姿なき声・3
軽めですが、残虐&嘔吐シーンがあります。
ご注意ください。
「……ぁ……あぁ……」
手を口元にあてて、ぶるぶると身体を震わせながら後退る視線の先には、浅黒い、筋肉の盛り上がった、傷跡だらけの――恐らくほんの少し前までヴァンのものだった腕が転がっていた。
身体が硬直して、自分のものとは思えない呻き声を止めることができない。
(誰か……助けて……)
涙で霞む視線を辺りに彷徨わせる。
それに追い討ちをかけるように眼に飛び込んできた光景に、リリアは口を開け放った。
恐怖と戦慄が喉に蓋をして悲鳴さえ出せずに、ただ呆けたように立ち尽くすことしかできない。
炎に照らされた視線の先に、黒っぽい体毛で覆われた生き物がいた。
明らかに普通の獣とは違う。大人の人間のような形と大きさをしているが人間ではない。
(これが妖属――)
その中でも下級妖属と呼ばれる妖獣だろう。
逃げなければ殺されると本能が告げているのに身体が動かない。
こちらに背を向ける格好でしゃがみ込み、しきりに咀嚼を繰り返している様子から目が離せない。
突如、胃の底から酸っぱいものが込み上げてきて、リリアは慌てて口を押さえた。
けれど、我慢などできるはずもなかった。
涙を零しながら嘔吐する視線の片隅で、それはゆっくりと顔をこちらに向けた。
毛むくじゃらの顔に埋もれた二つの小さな眼が、リリアの双眸を捕らえる。
その瞬間、耳元まで裂けた口が微笑むように開いて、大きな赤い舌が口元で滴る黒い液体をぺろりと舐め取った。
「……ぅ……ぁあ……」
胃の中のもの全てを吐き出したリリアは、掠れる声で呻きながら踵を返した。
薪を放り投げて、泥水を散らしながら逃げ出した。
幸い追いかけてくる気配がないことには途中で気がついた。
けれど迫り来る恐怖から逃れるように走った。
いくら走ってもこの恐怖から逃れることはできないと、頭では分かっていても、足を止めたら気が狂ってしまいそうだ。
方向など気にする余裕はなく、ただがむしゃらに走った。
筋肉が悲鳴をあげ、跳ね上がった心拍数に心臓が破裂しそうになる。
そしてとうとう、上がらなくなった足を木の根っこにとられて、走る勢いのまま濡れそぼった地面に転がるように激突する。
「いっ……たぁ……」
ぶつけた後頭部を抱え込んで痛みを堪えていたリリアは、早鐘を打っていた心臓が何とか鎮まった頃、初めて小屋を見失ったことに気がついた。
泣きべそをかきながら辺りを見回すが、どちらを向いても同じ景色が続くばかり。
「どうしよう……アラベルさん……」
呟く声は木立を震わせ、やがて闇に融けていく。
しかし、ややあって。
大丈夫……
あたしは魔除けの護符を持っているから妖属に襲われたりはしない……大丈夫。
先ずは小屋を探して……それから……そうだわ、入口で火を焚きましょう。
朝になったら森を抜けて近くの街で助けを求めて……
リリアは足許から這い上がってくる恐怖を追い払うように考えを巡らせた。
きっと大丈夫と、自分に言い聞かせるように何度も繰り返しながら、アラベルの待つ小屋を探し始めた。
暗い森の中を、周囲の気配に細心の注意を払いながら歩いていると、身体の疲れ以上に神経が擦り切れるほど消耗する。
大声でアラベルの名を呼び、助けを求めたいと何度思ったか分からない。けれど、そんなことをしたら妖獣に自分の居場所を知らせるようなものだ。
護符を持っているとはいえ、そんな危険な真似はできない。
緑色に淡く光るあの植物が、自分に味方してくれると信じて――気を抜くと震え出す足を奮い立たせる。
どれくらい歩いただろうか。
足は棒のようになり、靴底から染みてきた冷たい泥水のせいで、つま先の感覚はとっくになくなっていた。華奢な身体はぼろぼろで苦痛しか感じない。
ほとんど惰性で足を動かしながら、かじかんだ指先に息を吹きかけ、辺りを見回していたリリアの視界が、暗闇にぼんやりと光る緑色を捕らえた。
近づくほどにそれは伏せた椀のような形状を現していく。
夕方に見た無人の方ではないことを祈りながらそちらへ向うと、植物の光とは違う、暖かな朱色の明かりが視線の先で揺らめいた。
「……見つけた」貼り付いていた唇から掠れる呟きが漏れた。
(きっと、あれだ)
安堵に胸が熱くなる。
込み上げてくるものを、歯を食い縛って堪えながら、間違いではないと、そう確信が持てるほど近くまで歩み寄ったリリアは、ふと耳朶をかすめた物音に足を止めて耳を澄ました。
「まさか……アラベルさん! アラベルさん大丈夫ですか!」
もう周囲のことなど気にしてはいられなかった。
リリアはアラベルの名を叫びながら一心不乱に小屋へと駆け寄った。
聞き間違いではない。
獣の唸り声と激しく争う物音が聞こえ、出入口から漏れる影に盛んに動き回る中の様子が窺える。
リリアは辺りを見回して拳ほどの石を見つけると、それを拾い上げて出入口から中を覗き込んだ。
しかし、妖獣の気を逸らすためにと握り締めていた石は、目的を果たすこと無くリリアの手からするりと零れ、泥を跳ね上げながら地面に落ちていった。
ごろりと一度転がって動きを止めた石を、リリアは見るともなく見やり、よろけながら二・三歩歩いて背中を外壁に預けた。
そのまま、崩れ落ちるように濡れた草の上にぺたりと座って、力の入らない両手をだらりと脇に垂らした。
顎を上げて虚空を見つめる瞳は何を映しているのだろう。
アラベルを助けなければいけないと思っていたのだ。
アラベルが身を守るために妖獣と争っているのだと思っていたのだ。
けれど、そうではなかった。
リリアが見たのは、肉塊を奪い合う二頭の妖獣の姿だった。