Ⅳ/君は誰?
ベリファニー=ワックスは、森で生まれた。
そして物心ついた時には、父も母もいなかった。
唯一の肉親である祖母も、僅かな時を共に過ごし、亡くなった。
それからはずっとひとり。
ベリファニーは孤独に、日々の生活を営んできた。
毎日小川まで歩き、洗濯をして、水を汲み、小屋まで戻る。
水を井戸へ流し、洗濯物を干し、薪を割る。
裏庭からお野菜を採り、食事を作り、お皿を洗う。
毎日その、繰り返し。
誰と交わることもない。
ただひとり、ベリファニーは生きるため最低限の"作業"を、繰り返していた。
そのことに、ベリファニーはなんの不満も持ってはいなかった。
そもそも不満という感情を知らなかった。
それがずっと、生まれてより祖母に仕込まれた日々の、すべてだったから。
そういった意味で、ベリファニーはアレ=クロア以上に尋常ならざる境遇といえた。
僅かな期間過ごした祖母以外との対人関係をまったく知らず、アレと同年齢である14歳を迎えていた。
ベリファニーはその日も小川で、洗濯をしていた。
「…………」
丁寧にゆっくりと、時間を掛けて擦り、すすぎ、汚れを落としていく。
慌てる必要など、まったくない。
急ぐ概念など、ありえない。
予定外の事象など、存在しないのだから。
ベリファニーは、だから日々の生活の中で行動を変えることはなかった。
毎日決められた時間に、決められた工程で、決められた作業を進める。
ただそれだけ。
そのことに想うものはない。
ただ半自動的に、身体を動かすのみ。
その最中想うのは、ただ二つだけ。
幼い頃わずかに交換した、祖母の言葉。
受け取った、生きるための教え。
そしてもう一つ。
語っていた、現在身体に起きているその変――
「ねぇ……」
何かが耳の奥の鼓膜を、揺らした。
「――――」
どれほどぶりかわからないほどの、久しい感覚。
それにベリファニーの何もかもが、停止する。
思考は真っ白に漂白され、半自動で行っていた作業は初めて完全なる中断を余儀なくされる。
数瞬ベリファニーは、世界すら止まってしまったような錯覚を、味わっていた。
「…………え」
何もわからず、何も理解できず、何も思考できず、結果何も選択できずにベリファニーは呆けたように、振り返る。
ザッ、という下草が踏まれた音。
動物――じゃない。
この重さは、動きは違う。
リスとも兎とも鹿とも違う。
これはそれらの中間くらいの大きさで――そしてたぶん、二足歩行だ。
──いるの?
その時ベリファニーの脳裏に過ぎったのは、疑問だった。
想定すら、それまでしてはいなかった。
自分以外の人間が、存在するということを。
ザリッ、と音が間近で、弾けた。
「!」
ビリッ、と掌が痺れる。
恐怖、戸惑い、不安。
それらの感情がない交ぜになり、症状となって現れている。
ドクンドクン、と心臓が脈打つ。
べったりと背中が冷や汗で濡れる。
私は、どうしたら――
「ねぇ」
またも、呼びかけ。
「!」
心臓が跳ねる。
声の響きから、対象は真後ろまで迫っていると察する。
決断を、迫られていた。
こうなれば、もう――
「君は、誰?」
「…………え?」
あまりにも予想外な問いかけ。
ベリファニーは思惑や恐怖を忘れ、思わず振り返っていた。
だって、てっきり知っているものと――
目が合った。
「あ……」
おばあさんと違った。
それは、男の子だった。
それにベリファニーは、さらに戸惑う。
「あ、の……」
男の子。
祖母から話は聞いていたが、実際に目にするどころか遭遇するなんて想像すらしたことはない。
肩幅が少しだけ、広い。
眉が太い。
目つきが、鋭い。
それが真っ直ぐ、力強くこちらを捉えている。
これが、男の子――
「お、俺はっ」
呆けるベリファニーに、男の子は叫んだ。
「え……」
それにベリファニーは置いてけぼりを喰らう。
ついていけない。
なぜそうするのかひとつもなにも理解することが出来ない。
だからそのまま、呑み込まれた。
「俺はスペロ=シティアータ! 親方のとこで職人の修行してて、だけどそこにいる奴らみんなバカばっかで、ここにくんのもそんなあいつらを見返すためであぁいやそんなことどうだっていいんだけど! でもそんな彼岸の森に君みたいな女の子がいるなんて思ってもみなかったから! 驚いて! びっくりして! もうなんて言ったらいいかわかんないけどだからってあいつらに感謝なんてこれっぽっちもしないけどああごめん! またわけわかんないこと言って! わかってるんだけどでもそのとりあえず、あ、あああ……!」
なに?
何が言いたいの?
その濁流のような言葉に呑まれて、翻弄されて、ただ立ち尽くすベリファリーに、男の子は頭を掻きむしり、そしてやはりいきなり頭を上げて、叫んだ。
「君は……綺麗だ!」
パッ、と目の前が開けた。
「…………」
呆然とする。
その言葉の意味は知っている。
その在り方がとても整っていて、好ましく、胸を打つことを表すと聞いていた。
だけどそれを文章として理解することが出来ない。
その二つの単語が繋げられているという意味が、どうしても理解出来ない。
──君というのは、自分のことを言っているのだろうか?
