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姿なき声・1

 覚醒した途端、全身に震えが走った。

 もしかしたら寒さのあまり目が覚めてしまったのかもしれない。

 

 小屋の中は暗く、たき火には微かにくすぶる朱色が見えるだけだった。


 相変わらずヴァンがいびきをかいていて、途切れ途切れにジュリアとアラベルの寝息が聞こえる。


 とにかくこの寒さを何とかしなければと、リリアは冷え切った肩をニ・三度擦って、壁を伝いながら薪を取りに行く。

 そして、かろうじて燃え残っている火種に、薪の表面を細かく裂きながら少しずつ載せていった。

 ちろりちろりと紅い舌が踊り始めたのを確認してから薪をくべると、やがて熱気を孕んだ炎が燃え盛った。

 

 人心地ついたリリアは、座ったまま寝ていたせいで痛む首筋を揉みながら、夜の帳が下りた外へ出て新鮮な空気を吸い込んだ。

 

 雨は随分小降りになったようだ。この分なら朝には降り止んでくれるだろう。


 強張った身体をほぐしながら顔を上げると、切り抜かれた空に上弦の月が滲んだ淡い光を放っていた。

紫紺の空に凛然と輝く美しい姿。

 幾度と無く慰められた慈悲深い輝き。

 

 脳裏に焼きついたものとはどこか違って見える月を見上げていると、胸に熱いものが込み上げてくる。リリアは切なげに瞼を伏せて奥歯を噛み締めた。


 自分で決めたこととは言え、好きで娼妓になるわけではないし、望んで故郷を離れたわけでもない。


 気丈に振舞っていても――いや、振舞っていなければ、暗澹たる思いに押しつぶされてしまいそうなのだ。

 家族の暮らしが楽になるのなら、それは幸せなことだと。自分は不幸ではないのだと。

 

 思っていなければ救われない――


 暖かな涙がひんやりと冷たい頬を伝う。リリアは指先でそれを拭った。


(うじうじするのは性に合わないわ)

 

 冷え切った空気を胸いっぱいに吸い込んで、じめじめした気持ちを吐き出す。

「よし」と頷いて踵を返した。その時、


 不意に背後から誰かに声をかけられた――ような気がして、リリアは後ろを振り返った。

 けれど、どんなに眼を凝らしても人の姿は見当たらないし、耳を澄ましてみても、小屋の中を反響するヴァンのいびきと、雨音が聞こえるばかりだ。


(気のせいだったのかしら……)


 もう一度、樹木の陰や、茂みの奥へと眼を向けるが、やはり変わったところなど見当たらないように思える。


 気のせいかと、小屋へ入りかけたその時、再びあの声が耳朶を打った。


 否――頭に直接語りかけてきたと表現するのが正しいかもしれない。


 静か過ぎる夜中などに耳の奥の方で感じる耳鳴り。それに似た雑音に乗って誰かの声が、かなり不鮮明ではあったけれど、確かに聞こえたのだ。

 

 リリアは身体ごと後ろを向いた。

 しかし、雨音が繰り返し柔らかな調べを奏でるばかり。

 けれど確かに聞こえたのだ。助けを求める声のようだった。


 小屋へ戻り火の点いた薪を手に取ったリリアは、ほとんど本能のまま小屋の外へと出ると、松明代わりの薪をしっかりと握り直した。


 薪の火もこれくらいの雨であれば、少しの間なら消えないでいてくれるだろう。

 

 声がした方向など分かるわけもないが、リリアはまるで導かれるように足を進めた。


 時おり後方を振り返り、緑色の淡い光と、中から漏れる暖かなたき火の色を確認する。


 そして、どれくらい歩いただろうか。小石か、それとも地面にせりあがった木の根だったのか、不意に足許を取られて転びそうになったリリアは、短い悲鳴を漏らして、指先に触れた木の枝をとっさに掴んだ――刹那。

 

 激しい頭痛と、全身を針で刺されるような激痛が華奢な身体を襲った。


「ひゃあぁ……」悲鳴をあげて反射的に掴んでいた枝を放した。


 そして同時に、反対側の手に握り締めていた松明も手放してしまっていた。


 ぬかるみに顔から突っ伏したリリアの鼻先で、無常にもジュッという音をたてて火が消えていった。


「あぁあ。火がぁ…………それより今のは何だったのかしら?」

 

