森の中の館・2
(まぁこれは……)
前方の視界が開けていて、驚くことに、ここが森の中だということを忘れてしまうほど立派な屋敷が姿を現したのだった。
滑らかな白亜の外壁は窓から漏れ出る明かりに艶を放ち、窓枠には細部に至るまで繊細な意匠が施されている。二階には立派な露台まであり、まるで物語に出てくるお城のようだわと、リリアはしばらく呆然とその屋敷を見つめた。
夜目にも分かる荘厳な佇まいは、闇に照らし出されて息苦しいほどの威厳を放っている。
通常の精神状態であれば気後れして逃げ出したくもなっただろうが、今宵は話が別だ。
車寄せで煌々と焚かれているかがり火に心の底から安堵し、躊躇いもなく玄関先へ向った。
重厚な木製の扉に向ってリリアはごく控えめに声を掛けた。
「あのー……どなたかいらっしゃいますかぁー」
これだけの屋敷だ。もちろん、こんな声では住人には届かないと、心中ではリリアもそう思っていた。
とりあえず心の準備運動のつもりだったのだけれど――しかし、リリアが呼吸を整える間もなく、重たげな扉は音もなく内側へと開いていったのだった。
「客人とは珍しい」
室内の暖気とともに中から姿を現した人物は独語するようにそう言って、睫を瞬かせながら呆けているリリアを見下ろした。
胸元まで真っ直ぐに流れ落ちる白金の毛髪は、まるで絹糸のようなそれが自ら発光しているかの如く艶を放ち。髪の色にほんの少しだけ碧の雫を落とした瞳は、霞んだ空に浮かぶ月のように愁いを孕んでいる。
「……女神さま……?」
ぽかんと開け放ったリリアの唇から思わず漏れた呟きを聞きとめて、おおよそ人という概念から逸脱した姿形の住人が、怪訝そうに柳眉を寄せる。
白いシャツに、黒いズボンという一般的な男性の服を身に着けていなければ、あるいは、静謐な低い声を耳にしていなかったら、本物の女神かと見紛う程の美貌に、ただただ圧倒されていたリリアは、ややあって我に返り上擦った声を発した。
「サーザイルのソフィエルから参りましたリリア・キャラベルと申します。……と突然お邪魔して、このようなことを申しますのも大変恐縮ですが……ええと……あの、今夜一晩……宿をお貸しいただきたくお伺いした次第でございます」
しどろもどろになりながらも、何とか用件を告げてリリアは長身の男を見つめる。
そして不審げに自分を見下ろす男の視線に焦りを覚えた。突然訪ねてきた見ず知らずの少女に、泊まらせてくれなどと言われれば、誰だって不審を抱くに違いない。
そう考えたら、無言で見つめてくる瞳が、底冷えのする冷たい視線のように思えてきて、リリアは慌てて言葉を継いだ。
「あ、あの……あたし。ヴァンさんっていう仲買人さんと、あとあたしよりもちょっとだけ年上のジュリアさんとアラベルさんと一緒に、キルビカの娼館へ行く途中だったんです。そうしたら森の中で妖獣に襲われて……みんな死んじゃったんです。……あたし一人だけになってしまって……もう……どうして良いか分からないんです……」
すっかりいつもの口調に戻ってしまっているが、男は別段気に留める様子もなく薄い唇を開いた。
「ほう。一人だけ助かった。それは強運だな」
「護符を持っていました……」
見上げながらそう言葉にすると、男の眉がぴくりと動いた。
「魔除けの護符か……なるほどどうりで誰も出てきたがらないはずだ。寄越してみろ」
リリアは言葉の意味を汲み取れないまま、それでも言われた通りに、首の後ろで結わえていた紐を解いて護符を男へと差し出した。
男はちらりとリリアに眼をやり、つまみ上げた護符を掌に載せて、見惚れるほど長い、毛髪と同じ輝きを持つ睫を伏せた。
「あのーう。その護符がどうかしました?」
リリアの問いを完全無視して、男が反対側の指先を護符の上に滑らせると――
次の瞬間、それはポッと燃え上がった。
「な……何をするんですか!」
眼を剥いて取り返そうと伸ばした手は、事も無げに交わされて、
「お願い。返して下さい! あっ……あぁ……」
懇願も虚しく、護符は男の掌で瞬きをする間もなく、微細な塵と化してしまったのだった。
「そんな……」
護符をなくしてしまったら、この森をどうやって通ればいいのだろう。
リリアは眼前で手を拭っている作り物のような美貌を睨みつけた。
「ひどいです。あたしを護ってくれた護符なんですよ」
これから世話になろうという相手を批難するべきではない。それは分かっている。けれど、あまりに酷い仕打ちに口にせずにはいられなかった。
「ただの偶然だ」
眼に涙を浮かべるリリアに、男は冷たく言い放ち言葉を継いだ。
「あの程度の護符を嫌うのはせいぜい中級妖属までだ。もちろんそれでさえ身を護るには到底及ばないだろうがな」
魔術を操れないリリアには護符の効力など分からない。眉間に皺を寄せて首を傾げると、リリアの意を汲み取ったらしい男は簡潔に告げた。
「嫌いはするが、恐れもしないということだ」
「……え?」
「その程度の護符などを持ち歩いて、力の弱い者がことさらに刺激などをすれば、苛立った妖属の格好の餌食となるだけだ」
男は腕組みをしながらそう言うと、持ち上げた拳を顎に当ててリリアをじっと見つめた。
瞳を細めて探るように鋭さを増した視線に射抜かれて、リリアの背に冷たい汗が伝う。
「でもあたしは本当に――」
「言っておくが。この森一帯は私の領地だが――その私の領地を通行する際には、然るべき手続きを行うことを義務付けている」
語る声音は穏やかで静かだが、その奥底に存在する厳然たるものが、リリアに反論はもちろん、口を挟むことも許してくれない。
「通行の全てを私が管理しているということだ。分かるか?」
「……はい」
「それなのに。私はヴァンなどというブローカーへ通行を許可した覚えもなければ、そういった申請を受けた記憶もない。これがどういうことだか分かるか?」
まるで見たもの全てを吸い寄せる力を秘めているような瞳に捕らえられて、リリアはただ僅かに首を横に動かすことしか出来なかった。