Ⅰ/理不尽
朝目覚めると、ベトは傍にいなかった。
それに一抹の不安が過ぎる。
けれど昨晩の出来事が、胸に残っていた。
彼はきっと、もう自分を置いてどこかに行ったりしないだろう。
それは縋っていただけかもしれない。
けれどうまく言葉に出来ない自分には、ただそう思うしかなかった。
ベト。
想って、疑問を抱いた。
自分は気づけば、ベトのことを想っていた。
ベト。
いつも、そう。
ベトに出会う前――はそう、おばあさん。
それに、理不尽な世界。
虐げられる子供たち。
暴れる男の人。
四角い、閉じ込められた部屋――
怖かった。
男の人が。
それがずっと、自分の考えだった。
なのにベトは、わたしは――
ベトが、
「わたし、ベトが……」
好きだといった。
愛してるといった。
――本当に?
「わたし……?」
ベトのせいだった。
ベトは、自身のことがわかったと語っていた。
嬉しそうに話してくれた。
それを聞いたせいで、つい自分でも考えてしまった。
「わたしって……なんなんだろう?」
なんにもない。
わかってた。
とっくに理解していた。
だって自分はおばあさんに、依存していた。
なにもかも任せていた。
自分では一切、選択してこなかった。
だからおばあさんを、あの閉じられた世界を奪われた時、自分に残っているものなんてなにもありはしなかった。
これはツケだった。
それは誰にも責任を問うことは出来ない。
すべては自分のしてきたこと。
その結果を誰かに責めることは出来ない。
そして今――
「わたしは、神様に……」
その存在意義を、委ねている。
一度殺された。
そして神に、その命を救われた。
だから神の意思の代行者として、使命を遂行している。
難しい言い回しはおいても、アレはそのようなことを考えていた。
自分がいない。
どこにもいない。
自分ですら、アレ=クロアという人間がどんな人物なのかまったくこれっぽっちも説明出来ずにいた。
「……自由?」
ベトの言葉を、アレは思い出した。
自由。
それはとてもいい響きだった。
それに、憧れた。
なにに縛られることもない。
ただやりたいように、やりたいことを行う。
一瞬。
そんな風になれたら、というイメージが頭を駆け抜けた。
「出来るかな……?」
自由に、思うがままに――大好きなベトと、生きていく。
それはあまりに眩しいイメージだった。
眩しすぎて、まともに目も開けていられないくらいだった。
それが可能なら、どんなに素晴らしいだろう。
それが叶うなら、きっとどんな困難だっていとわない。
きっと自分はすべてを賭けられる。
「そんな日が……くるといいなぁ」
アレはそんな妄想に浸り、床から起き上がった。
そしてゆっくり歩いていき、ドアノブに手を掛ける。
そうだ、この考えをベトに話そう。
そしてベリファニーさんにも話してみよう。
どんなことを言われるだろう?
きっとベトなら、喜んでくれるはずだ。
ベリファニーさんは、びっくりするかもしれない。
楽しかった。
今までで、一番なくらい。
世界を変えて、そのあと自分たちは、きっと――
ドアの先に、黒い影を見つけた。
ベトはベリファニーと、一足先に朝食をとっていた。
最初はアレも起こして一緒にと考えていた。
しかしその寝顔があまりに安らかで、声をかけるが躊躇われた。
いい夢見てるなら、邪魔するいわれはない。
「どうしたのですか?」
一瞬誰に声をかけられたのか、ベトは理解できなかった。
「……いや、なんでもないが?」
視線を送ると、ベリファニーは貼り付けたような笑顔をこちらに向けていた。
それにベトも、ニッコリ笑い返す。
鉄の笑顔が、吹き飛んだ。
「――なにをしているんですか、あなたは?」
「いや、笑いかけられたから笑い返しただけだが?」
「……どういう心境の変化です?」
驚愕の表情に、ベトは今までの無意味を悟った。
それだけの、ことだった。
今まで難しいと考えていた事も、自分が少し理解しただけでここまで世界は表情を変える。
敵だ。
殺す。
そう考えれば世界が微笑みかけるわけもない。
それだけのことに気づくのに、ずいぶん長い月日が掛かったものだ。
「…………なにか、あったようですね」
「いや、大したことじゃない。ただ……ちょっとしたことに、気づいただけだな」
「話し方まで、変わりましたね」
「そうか?」
自身では、知覚出来ない。
視えている世界は、思っていたよりも狭かったようだ。
ベリファニーは麦粉焼きをもうひと欠片口へ運び、再び笑顔を纏う。
「いい、変化だと思います。心の氷を溶かしたのは、アレさんですか?」
「まぁ、そうだな。別に昨夜なにがどうというわけじゃなく……そうだな。会ってから今まで、様々な、な」
あまり深く話すことでもないだろう。
ベトは薄口の山菜スープに口をつけた。
「あなたにとってアレさんは、救い主になったようですね」
「救い……?」
「違いますか?」
問われ――ベトはすぐに考えるのを、やめた。
「そうだな」
「やはり、変わりましたね」
「そうかもしれないな……いや、そうなんだろう」
「その変化は、あなたにとって好ましいものですか?」
「悪い気分じゃない」
そう。
それはベトの本音だった。
悪くない。
というか胸の中に溜まっていた澱が、跡形も無く消え去ったような。
こんなことが在り得るなんて、想像すらしなかった。
「素敵ですね。そんなことが、起こるなんて……」
「その通りだな」
クソみたいな人生だった。
生まれてこないほうがマシだったと思えるような。
だからいつ死んでもいいような生き方をしてきた。
だけど今は、死にたくない。
生きていきたいと考えている。
「アレさんを、絶対に見失わないでください」
切実な響きを、そこで受け止めた。
ベトは思わず、視線を合わせた。
「……どういう、意味だ」
ベリファニーは、笑っていなかった。
笑わず、真剣な表情でこちらを見つめていた。
「――覚えていてください、ベトさん。大切なものは、ある日突然理不尽な理由で、奪われます。それは神の采配か悪魔の審判か、それはわかりません。ただあなたは、その時が――」
「どういう意味だ?」
それにベトは、身を乗り出していた。
尋常ではない様子。
そして確信持った言葉。
導き出される結論は、ひとつしかない。
「お前も……」
そこまで話し、ひとつの可能性に行き当たった。
「――スペロか?」
ベリファニーは、その言葉にはなにも語らなかった。
最初から、この女はそうだった。
愛想よく振舞い、しかし核となる部分は語らない。
だがアレが同様の力を持っている、という点だけは激しく反応を示していた。
訊き出すか?
果たしてそれは、必要なことなのか?
「…………いや、」
ベトは結局、それは思い留まった。
追求するよりも、何か答えを出すよりも、満たされているこの現状を維持することを優先させた。
「そう、ですか……」
ほとんど一方的な言葉になっていない羅列だったが、ベリファニーはその真意を正確に受け取ったようだった。
受け取った上で、その意思を尊重したようだった。
「ああ、世話になったな。これを食べ終わったら、出て行くよ。迷惑掛けた」
「……わかりました」
名残惜しそうだと、ベトは感じた。
しかしこれからはもう、妙なことに首を突っこむのは一切やめようと決めた。
ただ必要最低限な金だけを稼ぎ、そしてアレと生きていこう。
慎ましく、バカみたいな絵に描いたような間抜けな毎日を過ごしていこう。
そう考えたら、気楽だった。




