして幾松の肩越しに背後をうかがう。「店の奥はどうなっているんです?」
「トイレと小上がりですよ」
「二階もありますよね?」
「倉庫がわりに使ってます。この店を建てたばかりの頃は、当時の店主が住んでいたらしいですよ」
「ちょっと拝見させてもらっていいですか」
右ゴリラは笑顔で何げなく訊いてきた。失礼なやつだ。幾松はいくぶん喧嘩腰に訊き返した。
「死体を隠していると疑っているんですか」
右ゴリラは照れ隠しのように頭を掻いてみせる。その後ろで左ゴリラが目を輝かして許可が出るのを待っていた。
「いやいや、そういうことじゃないんですよ。後顧の憂いを断つっていうんですか。あとあと面倒なことになるのは、お互い嫌じゃないですか。だから、ね?」
「だから、ね、じゃないですよ。結局は疑っているわけじゃないですか」
「ちがいますって、大野さん。わたしたちは確かめたいだけなんです。そこに死体がないってことをね。そういうことですよ。大事なのはそこなんです。死体がないってこと。その一点ですよ」
「いいですよ、疑われたって。実際、見てもらえばわかることなんだから」
失礼しまあす、と左ゴリラが幾松の傍らをすり抜けていった。革靴を脱いで小上がりに上がったが、すぐに出てきて二階に上がる急な階段を登っていった。
二階には何が置いてあったろう――幾松はふと不安になった。
右ゴリラは幾松の軽い動揺を見透かしたように、他人に見られたくないものってありますよね、と微笑んだ。
しばらくすると、つまらなそうな顔で左ゴリラが階段を降りてきた。降りきると相棒に首を振った。やはりそこに死体があることを期待していたのだ。頭にホコリがついていたが幾松は教えてやらなかった。
ふたりの刑事は並んで帰っていった。帰り際に「何かあれば連絡をください」と言い残した。
幾松は店の外まで見送りに出ていた。わかりました、と無難な返事を返したが、腹のなかで幾松は、何かあればってのは何があったときなんだ、とブチ切れていた。
――つまり、あれか、ないはずの死体が出てきたときってことか。
店のなかに戻ると、通路にひとつボール紙の箱が落ちていた。拾い上げるとずしりと重い。なかに入っているのは鉄のネジだから当然のことだった。箱の横に貼られたラベルで品番を確認した。この種類は右の棚に置いている。つまり、右ゴリラが落としたということだった。
「最低だな」
幾松は箱を元あった場所に戻しながらつぶやいた。
◆3
ウサオイが仕事に出てくるのは、たいてい午前九時を回ってからだった。もっとも、かける先は携帯電話だからべつにそれを待つ必要もない。
ただ、彼女は朝に弱い。幾松は彼女が若かったころから知っているが、午前八時台に話しかけるのは喧嘩を売っているも同然だった。
幾松は九時五分前の時計を睨んでヤカンを火にかけた。フチに欠けたところのあるカップにインスタントコーヒーの粉末を入れて、時間が過ぎるのを待つ。
ようやく九時になり、スマートフォンの連絡先リストから「白尾のウサオイ」を選んで電話をかけた。話し中だった。
ヤカンの湯が沸騰するのを待ってかけ直した。今度はつながった。
――何の用よ?
