Ⅴ/思考の迷路
スペロが去ったあと、ベリファニーは小屋でひとり、今までのルーティンをこなしていく。
すべては滞りなく進み、ベッドへ。
いつも通り仰向けになり、静かに瞼を閉じる。
途端、昼間の出来事が蘇ってきた。
「…………」
ベリファニーは、寝返りを打つ。
こんな経験は、初めてに近かった。
夜、ベッドに横たわってからベリファニーの脳裏を支配するのは、得体の知れない黒い塊だった。
靄、といってもいいかもしれない。
ただただ闇雲に、無数の懸念や懸案や想念や予想や予測や想像や妄想やその他諸々が浮かんでは消えてを繰り返す。
それにもみくちゃにされるようにして、気づけば朝を迎えていた。
それが、今夜は違う。
初めて味わう感覚に、ベリファニーはただ翻弄されるばかりで抵抗する術を持たなかった。
いま自分を支配しているものは──漠然とした、不安。
今まで過ごしてきたたった一人の世界に、他人が現れた。
それがもたらすものに、怯えている。
祖母が語っていた嫌なイメージも、影を落としている。
なにが起こるのだろう?
自分の生活は、変化してしまうのか?
祖母が語っていたことは事実なのだろうか?
本当に自分は──かつてない大きな流れに、巻き込まれてしまうのだろうか?
悩んでも、考えても、恐れても、危惧しても、答えなど出ようもない。
対策も立てられるはずもない。
思考の迷路。
それに、ベリファニーは囚われていた。
ただ彷徨い、蹲り、震え、顔を上げ、自身を抱えるということを繰り返す。
だけどそんな中でも、
「…………スペロ、シティアータ」
一筋の光をも、見出していた。
自己紹介。
初めてだった。
自分以外の名前を、初めて聞いた。
そういえば祖母の名前すら、自分は知らなかった。
当たり前だが、ベリファニー=ワックス以外の名前があるという事実が、とても新鮮だった。
そして自分の名前を自分の名前として他者に伝えられるということもまた、感動に似た感覚を喚起させる。
そして向けられた、真っ直ぐな視線。
満面の、その笑顔。
「…………スペロ」
ぎゅっ、とベリファニーは自分の胸を掴んだ。
意図してのものではない。
その胸中に宿るのは、紛れも無く――
「…………れしい」
無意識の呟き。
その言葉を、ベリファニーは初めて口にした。
その感情を抱いたことが、そもそも初めてだった。
生きることは、ただ必要な動作を繰り返すこと。
ベリファニーはそう認識し、事実それ以上のことは起こらなかった。
なのにこの、感覚は――
「………………すぺろ、」
まどろみに眠りへ落ちる直前、もう一度だけベリファニーはその名を口にしていた。
お皿を割ってしまった。
慌てていたせいか、破片で指を切ってしまった。
痛みで仰け反った途端、コップまで落としてしまった。
意気消沈しながら洗濯をしていると、気づけば下着を流してしまっていた。
どうにもこうにもうまくいかない。
下を向きながら歩いていると、木の幹に思い切りおでこをぶつけて、目の前に火花が散った。
くらくらしながら小屋に戻ると、見知らぬ生き物がこちらを見つめていた。
お猿さん?
