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ズルファウスの森・1

 かび臭い土の匂いと濃厚な青臭さが、やけに鼻につきまとう。

踏みつけた小枝の折れる音に、鼓動が大げさなほど跳ね上がった。


 晩秋とはいえ背の高い常緑樹の密生する森の中はどんよりと暗く、おまけに昼間だというのに霧が立ち込めていてすこぶる見通しが悪い。


 視覚の代わりに研ぎ澄まされた他の感覚が、この森の不気味さをひしひしと伝えてくるようだ。


(それにしても……)


 生まれて始めて眼にした陰鬱な景色を見回して、少女は物語で読んだ漆黒の森というのを思い浮かべた。


 友人のエミィ・ロブサートに借りた本だ。


 農業を生業とする生家は貧しかったので、少女が読むことのできる本といえば、もっぱら魔物や物の怪、魔獣といった怪しげな生き物が登場する内容のものだった。


 つまり、エミィの嗜好が極端にそちら寄りだったのだ。


 それでも、娯楽と呼べるものの乏しかったソフィエル村での生活で、読書は少女のささやかな楽しみの一つであった。


 闇に潜む漆黒の森というのは、かなりの頻度でそれらに登場していたのだが、『闇の最奥へと誘うかのような森』というものを思い描くには、地平線まで見渡せる田畑の広がる土地に暮らす少女の想像力では、やはり限界があったようだ。


 いま足を踏み入れている森の不気味さたるや、体中に纏わり付くじめじめと湿った空気に胸が苦しくなり、不穏な生き物が息を潜めてこちらを窺っているような錯覚さえ覚えるほどだ。


 エミィがこの場に居たら踊りださんばかりに喜んだことだろう。


「おい。お前!」


 エミィにも見せてあげたかったわ。と残念に思いながら、不気味な静寂に潜む気配を探していた少女の耳に、野太い怒鳴り声が飛び込んできた。


 少女=リリア・キャラベルは大きな翡翠色の眼をぱちぱちと瞬かせた。


 未だ幼さの残る面貌と、柔らかな丸みに欠ける小柄な体躯。艶のない蜂蜜色の毛髪は、その量だけは豊かで、お下げに結ったそれが歩く度に平べったい胸の前で重たげに揺れている。


 ややあってそれが自分に向けられた言葉だと理解したリリアは、眼前で眉を吊り上げている男の顔を見つめ、「何でしょう?」と首を傾げた。


 四十がらみの仲買人=ヴァンは、抜きんでて長身というほどではない。

 しかし、無駄な贅肉のない引き締まった体躯とその所作には、どこか獣を彷彿させるものがあり、その体格以上に他者を怯ませる威圧感があった。


 落ち窪んだ黒眼でぎろりと睨め付ける眼光の鋭さは、さながら獲物を見据える野生獣のようだ。


「何をキョロキョロしてやがる? まさか逃亡の算段なんぞしてんじゃねぇだろうなぁ?」


 ヴァンは瞳に一際鋭さを加えて、ほとんど問い掛けには聞こえない低い声でそう訊く。


 見る。という本来の役割に加えて、酷薄である内を知らしめるために存在しているとも思える眼を見つめて、リリアは一応質問の形を取っているヴァンの恫喝に即答した。


「いいえ。そんなことは考えていませんけれど?」


 首を傾げて、鋭く細められた瞳を正面から見据えると、ヴァンの顔が不満気に歪んだ。

 けれどリリアはこの男が自分に危害を加えることはないと分かっている。だから怖いとは思わない。


 理由はもちろん、彼にとってリリアは大切な商品だからだ。

 思った通りヴァンは忌々しげにフンと鼻を鳴らしただけで、リリアの頬を叩くことも、髪を引きむしるようなこともしなかった。


 その代わりに愉快気に口元を歪め、リリアと、それから彼女の後ろで身を竦めている二人の少女に向って、地を這うような声音で意地悪く告げたのだった。


「逃げられるもんなら逃げてみろ。このズルファウスの森にゃあ小娘の血肉が大好物の妖獣が、しこたま棲んでいるからなぁ。隙あらばお前ぇらを喰らってやろうと、舌なめずりしながら様子を窺ってやがるはずだぜ?」


 ひひひ。という歪な笑い声に、少女達が同時にひっと声を漏らした。


(妖属は夜行性だったはずだけれど。あぁでも、こんなに薄暗かったら関係ないのかしらね)


 リリアはそんなことを考えながら、辺りに視線を巡らせた。


 このザイル王国には妖属といわれる、人とも獣とも異なる生き物が棲息している――らしい。


 暗く陰鬱な森や草木の生い茂る山奥には、中でも凶暴な妖獣が棲んでいる――らしい。


 そして、そのような妖属を、魔術で意のままに操る魔術師と呼ばれる人たちがいる――らしい。


 しかし、魔力を持たない者にとっては妖獣だけでなく、いたずら好きな妖精のちょっとした遊び心にさえ、時には重篤な怪我を負ってしまうことがある――らしい。


 数日前まではリリアにとっても『らしいわよ?』といったくらいの、ぶっちゃけ他人事でしかなく。どこか違う世界の話のようにも感じられていたそれらが、けれど、やはり現実のことなのだと、知識以前にこの森を歩いてみればよく分かる。


 当然、魔力など持ち合わせていないリリアには、母が持たせてくれた魔除けの護符だけが頼りだ。

 リリアは首から提げている護符を、コートの上からぎゅっと握りしめた。 


(大丈夫……この護符があれば安全だから)


 しかし、だからと言って逃げ出すつもりは毛頭ない。リリアが恐れなければならないのは妖属などではなく、逃げ出したことによって生じる違約金の方だ。


 実物を見たこともない妖属などより、契約証に記されていた莫大な違約金を支払わされることの方が数万倍も恐ろしい。


 貧乏に困り果て泣く泣く娘を手放した親に、それを支払う当てなどあるわけがない。

 そして何より自分自身で決断したことをみすみす反故にするなどありえない話だ。


「大丈夫ですよ。あたし魔除けの護符を持っていますから。さぁ皆さん行きましょう」


 二人の少女に向って笑うリリアを見て、ヴァンがぞっとしない表情をする。

 しかし、脅しの通用しない小娘相手に口を開く気も失せたのか、ヴァンは軽く鼻を鳴らして、見通しの悪い道の先に顔を戻したのだった。


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