 リリアはのろりと起き上がって、頼りない月光の下、呆然となりながら自分の掌を見る。

 

「あぁ。泥だらけ……」

 

 泥で汚れた掌を、ドレスの泥の付いていない部分で拭いて、お行儀が悪いと思いながらも裾を捲り上げて顔を拭う。そして再びじっと見つめた。

 しかし、傷のようなものはどこにも見当たらない。

 

 もちろん、あの激痛がまぼろしだったかのように、今は痛みも感じない。

 唯一、転んだ際に打ち付けたらしい膝頭に、じくじくとした痛みを感じるくらいだ。


 とっさに握った枝がどれだったかは分からないが、その辺りの木の枝をいくつか指先で確認しても、トゲがあるような樹木は見当たらなかった。

 もちろんトゲがある木の枝を掴んだところで、先ほどのようなことにはならないだろう。


「本当に変だわ……」リリアは頬に手を当てて首を傾げた。


 すると再びあの声が語りかけてきた。


『……出し……げて……』


 今度は先程よりずっと鮮明に頭の中に滑り込んできた。


「……誰か……居るんですか?」思わずそう問い掛けたが、返答はない。


 リリアは辺りを探るように、きょろきょろと視線を動かしながら、再び足を進めた。


 不思議なことに、この時になっても恐怖心はどこかに身を潜めていて、小屋に戻るという選択肢は頭に浮かばなかった。


 そして、十数歩ほど進んだだろうか。今度は前触れなく、再びあの激痛が襲ってきたのだ。


「痛っ!」短く叫んで、リリアはその場にうずくまった。


 しかし、次の瞬間にはやはり、嘘のように痛みは退いてしまっていた。


 先ほどと同じだ。どこも何ともない。


(あたしの身体……どうしたのかしら?)


 不安になって小屋の方へ顔を向けると、赤みを帯びた光が点ほどの大きさで視線の彼方にぼんやり映るばかりになっている。


 身体のことも心配だ。そろそろ戻ろうかと逡巡していると、またも頭に声が響く。


『出して……れたら……』


「…………あなたは誰なの?」


 眉間に皺を寄せて、樹木しか見えない暗がりに向って訊いてみる。


 やはり森閑としたその空気を震わすものはない。


 いつの間にか葉をくすぐる雨音は止み、代わりに霧状の飛沫が視界を曇らせている。


「どこに居るの?」

「出してくれって。どこから?」

「応えてくれなかったら、出してあげられないわよ?」


 矢継ぎ早に問い掛けると『もう少し……』という声が返ってきた。


(もう少し? 先ってことかしら?)


 そう思い少しばかり進むと、ぼんやりと淡い緑色の光が見えてきて、やがてリリアたちが野営しているものより幾分か小振りな小屋が、はっきりとその姿を現した。


「そこにいるの?」


 出入用の穴はポッカリと口を開けている。声の主がここに居るのなら閉じ込められているわけではなさそうだが。

 縛られていたりするのかしら? などと思いながら、リリアはそろりと近づいて中を覗いてみる。が、中は真っ暗で何にも見えない。


「ここではないの?」


 言いながらリリアは、背中を丸めて小屋の中を覗き込んだ。


 不安定な体勢を支えるために、ほとんど無意識に小屋の外壁に手を置いた――その時。

 まるで雷に打たれたような衝撃が指先から、脳天とつま先へ向けて瞬時に駆け巡った。


 もちろん雷に打たれた経験はないけれど。


「きゃ――っ!」


 ほとんど声にならない悲鳴をあげると同時に、中から突風が噴き出して、華奢な体躯はあっさりと後方へ弾き飛ばされた。


 リリアは尻餅をついたまま呆然と小屋の出入口に眼を向けた。


(……何……なのー?)


 いくら能天気なリリアでも、こうまで怪しいことが続くと作為を感じずにはいられない。


 やはり妖属のせいなのだろうかと、急に恐怖心が頭をもたげだす。


「ねぇ。何のためにあたしを呼んだの?」


 涙声になりながら問い掛けるが、しかし暗闇に続く穴から答えは返ってはこない。


 リリアは出入口から眼を逸らさないように、じっと視線を据えたまま立ち上がった。

 ここではないのかもしれない。

 けれど、もうあの声の主を探す気にはなれなかった。


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