Ⅰ/彼岸の森
レイティア島北東に位置する僻地、ヘトウィック地方。
その中央に存在する巨大な森。
通称"彼岸の森"。
木々の高さ、葉の深さにより、その内部の暗さは想像を絶するという。
曰く、『視界が、黒に染まる』
しかし、闇とは違う。
そこに、樹木の存在を、土と木の葉の存在を感じる。
だが、視界は黒い。
誰もが入った意思を後悔し、引き返そうと踵を返す。
だがそこに、光は既にない。
あるのは既に形のない黒の森のみ。
もはやどちらが戻る道なのか進む先なのか。
それすらわからなくなり、あてもなく歩き続け、その果ては餓えるか狼に襲われるかして、死に絶えるより他ないとされる。
増える犠牲者、残された遺族の嘆きにより半ば伝説と化してきた頃、奇妙な噂が流れ始める。
出所もわからないそれはいつしかその地に住む者たちの、定説となる。
曰く。
彼岸の森、その奥深くには、おぞましき"魔女"が隠れ棲む――
その日。
スペロは"彼岸の森"入り口に、立っていた。
見上げるその様は、噂で聞いた通り──いや、それ以上だった。
巨大で、暗く、禍々しく、そのものが生き物のように蠢いている。
心根が凍えるような圧迫感。
スペロの目は見開かれ、息は荒くなり、肩は大きく上下する。
「…………」
ドクンドクン、と心臓の音がうるさい。
ギリ、と硬く歯を噛み締め、強く拳を握り締めた。
一歩、スペロは森へと足を踏み出す。
スペロの明るい赤茶の髪色に、影が差す。
さらにもう一歩踏み出す。
スペロのそばかすが、影に見えなくなる。
さらに一歩踏み込んだ。
訪れるものを誘うように蠢く闇は、もう目の前だった。
そこでスペロの動きは止まった。
唐突に森の闇を前にして、体は石のように固まってしまった。
しばらくして額から脂汗が滲み出し、口が半開きになり、そこから空気が漏れる。
最後にその体全体が、ガタガタと震え出した。
息をもう一度吸って吐き、スペロは片足を上げた。
どこからか、何かが軋むような音がした。
ハッ、と息を漏らし、スペロは後ろに下がる。
まず前方を睨み、その後視線を左右、最後に上空を見上げる。
空を削り取ったような不気味な黒い裂け目が、ギィギィという不気味な鳴き声を上げていた。
「……烏」
声を漏らし、安堵して力が抜け、その場に両膝をつける。
そのまま前方にしなだれ、両手もつきハァハァと呼吸を乱す。
頭に浮かぶ考え。
いっそこのまま逃げてしまおうか――
カッ、と目を見開く。
想像も恐怖も何もかも外に弾き出し、無視して、無理やりに近く森の中へ体を滑り込ませ――
強烈な悪寒が、全身を走りぬける。
「――――!」
体温が二、三度下がった気がした。
この世の物じゃない。
これは、異界だ。
自分は今、とんでもない領域に踏み込もうとしてるんじゃないか――
そんな想いに囚われ、スペロはその場に縫い付けられてしまった。
彼岸の森が不可侵となっているのには、政治的な理由もあった。
現在レイティア島は、いわゆる内乱状態にある。
中央に構えるローザガルト王国、最南端に聳える帝国セミネ、その二国に挟まれる共和国エルシナの三国が、それぞれ対立中。
その原因となったのが、各地に頻発する"怪奇事件"だ。
帝国セミネには、ネムル山脈という交通の要所がある。
それは点在する町と町を繋いできており、長い間開発が行われてこなかった昔からある、所謂神聖な土地だった。
それがある時期を境に、誰も寄り付かなくなってしまった。
どうしても通る必要がある場合にも人々は3倍近くの遠回りを選び、それにより国同士の交流そのものが大幅に縮小していった。
共和国エルシナには、トラッタと呼ばれる鉱山があった。
貴重な玉鋼を大量に採掘できるそれは国力の基盤となっており、連日何百人もの人々を集める巨大集積場となっていた。
それがある日を境に、完全に閉鎖されてしまった。
ただの一人も残らず、周囲に人が寄り付くことすらなくなってしまった。
それらの事件の原因を知る者は、未だ誰もいない。
究明しようと各国とも兵や研究者、果てや自称魔術師などを派遣した事もあったが、どれも一度として戻ることはなかった。
そんなことが幾度か繰り返され、その地は禁じられた場所へと成り果てていった。
解明出来ない原因を人は外に求めるようになり、それは他国への疑心暗鬼と変わり、その火種が各地で勃発するまでにそれほど長い時間はかからなかった。
そんなお国事情など知る由も無い一般市人にとって、閉鎖され、タブー化されたそれらの地は只ならぬ、それこそ黄泉への入り口の如き不可侵領域と成り果てていった。
前日。
スペロは町の広場にいた。
民家が立ち並ぶ大通りの中ほど。
そこにある噴水。
その周りに、五指に余るほどの子供たちが集まっている。
みな、スペロと同じほどの年頃。
無邪気な笑い声が、あたりに響き渡っている。
