Ⅵ/喜劇
あれから月が満ち、欠け、そしてまた満ちた。
それをベリファニーは窓枠にもたれながら、ぼんやりと見つめていた。
スペロは来る。
当たり前のように。
それこそ月が満ち、欠けるように。
ベリファニーは、考えていた。
スペロとはなんだろう?
そんな風になにかについて考えるなんて、今までなかった。
ただ毎日を繰り返すだけ。
生活を全うするだけ。
祖母の言いつけを、守るだけ。
それが自分のすべてだった。
なのに自分は、いま、それ以外のことに没頭している。
なぜ自分はいま、そんなことをしているのだろう?
そんなことを考える自分は、いったいなんなんだろう?
そも――ヒトとは、なんなのだろう?
ベリファニーは想いを馳せる。
もちろん夜にひとり、月を見上げながら想ったところで答えなど出ない。
目的はそういうことじゃなかった。
「…………」
ベリファニーは想う。
スペロのこと、自身のこと、ヒトのこと――そして存在そのもの。
生きること、星のこと、月のこと、宇宙のこと、世界そのもののこと――
私はなぜ、ここにこうして生まれたのだろうか?
ふと、今までまったく考える事も無かった発想にベリファニーは至っていた。
生きる意味、生きる本質、生きる目的――
考えている最中、浮かんできたのは祖母の顔だった。
そして祖母の言葉だった。
そういうものを教授してくれたのは、そして自分と話してくれたのは、スペロ以外では祖母だけだ。
だけど思い返しても、そこにベリファニーの指針になりそうな言葉はひとつもなかった。
そこにあったのは、如何に生きるべき、といったものではなかった。
そこにあったのは、ただベリファニーが為すべき事、それだけだった。
「…………」
ベリファニーは生まれて初めて、それを想ってみた。
ある意味祖母しか知らないベリファニーにとって、それを神の言葉──神託といって差し違えないものとして、捉えていた。
だからそれになにかを想うことなど、一度もなかった。
だけどスペロが現れた。
「…………スペロ、」
ふと、呟いてみた。
それは夜の闇に溶けて、消えていく。
次に祖母の名を呼ぼうかとも考えたが、なぜか喉を震わせることは適わなかった。
その理由もまた、ベリファニーには窺い知ることは出来なかった──
さらに年月は流れ、月の満ち欠けを数えるのも辞めてしまい、いつしかベリファニーは、変わっていった。
そして今日もまた、コンコンとドアがノックされる。
「はぁい」
かつてないような明るい表情と声で、ベリファニーはそれを迎え入れた。
*
そこまで話し、ベリファニーは言葉一を止めた。
「――――」
その表情は沈み、俯き加減となっていた。
長く話して疲れただけではない"なにか"が、そこには秘められているようだった。
それにベトはただ腕を組んで、考える。
いまの話に、語るべきものは見つけられなかった。
しかし想うべき所がないわけでもない。
それをどう言葉にするべきか、
「──その、スペロは」
「ただ、優しいんです」
ベリファニーの言葉は、切実だった。
ただ必死だった。
心からそう想い、なにかを祈っているかのよう。
ふと、その姿にアレ=クロアの面影を見た気がした。
「ベリファニー……」
「ただ、そう、ただ、優しいんです……ただただ、優し過ぎたんです……純粋に、純粋で、だから私は、私は……」
驚いた。
ベリファニーが両の掌を顔に押し当て、
「うっ……うあ、ぁ、あぁ……ああああああああああああああああああ!!」
物凄い勢いで、号泣し出したから。
