Ⅳ/世界を守る力
彼らは交代交代に語り合った。
二人の生活を見せ合うように。
それは楽しく、心安らぎ、スペロは永遠に続くことを願った。
時を告げる鐘の音をかき消すつもりで、懸命に言葉を紡ぎ続けた。
──でも彼女は、僕より大人だったみたいで。
いつしか日は傾き、辺りが暗くなりかけた頃、遠くに街の鐘が鳴り響くのが聞こえた。
その瞬間スペロは、心臓が止まる思いだった。
彼女は少し翳りのある表情で、呟いた。
それがスペロの、唯一の救いだった。
「……もう、こんな時間ね」
スペロは思う。
離れたくない。
帰りたくない。
ずっとここにいたい。
けど、それは叶わない願いだとも思う。
彼女は、それを望まない。
全てを縛り付けることを、よしとしない。
それをスペロは痛いほど、わかっていた。
だから、
「――うん、そうだね。辺りも、すっかり暗くなっちゃったね」
全然、気づかなかったよ。
それがせめてもの、気遣いだった。
「うん、気づかなかったね……凄く、楽しかったものね」
ベリファニーの優しさが、切なさが、胸に染みてくるようだった。
ここは自分が先に言わなければならないと、心を決めた。
全身の神経を集中。
心臓を吐き出すような心地で、
「じゃあ、そろそろ……帰るね」
ベリファニーは伏目がちにスペロの方を見た。
「……うん。もう、夜になるものね」
それを、スペロは見ていなかった。
もう、地面だけを見ていた。
「また……明日ね」
笑顔を作った。
顔中の筋肉を引っ張った、全力の笑み。
それにベリファニーも、笑顔で返してくれた。
でも、その笑みは――
バッカリアのような、今にも折れそうな儚さが、漂っていた。
振り返らず、ただ真っ直ぐに、森の出口に向かって歩き続けた。
足元の草と枯れ葉が、歩く度、サク、サクと軽快な音を立てた。
サク、サク、と音だけを聞いていた。
ドク、ドク、と異音が混じっていた。
その音はドンドン大きくなり、いつしか足音を凌駕する。
何かが、アゴ先から足元に零れ落ちた。
頬を幾筋も幾筋も伝わり、アゴを通って足元に零れ続ける。
逃げた。
爪先で思い切り地面を蹴り、木の葉を蹴散らすように突進する。
頭から、突っ込む。
スペロはその場から、逃げ出した。
すぐに息は切れ、体があっという間に熱くなる。
「ぅ……うぇ……ぐぇ……」
悔しかった。
悲しかった。
叫びたかった。
泣いて、抱きつきたかった。
──彼女の前で泣く資格なんて、自分にはなかった。
スペロは森を駆け抜け続ける。
どうしようもない、現実。
恐怖を感じるほど、楽しかった楽園。
自分の、たった一つのホーム。
それを、守りたかった。
守ることなんて、出来なかった。
走った。
走った。
走り続けた。
感覚は凶悪な病気に侵されたみたく酷く寒いのに、体は熱を持っているという、最悪の状態だった。
どうでもよかった。
ただ、目の前にある現実から、逃げ出したかった。
派手に転んだ。
「ッ……!」
足元の大きめな葉を思いきり踏んづけて、滑って、頭から地面に突っ込む。
でもそこにも木の葉の絨毯はあって、スペロは怪我をすることなく二、三度転がって、うつ伏せで止まる。
そのまま、しばらく顔を上げなかった。
目を開けても、見えるのは辛い現実だけ。
なら一生ここにいたっていいじゃないか?