「あ、ベリファニー!」
お猿さんが口を利いていた。
そういえば服をまとっている。
なにか特別なお猿さんなのか――
両手を、掴まれた。
一気に目が醒める。
「あ……す、スペロ」
咄嗟に、昨晩繰り返していた言葉が口元から漏れる。
それにスペロの顔が喜色に染まる。
「わ、覚えててくれたんだね! 嬉しいよ、ありがとう!!」
「あ、ぅ、うん……」
恐縮、硬直、緊張。
それが今のベリファニーを占めるすべてだった。
ただただ、どうしたらいいかわからなかった。
かつてない事態に、身を強張らせることしか出来ない。
この状況が歓迎すべきものなのかどうかすら判断出来ない。
今のベリファニーにとって目の前のスペロは、それこそ異界からの侵入者となんら変わらない存在だった。
だから黙って、身体を強張らせ、やり過ごそうと考えていた。
だけどしばらくして、気づく。
「…………」
目の前のスペロが、なにも言わないことに。
捲くし立てられると思っていた。
わちゃわちゃ言葉を投げかけられると考えていた。
それでもっと混乱の淵に叩きつけられるものと怯えていた。
だけどスペロは、ただ真っ直ぐな瞳でこちらを見つめるだけだった。
いつの間にか笑みも消え、真剣な表情へと変わっている。
動きもなく、耳には遠くの鳥の声だけが響く。
――なに?
疑問は、言葉になることはなかった。
ただただ不安で、時に任せることしか出来ない。
自発的な行動は、あまりに不慣れな為、不可能だった。
だからそのまま、スペロの顔を見つめていた。
先ほどは、一瞬お猿さんかと思ってしまった。
だって今まで祖母以外ではそういう動物を見ることは、お猿さん以外いなかったから。
だけどじっと見つめて、思った。
「──私と同じで……私と、ちがう」
「そうだね」
ふとした呟きに、返答。
それにベリファニーは、なぜか落ち着いた心地になった。
自分と同じ、感性。
「そう、なんだ……いや、うん……ごめん」
「なんで謝るの?」
理由なんて、あるはずもない。
ただ反射的にその単語が出てきたに過ぎない。
ベリファニーは微かに頭を振って、改めてスペロと視線を交える。
澄んだ、綺麗な瞳をしていた。
「おはよう……」
「うんっ、おはよう!」
「今日も……元気、だね」
「うんっ、キミに会えたから!」
冗談のような言葉が、それこそ当たり前のように飛んで来る。
そのテンポ、むやみに明るい声が、少しづつ――永く祖母の言いつけを守り、独りで静かに暮らしてきたベリファニーの心の氷を、溶かしていく。
だから思わず――
「ふ……ふふ」
「わらった!」
ハッとして、ベリファニーは自分の頬を触る。
信じられなかった。
「え……私、本当に……?」
それは祖母が存命の頃にすらほとんど無かったこと。
慣れていないため頬を歪めたに近くて、
「すっごい素敵な笑顔! この庭の、桃色のお花みたい!!」
ベリファニーは、その言葉の意味を理解することが出来なかった。
――この庭の?
桃色のお花?
自分が住む、この小屋。
それに庭だなんて考えたこともないし、その周囲で咲いている花に、なにかしらの特別な感情なんて、抱いたことなどなかった。
その、記憶に残っていないものと、初めて作った自分の笑顔が――
「似て、るの……? 私の、笑った顔が」
「すっごくね!」
また。
不意打ち気味に、両手を握られた。
だけど今度はベリファニーも、驚くことも怯えることも、なかった。
ただ、思った。
スペロの掌はとてもとても、温かい。
「あ……」
うまく言葉に出来ない。
「なに?」
スペロは決して急かすことはなく、ベリファニーの言葉を待っていた。
三秒、
「あり、がとう……」
初めて、ベリファニーは感謝の言葉を口にした。
「どう致しまして」
それにスペロはいつものように、ニッコリと笑顔で応えた。
それにベリファニーは胸の中に温かいなにかが灯るのを感じていた。
スペロは、ほぼ毎日訪れた。
ほぼというのが微妙だったが、換算すれば1~3日に一度というところだった。