8才で徒弟修業に出され、仕事の責任と、飲酒や恋愛の自由を与えられる、この年代。
だがその何倍にも当たる年代と、同等の能力を期待できるはずもない。
子供は"未熟な大人"として、煙たがられる存在だった。
親元から離され、自力で日々の暮らしを成り立たせる。
ろくな楽しみなどなく、唯一の安らぎは仕事の合間の、休憩時間のみ。
輝く瞳に楽しそうな笑顔で、近所の者同志で集まる。
その日、彼らは作戦会議を行っていた。
来月行われる謝肉祭。
その時何か、普段は出来ない大掛かりな悪戯をと企画していたのだ。
明確な休みというものがない雇われの子供たちは、こういう行事だけが羽を伸ばし遊べる唯一のチャンスだった。
お調子者のピーター。
「この機に、騎士団に潜りこんでみないか?」
みんなが興味を持って聞くのを確認し、
「最近街が物騒なのは、みんなも感じてるだろ? 親方たちの話によるとさ、なんか最近戦争やってるらしくて、しかもそのへんの傭兵をやとって適当にやってるようなやつじゃなく、うちの国の戦闘騎士団――聖王騎士団が出張るくらいの、でっかいやつらしいんだよ」
「マジかよ!?」
一際目立つ真っ黒な髪をしたペティルグが、声を上げる。
「聖王騎士団っていえば、金持ちの騎士の中でもとびきりのやつしか入れないってやつだろ? 軍馬や装備持参は勿論のこと、超厳しいっていう試験に通った、真の騎士道精神を持つ英雄の集まりだとかっていう?」
やや太り気味のエルータが夢見心地で手を合わせる。
「ああ、憧れるなー」
そこへ対照的に厳しい面持ちの年長者ハギリオが、
「だけどお前、本気か? 騎士団に潜り込むだなんて……バレたらただじゃ済まないぞ?」
あくまでピーターは陽気に、
「まぁまぁまぁまぁ。ちょっと、ほんのちょっとせんにゅーってやつして、いろいろ……見学、そう見学ってやつさせてもらうだけさ。何か取ったりとか、悪いことなんてなんもしないし、見つかってもそんなせーれんけっぱくな聖王騎士団の人たちなら、多分許してくれるっしょ? しょーらいゆーぼーな子供のいたずらってことで。それにさ、ハギリオだって、例の……ハルバルト=ディアランの愛剣っていう『碧い聖剣ルミナス』、一度見てみたくない?」
その言葉に、一同は黙りこくる。
碧い聖剣ルミナス。
女神の名を冠せし、祝福を受けた剣。
先の、カリヤ砦での武勇伝は、子供たちの耳にさえ届いていた。
「けど、やっぱ無理だと思うよ」
小太りエルータの否定は、寝耳に水だった。
「騎士団は僕たちよりずっと頭がいいし、訓練だって受けてるもの。毎日親方に怒られてるような僕らじゃ、捕まって、鞭打たれるだけだよ」
「まぁ……そうだよなぁ」
それに言い出しっぺのピーターも残念そうに同意する。
すると黒髪のペティグルが、
「じゃあさ、無難なところで『騎士の決闘』ってやつを、やってみないか?」
「兄ちゃん、きしのけっとうってなに?」
いつもペティグルの足元にくっついている、弟のフーイが兄を見上げた。
「ああ、フーイ。騎士の決闘っていうのはな、騎士同士が何か主君や好きな女の人を侮辱された時、それを償わせるために行う儀式のことなのさ。お互いその大事な人の持ち物や衣服の一部なんかを受け取って、戦うんだ」
お調子者ピーターがノッってきた。
「あ、それオレも聞いたことある! 確か、ちゃんと兜と甲冑つけて、馬に跨って大槍構えて互いに突撃するんだ!」
年長のハギリオが眉を寄せる。
「ん……ちょっと待てよ。じゃあその決闘をするには、兜と甲冑、馬と大槍が必要なんだよな? そんなの俺たち持ってないぞ」
黒髪のペティグルが、口の端を吊り上げる。
「だから、さ。確かに騎士団に潜入するっていうのは無茶だけどさ、実際謝肉祭ではほとんどの人間が出払うわけじゃん? だから刃物の店とかももぬけの殻になったりするかもだから、そこで剣だけちょいちょいって、な?」
「わー、フーイも剣もってみたーい」
「そうかそうか、フーイも騎士になりたいか?」
「なりたーい」
「だけどさ」
兄弟で盛り上がるところ水を差したのは、小太りのエルータだった。
「刃物だけで決闘するの? 実際は馬とか甲冑とか大槍も必要なわけだけど……それは、さすがに難しいんじゃないかな?」
「だからさ、とりあえず刃物扱ってる店で剣だけでも――」
「それだったら逆に簡単すぎないか?」
今度はお調子者ピーターが非難の声を上げた。
「ただ祭りの混乱に乗じて剣パクって、それでチャンバラの真似事だけして帰んのか? さすがにオレが言い出した聖剣から、一気に危なさガタ落ちっていうか……」
「じゃあさ」
その一言に、その場にいた十の瞳が、一人の少年に集まる。
赤茶の短髪にそばかすの少年。
「彼岸の森に入ってみようぜ!」
スペロは今日もむやみやたらに、元気で笑顔だった。




