Ⅱ/未だない病
脈絡のない、その提案。
それに声は途絶え、笑顔も失せ、沈黙が降りる。
空気も重く、誰もが怪訝な目つきでスペロを遠巻きに見つめる。
その只中、スペロだけが目をぱちくりさせながら、笑顔を浮かべていた。
――また始まったぜ。
誰かの囁き声が聞こえた気がした。
途端、スペロから距離をとって固まっていた五人から、出所がわからない小さな呟き声が沸き始める。
――出た出た、またスペロだよ。
――ったく、何であそこまで空気が読めないかね。
――わかってやってんじゃないの?
目立ちたいからとかさ。
――それはないんじゃないか?
頭悪いからさ、あいつ。
――ねぇねぇ、スペロって頭悪いのー?
――しっ……お前は喋っちゃダメだぞ?
いつしか困惑顔となっていたスペロの周りには、気づけば幾重もの人影が出来ていた。
少年たちと同様休憩中の親方たちをはじめとして、近くのベンチで休んだり、昼食をとっていた人々、たまたま通りがかった通行人などだ。
その視線はみな、一点――スペロの困惑顔を捉えていた。
蔑むように。
――彼岸の森って聞いたけど、あなたたち本気なの?
――いやいや、また"あの"スペロが言い出しただけですから。
――スペロ……にしても彼岸の森だなんて、あの場所がどういう状態なのかは、あなたたちも知ってるでしょ?
――はい、そりゃもう……大丈夫ですよ、いつものことです。
あいつ、人の気を引きたいだけなんですよ。そのためならどんな無茶でも言って……誰も相手してませんから。
――ったく、困ったもんだ。
毎回毎回暗黙の了解で禁句となってるようなことを、狙い済ましたように言い出して。
――いやーあいつ、頭コレですからね。
――親もなにやってんだか。
――まぁ、あいつんとこは親も……アレですからね。
――ねーねー兄ちゃん、アレってなに?
――しっ。お前は喋っちゃダメだぞ。
明け方の、誰もいない海辺の波音のように、それはスペロの周りで寄せては返し、沸き起こり続けた。
それは本人を目の前にした、人数の多さを隠れ蓑にした大胆な、陰口。
その中でスペロはただ、立ち尽くしていた。
「…………っ」
最初の笑顔はとうに消え、困惑顔も失せ、今そこには焦りが占められていた。
そして年端もいかないペティグルの弟フーイが、前に出た。
人垣が、ざわめきにうねる。
しまった、という顔をしてペティグルが手を伸ばすが、既にフーイはスペロの傍。
その表情はスペロを気遣うような、無垢な視線を投げかけていた。
陰口が収まり、再び場を沈黙が支配する。
フーイは下から、スペロの顔を覗き込む。
「……どうしたの、スペロ?」
スペロは俯き、両の拳を堅く握るばかり。
なにか汚いものでも見るように、誰も近づかない。
フーイの兄であるペティグルでさえ、そうだった。
必死に手招きし、フーイを呼び戻そうとしている。
その中でフーイだけが、よくわからないという顔をしていた。
スペロがフーイの背中を、押した。
ぴくん、と反応してフーイがスペロの顔を見上げたが、その表情は見て取れない。
そのままペティグルのところまで戻り、人垣から外れるところまで歩いて、振り返った。
スペロの顔は、歪んでいた。
怒りや哀しみ、羞恥や辛さなどが入り混じった、複雑で歪な表情をそこに作っていた。
そして、叫んだ。
「――わかったよ! 俺が一人で行ってみればいいんだろ? お前らは出来ねーとか無茶だとか馬鹿だとか言うかも知れねーけどな、俺には出来んだよ! お前らと一緒にするな、ばーか!!」
そのまま、走り去っていった。
醒めた反応を見せる周りを、置き去りに。
徒弟修業に出された当初、スペロは職場で人気があった。
いつも笑顔で明るく、物怖じせずどんどん人に話しかける姿は、非常にとっつきやすいものだっ。
荒唐無稽ともいえる内容の話は、相手を楽しませようとしていると受け取られた。
そんなスペロを、誰もが可愛がった。
みなが、声をかけた。
スペロ、一緒に遊ぼうぜ。
スペロ、今日の武勇伝はなんだ?
