ズルファウスの森・2
リリアの実家は彼女が記憶する限り裕福だったためしがなかった。
それでも両親は知恵を絞り、極めて質素ではあったけれど、家族九人の生活はこれまで何とか成り立っていた。
けれどこの夏の干害は過去に類を見ない過酷なものだったのだ。
春に収穫していた小麦で何とか納税は出来たものの、一家が冬を越すだけの貯えは無く、挙句の果てには、人足として働きに出た父が、半月も経たないうちに身体を壊してしまう始末。
とうとう本格的に困窮してしまった家計を助けるため、リリアは働きに出ることを決意したのだった。
しかし、両親と弟妹の生活費、それに父親の薬代。
それは満足な教育も受けておらず、何かしらの技術も持たない彼女にとって、決して簡単に稼げる金額ではなかった。
けれど幸いなことに、リリアは十四歳の娘の価値を知っていたのだ。
そして、母親譲りの面貌は、整っている方だという自負もあった。
細くて柔らかくて、持て余していた蜂蜜色の毛髪も、常々『手入れを怠らなければ艶々な輝きで殿方たちを魅了するはずなのに。あぁ、もったいない』と、癖の強い赤毛のエミィに羨ましがられるほどだから素材は良いはずだ。だぶん。
成長不良で少々痩せぎすの体格の分を差し引いても、奉公人として働くよりはずっと高額を稼ぐことが出来るに違いない。
そう考えて自ら娼妓になることを志願したのだ。
当然、両親には猛反対された。
けれど、ではどうやって暮らすのだと訊けば、やはり二人とも口を噤むしかない。
直ぐ下の妹は九つ。それから八つの弟、六つの弟、四つの弟、ニつの妹、生後半年の弟。つまり貧乏の子沢山で、まだ乳を飲んでいる末弟を抱えて母は外で働くこともままならない。
どう考えてもリリアが働きに出るのが順当なのだ。
自分が不甲斐無いばかりに。と――嘆く父を慰め。
大切な娘を娼妓にする位なら自分がなる。と――無謀なことを言い出す母を説得して。
ソフィエルから遠く離れた東部イーザイル地方のキルビカという、王都に程近い都会の娼館で働くことが決まったのだった。
そして、仲買人のヴァンに買われて村を出たのが七日前の早朝。
詳しくは聞かされないが、それぞれ近隣の村から連れてこられた少女達、ジュリアとアラベルも、似たような理由でキルビカへ向っているらしい。
そして今は、ソフィエルのある南部サーザイル地方からイーザイル地方へ行く道中であり、二つの地方の境界にある、ズルファウスという巨大な森を抜けている所なのである。
森の中をどれくらい歩いただろうか。折り重なる枝葉を縫って、ぽつりと冷たい雫が落ちてきた。
舌打ちして歩く速度を上げたヴァンに置いていかれないよう、リリアは懸命に足を運んだ。
元々緩んでいた足許が段々とぬかるみを増して、歩く度に泥が跳ね上がりドレスの裾や細い足首を遠慮もなく汚していくが、そんなこと気にしてはいられない。
紺地が所々褪色して白っぽく毛羽立った薄っぺらなコートをびしょ濡れにして、更にドレスにまで沁み込んでくる冷たい雨水は、リリアの細い身体から体温までも奪っていく。
次第に歩みが鈍くなってきたリリアたちに、容赦のないヴァンの怒声が向けられる。
「グズグズすんじゃねぇ! もうちっと行きゃあ小屋がある、そこまで辛抱して歩きやがれ!」
乱暴な言葉を吐かれても、どんなに酷薄な人間であっても、今のリリアたちにとってはヴァンの知識と経験だけが頼りだ。
白い息を荒げながら夢中で進み、やがて少し開けた場所に、ぼんやりと淡い光が見えてきた。
近づいてみると、ソフィエルでも沼地の近くに見かける植物が、まるで絨毯を敷き詰めたように半球を描く建物の外面を覆っていた。
胞子で繁殖するというその植物は、暗くなると淡い緑色に発光する性質を持っていて夜道の目印になってくれるのだ。
ちなみに小屋というのは岩を積んだだけの簡素なものだった。
扉のない出入口がぽっかりと開いていて、どちらかと言えば洞くつや岩屋と呼んだ方が近いかもしれない。
小屋自体は大きく、中央の一番高くなっているところは大人の背丈ほどもある。
ヴァンは手にしていたランプで、小屋の中に獣や妖獣が潜んでいないかを注意深く確認した後、リリアたちを順に中へ押し込んでいった。
植物が外の冷気を遮っているのだろう。小屋の中は想像よりずっと暖かい。
中央部にはたき火をした痕跡があり、奥には薪が積まれている。
ヴァンは大きなリュックから、道具を取り出して手馴れた様子で火をおこしていく。
その間に着替えを済ませたリリアたちは、たき火の近くで膝を抱え無言で身体を温めた。
ソフィエルでは少女が三人も集まれば、それはそれはかしましいものだったが、ジュリアとアラベルは殊のほか無口だった。
当初こそリリアはあれやこれやと二人に話しかけたりしたのだけれど、
「うん」「ううん」「別に」といった気のない返事が戻ってくるだけの会話が丸二日続くに至り、普段は物事をあまり深く考えない性分のリリアにも、二人が今はお喋りを楽しむ気分ではないのだろうということに気付いたのだった。
旅の事情を考えれば無理からぬ話である。
そんな訳で、しばらく無言で炎を見つめながら、ようやく身体が暖まった頃を見計らったように、もそもそした食感のパンとチーズ、干した羊の肉がそれぞれに与えられた。
そして、それらを手渡したヴァンは、手枕で横になり羊肉を肴に酒瓶を傾け始めた。
ぱちぱちと爆ぜるたき火に眼を向けながら、パンとチーズを食べ終えたリリアは、羊肉を少しだけ歯で千切り、ぎゅっと眼を瞑りながら咀嚼して、水で胃袋に流し込んだ。
家畜の肉を食べ慣れていないせいか、リリアはこの羊の肉はあまり好きになれない。
口に入れた時に舌に広がる、ほんのりと甘みのある塩味はまぁまぁだけれど、噛み進めるうちに現れる肉本来の味には正直なところ泣きたくなる。
だからと言って、貧乏体質が遺伝子にまで組み込まれているらしい彼女のこと、大切な食べ物を残すなどということは、そもそも思いつきもしない。
干からびた羊肉にちびりちびりと噛り付いていると、嫌でも思考は故郷へと引き戻された。
少ない惣菜を取り合う弟たちは、時に力ずくで、けれど時には思いやりでそれを解決する。
言葉を覚え始めた末妹はお喋りに夢中で、彼女の皿の食べ物が忽然と姿を消す……といった怪奇現象が起こるのも珍しくなかった。
賑やかな食卓に並ぶのは質素な料理だったけれど、何より家族の笑顔がご馳走だったのだと、離れて初めてリリアは知った。
(あの少しガタつくテーブルでみんなと食事をする日は、きっともう来ないのね)
鼻の奥がつんと痺れてくるのを感じて、リリアは慌てて干し肉にかぶり付いた。
そうしながら、ふと周りに眼を向ける。いつの間にかみんなは眠ってしまったようだ。
最後の一かけらを水で喉奥に流し込んだリリアは、小屋の内壁に背中を預け、勢いを増す雨音とヴァンのいびきを聞きながらそっと瞼を閉じた。