Ⅰ/予感
アレは、教会にいた。
正確に言えばそれは、聖堂だった。
その聖母像の前に、アレは座り込んでいた。
へたり込んでいた。
聖母像を、見上げていた。
ただ、真っ直ぐに。
「――――」
胸中を駆け巡るものは、無数にあった。
あり過ぎて、正確に把握できないくらいだった。
まるでシチューだった。
色んな旨味が溶け込んでいて、なにがそれを構成しているか分からない。
そこに問題があるかどうかではなく、それがそういう状態であるという現状が問題だった。
想い過ぎて煮詰まり過ぎて、逆にアレは真っ白だった。
それこそ白痴のように、聖母像を見上げていた。
想っていることが他にありすぎて、見上げている行為をまったく意識してはいなかった。
既に永い時間が流れていた。
アレがそこに立ったのは、昨日の午後過ぎ。
そして現在陽は完全に没しており、スタンドグラスから薄い月明かりが差し込んで久しい。
食事も水も、口にしていない。
意味も意図も、あるわけではなかった。
「…………」
混沌の心のスープを、アレはひたすらかき混ぜ続けていた。
コトコトと、煮込みながら。
煮詰ませながら。それを意図することはなく。
夜は更けていく。
アレは月明かりに照らされ。
夜風に吹かれ。
お腹を空かせ喉を渇かせ。
それに、頓着せず。
思考のスープを混ぜていたスプーンが、なにかに当たった。
「ベト……」
永い時間の末、最初に口にしたのがその単語だった。
ベト。
それになにを想うわけでもなく、続いてスプーンがなにかに当たる。
「おばあさん……」
さらにかき混ぜ、かき混ぜ、その二つが溶け込み、そして味が整ってきているのを感じる。
そう、アレはただ感じていた。
予感を。
なにかが自分の心のうちで、構成されるのを。
自分の気持ちがまとまらないことに、なにか想いがあったのかもしれなかった。
「――あれ・くろあさん?」
「…………」
名を呼ばれた。
とアレが理解することは出来なかった。
既にアレの脳は、キャパ―オーバーに近い状態を起こしていた。
これだけのことが脳裏を駆け巡っている状態が今までなかったから、それを処理するので精いっぱいだった。
かつん、かつん、と高らかに足音が聖堂に響く。
夜も深い帳。
それはどこか神聖で、どこか不吉なものを予感させた。
月灯りが、明るい夜だった。
「あれ・くろあさん、ですよね?」
人影はアレのすぐ近くにまで歩み寄り、にっこりと笑いかける。
覗き込むように。
しかしなお、アレに変化はない。
実際見ているようで、聞いているようで、そしてここにいるようで、アレはここにいなかった。
思考のスープの、混沌の中に身を浸し、沈み込んでいた。
だからその声も、そして視線もなにも届いてはいなかった。
しかしなお、その人影もそれを気にしている様子はないようだった。
「ベトさん、目を覚ましましたよ」
「ベト」
ほぼ、タイムラグなし。
今まで会話していたような淀みのなさで、アレは返事をしていた。
人影はなおにっこりと、微笑む。
「はい、目を覚ましましたよ」
「ベト」
「はい、ベトさんです」
「べト」
「はい、ベトさんですよ」
「ベト」
「はい」
三度――というか四度に渡るやり取りを越え、アレは再び沈黙した。
それに人影もニコニコと笑顔のまま、待機した。
月がニつ分ほど、移動した。
「ベト……どうしてる?」
「ベトさんは、いま、ベッドの上でゆったりしていらっしゃしますよー」
「会え……ますか?」
「もちろーん」
楽しげに答え、人影――シスター服を纏ったその少女は軽やかに、歩き出した。
その後ろ姿を見つめ、アレはついていこうと杖を突いて立ち上がり、一歩目を踏み――出そうとして、それが酷く重いものであることに、気づいた。
「?」
二、三度力を込め、ようやくそれは前に出た。