スペロ、こっちにも来てくれよ。
スペロ自身もそれに答えるよう、活発に活動した。
職場の人間はスペロのことを、目立ちたがり屋なお調子者の、ムードメーカーだと思い込んでいた。
しかし少しづつ、それに気づく者が出てきた。
何かが、おかしい。
スペロは物怖じせずにどんどん話しかけてくるが、こちらにとって踏み込まれたくないプライベートにまで及ぶことがよくある。
何か、ズレている。
スペロは、普通は言わないような冗談で、笑えない空気にすることが多々ある。
その、微かなしこりを残す違和感は、ある事件をキッカケに確信となってしまった。
職場に、親方の罵声が響き渡った。
誰もが作業を止め、声があった場所へ視線を集めた。
そこには肩を落とし、小さくなっているスペロと、普段の、作業の進捗状況に対して発破をかけているのとは違う気勢を、その怒鳴り声にこめている親方が、いた。
親方の手が振り上げられ、下ろされる。
スペロの頭がガクン、と下に落ちる。
殴った。
スペロが親方に、殴られた。
普段気性は荒いし言葉は激しかったが決して手をあげるような人間じゃなかった親方が、殴った。
「お前……言っていいことと悪いことがあるぞッ!」
さらにもう一発。
スペロの体ががくん、と激しく揺れる。
もうみんな身を乗り出していた。
半分はスペロの心配を。
そしてもう半分。
スペロが親方をあんなに怒らせた原因が、自分たちの違和感を解消してくれる気がして。
「お前……なにが『親方は早く奥さんと縁切って、新しい奥さん作った方が面白いじゃないですか』だッ!!」
その一言。
それで職場の人間すべてが確信した。
ああ、そうだ。
やっぱり、思ったとおりだ。
スペロは、ムードメーカーなんかじゃない。
周りを和ませようとか、笑わせようとして、あの行動をとっていたんじゃない。
あの男は、単なる馬鹿なんだ。
その場の空気が読めない。
相手との距離が測れない。
言っていいことと悪いことの区別もつかない。
ただ、無様なほどに、自分に注目を集めたいだけ。
親方の怒りを買ったその日、興味を持ってスペロの家庭環境を調べ出した者がいた。
単なる、好奇心だった。
それにより発覚したことは、予想を遥かに越えたものだった。
スペロの姉は彼の"魔女追い"によって、処刑されていた。
きっかけは、隣近所の証言。
彼女が家で焚き木をしている時、何の道具も使わないで火を起こしているのを見たという。
その後村でその一家に接する者はいなくなっていた。
誰もが魔女が現れた家として、忌避した。
それゆえ、スペロは人と接したことがほとんどなく、その行動は年齢以上の無垢さ、幼稚さ、我侭さをはらんだままだったのだ。
家族に魔女、そして自身も知恵足らずという烙印を押されたスペロは、そこから圧倒的な疎外を受けることになる。
その噂は広まり、町全体が知ることとなった。
抗えない溝が、生まれてしまった。
その事実を、スペロだけが気づけなかった。
スペロは戻りたかった。
元の関係に。
笑い、語り合える仲間に。
だから今まで通り笑いかけて、話しかけた。
だがもはやそれは溝を、さらに深める行為にしかならなかった。
権力公認の差別というものは、集団をどこまでも残酷にする。
スペロは懸命に動いた結果、今まで以上に話しかけ――踏み込み、今まで以上に突飛なことを言い――言ってはいけない事を口走り、徹底的に孤立した。
今までの人生で受けたことがない罵りを受け、冷笑を受け、差別を受けた。
そんな中ですら、スペロは縋りたかった。
人との交わり、温もりというものに。
――そういうお前は、出来んのかよ?
ある日の、一言。
そういうつもりで言ったんじゃない。
そんな意図はなかった。
だけど突然そう切り返され、スペロも反射的に噛み付いてしまった。
ああ、出来るさ。
俺はお前らとは、違うんだから!
つい口走ってしまってから、しまったと思った。
だけどそれは後の祭りだった。
自らその隔たりを、認めてしまった。
その瞬間生まれた、仲間――だった筈の人間たちの薄ら笑いが、スペロの心を突き刺した。
スペロの胸の黒く塗り潰されていった。
誰もが、スペロが本気で言ったわけではないことをわかっている。
その上で、薄ら笑いを浮かべている。
スペロはそれを正確には把握できないまでも、そこに圧倒的な人の悪意というものを感じ取ってしまった。
それに呼応するように周りで話の内容を盗み聞いていた同僚たちが、騒ぎ出す。
囃し立てる。
言ったなスペロ。
言ったからには、絶対やれよ?
お前普段から簡単に言ってるんだから、きちんと俺たちと違うところを見せてくれよ?
だからもう、スペロに逃げ道は残されていなかった。
それからのスペロは、ずっと体が冷たくなったような心地だった。
信じていた。
人というもの、その温もりを、あっという間に掌を返された。
でも、それでも縋りたかった。
だから離れることをせず、今までと同じ行動を繰り返した。
認めたくなかった。
みんなが自分を――裏切ったという事実を。
だから自分が言ってきた嘘を、嘘ではなく本当にすることが出来れば、きっとみんな今までのことを全部許して、また元に戻ってくれるかもしれなくて――
自分を励ますように、
「……心配しないで、スペロ」
スペロは立ち上がり、その黒い森を睨みつけた。
瞼を閉じる。
両手を握り締める。
そして、あとは何も考えず、真っ直ぐ森の入り口に向かって駆けていった。
魔女追いで死んだ、姉の言葉を胸に――




