Ⅱ/冗談にしては笑えない
もう、陽も昇り始めていた。
「……アレさん、遅いですね?」
「そうだな……」
しかし未だ、アレが降りてくる気配はない。
疲れていたのかとも考えていたが、さすがに気になる。
なにか、あったのか?
「様子を見に行くか……」
「私も行きましょう」
二人揃って、階段を上った。
嫌な予感が、ベトの背中を這い上がっていた。
いつもそうだ。
これから、という時に足元を掬われる。
大貴族の警護を果たし、意気揚々と大金をせしめようというところで、大雨による足止めを喰らい、その後起こった政界のうやむやでなかったことにされたことがある。
なぜ今それを思い出すのか、気にしないようにしていた。
果たしてアレは、部屋にいなかった。
「…………」
しばらくベトは、一歩も動けなかった。
頭が、真っ白になっていた。
別に特筆すべき事態という訳でもない。
今まで傭兵として生きてきて、こんなことは日常茶飯事だ。
だからいつでも、今生の別れを覚悟して。
その瞬間を愉しく、後腐れなく――
「ベトさん」
ベリファニーの声が、遠くに聞こえた。
「あ、あぁ……わりぃ、どうもアレ、どっかに行っちまったみたいだな……」
「お気を確かに?」
なんでそんなこと、言うんだ?
「あ、あぁ……大丈夫だ。こんなこと、慣れてる。別にアレがどこかに消えたからって、オレの人生に大きな影響があるわけでもない。あぁ、別に大したことじゃないさ。だってあの子は自分の食い扶持ひとつ稼げないわけだから、ひとりじゃ……」
「大丈夫です。攫われた、というだけで、殺されたと決まったわけではありません。それにアレさんは魔女です。そんな簡単には……」
「なにいってるんだ、あんたは?」
ベトは改めて、ベリファニーに向き直った。
ベリファニーの瞳に、余裕はなかった。
鉄壁の笑顔は、消え去っていた。
「……お気持ちは、察します。ですが、今はとにかくアレさんの消えた先を探ることが先決です。とにかく落ち着いて――」
戸惑う。
「だからなにを言ってるんだ、あんたは?」
「だって、」
ベリファニーは、ベトの両肩を掴んだ。
突然の接触に、ベトはベリファニーの真意を図りかねる。
「なにが……」
「だってベトさん……震えてるじゃ、ないですか?」
言われて初めて、だった。
ベトの身体は小刻みに、震えていた。
「あれ? ……な、なんだコレ? ハハ、ンだろうなコレはよ? 今日、さみぃか? ……ンなわけねぇよな。意味わかンねぇな、ハハハ……」
「大丈夫です」
突然のことだった。
前触れなく、ベトはベリファニーに抱き締められていた。
咄嗟のことに、なんのリアクションをすら取れない。
ただ言葉だけが口から漏れる。
「──どうしたんだ、あんた?」
「アレさんは、きっとまだ死んではいないと思います。信じましょう……まだあなたたちの未来は、終わってはいません」
「あんた……」
「だいじょうぶ……だいじょうぶですから、だいじょうぶですから……」
気づいた。
この女は、オレにではなく自分自身に言い聞かせている。
それはたぶん、過去味わったトラウマ。
それが刺激されて、この女の本性を曝け出しているのだろう。
「そうか……大丈夫か、オレは」
「大丈夫です、あなたたちは……」
自然、震えは止まっていた。
修羅場など、数えるのも面倒になるほど潜ってきた。
後の問題は、わかりやすく救出か。
まったく、またも金になりやしない仕事か。
嫌になるな、本当に。
「……ベトさん、大丈夫ですか?」
落ち着いたのかベリファニーは離れ、ベトの顔を覗き込んだ。
ベトは既に、落ち着きを取り戻していた。
ベトは既に、するべきことに──燃えて、笑顔を浮かべていた。
絶対逃がさない。
「あぁ、大丈夫だ。とにかくアレを探さないとな。しかし……」
心当たりがない。
こんな魔女の森の館、人攫いの類が来られるような場所ではないだろう。
一体どんな輩が、どういう目的で――
「大丈夫です」
その意図するところが今までと違うだろうことは、すぐに理解出来た。
「……どういう、意味だ?」
確信を越えて、もはやそれは告白に近かった。
いやむしろ懺悔か。
「アレさんは、おそらく彼と一緒です」
ベトはその名を口にしていた。
「……スペロ=シティアータ」
*
アレは真っ暗闇の中、どこかに移動していた。
しかし自分自身は足を動かしているわけではない。
胴に手を回され、まるでモノのように運ばれている。
しかも言葉一つ発せない。
猿ぐつわを噛まされているようだった。
「…………」
アレは、慌てなかった。
暗闇の中、身じろきせずただされるがままに任せている。
自身の無力は、痛いほど自覚していた。
そんな時、アレは抵抗の無意味を悟った。
下手な行動は、事態を悪化させる。
一段落着くまで、原因と対策を考えるようにしていた。
なぜ今自分は、こういう状況に陥っているのか?