「……あの、」
また、話し掛けられた。
けれどどう答えれば良いのかわからない。
別に無視したいわけでも、出方を窺っているわけでもない。
ただ取るべき行動を選ぶことが出来ないだけ。
男の子――スペロが、自分の瞳を真っ直ぐ見つめている。
その瞳は透き通っていて、ベリファニーは綺麗だなと逆に思ったりしていた。
「君の名前は、なに?」
「――名前?」
あまりに当たり前な質問に、思わずベリファニーは繰り返していた。
条件反射に近い反応。
それにスペロは、目を輝かせる。
「! う、うんっ、君の名前、名前だよ! そう……あーびっくりした。てっきり口が利けないんじゃないかって心配したよー、もうびっくりさせないでよ。それにしても、うん、凄い綺麗な声してるね、凄く綺麗だ!」
またその言葉。
ありえないのに。
私が、綺麗だなんて。
口が口を、利く。
「私は――私は、ベリファニー=ワックスって、いいます」
「ベリファニー!」
間髪入れずその名を反芻し――スペロはベリファニーの両手を、握っていた。
「──ひぇ!?」
一瞬で夢見心地から、我に返される。
初めて――祖母以来、以外のひととの、接触。
初めての他人の、肌感触。
柔らかい。
同時に起こる──拒絶反応。
こわい。
「はっ……は、は、離し、て……!?」
ジタバタとあがき、その両手を振り払おうとするベリファニーに、
「初めましてベリファニー! 俺と、友達になってよ!!」
スペロは全てが唐突な提案をする。
「は、はな、し………え」
それにベリファニーはみたび言葉を、失う。
──友達?
「とも、だち……って、私と?」
「うん、君と」
「……あなたが?」
「うん、俺とっ」
「…………なんで?」
理由が──理屈が追いつかない。
だって私たちは、ついさっき、今しがた出会ったばかり。
会話にもならないような言葉をいくつか交わしただけ。
お互いのことを何も知らない。
なのに友達になりたい?
そんな当たり前の問いかけに、スペルは至近距離で森中に響くような声量で、満面の笑みを浮かべる。
「だって君が、綺麗だから!」
違和感。
そして気づく。
「あなた、は……」
声は知らず、掠れていた。
「なに?」
その即答が、どこか恐ろしかった。
もし、そうだとするなら――
「私、と……」
「うん、君と?」
2秒、躊躇した。
「……そういうことを、したいの?」
祖母からいくつかの知識は、与えられていた。
それは生きるための知恵、世界の構造、そして生き物としての本能。
つまりはそういうこと。
男の子が現れ、自分を綺麗だと讃え、ろくに話もせずに友達に――お近づきになりたいという。
その結論に、ベリファニーはとても冷たい心地になる。
虚しさ、失望、それに胸が浸されていく。
初めて出会った、他人、異性。
自分や祖母とはまったく違う、明るい人となり。
綺麗という言葉。
それに儚くも微かな期待を、無意識とはいえ抱いていたことに今さら気づき――
「そういうこと?」
それはあまりにも無垢な問いかけだった。
小首をかしげ、濁りのない透き通った瞳でこちらの姿をとらえている。
だからベリファニーも、思案を忘れた。
「え……だから、その……男のヒトが女のヒトに望むという、それを……」
「ん? それって?」
何をどうやってもそこに、恣意というものが見出せない。
汚れているのは自分ではないかという恥ずかしさが湧いてくる。
自身よりも少し年下の、13か4くらいの、男の子。
眩い、マイナスの感情などどこにも無い、まっすぐ過ぎる純粋な好意。
それに、問いかける。
「本当に……本当に私と……友達に、なりたいの?」
「うんっ、なりたい!」
即答。
それに言葉が、溢れる。
「なんで……?」
信じられなかった。
だって理由がない。
それに無理だと諦めていた。
だって、だって自分はもう、随分昔から――
「君が、ベリファニーだから!」
理屈にもなっていない。
まるでそれは自分が過ごしてこなかった、話に聞く純粋無垢な子どものやり取りそのものだった。
「私が……ベリファニーだから?」
だからベリファニーは、同じく子どものように言葉を繰り返すことしか出来なくなった。
向けられるのは変わらぬ、笑み。
「うんっ」
ドクンドクン、と心臓が脈打つ。
「友達に、なりたいの?」
「うんっ、そうだよ!」
まさか、そんな。
「……仲良く?」
「なりたいっ!」
声が、掠れる。
「なんで……?」
「ベリファニーは、イヤ?」
予想外の問いかけ。
それに思わず、
「イヤ、じゃ……ない」
「じゃあ友達だね!」
再び躊躇無く、スペロはベリファニーの手を取る。
それに今度は、抵抗は、なぜかなかった。
むしろ心は、落ち着いていた。
「とも……だち?」
「うん、友達! よろしくね、ベリファニー!」
「うん……よろ、しく…………スペロ」
「わぁ、嬉しいな。俺の名前を呼んでくれた!」
ただ、それだけのこと。
なのにこんなに、喜んでくれる。
「……うん」
それにベリファニーは、子どものように言葉を繰り返すことしか、出来なかった。




