第三十八話 「私だけは」
キツネの首が飛んでいく。
その光景は超スロー再生のように、隈なく、一瞬たりとも逃さないというように瞼に焼き付いていく。
……ああ、また恐怖するのだろうか。
そんな思考が過る。
確かな感触。人を斬るという感覚。
すべてが、初体験のように纏わりついて来る。
ゼノス兵の阿鼻叫喚すら、どこか遠い世界の出来事のようで。
血が舞い、首が飛ぶ。体は時を忘れたように静止し、やがて糸の切れた人形のように倒れ込む。
すべてがスローモーション。ゆっくりと、だが確実に、時間は流れ。
そして、自覚する。
――人を殺した、と。
魔術ではなく、この手に持つ剣で。
騎士としてならば当然の行いだろう。魔術師としても当然だろう。
だけど、俺にはまだ早すぎるとさえ思える。
齢15にて、人を殺すなんて。前世では考えられないことだ。
……ダメだ。このまま呆けていたら。
そう思い直し、唇を噛み締める。血が滲み、痛みで少しだけ冷静になれる。
口端を強引に持ち上げ、笑みを形作る。笑みは余裕の象徴、狂気を思わせることもできる。ここで絶やしてはダメだ。
そして現状の把握に徹する。
ゼノス兵は這這の体で逃げ出しているが、その中に一人だけ少し違う動きをしている者がいる。
俺は手を後ろに向け、前へと放り投げる。
「――追え」
瞬間、後ろに控えていた魔物が叫び声をあげて駆け出した。
魔物の動きは逃げるゼノス兵に拍車を掛け、あっという間に一人の軍人を残して逃げ去ってしまった。
俺は起きているゼノス兵がいないことを確認した後、大きく息を吐き出した。
「疲れた……」
「いきなり弛緩しやがって……」
俺の無様な有様に、最後に残ったゼノス兵のガルガドが苦笑気味に言ってきた。
緊張の糸が切れたのか、どっと疲れが寄せてきた。それに嫌な汗も吹き出している。
「名演技だぜ、魔導師様」
「ざけんな。二度と……ごめんだといいなぁ」
この後のユートレア共和国のことを思い出し、そう続けるしかなかった。
ガルガドは低く笑いながら俺へと近づいてくる。
そして後ろからも大きい気配が感じ取れる。ヨルドメアの本体だろう。
「……すまねえな、厄介ごと押し付けて」
「済んだことだ。それに、お前にはネリを育ててもらってる恩もある」
強がって笑ってみるが、余裕のできたガルガドには見抜かれるだろう。
事実、ガルガドは俺の笑顔を見ても表情を険しくするだけだ。
「はあ……こんな時くらい笑えよ」
「笑っていられるか。それに、将軍を殺しやがって」
「この方が、ゼノスに帰ってからお前に将軍職がいきやすいだろ」
「どうだろうな。オレは情が移ったらしいしよ」
「ハッ、黒の魔導師が人族だぞ。こうなれば将軍職はお前以外だと荷が重い」
「そうかもな」
はあ、ともう一度大きなため息を吐く。
剣を支えに立ってはいるが、今にも崩れ落ちそうだ。両足が地についているかすら怪しい、妙な浮遊感。
将軍を一撃で殺すほどの実力。50人相手に一切怯まない。魔眼持ち、魔物の使役、魔王の再来。
どれでもいい。どれか一つでも、ゼノス帝国が全面戦争を足踏みする材料になれば、どれでも。
俺は肩越しに振り返り、ヨルドメアを視界に納める。
「悪いが、数か月は魔物でゼノス兵を追い返してくれ」
『はぁ……わかった。その代わり、貴様が出て行けば勝手にやらせてもらうぞ』
「どうぞご勝手に」
ヨルドメアとの会話を、ガルガドが化け物でも見るような目で眺めていた。
その視線に気づき、目を細めながらガルガドを見る。
「何か?」
「とんでもねえな。本物の再来かよ」
「なんだっていいよ。ゼノスが攻めてこないなら」
「いや、ホントすまねえ」