でもそんなことが出来るわけがないことも、わかっていた。
自分の、そんな妙に冷静な思考に腹を立てながら、スペロは長い夢から覚めるようにゆっくりと、その瞼を開ける。
カエル。
スペロの瞳に、それは飛び込んできた。
手の平に収まるような、小さい蛙。
それがうつぶせ状態で顔だけを上げているスペロの目と同じ高さから、見つめていた。
スペロはそれを数秒間、意味もなく見つめ返す。
草に埋もれそうなほど小さい蛙が、自分を見つめている。
しかもまったく逃げようとしない。
まるで意思を持っているかのように、今にも喋りだしそうに、スペロを見つめ続けている。
「スペロ=シティアータ」
本当に、"喋った"。
そのあんまりな展開に、スペロは言葉を失った。
「――――」
だがそのあとに続いた言葉に、スペロの思考は急速に働きを取り戻す。
「世界を守る力を、君にやろう」
風が、静かに木々を揺らした。
そこにいる者に、海の底にいると錯覚させるほどの高さの樹々に風が吹き付けると、それはまるで巨大なさざ波が起こったようだった。
「それは、君にとっての世界だ」
蛙の口調は、堅かった。
まるで年老いた賢者を思わせる。
「それは星そのものかも知れんし、国家規模なのかも知れんし、もしかしたら職場や家族レベルなのかも知れん。人によってその範囲は異なるだろうが、それは君にとっての世界だ。守りたい世界を守れる力を、君にやろう」
そこで蛙は言葉を、止める。
数秒間探るよう静かにスペロを見つめてから、
「君にとっての世界は?」
迷いようもなかった。
「じゃあ、彼女を守れる力をくれよ。僕にとって、彼女こそ世界の全てだ」
スペロが去ったあとの小屋で、ベリファニーは一人片づけをしていた。
鍋やや食器を小川へと運び、丁寧にすすいでいく。
それが終わると持参した布巾で、ひとつひとつ拭いていく。
ベリファニーの表情は終始、暗かった。
目は虚ろで、口元も微かに開き、まるで生気というものを感じられない。
スペロといる時とは、まるで別人だった。
森は闇に包まれていた。
月明かりすら届かない。
ベリファニーの周りもまた、一寸先も見えないほどの暗さだ。
しかしそんなことまるで気づいていないかのように、ベリファニーは淡々と作業を続ける。
不気味だった。
その様はまるで、闇に蠢く怪物のよう。
目だけが、遠くの月明かりを反射している。
やがて最後の一枚を拭き終え、ベリファニーはそれらを抱えて元来た道を小屋へと歩いた。
歩くたび木皿が鍋に当たってコツコツ、と堅い音を立てた。
真っ黒な道を、ベリファニーは慣れた様子で危なげなく歩いていく。
まるで瞳とは別のもので、世界を見ているかのように。
不意に。
ベリファニーの靴が足元の小石に当たり、その揺れで一番上に乗っていたナイフが、落ちた。
バサ、と積もった枯葉と草の絨毯の上に潜る。
それをぼんやりと眺め、ゆっくりと膝を折り、鍋の上に乗せたおたまや木皿を左手だけに持ち替えて、ベリファニーは右手を伸ばす。
不意に。
その手の影がガタガタと、震え出した。
それはやがて誰かが掴んで揺らしているような、激しいものへと変わっていった。
その振動に、左手に持った食器類も大きく揺らぐ。
ガタガタと、体全体が震えていく。
意思とは関係なしの、支離滅裂な動きになっていく。
全身ががくがくと弾け、頭を振り乱し、膝を急激に曲げ、伸ばす。
その振り幅はどんどん大きくなり、ほとんど体を振り回しているような格好となる。
その様子は、壊れた自動人形を想わせた。
その長い銀髪が闇の中で千の蛇のようにうねり、猛り――
ついにその左手の鍋が、宙に舞った。
空中に弧を描き、中の食器たちが放物線を描いて散らばる。
薄い茶の木皿やカップ、おたま、銀色のナイフなどが、まるでスローモーションのように、美しく、儚く、滑り落ちていく。
その様はまるできらきらと輝く砂が、手の平から零れていくことを連想させた。
夜の静寂を、雑多な音が粉々に砕く。
木皿が下を向き、カップが転がり、おたまが葉を掬い、ナイフが土の上に突き刺さる。
