Ⅲ/怖くなかった
アレは、理解できなかった。
ただ何を思うでもなく、スペロの眼光を見つめていた――いやその瞳の闇に、囚われていた。
恐ろしい、と初めて思った。
死の経験は、既にある。
あの硬くて太くて冷たい金属を、身体を無理矢理開かされ、強引にネジ込まれたことが。
だから知っている。
あの、自分の体が、命が、魂が――すべて蹂躙されていく、感覚を。
だから怖くなかった。
知っているから、もう一度あれに晒されるとして、それは一度無くして奇跡的に拾えたものが、また掌から零れ落ちるというだけだから。
それが神の御心だというのなら、従うことにいささかの抵抗も惜しむ気持ちも、感じ得ないだろうから。
だけどこれは違った。
──自分の手足が、捥がれる?
「あ……あ、ぁ……」
首が――分かたれる?
想像してしまった。
その瞬間、アレを堰き止めていたものが凄まじい勢いで、あふれ出した。
「あ……あ――――――――――――ッ!」
怖かった。
怖かった怖かった怖かった。
怖かった。
「ギャハハハハハハ! どうしたよ、やっと悲鳴あげたな? あん? そんな足してるからとっくだと思ってたけどよ……お前、切った切られたしたことねぇなァ?」
「あ、あ……ア……!」
背筋がゾクゾクと、痺れる。
手足がガクガクと震え、抑えようもなかった。
心臓が爆発しそうなほど鳴動している。
怖い。
アレはただその一色の感情に支配された。
どうしようもなかった。
この感情を喚起させている対象から物理的に離れる以外、逃れる術はなかった。
ただ無様に、ズリズリと後ずさりする。
無常ほどアッサリと、スペロはその間合いを詰める。
覗き込む。
「オイオイつれねぇなァ……そんな露骨に、逃げるなよォ?」
「ハッ……ハッ……ハッ……ハッ……!」
動悸が激しくなる。
ただ怖い。
逃げたい。
ベト、ベトはどこ?
助けて。
怖い。
なに、この人?
怖い。
今までこんな風に思ったことはなかった。
手足を捥ぐって……ウソだよね?
怖い。
首を切り離すなんて、そんな……そんな……!
「ハッ、ハッ、ハッ……ア――――――――!」
「ヒャハハハハハ! イー声で鳴くナー、お前ッ!」
ぞぶっ、と変な音がした。
「イぃッ!?」
喉から変な声が漏れる。
体が引き攣るような、奇妙な激痛。
視線を下げると、
「あ……あ、あ……!」
自身の左肩に、ナイフが深々と突き立てられていた。
「――どうだ?」
ぐりっ、と捻られる。
「あ!? ッ、ぅ……!」
肩の皮が、肉が、骨まで――引き攣り、変形する――!
「痛いか?」
粘着質な笑みが、恐怖を倍増させる。
なんでこの人は笑いながら、人を、傷つけることが出来るのか──?
「な……ん、で……ッ?」
「まだ足りねぇか?」
奥まで。
「ギッ!? あ、か……ゔぅう……!」
肉を抉り、神経を裂き、骨まで削られるようだった。
その痛みは脳天から爪先まで貫き――思考を、奪った。
「あ……あ、ぁ……あああア!!」
「いーイ表情だ? いいねぇいいねぇ、生まれも誇りも思考も、なにもない。ただの生き物としての本能に支配された顔……あ”ぁ、たまんねぇ。お前のこと、好きになれそうだよォ……」
スペロはべろりと舌を出し、それでアレの頬を舐めた。
その繊細で柔らかな感覚に、スペロは恍惚とした表情を浮かべる。
「ぐ、ふふ、うははははは」
「あ、っ……は……?」
しかし当人であるアレは、不思議な感覚に陥っていた。
「ぐ、ゥ……す、スペロ……さ、ん?」
ほとんど視覚すらまともに機能しないまま、うわごとのように言葉を紡ぐ。
それにスペロは、眉をひそめた。
この状態で言葉を出す、出そうとする人間など、見たことがない。
「あん? どうしたよ。あんまりにあんまりな痛みで、ぶっ飛んじまったか――」
「……寂しいん、ですか?」
ナイフを動かす手が、止まる。
「…………なに、言ってるんだ?」
「い、や、あの……ハッ……間違ってたら、ぐ、申し訳、ないんですけど……その、」
アレは手足を痙攣させさせながら、自信なく言葉を紡ぐ。
「――――」
スペロはただ、じっとアレを見つめた。
アレからはそれ以上のアクションはなかった。
それから数秒して、スペロは無言でナイフを抜いた。
「アッ……く、ぅう!」
アレは呻き、その場に蹲って、傷口を抑えた。
それをスペロはその場に腰を下ろし、頬杖をつき、無表情に見下ろしていた。
「ハッ、かっ、っ……す、スペロ、さん……」
「なんだ?」
「あの……血が……血がたくさん、出てるんですが……」
「そうだな」
「その……これってわたし、死んだり……しません、でしょうか?」
「そうかもな」
「!?」
アレは目を見開き、キツく傷口を抑える。
しかしその程度でその出血が完全に止まるわけもなく、足元は血だまり地獄と化す。
「あっ、あ、あ……あの?」
「なんだ?」
「その……出来ればあの……わたし、死にたくは、ないんですけど……」
「そりゃ災難だったな」
「! ……や、いや、あの……もしよろしければ手当てなど……して、いただけないかと……」
スペロは目を、細めた。
そしてじっ、とアレを観察する。
「…………」
しかしそこに、こちらを誑かそうとする意図を見つけることは、出来なかった。
「……本気で、言ってるのか?」
「も、もしよろしければなんですが……その……」
ゆっくり、横向きにアレは倒れた。
「あ、あれ……?」
そのまま抑えていた手が、離れる。
アレは気づく。
力が、入らない。
それになんだか妙に、眠い――
「す、スペロ、さん……」
「だからなんだ?」
「あ、あの……わたし、なんだかとっても、眠いんですけど……」
「だったら寝ればいいんじゃないか?」
「いえ、でも……なんだか眠ってしまったら、とってもマズイ気がするんですけど……」
「あぁ、死ぬだろうな」
「! そ……し、死ぬわけには……いかないんです、けど……」
「死ぬのは怖くないんじゃなかったのか?」
胸がドクンドクン、と脈打った。
そのたびポンプのように傷口から血が噴き出す。
手先が冷たい。
頭が真っ白になる。
考えている余裕は、まったくなかった。
「死ぬ、のは、怖くありません……」
「じゃあ死ねばいい」
スペロの言葉は単純で、無感情で――それゆえとても、残酷だった。
怖い、と素直に思った。
「でも……なにも出来ずに死んでもしまうのは……ほんとうに、怖いんです……」
「なにがしたい?」
「わたしは……世界を、変えたい……」
「出来るわけないだろ」
「なん、で……?」
「こんなどこぞと知れない森の奥で、ナイフ一本で殺されかけてるっていうのに、夢見るなよ」
血が、止まらない。
だくだくと、まるで命が吐き出されるよう。
目が、霞む。
もうなにも出来ない。
言葉さえ、出なくなる。
そう実感して、アレは最後に言葉を紡いだ。
「スペロ、さん……」
「なんだ?」
一拍の間。
スペロは最期になるだろう言葉を、待った。
たぶん、命乞いだろうと思って。
「世界を……救って……」
アレは瞳を閉じた。