そういいながら頭を下げてくるガルガドを、思わず目を見開いて眺める。
今度はガルガドが不服そうな視線を向けてきた。
「……言いたいことはわかるがな」
「なら言わなくていい。さっさと帰って獣帝に報告しろ」
「わかったよ。……あれはハッタリか?」
「違うよ。適当にゼノスを見通したとき、なんか豪華な家で風呂に入っている女の獣人がいたから獣帝かなって思ったんだ」
「あんまり不確かな情報で動くなよ」
「それを言えば、俺はこの衝突を防げなかっただろうぜ」
確かにな、とガルガドが返しながら笑ってきた。
まったく、ホント情報が嘘であって欲しかった。
「ああ、他国には魔王だってことは黙らせとけ。ばれたら潰す」
「はいはい。肝に銘じて」
ガルガドは呆れたように肩を竦めながら、体を反転した。
そしてキツネの死体に近づく。
「じゃあな、オレは帰らせてもらうぜ」
「その前に、そのキツネが持っているの、聖剣だろ?」
「……そうだが?」
「借りるぞ」
ガルガドの脇を抜け、キツネが腰につけていた剣を奪い去る。
その聖剣には見覚えがある。確か、アガイトとか言っていたオオカミの軍人が使っていた聖剣だ。銘はマジックアブソーバーだっけ。
「あ、おい!」
「ユートレアを通じて返すよ。下がってもらう名目に貸してもらう」
「……はあ、ったく。ちゃんと返せよ」
「知らん。ユートレアにはちゃんと渡す」
俺の返答を受けたガルガドは顔を片手で覆って首を振る。
まあ、確かにここで俺が持ち去ると、俺とユートレア共和国どちらが持っているのか怪しくなるよな。
だけど、俺は人から奪った聖剣なんて使う気はない。自分でダンジョンを攻略して手に入れてこそ、愛着がわくってもんだ。
今のこの聖剣なんて、死体がぶら下げていた強い剣程度にしか思わない。それにナトラの剣があれば俺は十分すぎる。
「……ホント、敵にしたくねえ奴に育ったな」
「時の流れは人を変えるんだぜ? そんなことも知らないのか」
「バカにすんな。……ああ、そうだ。ネリは極神流を神級まで修得したぜ」
「ほう、やっぱ剣バカなだけはあるな。……あ、俺は三冊目の魔導書を見つけたぜ」
「……心の底から戦いたくねえ」
ガルガドが嘆くようにつぶやいた。
まあ、確かに一国に相当する魔導師が、一国に3人もいたんじゃ勝ち目なんて一切ないだろう。
とはいえ、俺はその魔導師または魔導書をすべて集めるわけだが。
「安心しろ。魔導師は俺が全部一手に引き受ける。俺の許しが出たってことは、王国には魔導師はいない、ってことだ」
「そうかよ。その代わりに何がいるんだ?」
ガルガドが顎を手でさすりながら、ニヤニヤしてくる。たぶん、俺がいないと潰れるぞとでも言いたいんだろう。
だから、俺も笑みで返す。
「勇者だ」
「……勇者だあ?」
何こいつ頭大丈夫? 的な表情で問い返してきたので、無言で剣を振り回しておく。
ガルガドは難なく軌道を見切って最小限の動きで躱し、疑念の眼差しを向けてくる。
「御伽噺かよ。英雄譚ならもっと他にもあるだろ」
「悪いが王国は本気だ。まあ、その勇者がどこまでやるのかは知らないがな」
神を封印するほどの力なんて、ただの推測にすぎないし。
しかし、心配し過ぎることはないだろう。俺の知識ではね。
「おっと、こんなところで無駄な時間を過ごしている場合じゃねえ。俺は早速、北に向かうぜ」
「そうしろ。これでユートレアを退かせられれば、英雄だな」
「知られざる英雄だけどな」
おどけるように言い放ち、頭を差し出していたヨルドメアに飛び乗る。
着々と魔物使いとして経験を積んでいるな、なんて場違いなことを考える余裕は出てきていた。
「なんかあったら手紙二通寄越せ。一通はトロア村にいるアルバートって奴に宛ててな」