そして大鍋が、ぐわんと一声鳴いた。
そして人形は、その動きを止めた。
壊れたのを認め、所持者がその動力源を外したかのように。
斜に、葉の上に落ちたナイフを仰ぎ見るような形で。
それはまさに壊れた自動人形、そのものだった。
白い目だけが、どこともなく宙を見つめている。
それはまるで、この場所ではないどこか違う場所を見ているようだった。
不意に、その双眸に光が見て取れた。
途端、何かが決壊したような膨大な涙が、そこから溢れ出す。
バケツをひっくり返したような凄まじい水量。
それは留まることを知らず、いつまでも尽きる事なく流れ続ける。
頬を辿り、アゴを伝わり、首筋を流れ、胸を濡らし、スカートすら抜けて、地面にまで到達する。
干からびてしまうのではないか、と危惧されるほど出尽くしたあと、まるで堰をかけたよう唐突に、それは止まった。
漆黒の森。
耳鳴りがするほどの静寂が支配する中、少女は自らが落とした食器類に囲まれて、自らが流した涙に濡れていた。
ぴく、と微かに身体が震える。
ゆっくりとその右手を目元にやり、時が遅くなったと錯覚するほどの緩慢な動きで、目元に残った涙を拭う。
だらん、と手を垂らし、しばらくしてから思い出したようにその場に膝をついた。
ひし、と両手で自分の体を抱く。
最初は、なんてことはない違和感だった。
ある日朝起きると、なんとなく体が重かった。
単なる疲れだと思って、特に気にも留めなかった。
しかしそれは日増しに酷くなっていき、気づけばベリファニーは日常生活を送るのにも大変な集中力を必要とするようになっていた。
それが、自分の中に渦巻く何かが外に出たがっている反動だと気づくのに、それほど長い時間はかからなかった。
ベリファニーの中には、奇跡の力が渦巻いていた。
常識では計り知れない力。
それが自分の中で暴れ狂い、主導権を握ろうとしている。
それに今までの人間としての機能は、奪われようとしていた。
必死に抵抗もしてきた。
だけどそれは例えるなら小さな器に大海の水を注ぎ込んでいるようなもの。
いつかは、粉微塵に砕け散る。
それをベリファニー自身も本能的に、理解しつつあった。
もう、時間はない。
全ては、終わりを迎える。
でも──と、ベリファニーは思う。
それまでは、守りたかった。
なによりも大切で、なによりの生きている、意味。
彼との毎日を守るためなら、どんなことでも、する覚悟があった。
失うわけには、いかない。
彼女は小刻みに震え続ける体を労わるように抱いたまま、ゆっくりと立ち上がった。
そして地面に刺さったナイフを、抜く。
場違いな白銀の刃が、月明かりを反射する。
そこだけ、スポットライトが当たったようにぼんやりと輝く。
白銀の刃を持つ、ミュージカルのヒロイン。
ベリファニーはただその刃をぼんやりと見つめる。
しばらくの静寂。
不意に、ゆっくりと刃は振り上げられ――
白い軌跡を描いて、その左腕を通り抜けていった。
何の音もしなかった。
何の抵抗もなかった。
そのあまりの自然さゆえに、ただ腕を振ったようにすら見えた。
しかし左の二の腕には、冗談のように巨大な空洞がパックリと覗いていた。
それは、まるで何か化け物の口をのようだった。
その口から、一筋の涎が漏れた。
その涎は、真っ赤な色をしていた。
粘着質な赤い涎は、その糸を引いて――
大量の血液が、噴水のように溢れる。
ドバっ、と止め処なく、まるで汚物の濁流のように、それはどこか救いのない光景だった。
その濁流の中心で、彼女は佇んでいた。
白い月明かりに照らされて、痛がる様子もなく、ただ赤い池が、広がっていく。
ベリファニーの足を濡らし、葉を染め上げ、土に染み、見渡す限り一面が、赤い絨毯を敷いたような真っ赤な池に侵された。
そして出血は唐突に、その勢いを止めた。
その中心に、彼女は立つ。
池の真ん中で赤い波紋を作り、ただ佇んでいる。
少女が僅かに動くたび、波紋が一つ、また一つと広がっていった。
それをただ呆然と眺め、ヒロインは舞台に立つ。