まちまちでハッキリしないのは、ベリファニーが日数計算の習慣を持っていなかったからだ。
ベリファニーにとって日々とは、陽が昇り、落ちて、また昇ることを意味していた。
そこに時間という概念はなかった。
あるのはせいぜい朝、昼、夜というものだったが、それすら言葉として使用したことはない。
気づけばコンコン、と扉が音を立てている。
「…………」
最初は怯み、恐れ、警戒することしか出来なかった。
ありえない話だが、リスかとも思った。
まさかだが、冬眠から醒める時期を間違えた熊かとも考えた。
それくらい――いやそれ以上に、その事態はありえないことだったから。
ベリファニーは待った。
しばらく、だいたい家から小川まで歩くくらい。
そのあとゆっくりと、胸元を庇うように両手を添えて、そろり、そろり、と扉に向かう。
それこそ、それは新たな世界が広がる扉。
それを容易く開けられる人間なんて、いるはずがない。
それを言葉ではなく感覚的に想い、ベリファニーはふと考える。
ならばなぜ、スペロはいつも、そういつだって――
ベリファニーはドアノブに、手を掛ける。
1,2,3……とゆっくり数をかぞえ、回し、開く。
そこに差し込んでくるのは、眩いほどの日差し。
次に飛び込んでくるのは、
「こんにちは、ベリファニー。君は、今日も可愛いね」
満面の笑みで、耳を疑うような言葉を投げ掛ける、スペロ。
対人経験はゼロに等しい。
だから誰かに自分を評価される経験などまったくない。
今は亡き祖母に与えられたのは、いくつかの教えと、いくつかの警告だけ。
だから突然現れた男の子に容姿を褒められても、すんなりと受け入れるのは難しかった。
しかし決して悪い気がしているわけでも、たぶんなかった。
「あ、うん……こんにち、は? スペロ……」
こうして挨拶を交換するだけでも、ベリファニーにとっては革新的な進歩だった。
それにスペロは、元々のニッコリ顔から二ンマリに変化させる。
「今日も来たよ。ベリファニーは、今日はなにしてたの?」
「あ、うん……ご飯を、作って……」
「あ、そうなんだ。……うん、すっごくいい匂いがするね! なに作ってるの?」
「あ、うん……その、お野菜を、ゆっくり煮込んで……」
「野菜スープだね! うん、すっごく美味しそうだなー、あーお腹空いてきたなー」
「そ、そっか……」
「うん!」
常人なら脳が破壊されそうなやり取り。
だがこの場にはツッコむ者も、それを気に病む者もいない。
その最中、ベリファニーはスープが煮詰まらないか気になっていた。
「一緒に食べてっていい?」
咄嗟の提案に、すぐに返答することが出来なかった。
「え……い、一緒に?」
「うん、一緒に」
「食べる、の?」
「うん、食べる」
「食べ、たいの?」
「うん、食べたい」
「……私、と?」
「君と!」
最後の"君"が、やたらと力強かった。
それにベリファニーは、また、なにか――心に温かいものが灯るのを、感じていた。
それがなんなのか、その時のベリファニーには知る由もなかった。
「そう、なんだ……」
「うんっ」
そこまで熱烈に望まれて、他に選択肢もなかった。
「じゃ、じゃあ……食べ、ようか?」
「ありがとうっ!」
誰かに求められるということ。
そして感謝されるということ。
それらに圧倒的に渇いていたということを、ベリファニーはわからなかった。
スペロの前に差し出された、木の皿に入ったほとんど透明な液体のにほとんど元の色を保ったままの野菜が浮かんだ、逸品。
スペロはそれを木のスプーンで掬い、口元に運ぶ。
咥え、嚥下する。
その一瞬、ベリファニーは緊張感に支配される。
知らず、唾を呑み込む。
ゴクリという音が、やたら大きく響く。
まるでスローモーションのような時を経て、
「おいしいっ!!」
うそ、と思う。
反射的だった。
でも実際そんなわけはない。
ペリファニーの野菜スープ。
それはただ採った山菜を、小川で汲んできた水で煮ただけのもの。
