Ⅱ/陳腐
どれくらい経っただろうか。
気づいた時には、マテロフは意識朦朧となっていた。
恐怖はいつの間にか、消えていた。
もっといえば、そんな余裕はなくなっていた。
マテロフは確かに兵士として戦っていたので、通常の女性の何倍もの膂力はある。
しかしそれは一般男性兵と比べると、さすがに頼りないものだ。
マテロフはとっくに、限界を越えていた。
「ハァー……ハァー……ハァー……」
ただ執念だけで登り続けていた。
全身に滴る汗を拭おうともせず、僅かづつ、僅かづつ、体を持ち上げる。
もうその頭に"剣聖"も、クォンも、アレのことさえ無くなっていた。
ただ自分を変えたいと、その一心だった。
右手を上に、とっかかりに掛ける。
ベタベタに濡れた掌が、滑った。
「…………」
そのことにさえ、マテロフは気づかない。
そのまま重心は崩れ、身体は倒れていく。
あとは地面まで真っ逆さま。
そのことにさえ、マテロフは気づかない。
気づかず滑った右手を、再度宙空に突き出し、とっかかりを探ろうとする。
それは目的の為なら死んでもいいという、マテロフの覚悟を表しているようだった。
「よくぞ、」
その右手を、誰かが掴んだ。
「よくぞここまで、辿り着きましたね」
クォンは優しく、笑っていた。
次に目を覚ました時、マテロフは暗い洞穴の中にいた。
その時マテロフは、記憶が混乱していた。
なにがどうなってこうなっているのか、しばらく思い出せなかった。
「…………え、と?」
「お目覚めですか、マテロフ」
目の前に現れたクォンの姿で、徐々に状況を掴んでいく。
「あ、はい……あ。その……クォン殿」
「とりあえず、少し休みなさい」
そこへ、一杯の杯が差し出される。
湯気が出るそれを、マテロフは夢見心地で受け取る。
口をつける。
やたと甘いそれは、全身が痺れるほどに美味しかった。
この状況が現実とは、とても思えなかった。
「あ、ありがとうございます……その、私は……?」
「では約束どおり、私の仲間をご紹介しましょう」
唐突だった。
だからその展開に、当初ついていけなかった。
「え…………ほ、本当に?」
「イリプス、こちらへ」
「あぁ」
奥の暗がりから、新たな男が現れた。
「あ……」
思わず、声をあげるところだった。
その男は、信じられないほどの巨躯だった。
身長はもしかしたら2メートルを超えているかもしれない。
しかも角刈りで、上半身にはなにも身につけておらず――その瞳は信じられないほどに、敵意だけで満たされていた。
「あ、あの……」
「――イリプス=オムテイン」
ただ一言、自身の名だけをその男は告げた。
それだけで、その威圧感だけで、マテロフは圧倒されてしまう。
聞かされていたというのに、聞いたというのに、この男が"剣聖"ではないかと考えてしまうくらいに。
「わ、たしは……マテロフ=アルケルノと、いいます……」
しかしその言葉に、返答は無かった。
「――――」
ただじっと、値踏みするように見下ろされるだけ。
マテロフは次の行動を決めかね、無意識にクォンの方を向いていた。
クォンは先ほどと同じ笑みで、
「というわけで、よろしくお願いしますね」
「は、はい……よろしく、お願いします……」
「――――」
イリプスは、喋らない。
というより前に出てきてから、まったく動いてすらいない。
だからマテロフは、考える。
次を、どうしたらいいのかを。
クォンがなにを考えて、ここに連れてきたのかを。
「……あの、クォン殿」
「さて、マテロフ。あなたの望みは、なんでしょう?」
突然水を向けられ、マテロフは躊躇した。
「……私は、"剣聖"殿と、お会いしたいと思っています」
「それはなぜです?」
一瞬、わからなかった。
「……強く、なりたいから」
「陳腐だ」
それが誰の声なのか、最初わからなかった。
「……イリプス殿?」
「戦士であるならば、強さを求めるのは当然のこと。この戦乱の世なれば、それを考えぬ者などおらぬわ。それを女子どもが、そんな陳腐な理由で"剣聖"を求めるなど――
