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姿なき声・4

「……かあさま……とうさま……」


(ごめんなさい。リリアはもう無理です。もうこれ以上……頑張れない)


 吸い込む夜気の冷たさに肺が悲鳴をあげている。


 動かずにいると、痩せこけた小さな身体など、あっという間に凍えて衰弱する。


 リリアは静かに瞼を閉じた。


 嫌でも耳に入ってくるおぞましい音から意識を逸らして、故郷の家族に思いを馳せる。

 このまま眠るように逝けたらどんなに幸せだろうか。

 生きながらにして臓腑を喰らわれる恐怖を味わうくらいなら、いっそ自ら命を絶つ方がはるかに楽だとさえ思える。


 家族のためと考え、自ら選んだ末路がこれとは――


 もう身体の感覚も、そして恐怖を感じる神経も鈍ってしまったようだ。


「……ごめんなさ……い」


 やがて、薄く開いたリリアの唇から聞き取れないほどの囁きが漏れ、力をなくした身体が外壁に弧を描きながら地面へと崩れ落ちていった。


『だめだめ。だーめ! 眠っちゃだめよ!』


 突如、眠りを妨げる大声が頭の中で響き渡った。


『ここに居ちゃだめ。逃げて』

「……もう、身体が動かないの」


 眼を開けるのも億劫で、重い瞼を閉じたまま言ったけれど、


『だめだってば! ねぇほら、立って。逃げなきゃ』


 声はまるで身体をそうするかのように、リリアの脳を揺さぶり起こす。


「どこに? 逃げる場所なんて知らない」

『大丈夫よ。とにかく逃げてごらんなさいよ』

「無駄よ……一晩中、妖属と鬼ごっこしていられるほど、あたしは楽天的じゃないわ」

『だいじょうぶ。必ず逃げきれるわよ。何とかなるわ。世の中ってわりとそんなものよ』


 うっすらと眼を開いたリリアは、濡れそぼった地面に両手をついて身体を起こした。


「ねぇ。あなたは一体――」

『しっ……黙って』

「何? どうしたの?」

『静かにして。動かずに息を殺しててね』


 穴の中を動き回る音が聞こえて、リリアは身を竦ませた。


 もちろん奴らはずっと中に居たのだろうが、この不思議な声との会話に気を取られていて、迂闊にもそのことを失念していたのだ。


「やだっ……」

『大丈夫。信じて。いいって言うまで声は出さないでね』


 何があっても声を出さないように両手で口を押さえて、リリアが誰もいない宙に向って何度も頷いていると、醜い唸り声を上げながら妖獣が一頭小屋から跳び出してきた。


 身の丈は大柄な男性くらいだが、胸板は二・三倍もありそうなほど厚く、リリアの胴回りより太い毛むくじゃらの腕を振り上げて、小屋の中のもう一頭を威嚇しているようだ。


 リリアは慌てて漏れそうになった悲鳴を飲み込んだ。


 身じろぎも出来ない状況がこれほど苦痛だとは初めて知った。


(これだったら、大声を張り上げて逃げるほうがよっぽど楽だわ……)


 逃げることを諦めていた割に、心の中で文句を連ねながら息を潜める。


 興奮気味だった妖獣は、ふと何かを感じた様子で腕を下ろし、探るように辺りをきょろきょろと見回し始めた。


『大丈夫。見つからないから』


 頭の中で声が囁きかける。

 けれど、見つからないなど気休めでしかない。リリアは物陰に身を潜めているわけではないのだ。

 こちらから妖獣の姿が丸見えなのと同じく、小屋の脇に座っているだけのリリアの姿は、妖獣にもしっかりと見えているだろう。


『信じて。視えない。あなたの姿は視えない』


 まるで何かのまじないのように声が繰り返す。


 いつの間にかリリアも心の中で、自分の姿は見えないのだと何度も繰り返していた。

 

 しかし実に呆気なく。小屋からの明かりに照らされた知性の欠片も見受けられない醜悪な小さな瞳と、見つめ合うことになった。

 リリアは息を飲み、吐息までも押し殺した。


 どれ位視線を交わしていただろうか?