案の定、ウサオイは機嫌が悪い。
幾松は苦笑いして沸いた湯をカップへ注いだ。安っぽいコーヒーの香りが店に広がっていく。
「幾松だけど――」
――わかっているわよ、そんなこと。で、その幾松さんがこんな朝早くから何だっていうのよ? まさかあんたまで住宅地のど真ん中で儲かりっこないドネル・ケバブ屋を始めたいから開店資金を出せって言うんじゃないでしょうね。
どうやらウサオイは朝から物わかりの悪い「講中」にひと荒れした様子だった。風向きが悪い。が、仕方がない。
幾松は次のひとことを言うために息を整えた。
「ロクジが出た」
ロクジというのはおそらく「六字」であろう、と先代の幾松からは聞いていた。南無阿弥陀仏の六字。それが転じて「死体」を表す隠語になったらしい。
ロクジと聞いてウサオイは急に声を落ち着かせた。四五歳、中堅旅行代理店経営、高校三年の娘を持つシングルマザーという表の顔にふさわしい自信に満ち溢れた声だ。
――どういう話? 詳しい説明が必要ね。
「今朝いつも通りに店に出てきたら、バックヤードにロクジがあった。そのあとサツマがやってきたよ。ウチの裏にロクジが転がっているという通報があったそうだ」
サツマというのは「刑事」を意味する符丁だった。警視庁ができたとき薩摩藩出身者が大量に雇用されたところから、そう呼ばれるようになったと幾松は教えられていた。
ロクジもサツマも元は古い。「講」という組織自体が古いのだから仕方がなかった。始まりは江戸時代の伊勢講や富士講だと言われている。本当のところはどうかわからない。講はそれに関わっている人間だけの秘密のものだ。大学の歴史学者が研究する対象ではないから、何が本当かなんて誰もかまわない。
ただ、幾松が生まれる前から講は存在していた。先代の幾松も、その先代も、さらにはその先代もたしかに実在していた。その人たちが書き記した帳面が、二階に置いてある長持には残っている。彼らが実在したなら講も存在したということだ。「幾松」というのは代々、講の世話人を務める者の呼び名「屋号」だった。
伊勢講よりも無尽講や頼母子講に近い――とウサオイは言っていた。たとえば、住宅地のど真ん中でドネル・ケバブ屋を開店しようとする講中に資金援助をしたり、とか。もっとも、実際に援助を行うかどうかは厳しい審査があって決まるのだった。
幾松の父親は、弱い者同士が助け合う互助組織だと言った。江戸から東京へ綿々と続いてきた秘密のネットワークであると。
しかし、それが今もまだ弱い者のためのものかどうか、幾松にはよくわからなかった。マフィアだって初めはシチリアからの移民たちの互助組織だったはずだ。
講はマフィアのような犯罪組織ではなかったが、けっして綺麗ごとだけですむ組織でもなかった。
後ろめたいところが微塵もないなら、秘密結社である必然性はない。幾松のような汚れ役がいる必要もない。死体や刑事を意味する隠語なども残らなかっただろう。
――誰のロクジなの? サツマに見つかってしまったの?
それはどこか咎めるような口調だった。
幾松は机の引き出しを開けた。ギシギシうるさい。そこに死体が持っていた運転免許証と車のキーを放り込んであった。茶色いパスケースを机の上に取り出す。免許証の生年月日では、死体はまだ三一才になったばかりだった。
「矢野哲夫って名前だね。免許が残っていた。こんな人、知ってる? ウチの講中じゃないよなあ?」
――知らない名前ね。でも、きっとどこかの講中だわ。あるいは講中の知り合いでしょうね。そうでなければ、あんたの店の裏庭なんて知っているはずがないもの。で、サツマのほうは大丈夫だったのよね?
「ああ、そっちは問題ない」
――他には持ち物はなかった? 財布とか、携帯電話とか。
「免許の他は車のキーだけだよ。生意気にアルファロメオなんか乗ってやがる。財布もポーチも何もない。物盗りの線も否定できないかな」
――あんたが盗ったんじゃないでしょうねえ?
ウサオイの声にはからかうような調子があった。いくつになっても子ども扱いされている、と思ったが、不思議と腹は立たなかった。
「馬鹿言え。そんなこと隠してどうすんだよ。どっちにしろ財布の中身はおれのもんじゃないか。あ、そう言えば、こいつ時計もしてなかったな。きっとブランド物を身につけていたと思うんだが……。ちょっと損した気分だよ」
――あんたには高級ブランドは似合わないからちょうどいいの。とにかくそのロクジの始末のほうは頼んだわよ。抜かりなくやってちょうだい。
「わかった。それで頼みがあるんだけど……丁子屋に手伝うように指示出してもらえないかな」
――なによ、あんたたちはいつも勝手にやってんじゃない。今日も勝手に呼べばいいでしょうに。
「そいつはちょっとマズイ気がするんだよ。たぶんこのロクジは講中だ。講中だってことは、きっとこのあと面倒なことになる。そのときに足元をすくわれたくない。正しい筋を通して正しく動きたいって思うんだよ」
――どういうこと? いざとなったら、講親のあたしがあんたを切り捨てるとでも思ってんの?
ウサオイは怒っていた。
「そうじゃない。ウサオイもおれも身を守る必要があるってことだよ」
――誰からよ?
幾松は答えなかった。答えなくてもわかるだろう、と思った。
――あんたのお父様?
幾松は答えなかった。答えなかったということはつまり肯定しているのと同じだった。