笑止、千万ッ!!」
一瞬、衝撃波でも生じたのかと思った。
「ッ、い、ぅ……!」
マテロフはその一喝に、両腕で自らを庇ってしまう。
イリプスは矛先を、バッテン頬の眼帯男に向ける。
「クォンッ! 貴様どういうつもりでこんな小娘を連れてきたァ!」
「意味なんてありませんよ」
いけしゃーしゃーとした言い回しに、ただの叫びに身を守ってしまったマテロフの方が、呆気にとられる。
「へ……?」
イリプスの怒りは頂点に達しつつあった。
「なんだとォ!? 貴様……"剣聖"様を、ぐっろうするかァアアアア!」
一気、背中の得物を抜き放つ。
それは背丈も程もある、巨大な鉈だった。
「オルァアアアア!」
「――ハァ!」
それにクォンもまた、背中から半月刀を抜き、応える。
しかし如何にクォンもまた鍛え抜かれた体格を誇るといっても、あまりにも両者の体格、そして獲物の大きさが違い過ぎる。
一瞬マテロフは、イリプスの巨大な鉈に真っ二つにされる惨劇を想像した。
キィン、という過去聞いたことがないほどの澄み割った音が響いた。
「ふぅ……」
しかしクォンは、以前と変わらない姿でそこにあった。
両手で、振り下ろされる大鉈を、その手に持つ半月刀で――いなし、地面に突き刺させていた。
「まったく、勘弁してくださいよイリプス。いきなり殺す気で打ってくるなんて、危ないでしょう」
「――フン」
そんな軽い対応に、しかしイリプスは追い討ちは加えなかった。
加えず、そのまま身を翻して、引いていく。
クォンはそれをなにも言わずに見送る。
マテロフは事態に、まったくついていけずにいた。
「…………あの?」
「イリプスは堅物でね。打ち解けるまでには、時間が掛かると思う。まぁ気長にやるといいさ」
といわれても、まったく打ち解ける気はしなかったが。
「は、はい……その、それで、私は?」
「お前は指示されないとなにも出来ない子供か?」
その辛らつな物言いは、最初襲われた頃を髣髴とさせるものだった。
それにマテロフは、恐縮する体裁を捨てた。
そうだ。
最初から学ぼうではなく、奪いに来たはずだ。
「――違う。私は、私は……」
「うまく言葉には出来んか?」
「――――端的に、いう」
マテロフは、覚悟を決めた。
どう思われようが、結果どうなろうが、知ったことか。
アレを見習え。
アレを目指せ。
それが最初から、自分で考えていたことだ。
「私は、"剣聖"に取って代わりたい」
物凄まじい殺気が、洞穴の奥から放たれた。
一瞬またあの矛で襲われるかと生唾を呑み込み、
「──私の友が"剣豪"を打ち破り、さらに"剣王"と打ち、分けたという」
「ほう……」
クォンの目が、細まる。
目踏みされていると感じた。
急になにも、怖くはなくなった。
「正直、悔しかった。負けたと思った。そいつとは兼ねてより対立していて、軽蔑すらしていたから余計自分の価値が失われたと感じられた、と。
しかし、そうではなかった。
その友が、アレ=クロアという少女を連れてきた。最初は薄汚れた孤児だと考えていたが、彼女はその強い意志で人々の心を変え、遂には独裁者であった国王を、討ち取ってしまった」
「…………」
奥から、イリプスの聞いている気配が感じられた。
他人を踏み台に使っているようで、少しだけ気が引けた。
だがなりふり構っていられないのも事実。
そう、無理矢理納得することにする。
「彼女は、世界を変えたいといった」
奥歯を、噛み締める。
「最初私は、世迷いごとだと、むしろ彼女を諌めるようにした。しかし彼女は屈しなかった。そして友は高名なる両名と、先に述べた実績を作ってしまった。間違っていたのは……諦めていたのは、私のほうだったのだ。
許せなかった。なによりそんな自分が。変えたかった。
そして彼女の剣になりたいと、強く願った。
その為なら、この身この命を、捧げてもいいと」
唐突に、言いたい事はすべて終わってしまった。