ふと、その姿がアレに初めて会った頃の──同じ姿に、重なっていた。
最近ではスバルたちが逗留していたナルタヤを、出立した時か。
そう考えると自分は、アレを泣かせてばかりだ。
ギュッ、と胸が締め付けられる。
いや、それどころじゃない。
いまアレは、このベリファニーの相方であるスペロに攫われ、生死すら不明で、そしてベリファニーはそいつのことを思い出して、泣いていて――
「…………アレ、」
ふと、口から声が漏れ出ていた。
いまお前は、どこでなにをしているんだ――
*
アレは石牢で、ごろりと横になっていた。
身体を丸め、両手も力なく握られ、カタカタと小刻みに震え――
その頬は、唇は、手の甲は──肌はガサガサに乾き、荒れ切っていた。
血も滲む無数の擦れ傷があまりに痛々しい。
その白いローブもあちこち破れ――いやそれは元々か。
髪もまた、死んだように艶を無くしていた。
銀だか白だか灰だか黒だか、それすらもハッキリしないような斑模様。
それが完全にその顔を──瞳を覆い、隠している。
「俺がベリファニーと出逢ったのは、仲間とのバカな言い合いが原因だった」
そこに声を掛ける人物。
柵を隔てて上からアレを見下ろし、壁に寄り掛かり、片手で酒瓶を持ち、その口元はニヤニヤと歪められていた。
その身体半分はドス黒く、変色していた。
「へへっ、懐かしいもんだな……もうどれくらい前の話だっけな? 忘れたな、あぁ忘れた……人間やめてから、もう……」
ぐい、と酒瓶を傾ける。
その動きにも、そして言葉にもアレは一切反応を見せない。
ただ身体を丸め、カタカタと小刻みに震えるだけ。
グビグビ、と喉を鳴らして――スペロはエールをかっくらう。
口元から零れるのも構わず、一心不乱に。
半分ほど飲み干したところで、
「――ったく、つまんねぇな。これじゃあまるで、ひとり寂しくブツブツ独り言喋ってるみたいじゃねぇか。なんか喋れよ、お前」
ガツっ、と柵を越えてアレのお尻を、蹴りつける。
ビクッ、と大きく身体を震わせたが、アレはすぐに小刻みな震えに戻る。
スペロはケッ、と悪態をつく。
「つまんねぇな……こんなことで潰れたのかよ、聖女さんよ? 皆様に崇められてる、救世主様よぉ?」
「…………ジャ、な」
ぽつり。
アレのガサガサな唇から、声が漏れる。
それは擦れて、ほとんど隙間風のような響きとなる。
途端にアレの唇はパックリと割れ、そこからドロリとした濁った血が零れ出す。
それにスペロはニヤリ、と口元を歪ませる。
「へっ、まだ死んでなかったか……で、あんだって? んなちっせぇ声じゃ、ぜんぜん聞こえねぇんだよぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
狂気の笑みで柵を張り付き、揺らし、雄叫びをあげるスペロ。
しかしそれに、
「────」
アレが反応をすることはない。
身を庇い、震える。
へっ、とスペロは再び離れる。
そして酒を、かっくらう。
くだらない。
理解はしている。
こんな問答、なんの意味もない。
別にこれで世間の厳しさを教えられるわけでもない。
もっといえば自分の役目は、ただ脅すだけだ。
それ以外はまったくの無意味だ。
理解はしている。
だが、今のスペロはそれをよしとしている。
自分でもどうかしているんじゃないかという自覚はあるが、特に止めようという気も起きてこない。
どちらにせよ、意味など無い我が身だ。
あまりに孤独な、人と接してこない時間が長くなり過ぎたせいだろうか?