「――――」
アレには、心当たりがひとつもなかった。
というか起こった様々な出来事の中、心当たりがあったことなど一つもない。
だから原因を考えるのは早々に諦めた。
諦めて、次の指針に向かった。
実際、自分はどうするのがいいか?
「…………?」
つい、アレは首を傾げてしまった。
わからない。
実際こうなってしまったら、自分に出来ることなどない。
となると考えるのは、解放された後。
「……ほひはへふ」
ピタッ、と止まった。
「――――」
アレは直感的に、しまったと思った。
間違えた、というか考えが口からだだ漏れてしまった。
どうしよう。
どうしようもない、覆水盆に帰らず。
こうなればもうどうこう考えても仕方ない。
なるようになれ。
アレは暗闇から唐突に、解放された。
さらに猿ぐつわも乱暴に外される。
「いっつ……!」
その際唇を引っ掛けて痛みに顔をしかめていると、
「いま、なんて言った?」
目の前に、真っ暗な人間。
その像はこうなる前に見た最後の光景と、一致していた。
悠長に痛がっている場合じゃない。
「っ、う……あの……どなた、でしょうか?」
恐る恐る尋ねる。
それに真っ暗な人間は、眉をひそめたような気がした。
暗闇から目が慣れてくると、その人物はすべてが真っ暗なわけではなかった。
その左半分だけが、暗闇に、覆われていた。
思い出した。
「スペロ……シティアータ、さんでしたっけ?」
「そうだ」
「あの……申し遅れましたが、アレ=クロアといいます。その、初めまして――」
「冗談にしては笑えないな」
スペロの瞳は、どこまでも濁っていた。
まったく底が見えない。
それはアレが初めて相対するタイプの人間だった。
少しだけ、怖いと思った。
「その……冗談じゃ、ないんですけど……」
「なら俺はどう応えたらいいんだ?」
真っ直ぐ、スペロは見つめてきた。
アレはなんとなく、黒く染まった瞳を見返した。
そこに、光は感じられなかった。
まともに見えて、いないのだろうか?
思わずアレは、その前に手を翳していた。
「?」
振ってみたが、やはり反応はない。
ということは、こちら側は――
「……おい、お前」
「あ、はい。すいません、なんですか?」
スペロからの問いかけで、我に返る。
スペロはなぜか、ため息を吐いていた。
「……なかなか胆がすわっているな。怖くはないのか?」
「死ぬことは怖くありません」
真っ直ぐその顔を見つめ――ようとした次の瞬間、地面が目の前にあった。
「え」
まともに驚く暇もなかった。
アレは顔面から、地面に激突していた。
「ハッ……く、ッ……ぅヴ!!」
まともに声も出せないほどの衝撃──激痛。
久しぶりの感覚だった。
最近はすっかり、お姫さま扱いがデフォルトになっていた。
だから咄嗟になんのリアクションすら、取れなかった。
鼻の骨格とか細胞とかそういった構造が潰され、崩れ、そこからダラダラと真っ赤な液体が粘着質に垂れるのが、見える。
「どうだ?」
その問いかけからは、無数の意味を読み取ることが出来た。
「――――」
だからアレは、なにも答えなかった。
それに答えられなかったというのも実際だった。
痛みと衝撃で脳が揺れているのか、頭がクラクラする。
両手で地面をついて、立ち上がろうとする。
しかし杖がないことに気づき、とりあえず片膝だけついた。
そしてスペロの瞳を、見上げた。
「どれがいい?」
一瞬意味が、捉えられなかった。
「右手右足左手左足、どれがいい?」
声が、詰まった。
「な……に、を……?」
声が掠れる。
スペロの声は、深淵からの呼びかけのようだった。
「それとも首がポン、と気持ちよくがいいか?」
その想像に、無意識に体が引いてしまった。
醜悪なほどのニヤケ面が、追随してきた。
「どれがいい?」
「や……あ、その……」
「どれがいいよ右手チョッキン左手ザックリ右足スッパリ左足ドッパン首チョンパ、どれがいいよどれがいいよどれがいいよホラ選べよ死ぬの怖くないんだろ? 手足首どれを失うのもいとわないんだろ? ホラホラホラホラ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ選べ――――――――――――――――ッ!!」