「信用できるのか?」
「俺はな。王都までだと時間がかかるんだよ」
俺はため息を吐きながら肩を竦めて見せる。
ガルガドは気怠そうに返事をした。
「じゃあな、“人食い将軍”」
「ああ、もう会いたくねえよ〈黒の魔導師〉」
お互い軽く手を振り合って、その場に同時に背を向けた。
☆☆☆
ヨルドメアに乗せてもらい、今度はかなり無理をして3日目の夜にようやく帰り着いた。
トロア村への出口にはイズモが落ち着かない面持ちで待ち受けていた。
少し出るのを躊躇い、遠くで眺めていたくなる表情だが、今はそんな余裕はない。
「マスター、大丈夫ですか!?」
「大丈夫だよ。それより北に行くぞ」
「で、でも血が……」
言われ、俺は自分の姿を見下ろす。
服には確かに血が付着していた。だが、今回俺は傷を負っていない。
……くそ、乾いたら取れにくそうだな。
「返り血だ。気にすんな」
「それって……」
イズモの頭に手を乗せながらも歩く足は止めない。
「良いから行くぞ。移動中に教えてやるから」
イズモは納得がいかないようだったが、それでも頷いて俺について来る。
トロア村には平常時よりも少し多めの自警団が見回っていたが、すぐには攻めてこないだろう。
約束を破れば、ネリの安全も考えてさっさと帝国に乗り込む気ではいるが。
自警団に混じってアルバートもいたので、呼び出して軽く顛末を話しておいた。
アルバートは難しい顔をしていたが、特に引き留めるようなことはしないでくれた。時間のない俺にはありがたい対応だ。
「すぐに行くぞ。かなり時間がない」
グレンが足止めをしてくれているとはいえ、余裕は一切ない。
トロア村とレギオン公爵地では、まだトロア村の方が近い。それでも急がなければ手遅れになる。
村の外れでガルーダを呼び寄せ、イズモと二人で乗る。
「ゼノスに動きがあったら、リリックに手紙か何かをもらえるはずだ。よろしく頼む」
「承知いたしました。微力ながらお力添えいたします」
アルバートの返しに苦笑しながら、ガルーダを羽ばたかせる。
そして、ゆっくりと上昇していき、やがて風を切って進み始める。
さて、どれだけの時間で国境まで行けるだろうか。
手遅れになる前だとうれしいのだが……グレンを信じていよう。
「……何があったんですか?」
終始そわそわしていたイズモが、堪えきれなくなったように聞いてきた。
顎に手を当て、少し唸ってから口を開く。
「とりあえず、寝ていい?」
「え、えと……」
俺が訊くと、困ったように視線を彷徨わせた。
実際、俺はゼノス兵にあってからここまで一睡もしていない。
眠ることもできないほどに、俺は何かに怯えている。まあ、この恐怖はエルフの里の初日に比べればマシだけど。
俺はイズモから視線を外して頭を掻く。
まだまだ日は昇りそうにないが、代わりに煌々と月が輝いている。
「……人を斬った。兄さんの剣で、確実に」
「……」
「相手は応戦する気ゼロ。でも放っておけば現状は変わりそうにない。だから斬ったんだけど……」
首をかしげるようにイズモを見る。イズモは未だ難しい表情を浮かべている。
口元を歪め、自嘲するようにして言う。
「本当に殺してよかったのかな、って怖くなってさ」
人を殺すと腹を括ったはいいが、その括りは殺した後まで締められていなかった。
解けてしまったその紐をもう一度締め直す勇気はなく。
情けなくも震え続ける手にはいつまでも重い感触が残っている。
「まあさ、これでゼノスは退いたよ? 退いたけどさ、殺さなくても退いたんだ。ただ、殺した方がより確実だろうっていう、ただの打算なわけでさ」
イズモの表情は固いままだ。
その視線は何を示しているのか、俺には分からない。