それこそまさに詮無きことだった。
「――――ない」
また少し経ってアレがなにか呟いたので、
「あんだってぇ?」
残り四分の一の酒瓶を戻し、スペロは訊き返す。
怯えている相手をかさにかかってビビらせるのは確かに愉快だが、繰り返しては芸がない。
たまには主張させるのも必要。
飴と鞭こそが捕まえた獲物を長く楽しむコツだ。
「ぁ、ない、で…………たし、は……ぇいじょ、んかじゃ――せいしゅ、んかじゃ……」
「ははっ」
必死だった。
滑稽だった。
それがおかしくておかしくて、とても愉快な気持ちになる。
やっぱりこいつは、最高だった。
スペロはみたびアレに近づき、ポケットから牢の鍵を取り出し、開けて、中に押し入り、その顔へと屈み込む。
「あんだってぇ?」
聞こえてはいるが、あえて煽る。
自分でもどうかしている性分だとは思うが、逆にとても気に入っている部分でもあった。
ぴく、ぴく、と痙攣しているような動きのあと、ゆっくりゆっくり、時がスローモーションにでもなったかと錯覚させるような速度で、アレは首をこちらに向けた。
その瞳は破裂を連想させるほど、血管が浮き出て、充血し切っていた。
その瞳孔は、濁っていた。
かつてない、怒りで。
「ぁ、たし、は……ぇいじょあんかじゃ、あいえす……うぅせいしゅあんかじゃ、あいんです……!」
「じゃあなんだよ?」
さっきみたいに脅しかけたりせず、ニヤニヤしたまま促すように聞き返してみる。
どういう反応がくるかは予想出来過ぎていたが、それもまた悪くはない。
まるで自身が、神にでもなったように錯覚する。
「あ、あし、は……たら、の……」
「たらの人間が、世界を変えるとでも?」
「か、ぇます」
「どうやって?」
「そぇは、わかいや、せん」
「どういうことなん?」
「わ、ぁし、あ……かみさ、あと、やくそ、くぉ――」
「普通の人間は、そういうことは出来ねーんだよ」
一瞬、間があったように思えた。
あはは、とスペロは高笑いする。
アレの瞳の濁りが、一層深くなったようだった。
「……にが、しろいで、か?」
「ちゃんと言葉喋れよ」
アハハハハハ、とスペロは哄笑する。
アレの瞳の濁りは、その奥に熱い何かが脈打つ。
「あ……わちち、は……たら、いろちの、けいりゃ、くを……」
「みせろ」
ぐっ、と目と鼻の先までスペロが迫る。
それに、以前のアレだったのなら怯み、怯え、目を逸らしていただろう。
しかし今のアレは睨み返しているようですらあった。
かつてない、激しさで。
「――なにお、でふか?」
「神とやらをさ!」
要求に、アレは瞳を激しく揺らす。
「──できまへん。けいはくひてひらい、神はわたひのまへに、あわふぁへてくれまへん」
「なぜ神だとわかる?」
「へつめい、できはへん……たら、神はと――」
「じゃあ悪魔だとしても否定はできねぇわな」
その瞬間、怒りで滾り、揺れていたアレの瞳に、戸惑いの色が混じる。
「…………」
やはり。
心当たりが、あるか。
「図星か?」
「そ、な……ほと、あ……」
「じゃあ、質問を変えよう。お前、悪魔は見たことがあるか?」
今度こそ、アレは言葉を失っていた。
「――――」
救いを求めるかのように口を半開きでこちらを見上げるそこへ、
「じゃあもう一度、質問を変えよう。その悪魔は、どんな姿だった」
「あ……わら、ひは……悪魔、なん……」
「どんな、姿だった?」
怒鳴りつけず、たださらに顔をその瞳に、寄せた。
アレはそこから目を逸らすことは、しなかった。
ニンマリ、とスペロは口元を歪める。
「覚えているんだな?」
口をパクパクと開け閉め、
「…………だって、あれは、でも、そんな、」
「――お前か?」
アレの表情が、凍りつく。
いーい表情だ。
泣き叫ぶのも絶望するのも悪くないが、その表情こそが一番いい。
図星突かれた、善人ぶったクソ人間のな。
「あ……くっ、は……ぅ、ん……」
「あはははははは」
哄笑、再び。
そのまま満足げにスペロは立ち上がり、牢から出て行き、後ろ手に鍵を閉めて、壁に寄りかかる。
頃合いか。
いーい具合いに、熟成されてきたな。
「らっ、て……わた……ほん、な……」
アレは眼を白黒させ、ぶつぶつと独り言を呟いている。
「と。どこまで話したっけな? あ、そーそー。俺が森に……"彼岸の森"に行くきっかけが、仲間……じゃねーな。あのクソ共との言い争いがきっかけだった、っていう話だったな」
それを横目に、スペロは話の続きをはじめた。
どんなに意識が向いていなくとも、耳には入り、情報は脳に染みる。
そして真実はその心を、浸蝕していく。
「じゃあ続きだな。はてさて、語るはありきたりにして、しかし救いのない。
悲しい哀しい爆笑モノの喜劇なり、と――」