出汁も味付けの概念もあったものではなく、ベリファニー自身死なないために半分義務として摂取していたほどのもの。
美味しいなど、露ほども思ったことはない。
「おいしい、美味しいよベリファニー! うわぁ凄いなぁ、ベリファニーお料理上手なんだね!!」
そんなわけはない。
だけどその一瞬後、別の思考がベリファニーの脳裏を過ぎる。
「そ……そう、かな?」
「うんっ、おいしいよ! すっごいなぁ、これなんて名前なの?」
「な、名前……なんて、ない……」
「えーそうなんだ! じゃあベリファニーが創ったんだ?」
「そ、そんな……ただ、あるもの適当に……」
「ベリファニーって天才だね!!」
ドクン、と胸が脈打つ。
「…………」
その衝撃がお腹、両腕、爪先、指先まで波紋となって広がっていく。
ビリビリと痺れる。
それは緊張感と似ていたが、しかしそこから受け取る感情は決定的に違うものだった。
充足感。
食欲とは違う。
なにか温かいものによって、自らが満たされていくような感覚。
ベリファニーが今まで、知らなかった感覚。
「そ、そんなこと、な――」
「あるよ!」
真っ直ぐ、力強い言葉。
それにハッとして顔を上げると、目が合った。
迷いの無い、透き通った瞳。
嘘なんて、生まれてからついたことがないというような。
「…………な、んで?」
ただ、疑問だった。
「だって、俺がそう思うから!」
それは如何な理屈を持ってしても覆せぬ、絶対の真理。
「………………そう、なんだ」
それ以上なにも言えず、ベリファニーは目を伏せ、ギュッと拳を握った。
それを見届け、スペロはうん、うんと頷きながら、繰り返しスプーンを口元に運ぶ。
それをチラチラと覗き見ながら、ベリファニーもスプーンを掬った。
おいしい、かも。
気のせいかもしれない。
だけどベリファニーはそんな風に感じた。
それ以上に、圧倒的に抱いていた想いには、ハッキリと気づくことがないままに――
次の訪問前。
ベリファニーは料理の途中、スープを口元に運んでみた。
今まで一度もしたことない、味見という行為。
ぜんっぜん、味が足りないような気がした。
どうしようか考え、裏に行って生えているキノコを抜いて、混ぜてみた。
なんだか味に、少しだけ深みが増したような気がした。
実際にスペロに食べてみてもらう時、前より三倍増しでドギマギした。
スペロは、目を剥いた。
「わっ、すッごく美味しいよ! どうしたの、前来たときよりぜんぜん美味しくなってるよ?」
純粋に疑問を浮かべるスペロに、ベリファニーはフフフと含み笑いを浮かべた。
「そ、そうかなぁ?」
「そうだよ、美味しいよ、ぜんっぜんすっごく美味しいよ!」
「そ、そう? 実は……今回は、裏に生えてたキノコを入れてみたんだけど……」
「! そうなんだっ、どうりですっごく美味しいと思った! すごいよベリファニー!!」
本当に。
欠片も――祖母が言っていた含みや裏や企みのないような賛美と笑みに、ベリファニーは無意識に――
「え、えへへ……」
スペロがまた、目を剥く。
「わっ、今日も笑ってくれたね!」
ハッ、とベリファニーは自分の頬を抑え、ゆっくりと離し、静かに顔を伏せ、おずおずとスペロを見上げる。
「そ、そうみたい、だね?」
「うん! やっぱりベリファニーの笑顔は素敵だなぁ……」
思わず、笑っていた。
「そ、そう……お、お花、みたいな……?」
「うん、お花みたい! 黄色の!」
目を瞬く。
「あれ? 前回は桃色っていってたような……?」
「え? そうだっけ?」
ベリファニーの指摘に、スペロは眉をひそめ、首をかしげ、腕を組む。
そのやたらと真面目な姿が妙に滑稽で、おかしくて――
「ふ……ふふふっ」
「へ? えへへっ」
二人して、くすくすと声をひそめて笑い合う。
生まれて初めて自分以外の誰かと、笑い合った。
それは滑稽で、おかしくて――でもとても、満ち足りたものだった。
出来るならずっと、いつまでもこの時間が続けばと願ってしまうくらいに。