「……エゴなわけでさ」
目を伏せると、飛んでいくキツネの顔が浮かんでくる。
驚愕や恐怖や怒り、いろんな感情を込めた表情で……目は怯えていた。
当たり前だ。忠誠を誓っておきながら、それでもなお死にたくないと叫んだような奴だ。死を怯えない奴ではない。
殺すまでもなく、気絶でもさせてそのうちに聖剣を奪ってもよかったんじゃないか。
ガルガドに将軍職がいきやすいとはいえ、死にたくないという叫びはあの場にいた50弱のゼノス兵が聞いていたはずなのだから。
そうすれば、勝手に失脚してくれたかもしれない。
考え出したら止まらない。殺したという事実を否定するために、もっといい方法があったんじゃないかという思考が止まらない。
性質が悪いのは、その具体案までも出てきてしまうことだ。
今となってはどうしようもないことだが、それでも自責の念に駆られる。
もっと穏便に、殺すことなく、うまく切り抜ける方法があったのではないか、と。
「戦争は起こしたくない、けど、これで本当に起きないのかな? 本当にこれで合ってるのかな? 次の間違いはどんなのかな? って、考えなくもない」
「……合っているかは、私にはわかりません。でも、きっと誰にもわからないはずです。世界は結果で判断されますから」
イズモは俯き気味につぶやく。
……確かにそうかもしれない、けど。
だけど、ゼノス兵にとって結果は出てしまっているもので。
「私たちはまだ過程の途中です。今は気にせず、学園長の家に帰ってから考えましょう」
「……そうだな」
頷いてみせるが、どうも思考が追いつかない。
頭で理解はしている。今は少しでも早くレギオン公爵地に着かなければいけないことを。
だけど、もし着いた時に手遅れだったら? 間に合ったとして、ユートレア共和国の連中と落ち着いて話せるのだろうか?
また強硬な手段を使うのではないか、そんな思考がずっと回っている。
不意に、首に腕を回されて抱き寄せられた。
イズモの顔がちょうど見上げられる位置。
「大丈夫ですよ。たとえ世界がマスターを否定しても、私だけは絶対に否定しませんから」
イズモがニコッと笑って言う。
その言葉に、思わず言葉を失ってしまった。
俺はゆっくりと両腕で顔を覆うと、言葉を返す。
「……安い言葉だよなぁ」
「安い、ですか?」
腕で視界を覆っているため、イズモの顔は見ることはできない。
その代わり、声音から判断するに少し不満そうだ。
「私、本気ですよ」
「俺の中じゃ、安いの」
そう、安い。
前世だと、たいていの物語に書かれている言葉だ。
よく目にして、心の中で笑っていた。言うだけなら誰でもできる、と。
それと同時に思っていたこともある。
「……まあ、言って欲しい言葉ベスト3には入るけどな」
憧れていた言葉でもある。
言うだけなら誰にだってできる。でも、それを本当に言うのはかなり難しい。
それを知っているからこそ、安心する。
イズモが言ってくれたからこそ、信じられる。
言われた直後、急速に顔が火照ったのがわかる。だから隠したのだが、見抜かれていそうだ。
実際、イズモの忍び笑いが聞こえてくるのだから。
俺は唇を尖らせて不満顔をする。が、それすらもイズモの笑いに拍車を掛けただけだ。
「もういい。寝る」
「はい。おやすみなさい」
顔からどけた腕をついて離れようとすると、首あたりに巻かれている腕にぐっと力が籠められる。
「……離せよ」
「どうせならこのままで」
「…………」
笑顔のイズモだが、表情には強い意志のようなものが見えた。
……何を頑張っているのか。
俺は息を吐くと、離してくれそうもないのでそのまま寝ることにした。
不思議と、手の震えは取れていた。




