悲しみの向こう側
「つまらねぇ夜は寝ちまえ。」
慶太の父はいつものように、
酔うと、この言葉を口にする。
慶太は物心つく頃から、
この言葉を知っていた。
慶太の父は酒癖が悪い。
慶太が17年間、
目の当たりにした人の中で
一番悪い。
慶太は今日初めて、酒癖の悪い父へ
”その言葉”について聞いてみた。
親子ではあるが、
慶太は、今にも懐に飛び込んできそうな
闘牛を相手にするかのように話しかけた。
「と・・・父さん、ちょっといい?」
動物の次の行動が読めないように、
17年間の親子関係でも、
酒に酔った父の行動は読めなかった。
「どうした。慶太。」
慶太の呼びかけに父は、
意外にも穏やかな瞳で答えた。
まるで闘牛から仔牛になったかのようだ。
闘牛は慶太の頭の中でのイメージで組み立てられただけの虚像であった。
「父さんがいつも一人になった時に言っている”その言葉”どういう意味なの?」
仔牛になっても、
ぼんやりと残る闘牛の虚像を払拭できない為、
父との会話をできるだけ短くしたいという願望が見え隠れするように、
単刀直入な質問だった。
「慶太。DNAは恐ろしいぞ。
俺の半分のDNAが入ってんだ。」
質問の答えになっていない。
だが、慶太にはこれ以上の
父に質問するエネルギーは残されていなかった。
「DNAかぁ。わかったよ。おやすみ。」
「おう。おやすみ」
父はタバコに火を点け、
居間には、蛍光灯とタバコの火だけが輝いていた。
ある夕暮れどき。
慶太の携帯が帰りの通学路にうまく調和して流れた。
(誰だろう・・・。)
慶太は制服のズボンに入っていた携帯電話を取り画面を見る。
画面には【櫻子】の文字が。
(あいつ、部活のはずじゃ・・・。)
太陽が沈みかける通学路に、
肌寒い木枯らしが吹いた。
「も・・・もしもし。どうした?部活は?」
慶太は、いつもとは違い少しばかり早口になった。
「休んだんだ。今日は慶太と話したいことがあって。」
櫻子はまるで自分が書いたストーリーを読み上げるように
言い淀むこともなければ、動揺した様子も声からは感じ取れなかった。
「いつもの公園で待ってるね。」
続けて櫻子は言う。
「わかった。」
慶太にはこの言葉しか頭の中には浮かばなかった。
沈みかけの太陽はすっかりと姿を消し、
残り光りのみが公園までの道を照らす。
公園までの道のりで、
ある程度、櫻子が口にするであろう言葉は
予想がついていた。
しかし、
その予想を裏切っていくれる事を
ただ願い、公園までの道のりをひたすら歩いた。
「櫻子!」
桜の葉が紅葉で色を変える木の下で櫻子は
寒さを押し堪えて佇んでた。
「話しってなに?」
慶太にとって、その言葉は
1+1=よりも簡単な質問だった。
答えはわかっている。
【3】と言ってくれる奇跡を信じていた。
しかし、
答えは【2】だった。
2年間の二人の関係はそこで終わった。
黒猫が目の前を通り過ぎるよりもあっさりとしたものだった。
慶太は、何も言わずに【2】を受け止めた。
二人は別々の通学路を歩み家に帰った。
櫻子と別れ1歩2歩3歩と歩くごとに、悲しみが掛け算のように膨れ上がっていた。
100歩ほど歩いた頃には、男のくせに情けないのはわかりながらも、
地面を一滴、また一滴と濡らしていった。
家に着くと、部屋にまっすぐ逃げ込んだ。
ベットの中に入り泣きじゃくった。
こんなに泣いたのは、
物心がつく頃の母が死んだとき以来だった。
何も考えずに、慶太は”あの言葉”を発していた。
「つまらねぇ夜は寝ちまえ。」
そのまま眠りについた。
次の日に、
眠りから覚めた、慶太は一つ気がついた。
父は母が死んでから、ずっとつまらねぇ毎日を送ってた。
この時初めて、父の気持ちを理解することが出来た。
~end~