そしてもう一歩、もう一歩、と確かめるように歩みを進める。
シスターは入り口で立ち止まり、振り返り、その様子を見守っていた。
それにアレは少し、杖を突く速度を早めた。
アレはその時、その感情が躊躇いだということを知らなかった。
ベトは、シスターの言うようにベッドに横になっていた。
聖堂の一室、救護室で。
窓際のその場所は、入ってくる夜風が心地よかった。
そのまま天に吸い込まれ、召されそうなほど。
「――よく生きてたもんだよな」
ベトはひとり、呟いた。
ほとんど身体は、動かせない。
首がなんとか左右上下に5度づつくらい、というものか。
それを最大稼働域まで左に持っていき、
「やっぱ……ねぇよな」
もう無い、左腕。
肩口から、こざっぱりと。
まぁもう無いものをいってもしょうがないが、長年連れ添ってきた相棒がいないというのも寂しい限りではあった。
なんだかまだそこに、感覚が残っているような。
「ガラにもねぇ、未練たらたらだな」
皮肉のつもりでいったのに自嘲も出てこないというのは寂しい限りだった。
「おれも寂しいよ」
聞き慣れた声に、視線を下方――ドア付近に。
そこに司祭服を纏った、大柄な黒髪の男性が腕を組んでこちらを見つめていた。
その表情は、どちらともつかない――というよりは、どこにも振れていないようなものだった。
「せんせい…………じゃあ、ないっすか」
なにか言おうとして、そこに落ち着いた。
なにも言うことはない。
現実は、現実だ。
それ以上でもそれ以下でもない。
そう、それ以下もない。
命は、拾ったのだ。
それ以上なにを望むというのか。
「ベト」
もう一度、男――ベトがせんせいと呼んだ彼はベトの名を呼び、こちらへと歩き出してきた。
それをベトは無感情な瞳で見下ろし――
パン、と頬を張られた。
さすがのベトも、しばらく思考が真っ白に漂白される。
「……………………は?」
「悪魔憑きのお嬢さんが、こちらにくるぞ」
一気に覚醒。
「そ、それってアレ――」
「ベト」
ゆっくり確認する余裕も心を整理する暇も準備する時間もありゃしない。
「あ、あんた、か…………よお」
それだけ言うので、精一杯だった。
想いは駆け巡っていたが、どれを言うべきか戸惑い、そして結局いつもの挨拶に落ち着いた。
相変わらず、アレは純真な瞳でこちらを捉えていた。
正直、戸惑うくらいに。
なんでそんな目が、出来るのか?
あんなことが、あったあとに?
「ど、どうし――」
「ベト、ごめん、なさい」
とぎれとぎれの言葉に、正直度肝を抜かれた。
――謝った、のか?
ていうか謝ったよな?
「な、なん……ど、どうし――」
「ごめ……」
そのあとは、言葉になっていなかった。
両の瞳からぼろぼろと流れる、涙によって。
「あ、あん……」
た、と言おうとして、それは出来なかった。
その行為自体が、蛇足だと、余計だと感じたから。
彼女がそんな風に涙を流しているのが、それ自体が貴族がよく玄関先とかに飾っている絵画――なんかよりもよっぽど、絵になるだなんて思えたから。
どうかしてやがる。
本気でそう思った。
この自分が、女が涙を流してる光景なんかに、目を奪われているのだから。
そんな光景、とっくに見慣れていたっていうのに。
「…………」
「ベト……」
「あ、あぁ……」
それだけしか、返事できない。
アレは杖で身体を支えたその体勢からほんの一ミリすら動くことなく、
「……わたしの、せいですよね?」
落雷が落ちたような、衝撃があった。
「ちっ、ちがうっ!」
なにが違うかもわからないまま、ベトはほとんど反射的に答えていた。
必死に。
しかしそれにもアレは、
「……わたしが、わたしが世界をだなんて、言い出さなかったなら――」
「ちがうって、言ってンだろがっ!」