 ふいと視線を逸らした妖獣は、興味を無くしたかのようにあっさりと背を向けて、茂みの奥へと分け入り、そのまま暗闇の向こうへと姿を消して行ったのだった。


『ふぅ……もういいわよ』


 その合図でリリアは詰めていた息を吐き出した。


『中にもう一頭居るから大きな声は出さないでね』

「あたし、眼が合ったのに気付かれなかった」


 独語するリリアの呟きに、声の主が少しだけ笑った気がした。


『ね? 大丈夫だったでしょ』

「……ホントね」

『じゃあ、今のうちにここから離れて』


「ねぇ。あなたはどこに居るの? まさかあたしの頭の中に居るわけじゃないんでしょう?」

『やぁだ。人間の頭の中に入る趣味はないわよ。あなたに私を視る力がないだけよ』

「どういう意味?」

『言葉の通り。それより、もう行った方がいいと思うわよ?』


 朝までここに居たい。けれど、濡れた服を着てじっとしていたら、朝を待たずに冷凍人間になってしまいそうだ。


 渋々立ち上がったけれど、リリアの足はなかなか動き出さなかった。

 声の主が、たとえ妖属でも今のリリアにとっては、心強い仲間のような存在なのだ。


 同行者を一度に失った今となっては、進むべき道が前後左右どちらかさえ分からない。

 ソフィエルで生まれ育ち、サーザイル地方どころか村から出たのも初めてなのに、一人きりでイーザイルの街まで辿り着く自信もない。 


リリアはぎゅっと唇を噛んでつま先に視線を落とした。


「どこに行けば良いか……分からない……」

『行きたいと思った方へ行けばいんじゃないの?』


 リリアは駄々をこねる子供のように頬を膨らませる。


「だって……最初の一歩を踏み出す方向だって分からないんだから」

『だったら足を上げて、下ろした方向に進んでみたら?』

「……分かった。もう行くわ。色々ありがとう」


 微妙にかみ合っていない会話にため息をついて、リリアは渋々歩き出した。


「お腹が減っても食べるものはないけれど……」


 一歩進んだところで立ち止まり、振り向きざまにそう言ってみた。


『大丈夫よぉ。この森には食べられる草花がたくさん自生してるから。あぁそうそう。初めて食べる植物は、まず舐めてみることね。舌が痺れるようだったら食べちゃだめよ?』


 毒があるから。と続くのを聞き終えたところで一歩だけ進み、再び足を止めた。


「この後で妖属と鉢合わせたらどうしよう……」

『あなたは運が良さそうだから。何とかなるわよ』

「……それは心強いわね」


 ふらりと一歩だけ進んで振り返る。


「あぁそう言えば、あなたの名前を聞いてなかったわ」

『あら。名前は訊いちゃだめよ?』


 歩みかけていたリリアは、前のめりになりながら、上げていた足を元の場所に戻した。


「駄目なの?」

『だめなの』


「……そう。……何だか、あなたと話ができて、あたし、すごく元気になれたわ」

『それは良かった』


「ええ。死んだほうがマシだって思ってた自分が、馬鹿らしく思えてくるほどよ」

『そうね。自ら死にたいなんて思うのは確かに馬鹿よね? それより行かなくていいの?』


 歩く事を忘れてしまったのか、それとも歩きたくない本能がそうさせているのか、本格的に立ち止まっていたリリアを声の主が促す。


「そうね、もう行かなきゃ」


 言いながらリリアは、のろりのろりと歩き出した。


「見ず知らずのあたしなんかに親切にしてくれてありがとう。さようなら」

『いえいえ……気にしないで。さよなら』


「このままお別れするのが惜しい気がするけど、さようなら」

『……うね。……しいね……よなら』


「また会えるかしら? 会っていないけど……」

『……また……わよ……んきでね』


 次第に声が不鮮明になっていく、最初に聞いた時と同じ雑音が邪魔をする感覚だ。

 リリアは唇を噛んで足を止めた。


「……嘘ばっかり」


 再び会える確証など何もないのに。


「嘘ばっかり!」


 声は暗闇をわずかばかり震わせて、木立の奥に溶け込むように静かに消えていった。


 涙が頬を伝い落ちる。


 どうしてこのような目に遭わなければならなかったのだろう――


 少なくともヴァンは森に精通していたはずだし、妖獣は火を恐れるのではなかったか。

 不思議な声の正体も、身体を襲った異変も――分からないことばかりで、頬を伝う生暖かな涙の理由さえ。よく分からない。


 リリアはきゅっと唇を噛んで、手の甲で涙を拭った。


 考えても分からないことを、考えても仕方がない。

 リリアは前を見据えて、再び足を進めたのだった。



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